ガレキの太鼓「吐くほどに眠る」、その半生の向こう
2010年8月18日、千歳船橋Apocシアターにてガレキの太鼓、「吐くほどに眠る」を観ました。
この劇団の本公演をみるのは2度目。前回公演を拝見した印象が非常に強く、この公演もとても楽しみにしておりました。
(ここからネタばれがあります。ご留意ください)
作・演出 : 舘そらみ
舞台上には、まるで洋服屋さんのお芝居かとみまごうほどに、様々な衣装がつるされていて。しかも開演前から、役者たちがときどき舞台で衣裳を扱ったり・・・。
やがて舞台中央の台に6人の役者が乗って・・・。ひとり、舞台上手に座った女性の語りから物語は始まります。
その語り口が、いきなり飛びきりのしなやかさで、誘いこまれるがことく彼女の世界に包み込まれる。女優達によって演じられる記憶たちが冒頭の女優の語りに束ねられていきます。
エピソードの一つずつにその女性の個性が織り込まれて・・・。
幼少時代の記憶、彼女にとってやさしい兄へのあこがれ、母親への想いと、母親からの距離感。ランドセルのこと、縄跳び歌とともに広がるその時間たち。断片から、家族の肌合いが浮かび上がる。
やがて中学生になって、兄の引きこもりの顛末や母親が出ていくシーンの違和感なども、しなやかに織り込まれていきます。
さらには高校生になって、男性とのこと、サークルや友人のこと、バイトとのこと、そして就職のこと。
彼女の匂いを感じさせるエピソードたちが時間の流れにむすばれていく。役者たちが舞台上で衣裳を次々に変えながらロールを組み替えて演じていくことで、舞台上に様々なアスペクトと変化が生まれていく。その広がりがそのまま彼女の人生の質量というかボリューム感として伝わってくるのです。
すべてが暗い色合いに塗りこめられているわけでもなく、明るい刹那もしっかりと描かれていきます。幼いころの毎日も、世間から見れば格別不幸だったわけではない。学生の頃のことにしてもバンドの抜けるような明るさに目を奪われたり・・。(このバンド、各パートの演奏がしっかりと作りこまれていてびっくり。北川さんのボーカルが本当に気持ちよさそう)花嫁衣装を夫に見せる時の小芝居の心浮き立つ感じなど、どこか素敵にこっぱずかしくて観る側までときめかせてくれる。
でも、それらの日々が浮かぶのと同じ肌合いで、彼女の奥底の満ちていない部分が解きほどく記憶のなかにしなやかに込められていて。その欠落感にゆがめれた事象たち、兄の留学や母の出奔への誤解、遠距離恋愛の拒絶、友人への依存、就職を決め方も。抱えきれず溢れだすそれらの感覚がときには深くから滲みだしあるいは突出して観る側を染めていく。
恣意なく、思いつくがままのごとく、その口調のままに語られ続けるから、結婚後の時間を思い出す彼女の内心も観る側にそのままに伝わってくるのです。
兄の留学の顛末も、兄の死のことも、自らのコントロールの外側での満たされない部分に流し込まれる自責の想いも、抑制の出来ない部分が招いたその事件のことも・・。
終盤の、彼女から醸し出される想いには、彼女が語ることの意味を悟った観る側を、さらにしっかりと捉える力がありました。その段階で彼女から伝わってくるものは、言葉に置き換えたりとか、涙を流したりとか、怒りを感じるとかそんなことができるほどシンプルな感覚ではない。
しいて言えば、感覚の失せたような、立ちつくすような、抑制できないものに抗い疲れたような感じなのですが、それは、彼女の半生を聴き通さない限りきっとわからない類のことにも思えて。
彼女の遺書のような手紙の言葉や、そのあとのひと時の所作の間がすうっと腑に落ちて息を呑みました。
出演:石井舞・上村梓・木崎友紀子・北川裕子・菅谷和美・高橋智子・由かほる
木崎は物語の要の部分をしっかりと守りとおしました。他の役者たちにも、個性を消すのではなくしっかりと作り出すことで場面ごとのロールを物語にはめ込んでいく力があって・・・。
ラストのキャラクターからの内なるものが、まっすぐに観る側に伝えられたのは、埋もれず、恐れることなく、身に付けた衣装とともに場面ごとのロールをしっかりと背負って演じ切った役者たちの個性と力のたまものかと思います。
それにしても、舘そらみです。よしんば、話題となった前回の公演とは違ったテイストであっても、この作・演出の手練、さらには浮かび上がらせる空気や質感の非凡さを終演後の余韻のなかでしっかりと再認識することができました。次回は青年団の若手自主公演とのことですが、ほんとうに今から楽しみです。
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