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黒色綺譚カナリア派「犬と花」2バージョンによる作劇の差異と重なり

2011年4月23日ソワレにて、黒色綺譚カナリア派の「犬と花」を2バージョン連続で観ました。
場所は下北沢OFFOFFシアター。。

一つの戯曲が全く毛色の異なる作品に演出されていて。

同じ戯曲を2回繰り返して観たという感覚はほとんどなく
それでありながら、
ひとつの戯曲に織り込まれたニュアンスを二つの舞台の重なりからしっかりと受け取ることができました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作:赤澤ムック

この公演、一つの戯曲をふたりの演出家がそれぞれに
作り上げていくという企画。
また役者達も30歳で線を引きその上と下で
個々の作品に振り分けられています。

私は花編⇒犬編の順番で観劇。

実際にやったわけではないので
確信を持って言えるわけではないのですが、
多分犬⇒花の順で観る方が、両作品トータルの理解は
より深まったように思います。
でも、花⇒犬の順序で観ることによって
花側で受け取ったイメージが
犬を観終わった高揚のなかで
フラッシュバックしてくるような物語のエキスの蘇りを
体験をすることができました。

☆花編

演出:牛嶋みさを

入場すると舞台上に白衣や看護婦姿の出演者たち。
舞台上には心中でもしたかのように倒れている医師と看護婦がいて
他の看護婦がその髪をレイアウトして遊んでいたり・・・。
また、観客の知り合いに挨拶する出演者がいたりで
会場全体に、どこか常ならぬ雰囲気が満ちていきます。

実は描かれるシーン達の脈絡が伝わりにくいというか
希薄に感じられる演出なのですが
でも30歳を超える役者たちの洗練を持った演技は
刹那のニュアンスをいろんな強さや形態で
空間に満たしていきます。

語られる物語には強いFuzzがかかっていて
その流れに意図的な歪みが作られているような気がする。
元々の作品の構成があまりわからないから
何がどうデフォルメされているかすら定かではないのですが、
それでも作りこまれた舞台上の肌合いがあって
見え隠れする物語の印象が
キャラクターを超えてダブり、
ときにはいくつもの想いがひとりの役者にかさなり、
あるいはひとつの想いが何人もの役者に分散して
歪みの感触とともに伝わってくる。

難解さや捉えにくい感じは間違いなくあるのですが
それらは
舞台的な手法の範疇での
戯曲が含有する世界のアブストラクションのテイストなのだろうし
テキストやシーンのベースは
役者たちのしっかりした演技の力で担保されているので
物語自体が滅失しているわけではないのです。
だからこそ
白を基調とした舞台に
役者たちそれぞれの醸し出す個性、
洗練と何とも言えない下世話な感覚が
物語から抽出されて
観る側から抜けていかないし消えない。

出演:赤澤ムック 山下恵 中里順子 (以上黒色綺譚カナリア派)
夏目慎也(東京デスロック)、ほたる、板垣雄亮(殿様ランチ)、トースティー

夏目の演技の奥行きや板垣の力みのない存在感が
舞台の印象の骨格を作り上げていく。
劇団員の赤澤や中里には瞬時に舞台上の色を作り上げ変化させていく手練があって。
また、山下には、秀逸な演技が醸し出す他の色に染まらない女性の風貌があって
強く印象に残りました。
ほたるやトースティからも個性と完成度を持った美しさやニュアンスがやってきて
舞台の色を深めていく。
ぞくっとくるようなよいキャスティングだと思う。

どこか掴みどころのない、
虫喰いのような、
でも実体をしっかりともった不思議な感覚につつまれて
呆然としたまま、劇場を退出したことでした

☆犬編

演出:谷賢一


花編から1時間強の間をおいて劇場に戻り犬編を拝見。
非常にくっきりとした印象を持った舞台でした。

物語の構造が鮮やかに浮かび上がり
その世界が本来持っているであろう匂いが舞台から伝わってくる。
人間関係というか、
犬までを含めた
舞台上の構造が次第にあからさまになっていくに従って
時代やその場所の汚れのような部分を超えて
個々のキャラクターたちの生々しい想いが溢れだしてくる。

個々の台詞のしなやかさと強さ、
音、犬の肉を押し込んだ布袋、
戯画化されて演じられる犬の姿・・・
ばらまかれる写真から垣間見える猥雑さ。
物語の流れのなかに形として描きこまれたものを
的確に舞台に具現化させる
演出や役者たちの手腕に目を奪われる。

ただ、そこから醸し出されるものを、
そのままリアリティと呼ぶには少々違和感があって、
それは、強いて言えば、リアリティの色と輪郭を強調したような感覚。
焼き鳥(?)屋の女の恋心にしても、
犬とりの兄弟それぞれの想いにしても、
その兄を思う女が内包する炎にしても・・・。
エロ写真を盗み売る弟の心情にしても。
言葉では表現しにくいのですが
舞台上に溢れるものと
舞台から流し込まれてくるもの感覚が
どこか違う。
目と耳と空気の肌触りで受け取る舞台づらが
激しさと粗っぽさと熱に汚れていく中で
観る側にはキャラクターたち個々の
純化された心情のコアが浮かび上がってくるのです。

出演:牛水里美 芝原弘 升ノゾミ (以上黒色綺譚カナリア派)
井上みなみ(青年団)、渡辺六三志 山下由 松崎みゆき

ひとりずつの役者にその時代や場の雰囲気を創り出す力があって。
升から表現される愛情の色にはしっかりとした足腰があってそのクリアさがとても秀逸。
芝原、渡辺、山下の男優陣にはそれぞれの強さと汚れが感じられて。
牛水が演じる企みにはしなやかな底浅さとそれを裏打ちする業の深さがあって息を呑む。井上の少年のまっとうな実存感にも瞠目。
松崎が献身的に演じた犬には単なる擬態にとどまらない
キャラクターの立場や世界が創られていてぐいっと惹かれる。

終盤に牛水と井上、そして松崎で構成されるシーンがあって、観る側に焼きつく。
それはもちろん物語の一コマなのですが、
物語から溢れだすようなシーンの密度があってがっつりと凌駕される。
それは言葉では言い表せないような密度を持った刹那でした。
こういう観る側の息をも止めてしまうような場を持ったお芝居は
印象が消えない・・・。

舞台の空気感や熱にがっつりと取り込まれ
でも、それらにもまして
後に残ったキャラクターたちの繊細な想いに
席巻されたことでした。

::: :::

両作品の印象をそのまま抱いての帰り道、
ゆっくりと化学反応がおきるように
電車の中で、犬編のキャラクター達の
繊細で強くくっきりした心情が
花編で表されたキャラクターたちの
アブストラクトされたような想いと重なる。
理性の領域では二つの作品が繋がる感じなどまったくしないのですが
無意識のうちに最初は少年のキャラクターに
ふたつの舞台からやってくるひとつの膨らみを感じていて、
それに気がつくと、やがては、
全く違ったテイストで演じられた
登場人物のそれぞれが
共通したひとつの個性として描かれているように思えてくる。

そうすると、上手く言えないのですが
今度は花編のいろんなシーンがすっと解けて
そこで描かれたキャラクターたちの想いが
犬編と同様に
裏付けを持った細かい粒子の肌触りで流れこんでくるのです。

ひとつの戯曲から表された二つの世界、
その違いを感じつつ
共振するものに
ゆっくりとしっかり心を捉えられたことでした。

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コメント

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投稿: cetDiedbeed | 2011/05/05 18:45

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投稿: AswadKannao | 2011/05/24 06:51

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