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5mの小三治師匠

2010年8月8日、落語協会主催の「圓朝まつり」、奉納落語会を聴くことができました。

はがきを数枚出したら、なんとなんとチケット購入権が当たった・・・。これにはかなりびっくり。今年一年の運と引き換えてしまったのかもしれないけれど、お蔭様で、鈴々舎馬風、柳家小三治両師匠の名人芸をみっちり味わうことができました。

会場は圓朝ゆかりというか、墓所がある谷中全生庵、千駄木の駅から歩いて10分程度のところです。先に余談になってしまいますが、供養といいながら、実態は、9割以上噺家さんたちによるファン感謝デーなわけで、落語が好きなやからにとってこれが楽しくないはずがない。

出店がたくさん出ていて、それぞれに創意工夫があって・・・。お囃子のお姉さん方が、一曲いくらという感じで出囃を弾いていたり、寄席文字で色紙に一文字揮毫してくれるお店があったり。林家彦いち師匠が、夜が鈴本の主任にも関わらず、体を張って空手の板割りなんぞをやっていらっしゃいましたが、その姿がきまっているというか本当に絵になっていて・・、パフォーマンスのたびに人だかりができていた。

福引なんかも楽しい。食べ物屋もたくさんあり、小三治一門の「しゃじ」で喰うカレーなんぞお昼前には売り切れておりました。暑いので冷や汁や冷凍みかんなども美味しかった・・・。その中でも最高だったのが、橘家文左衛門師匠の牛丼、これは絶品でした。お手伝いに来ていた噺家さんたちが汗だくでご飯をよそって、豪気な文左衛門師匠が鍋からさくっと具をすくい、ざっとかけて出してくれる・・。もう食べる前から美味しいのがわかる。実際口にすると、もうたまりませんわ。そこらのお店でもめったに巡り合えないほど美味でした。

また、噺家のみなさんが、気楽にファンに対応して下さるのもうれしい。あちらこちらに噺家さんのサインを求める列ができていて、暑さにめげず気さくに応じて下さっている。さん喬師匠など、途切れることのない列をものともせず、本当に力のこもったサインをずっと書きつづけていらっしゃって、その凛とした姿を拝見するだけで感動。また喬太郎師匠のところへも長蛇の列ができていたのですが、本当にひとりずつ真摯に対応されていて・・・。

そんな境内の雰囲気を軽く楽しんだあと、ちょっと早めに落語会の列に並んで。やがてお堂の一階の大広間に通されて二人の名人の高座を待ちます。

(ここから、ネタばれ的なことがあります。ご留意をお願いいたします)

畳張りの広間に観客は150名、早々に福扇をあきらめて落語会の列に並んだことが効を奏して、前から3列目の中央付近の場所をゲットできました。高座までの距離は5mというところでしょうか・・・。最近畳にじかにあぐらをかいたことなどなかったですが、ひやっとしてこれがなかなか気持ちが良い。

冒頭に事務局役の方から簡単な注意事項があって、さらにはお手伝いに来られていた春風亭ぽっぽさんなども顔を見せ、ちょっと硬かった場が和みます。はがきによる抽選販売のチケットは100倍を優に超える倍率で、奉納落語会が始まって以来だったのだそう。「みなさんすでにエリートばかり」などと持ち上げられて会場がどっとどよめく。

*鈴々舎馬風 「男の井戸端会議」

今回の奉納落語会は一部が前落語協会の会長と新落語協会の会長の高座。前会長からは落語界の四方山話をみっちりと聴かせていただきました。

まあ、素敵に口が悪いこと。でも、その中に、今だから表現できるような自らの修行時代の様々なことがしたたかに織り込まれていて・・・。当代の立川談志師匠が選挙に出たときの苦労話から、林家三平一門の話まで、業界話がおもしろおかしく語られていきます。

