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青☆組 「雨と猫といくつかの嘘」 精緻さからの豊かな広がり

2011年1月30日に青☆組「雨と猫といくつかの嘘」を観ました。
会場は小竹向原「アトリエ春風舎」。

その人生に引き込まれ、がっつりと浸されてしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ)

作・演出 : 吉田小夏

出演   : 木下祐子 藤川修二 福寿奈央 高橋智子(青年団) 荒井志郎 林竜三

個人的に今年はアトリエ春風舎を訪れる機会が多いのですが、
本当に豊かな表情をもったスペースだと思うのです。
前の週までは「だて企画」の公演で高校の教室になっていたその場所が
エッジをもった舞台と客席からなる劇場のたたずまいで
観客を迎えてくれる・・・。

舞台中央に畳のスペースと座卓、
後方に雨をイメージするオブジェが飾られて・・・。
側面に役者が控える椅子が置かれる・・・。

開演前から役者が脇に控えて・・・。
少しずつ会場の時間が舞台にとりこまれていきます。

始まりはちょっとわびしい風景、
カップ麺をすする年老いた男・・・。
がらんと寒々しい雰囲気漂うその部屋に
傘をさした女性が訪れる。

部屋の扉を叩くその仕草や音が凛としていて
観る側の心にまで響くような力があって・・・。
(奇跡のように凛と響くノックだった)
逡巡ののち男が扉を開けると
雨の薫りが部屋に流れ込むような感じがして・・・。
なにかにすっととりこまれるように
世界が記憶の領域への踏み出していきます。

母の記憶に始まって
やがて幼い頃の思い出へと舞台が広がっていく。
どこか削ぎ落とされたような質感のなかに
いくつものエピソードの断片が高い解像度で浮かび上がって。
母親の若い女性としての質感や
父親の男としての横顔が
ぶち猫が家に来るくだりから溢れ出す。

時間は巡り、
自らが築いた家庭の風景や
さらには息子や娘とのエピソードへと
シーンたちが広げられていきます。
おかきや塩せんべい、
その時々の猫たち、
そして包みこむような雨の音が
それぞれのシーンの
どこか削ぎ落ちた感覚と息を呑むような生々しさを
主人公の半生に縫い付けていく。

夫婦の生活や父親との同居の風景に織り込まれた
猫が姿を消すシーンのリプライズも秀逸。
有り体な時間の描写に
主人公のウィットが織り込まれ、
猫との離別の刹那が
染め替えられて広がる。

それは主人公が訪れた
息子の同棲の風景にしても
同じこと・・・。
抱えきれないことは
どこかで嘘にすり替えられて
ためらいや気まずさや惜別の思いや寂しさも、
主人公自らの世界に押し込まれて。

終盤、いくつも開いた
透き通った記憶の傘たちのなかを
ひとり還暦の赤い傘をさして歩む
主人公の姿に強く捉われました。
部屋でカップ麺を食べる中で、
切なさと高揚のどちらにも沈み込まず
坦懐にその道程をさらに生きる姿に隠された
心風景のリアリティに深く心を奪われてしまう。

役者達のお芝居が
舞台全体としてのメリハリを醸すに留まらず
小さな仕草やニュアンスまでを
丁寧に作り上げているのもすごくよい。
舞台に満ちる感情の細かな織り目までがくっきりと浮かんで。

痛みとか寂寥もそこにはあるのですが、
それだけに染まらない、
むしろそれをはるかに凌駕するような奥行きがそこにはある。
主人公の半生に緩やかに満ちたものと
満たされないものや失われたものを覆う嘘たちのテイストから
生きてきた道程の重さと軽さをそれぞれに湛えた
人生の質感がしなやかに伝わってきて。

この作品、できればもう一度観にいきたいとおもいます。
終わってみれば、そんなにまでとても深く、
舞台に浸されてしまっておりました

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