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風琴工房「紅き深爪」深淵に至る密度の重なりに言葉を失う

2011年5月24日ソワレにて風琴工房「紅き深爪」を観ました。
場所は渋谷Le Deco4。

密度をしっかりと持つにとどまらず、
常ならぬ感覚が残るお芝居でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

脚本・演出:詩森ろば

病室らしいこと以外
シチュエーションもわからぬままに
冒頭からいきなり、女性が醸し出す
その場の空気に捉われてしまう。
主婦然とした容姿、
赤いリンゴをむく女性の指。
看護師の言葉が基準線のようになって、
彼女から醸し出される空気の偏りが伝わってきます。
そこに彼女とは反対の雰囲気をもった
酒に酔った姉が現れて。
更には、姉のパートナーや彼女の夫と娘が病室を
訪ねてくる。
死の床につく病人の傍というのとは異なる
息の詰まるような空気が
人物達それぞれから広がって
舞台上に重なっていきます。
解けて次第に露わにされていく彼女達の幼い頃。
児童虐待という言葉が直感的に頭によぎるのですが、
そのイメージでは納めきれないような、
姉妹の家庭の雰囲気があからさまになっていく。

役者達から伝わってくるものに
歪みが感じられず
あるべくしてそこにあり、
溢れるべくして溢れ出してくる中で、
今まさに終焉の時を迎えようとしている、
彼女たちの母親の行状も
丸められることなく彼女達の感覚でそのままに伝わってくる。
身籠った姉の不安や愛情の行き所のなさも、
病室で言葉を発することなく
ただ心を硬くしている娘に注ぐ愛情が伝わらないことへの
妹の制御できない苛立ちも
そのままに舞台にさらけ出す力が役者たちにはあって。
舞台上の密度と肌触り、さらには眼前の光景に心を閉ざす術もなく、
ただあるがままにその姿を受けとめてしまう。

内心の理性やモラルが強く拒絶しているにも関わらず、
彼女達の母親から伝播したものが
やがて彼女達の子供たちへと伝わっていくことも、
そして、夫たちをも巻き込んでいくことも
とてもナチュラルに感じられる。
妹が紅い爪を短く切り続けることも
姉の不安も、酒の溺れてしまうことも、
妹が娘をたたくことですら・・・
そして、姉妹の夫達が彼女たちのコアに取り込まれて、
常ならぬ結末へと繋がっていくことにも
不思議なくらい違和感を感じないのです。

見終わって、
たとえば、主人公の姉妹が受けた
虐待の物理的な痛みについては、
あまり実感として心に残ってはいませんでした。
もし、役者たちが、
時間をさかのぼって
その場のイメージを膨らませるようなお芝居をしていたら、
顕された痛みは観る側の心を引き裂き
目をそむけたくなるような感覚として残ったのでしょうけれど、
病室で過ごす時間での研ぎ澄まされたお芝居は
虐待による物理的な痛みを、
彼女たちの記憶の質感でしか伝えない。
でも、上手く言えないのですが、
そのことで修羅にまみれずに見通せる
深淵があって、
観る側はその闇をなにかに閉じ込めてしまうことが
できなくなってしまっている。
たとえば「虐待」というラベルを貼って封印しようとしても
観る側自らの手の届かない深さに、
彼女たちが抱え、抑え込むことのできない歪みの質感が、
概念ではなく、鋭利な刃物が突き刺さった時の冷たく逃げ場のないような感覚として
置かれているのです。

その感覚は、劇場を出ても、暫く留まっていて・・・。
よしんばお芝居の記憶が薄れ意識の外側に置かれても、
また、ニュースなど、なにかのトリガーに触れた時
ふっと蘇ってくるような気がする。

役者のこと、妹役の浅野千鶴には刹那にその場の色を立ち上げる力があって、
しかも次第に組みあがっていく姿に性急さや冗長さがない。
一つずつの想いの重なりがとてもナチュラルで実直、
それゆえに突然溢れだすキャラクターの想いに驚愕はあっても唐突さがなく、
その理をしっかりと感じることができる。
秀逸なお芝居だったと思います。
姉役の葛木英には目を瞠るようなキャラクターの美しさや雰囲気を作り上げる才に加えて、
重なっていくシーンごとに縫い込まれたキャラクターの想いを一点に束ねていく演技の繊細さというか
精度があって。
表層の強さや華やかさ、さらには自制を無くしたような踏み出しから、
内に抱えた惑いや揺らぎの華奢でデリケートな質感がしなやかにぶれずに伝わってくる。
浅野と葛木では顕れていくものの広がりと集約のベクトルがどこか逆なのですが、
そのことが観る側に彼女たちの共通の心情へのさらなる立体感を与えていて、
それぞれの演技にとりこまれつつ、
そのお芝居の重なりでなければ現わしえなかったであろう深さも感じることができました。

姉のパートナー役の佐野功はキャラクターが抱えるジェンダーの構造を
ロジックでなく肌触りとしてしなやかに表現して見せました。
葛木が醸し出す表層の軽さを際立たせつつ、
姉妹が抱えるものに縁取りのようなものを舞台上に創り出していく。、
さらには彼自身が生き続けるためのコアの色があって。
その複雑なニュアンスが観る側にしなやかに伝わってくる。
妹の夫役園田裕樹はキャラクターの寡黙な性格に積もるような熱を与えていました。
浅野の演技との呼吸がとてもよくマッチしていて、
彼女からあふれ出るものがキャラクターに積もっていくその質感が、
台詞の雰囲気を超えて温度として観る側に入り込んでくる。
そのお芝居にはラストシーンまでの着実な歩みがありました。

妹の娘役を演じた大塚あかりの演技には愕然としました。
キャラクターの常ならぬ雰囲気ににリアリティを醸し出す強さとしなやかさがあって観る側を圧倒する。
しかも貫かれる存在感に切れというか鋭利さがあって、
舞台は突き刺されるのですが、空気は切り裂かれて壊れることなく、
逆に色を濃くして膨らむのです。
看護師役を演じた横尾宏美は看護師の足場をしっかりと守りつつ、物語に常なる感覚を舞台におきました。
冒頭やラストシーンで舞台上に違和感を創り出す自然体のお芝居だったと思います。 
露木友子は、残念ながら座っている席から良く見えなかったのですが、終演後他の観客の方にお話を聴くとしっかりと舞台を構成していたよう。

カーテンコールの拍手をしつつ、しばし呆然としていた。
個人的には、近しいところで見聞きした体験もあるテーマでもあり
いろんなことが重なり脳裏に渦巻いた。
ただ心に残るというのとは違う
この作品から開かれるものの秀逸さに、
終演後、しばらく語る言葉を見つけることがでませんでした。

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