空想組曲「ドロシーの帰還」創ることを描く圧倒的な力
2011年2月23日、空想組曲「ドロシーの帰還」を観ました。
会場は赤坂レッドシアター。
創作者の感覚や想いが、しなやかに描きこまれた秀作。
観終わって、「創る」ことの根底にある普遍性にしっかりと捉われておりました。
(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)
脚本・演出 : ほさかよう
物語はオズの魔法使いの冒頭から始まります。
竜巻で飛ばされたドロシーが、
自分の家に帰るために魔法使いに会いにいく。
その物語が一つの柱として提示される。
下手には作者が物語を紡いでいく姿。
舞台のファンタジーに観る側を惹きつける力があって、
観る側が物語にすいっと入り込んでしまう。
一方で、喫茶店では「トキワ荘」よろしく
創作を目指す男女が作品の批評を互いにしていて・・・。
そこに、冒頭の物語の作家が訪れることで、三つ編のように舞台の世界が織り上がっていきます。
オズのエピソードと作家の卵たちが抱えているもの、
互いが互いを照らし出していくような表現の鮮やかさに息を呑む。
エピソードは本の世界を抜け出して
作家の姿を寓意化してしなやかに描き出し、
作家の卵たちの姿はエピソードに
リアリティや細密なニュアンスを与えていきます。
それぞれが縫い合わされるにとどまらず、
表裏にならなければ見えないものが双方に広がっていく。
やがて、その融合は溢れるように進み、
ドロシー/作家はもちろんのこと、
魔法使いや魔女たち、さらには魔物までが
喫茶店を訪れる人物たちの世界と縫い合わされ、
舞台は観る側をがっつり凌駕していくのです。
浮かび上がること、
それは創り手や彼らを支える側の現実であり、
行き場を見失った想いでもあり、
苦悩でもあるのですが・・・。
観る側が心打たれるのはその姿にとどまらない。
なにかを創作していく構造、
何かが欠けていること、
欠けているものが満たされないこと、
でも満たされないからこそさらに書き続けていくということ。
それはきれい事などではなく、
時にシビアで残酷で、
どろどろと混沌として作り手を捉えているもの。
オズの世界と縫い合わされた作り手たちの世界は、
その混沌をもしなやかにエピソードに織り込んで
普遍性を持った創作のメカニズムとしてみる側に伝えていく。
作家は家に帰ります。
でも、それで欠けたものが満たされたわけではない。
作家の卵たちもひと時バラバラになります。
でも、それは、欠けたものが埋められたからではない・・・。
目をそむけて諦めることもできただろうに、
彼らは創り続ける。
時の重なりのなかでさらに歩みをすすめる彼らの姿から醸し出される、
それぞれが「創作」を背負うことの質感に
強く浸潤されたことでした。
出演:藤田記子(カムカムミニキーナ/goodmorningN°5)・川田希・井俣太良(少年社中)・久保貫太郎(クロムモリブデン)・二瓶拓也(花組芝居)・小玉久仁子(ホチキス)・齋藤陽介・佐藤滋・北村圭吾・梅舟惟永(ろりえ)・小野川晶(虚構の劇団)・中田暁良(ミームの心臓)/中田顕史郎
役者たちの演技も実に秀逸、
ステレオタイプではない
一歩踏み込んだようなキャラクターに対しての貫きがありました。
そのことで、舞台から醸し出される寓意が概念ではなく、
瑞々しいリアリティに落とし込まれていて。
観終わって、しばし呆然。
やがて創り手の冷徹な視点と繊細な感性、
さらには創り続けていくことへの熱がゆっくりと心に降りてきて。
この作品、ずっと記憶にとどまると思う。
それほどに、秀逸な舞台でありました
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