それにしても師匠が作る表情の豊かなこと・・・。。正面からその変化を見ているだけで過ぎた時代の機微がおおらかにつたわってくる。ジャブのように繰り出される罵詈雑言、びっくりするほどの悪態のその中に絶妙なバランス感覚があって、聴く側をちょっと共犯者のような笑いに誘い込んでおきながら、しかもそれがいやらしくない。語る芸にセンスがしっかりと裏打ちされている。

昔自分が出して売れなかったというレコードの一番を振つきで演じて見せるその姿にしっかりとしたメリハリがあって。積み上げられた芸が会場を包み込む。ラフを装いながらの精緻な高座運びに秘められた、師匠の見せる力のもの凄さに圧倒されました。

*柳家小三治「死神」

枕に、昔の奉納落語会の思い出を・・・。昔は当代の名人上手が観客ではなく、圓朝師匠に向かって演じたのだそう。そこに笑いが起こるわけでもなく本当に噺が奉納されていたのだそうです。

まあ、考えてみれば、それはシュールな風景であったのかも。厳粛な空気の中で、仏様に向かって落語ですから・・・。小三治師匠、毎年続いていたその催しに対する圓朝師匠の気持ちをおもんばかって笑いをとって、すっと噺に入ります。

冒頭の夫婦喧嘩で家を追い出され、死んじまおうかという主人公の意地の張り方にいきなり取り込まれる。その思いつきに突飛さや無理がないのです。悔しさとか腹立たしさなどという言葉を貼り付けることのできない、その場に立ち会わないとつかみきれないような心情がするっと観る側に入ってくる。それは、死神に出会うシーンでも同じ。驚きや受け入れていく感覚が形骸化せずに、観る側の内に生きるのです。

地語りの部分で物語の進展に身をゆだね、要所でその場の広がりに浸潤される。師匠の語り口に囚われるという意識すらなく、高座のリズムに吸い寄せられていると、医者稼業が上手くいきだしてからの奢りの気持ちや主人公の上方から戻ってのちょっと閉塞したような感覚が自然に聴く側に入り込んでくる。

最たるものは、主人公が死神騙しの布団ぐるりを思いつくシーン。そのアイデアがやってくる感覚がとても静かで瑞々しいのです。こちらとて噺の筋立てはがっつりと分かっているのですが、その思いつきは記憶と合致するのではなく、高座の空気に導かれるようにふわっと聴く側に浮かんでくる。

死神の、なんともいえず人間くさいのもすごくよくて・・・。人ならぬ部分の存在感がしっかりあるなかで、「組合の申し合わせ」というのがおかしくもきちんと説得力をもっていて。そんな死神とのやり取りの中だから、ろうそくを差し替えて命をつなごうとする終盤も辛気臭くなったり教条的になったりせず、ただ生きようとする主人公の人間臭さというか素の気持ちがそのままに見えてくる。

落ちのしぐさにさらっと噺から解き放たれて、高座を降りる師匠の姿に拍手をしながら、噺の世界に浸りきっていた自分に改めて気づいて。本当に良いものには、満たされる感覚すら凌駕するほどに取り込まれるものだということを改めて思い知らされたことでした。お尻が痛かったことにも終演後に初めて気がついて・・・。余韻というか遅れてやってきた満たされ感をいっぱいに抱えて会場を退出しました。

でもね、不思議なのですよ・・・。「死神」っていえば大ネタの範疇だろうし、時間もそれなりに掛かっていたはずなのに、小三治師匠の料理だと、なにかぺろっと食べることができてしまう。上方版も含めて他の演者でのこのネタは何度か聴いた事があるのですが、小三治師匠のってそれよりも噺の質感はずっと軽い。軽いというか、もたれないのですが、主人公や死神の人柄(?)や内に織り込まれた人の運命や「欲」のおろかさの感触ははるかにしっかりと聴き手に残るのです。

終演後、一応圓朝師匠のお墓にお参り。よい高座に引き合わせていただいたことに感謝して、後はお祭りをたのしんで。カキ氷をたべて体を冷やしてから全生庵をあとにしたことでした。

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