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KUNIO08「椅子」 秀逸な素材を昇華させる演劇マシーン

2011年2月17日 KUNIO08「椅子」を観ました
会場はこまばアゴラ劇場。

がっつりと観る側を取り込んでいくような空気の醸成、場の高揚、さらにはそれらを突き抜けて表現されていくもの・・・。
様々な創意によってつくられていく
いくつものテイストに圧倒され浸潤されました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作=ウージェーヌ・イヨネスコ
演出・美術=杉原邦生
出演=岩下徹,細見佳代,山崎皓司


覚えていないだけなのかもしれませんが、
イヨネスコの戯曲が上演されるのをみるのは
多分、これが初めてだと思います。

劇場にはいると左右に3列の客席。
舞台に当たる部分の上方と入口にモニターが並べられていて。
椅子が二つおかれたその場所で
静かに物語が綴られ始めます。

前半、老夫婦の生活の実感が
しなやかな役者の演技からしなやかに満ちていきます。
台詞や動きの一つずつが
繊細な描写と絶妙な身体によるデフォルメで場を形成し、
そこに暮らす二人の人生のあり方を浮かび上がらせていく。
岩下徹のお芝居から、
夫の雰囲気が匂うがごとくの解像度で伝わってきます。
細見佳代が醸し出す夫との距離感にも目を見張る。
二人のお芝居の中に、その場の時間の流れが
肌から伝わってくるがごとく織りあげられていきます。

夫の仕事のこと、
妻の夫への愛情、
変わらずに繰り返される暮らしのこと、
息子のこと、
人生に満たされたことと、裏返しの後悔と・・。
夫婦が一つに束ねられるのではなく
そこにはそれぞれの想いがあって。
だからこその、夫婦の実存感にさらにひきこまれる。

そのなかで、夫が語るべきことがあり、
伝えるために人が招かれる予定であることが
次第に明らかになってきます。
客人たちの前で
夫のメッセージが発表されるという。
そのメッセージはとても有意義で、
大切なもので、
それゆえに夫自身からではなく
有名な弁士によって語られるというのです。

そして
愛情と愛憎と敬愛が重なりあった、
でもどこか閉塞した二人の空気が十分に満ちて、
さらなる行き場を探し始めたとき、
ほぼ素舞台であったその場所の空気が吹き払われ
一気に色を変える。

ラップを奏しながら演出家が現れて・・・
ブレイクタイムのような感じで、演劇の外側に舞台が引き出され
そこからの舞台の段取りが定められて行きます。
なんだろ、突然、どちらかといえばコンサバティブな演劇の空間に、
今様の演劇マシーンがセッティングされる感じ。

それでも
場は再びなめらかにテイクオフをしていきます。
そして、客人のロールを持った観る側の一人が舞台に導かれ
演劇としての水辺の家に客が訪れるのです。

そこからは、少しずつ加速度をつけて
観る側が舞台の一部に取り込まれていきます。
最初はひとり、
呼び鈴がなって、また、ひとり。
彼らは夫の旧知の人物にも思える。
続いてカップルが訪れ、
新聞記者の団体が現れ、
妻はその場に並べる椅子を忙しく探し始めて。
それは夫婦それぞれの記憶や想いが
溢れだしていく姿にも思えて。

さらに留まることのない来訪者に
妻は椅子の調達に奔走し、
夫は手に余るほどの対応に追われていきます。
映像や音が舞台の高揚をがっつりと煽り
気が付けば舞台は並べられた椅子で満ち
来訪者に満たされ
立ち見が出ていることまでが語られ
挙句の果てにはパンフレットまでが売られ、
夫婦それぞれが互いの居場所さえ見失っていく。
醸成されていくグルーブ感、
狂騒とも思える状況に誘われて
私も客人として椅子に移動してみると
坩堝の中でのしっかりした混沌がそこにはあって・・・。
最後に皇帝が現れるに及んで
その広がりの常軌の逸し方が
まるでドタバタ喜劇を観るがごとく
なにかを踏み越えてどうしようもなく滑稽にすら思えて。

そこまでに場が満ちたなか、
満を持して弁士が登場するころには、
舞台上での老夫婦の高揚は頂点に達して。

でも、舞台の熱を受け止め、
夫婦の死を引き継いだ弁士の言葉は、
聾唖者の態で語られるのです。
彼は一生懸命伝えようとするのですが、
よしんば何かの想いがあることは伝わっても
言葉として明確に伝わるわけではない。
想いに加えての苛立ちまでが
喧騒が霧散して静まり返った舞台に
貫かれた表現で醸し出されて。

弁士を演じた山崎皓司の演技には
観る側が息を呑むような貫きがあって
その踏み込んた秀逸な演技で、
夫婦の想いの客観的なありようを表現するにとどまらず
想いを突き抜け昇華させていきます。
シニカルな風景や行き場のなさを創り出す
その力量に圧倒される。
夫婦の天に召される姿を創り出していく
どこかシンプルで、
でも、混沌からの浄化をも感じるその表現の秀逸に
ぞくっとっくる。
弁士の想いが突き抜けて、
明確な言葉へと姿を変えた刹那、
観客に老夫婦のともに生きた時間の軽さと重さが
ともに降りてきて。
観る側が自ら過ごした、
さらには、今も過ごしている時間の軽重に
重なっていくのです。

初日ということでもあり、
演じる側にも多少のとまどいがあったようには思います。
段取りをしたり観客を導くあたりで若干空気が留まったり、
ラストのシーンで弁士が表現の場を作る段取りに
若干の躊躇を感じたり。
とはいうものの、
それは、きっと公演を重ねるに従って
進化し解消していくことにも思えて。
役者たちの演じる力の確かさを思いおこすにつけ、
さらにいろんな手練が生まれていく
作品なのだろうと思います。

まあ、もっと根本的なところで、
今回のような表現のメソッドは
観客の間でも
それなりに好みが分かれるのかもしれませんが・・・。
すくなくとも
私にとっては
作り手の常ならない創意と
役者たちの秀逸に
しっかりと圧倒された舞台でありました。

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