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だて企画「終わりなき将来を思い、18歳の剛は空に向かってむせび泣いた。オンオンと。」に取り込まれて

2011年1月14日、青年団自主企画公演、だて企画「終わりなき将来を思い、18歳の剛は空に向かってむせび泣いた。オンオンと。」に足を運びました。

この作品、稽古参加などの企画もあって。初日の前にも複数回体験させていただいたのですが、訪れるたびに引き込まれてしまって。

しかも、本番には更なる完成度がありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出:舘そらみ 

出演:木崎友紀子 小林亮子 石松太一 伊藤毅 折原アキラ 重岡漠 舘そらみ 海老根理 千田美智子

プレビューやその前の稽古公開にも参加させていただいていたのですが、
映像や照明が入った本番では
さらに入り込むことができる仕組みが作られていて。

入場時からスイッチがちょっとずつ切り替わる。
開演前の「教室」の雰囲気に観に来たという感覚が崩されて。
なにかタメ口で話しかけられているうちに
少しずつ自分のロールが定まって、
さらには冒頭の映像が
ガイダンスの役目を果たして、
周りと一緒に机を叩いているうちに
その机がちゃんと自分の居場所になっておりました。

授業が始まるとクラスがひとつになったり
先生がいなくなると教室の雰囲気がバラけたり・・・。
気が付けば、そのなかで、出来事を共有し
その時間を共有している。

考えてみれば学校のクラスって不思議なもので
同じクラスということだけで
なにか繋がる気持ちがあった気がするのです。
ただ友人だったとか
仲がよいとか悪いとかではなく
それとは違う帰属意識のようなものがあって、
そのなかでのいろんな感情や想いの中で過ごしていた。
毎日同じ時間だったかというとそんなことはなくて
実はそれなりに変化に富んでいたように思う。
この教室には
「学生のころ」というひとくくりがはずれて
毎日の感覚にすっと戻されるひと時があって。

もちろん、客席と舞台という枠組みのなかで
舞台側にその感覚をかもし出すことも
出来るとは思うのです。
でも、受け取る側にとっては
伝わってくるものの質や量が圧倒的に違う。
教室の中に居場所があると
舞台上に現れたものを取り込むという演劇的な作業をパスして
感じられることがいっぱいあって。
自らのなかで意味を翻訳されて受け取るのではなく
ダイレクトに感じられるものを空気のように吸い込んでいる感じ。
常日頃お芝居を観るときに無意識にしてしまっている
理屈を組み立ててとか経験に照らし合わせてとか
そういうものを蹴飛ばしてやってくる感覚が
とても楽しい。

作り手に表現したいものがあって
それが台本で組み上げられ
役者達によって形になり、
さらに空間に醸成されて
伝えられる。
よしんば参加型ということで
劇場でのものとは形が違っていても、
ここにあるのはまごうことなき演劇で・・。
でも、その演劇は
常なるもののように舞台に置かれ、
観客に解釈されて取り込まれるのではなく、
物理的にフィルターを外されたままの状態で
そのまま観客に伝わってくるのです。

この形式でなければ受け取れない感覚が
間違いなくある・・。

作り手の伝えようとするあくなき志、
形にするための
既存の演劇の枠から溢れだすような創意と力量、
具現化する役者たちやスタッフ達の秀逸さ・・・。
後付けで瞠目することは山ほどあるのです。
でも、稽古参加やプレビューにも参加させていただき
何回か体験しても
教室で自分の居場所に落ち着くと
そんなことはどこかへ吹き飛んでしまって。

受け取った感覚を
すっと観る側の記憶に束ねていくような
終盤の映像もとても効果的。
終わって、なんとなく「教室」を立ち去りがたかった。
常なる世界の常ならぬ感覚にすっかり浸されておりました

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