マームとジプシー「コドモもももも、森んなか」滅失していくもの、消えないもの
2010年2月1日ソワレにて、マームとジプシー「コドモもももも、森んなか」を観ました。場所は横浜STスポット。
マームとジプシーについては、アゴラ劇場での初見以来、拝見した数作のいずれにも深く心を捉えられていて。
今回も、言葉に尽くせないほどのものが舞台からきました。
(ここからネタバレがあります。十分にご留意くださいませ。)
脚本・演出:藤田貴大
場内に入ると
三人の女の子がごろごろとしている。
柱時計、おもちゃのかご、キルトっぽい床・・・。
舞台が始まると
そのまま彼女たちの時間がスライスされて
幾重にも演じられていきます。
ランダムに浮かび上がる場面には
曜日や時間のタグがつけられて
その、一週間のフレームに納められていく。
3人姉妹、母親の帰ってこない夜、
遊びにやってくる友人、
学校の風景やクラスメイトのこと
近所の人のこと、
転校生のこと。
曜日が語られ順序が組みあがっても、
時間が流れるわけではない。
シーンに縫いこまれた感覚が
舞台に重なっていく感じ。
何度も繰り返される刹那に、
繋がるいくつかのシーンがにび色のメリハリを持ち始める。
角度を変えて繰り返される場面が
執拗に置かれて記憶のコアを作り、
すっと一度きりとおりすぎるシーンが
その世界に広がりを与える。
そして、それらを忘却の混沌だけに閉じ込めない
感覚の外枠のようなものがあって。
うまく言えないのですが
彼女たちがそれぞれに
抗うことなく、なされるままに受け入れざるをえないものが
その時間たちに差し込まれて
空気感をつなぎとめる。
川を流れていく子猫たち、
家が燃えているのをただ観ているしかないこと、
初潮の訪れも同じような感覚なのかもしれないし
病院で過ごす転校生の時間も、
そして、なによりも
その日曜日を最後に見ることがなかった妹のことも・・・。
あるいは、母親のことも。
舞台上にその一週間の記憶が満ちたとき
柱時計がずらされて、時が進みます。
時を刻む音が聞こえ始めて、
この舞台の今が生まれ、
見る側の視座が定まる。
姉妹それぞれの喪失感や行き場のない気持ち、
そこには消えることのない
感覚がしっかりと残る。
さらには、モノトーンの制服や
私服の赤の使い方が機能して、
時はさらに刻まれる。
川が流れる先の海のこと、
町から外につながる橋のこと・・・。
そして、
タイトルのとおりその時代や妹のことが
ひとつのこととして
あたかも、記憶の、森の中へと残されていく。
留められた時間、
そして刻まれていく時間のなかで
キャラクターからそのままに溢れだす
心風景の肌触りに息を呑み、
さらには滅失していくコドモの視線で
その空間の先に見える
母親や大人たちの姿にまで心を捉えられて。
上演時間は2時間ほど、
観ていて、とても良い意味での消耗感があって。
その尺を費やして、
その時間に観る側をとりこむからこそ、
描けるものがあるように感じました。
忘れるということではなく、
色褪せるということともどこか違う。
少しずつ揮発して薄れていくような、
でもきっと消えることがないその時間が
終演後もずっと留まっておりました。
出演:青柳いづみ 伊野香織 荻原綾 北川裕子
斎藤章子 高山玲子 とみやまあゆみ
召田実子 吉田聡子
大石将弘(ままごと) 大島怜也(PLUSTIC PLASTICS)
尾野島慎太朗 波佐谷聡
舞台を組み上げていく
役者たちそれぞれの精緻な演技にも瞠目。
観終わって帰り道、電車の中、
それでも自分から抜けていかない感覚がありました。
作り手の描く力が
そこまでに、強く深いものを
残していった作品でありました。
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