« クロムモリブデン「裸の女を持つ男」一様でない個性が醸し出す高揚 | トップページ | ブライアリー企画「川と出会い」川の記憶を共振させるイメージのふくよかさ »

「その族の名は『家族』」、この舞台の「家族」の存在と戯曲の普遍性

すこし遅れましたが、2011年4月16日ソワレにて、
青山円劇カウンシル#4、「その族の名は『家族』」を観ました。

会場は青山円形劇場。

この作品はハイバイが下北沢駅前劇場にて初演、池袋の東京芸術劇場で再演した「て」を改題の上でほぼそのまま再演した形。
しかし、その肌合いには池袋の家族とは違ったものがありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出:岩井秀人

この作品のハイバイバージョン、「て」
東京芸術劇場での再演にすっかりはまって、
めり込むように公演の2度観までしています。
鳥の糞を目印に重ね合わされる物語の表裏に
単なるネタバレ的な時間の繰り返しにとどまらない
家族のぞくっとくるような関係性や
伝わってくる個々の内なる想いの鮮やかさに圧倒された
舞台でした。

で、その時の「て」と観たものと今回での作品の構造は
概ね変わるところはありませんでした。
でも、全く同じ感覚が伝わってきたかというと、実は結構違っていて、、
青山円形劇場の舞台からは
ちゃんと円形劇場の家族の匂いがする。
父と子の関係にしても
夫婦間の想いにしても
台詞が同じでも
円形の舞台に立つ役者達の個性が
東京芸術劇場の家族達とは違う雰囲気を醸し出していている。

今回の作品はどちらかというと、
舞台上から、家族の過去から積み重なってきたものの色が減じられ
わだかまりのテンションが薄められる一方で
家族のナチュラルな質感がより前面に描かれ
空間を満たしたような印象を持ちました。
ハイバイバージョンで垣間見えた
日々を暮らす空気の尖ったエッジが
観る側に飲み込みやすいようにやや丸くされていて。
その家族特有の歪みの鋭角さに心を捉われるのではなく
むしろどこか市井での家庭の普遍的なレベルから
やわらかく逸脱した家族間の関係性や互いの不器用な愛情、
さらには家族間での想いのギャップやその先にある相容れないなさや孤独が
「おもろうてやがて哀しい」空気を醸しだし
観る側を柔らかく浸潤していくような作りになっていました。

母親がマイクを持って部屋に乱入する事情が明かされた時の
役者が創り出す可笑しさや
おばあちゃんが自らの死を演じる時の遊び心などにも
今回の舞台だから作り上げられたであろう表現の色があって
それらは観る側をよりカジュアルに舞台にとりこむ呼び水になっていく。

なんだろ、演劇としての歯ごたえを抑え
食べやすく供されているような感覚もあって。

でも、一度目の時間の流れに
二度目の時間が裏地として縫い合わされていく構造から
家族の想いの表裏や奥行きが鮮やかに浮かび上がってくることは
池袋でも青山でも変わりはなくて。
家族という集団がもつ普遍性を物語から滴らせる
戯曲の秀逸はなんら損なわれていない。

舞台にしつらえられた街灯がとてもよい工夫で、
したたかに空間が作られていきます。
家の内と外、家族の建前と本音、時間の表裏、
さらには芝居の範疇への入り方と出方・・。
なにげなく観る舞台に
様々な切り口が組み上げられ
役者たちのお芝居がその中で
個々の色合いを醸し出していく。

役者のこと、母親を演じたユースケ・サンタマリアは実に堅実な演技。母親が持つ強さというか骨太さを残しつつ、その奥にある繊細な心情を丁寧に演じて見せました。祖母役の研ナオコは自らの演者としての知名度や存在感をうまく戯曲上のおばあさんの立ち位置にのせて。台詞のほとんどないお芝居なのですがその家族に一定の空気をずっと流し続ける力があるのです。また、お芝居を踏み出したような遊び心を持ったシーンもあったのですが、この人がやると浮かずにしっかりと舞台に馴染む。贅沢でとても秀逸なキャスティングだと思う。

大鷹明良が演じた父親にはキャラクターの今にしっかりと過去の負い目や自分を守る気持ちが織り込まれていて。どこかに揺らぎをもった雰囲気なのですが、色がぶれないことで他の家族たちの立ち位置も定まっていく。

長男を演じた滝藤賢一からは包み隠した祖母への愛情の深さが実感として伝わってきました。淡々としたお芝居が積み上げたおばあさんへの心情に心を打たれる。次男を演じた荒川良々は長男との対比を作りつつ、その心情を彼独特の語り口で露出させていきます。ある種の不器用さがこの役者ならではのお芝居から形成されていく。

長女を演じた内田慈は滑らかなお芝居のなかに長女としての視座やそのなかで負うものを醸し出していきます。キャラクターが持つ意地のような部分が際立つことなく、でも絶妙なバランス感を持った強さで観る側に伝わってきて。そのお芝居のしたたかさに目を見張る。次女を演じた浅野千鶴のお芝居には他の家族ほどにディープな部分に巻き込まれていないイノセントな雰囲気がうまく編み込まれていて。末っ子としての家族のなかでの位置取りや想いのデリケートな色の曖昧にならないしっかりとした作り込みに、この人の役者としての力を感じる。

長女の夫を演じた古沢祐介は、家族からすこしだけ距離を置いた存在なのですが、その距離で醸し出される温厚さが家族が醸し出していく熱とのバランスを作り上げていて。目立つおしばいではないのですが家族の外枠を実直に作り上げていく。次男の友人を演じたノゾエ征爾にも同じような役割があって。古沢とはまた別なテイストなのですが、やはり舞台の空気感を広げ一方で散らさないようなお芝居をしたたかにこなしていて。彼らの演技がまこの一族の血縁の醸し出す匂いを舞台にうまくつなぎとめていたようにも思う。

牧師を演じた小河原康二にも味がありました。信仰に裏付けられた言葉に織り込まれた人間臭さや独善がなんともいえず可笑しい。ラストの火葬場のどこかやけっぱちな雰囲気をしっかり導くお芝居でした。また、葬儀屋を演じた田村健太郎師岡広明のお芝居にはすっきりとした切れがあって、物語にウィットを与えるだけではなく、家族の愛憎や死者を弔う場のペーソスを、べたつかせずにその場に導いておりました。

観終わって、ハイバイの「て」を観た時の面白さが蘇りつつ、
今回の作品を観たことによる膨らみのようなものも感じて。
この舞台本来の面白さに加えて
ハイバイバージョンを観た時と
同じ形で違う色合いの想いが脳裏に併存していることも興味深く、
また、それを成し得る戯曲の強度のようなものにも
改めて舌を巻いたことでした

|

« クロムモリブデン「裸の女を持つ男」一様でない個性が醸し出す高揚 | トップページ | ブライアリー企画「川と出会い」川の記憶を共振させるイメージのふくよかさ »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「その族の名は『家族』」、この舞台の「家族」の存在と戯曲の普遍性:

« クロムモリブデン「裸の女を持つ男」一様でない個性が醸し出す高揚 | トップページ | ブライアリー企画「川と出会い」川の記憶を共振させるイメージのふくよかさ »