ミクニヤナイハラプロジェクト「幸福on the road」シュールリアリズム的スケッチ
遅くなりましたが、2010年7月2日と10日、ミクニヤナイハラプロジェクト「幸福 on the road]を2回観ました。会場は横浜STスポット。
役者の体を擦り減らすような演技の向こうに、くっきり見えてくるものがありました
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)
作・演出 : 矢内原美邦
入場時から街の風景や、その中で倒れ、起き上がる人の姿と散らばり、時に文章として集合するアルファベットの動きが重なって壁面に映し出されています。
役者が舞台に現れ、カットインするように物語が始まる。そして、役者たちの駆け足に度肝を抜かれる。その運動量に圧倒されて・・・。
現れてくるものは物語というよりは、いくつものシーンの断片。記憶と想像が混在して納められた部屋のいくつものイメージが照らし出されていく感じ。それらが重なり合っていくうちに、なにかがゆっくりと溢れ出してくる。壁面の心の風景を現実のパーツに縫い込んだ、空想と記憶のボーダーのような物語が、繰り返し形成されて心を占めて、さらに膨らんでいくような感覚がやってくる。あいまいさと生々しさが、映像が示す内心の質感とからまりあって空間に広がっていくのです。
役者の動きや台詞の切れが、映像による内心の具象化と重なるたびに観る側に作り手の感覚がなだれ込んでくる。その映像は時に抽象的で、あるいはあからさまに具体的で・・・。世界をしっかりと演じきっていく役者たちの演技の鋭利さが、観る側の視座を組み上げ実存感と深さを作り出していく。
孤独、理性、新しい感覚の違和感、コントロールできない心情、閉塞感。積もる言葉、閉じ込められた感覚、流れだしてくるもの、溢れくる想い・・・。それらからやってくる痛み、行き場のなさ・・・。
次第に明瞭なカオスが満ちてきて、その中に観る側がなすすべもなく取り込まれていく感じ。舞台から目が離せない。
その世界を潜り抜けて、再度現出した駆け足のシーンからやってくる感覚は、同じ動作なのに冒頭とまったく違っていました。今度はそれがわかる。画像の文字が滲んで広がり、昇華するように輝きに変わっていく感覚が震えが来るほどにわかる。街を走るスピードを伴った広がりが、内側に積った想い覆い隠し、視覚から皮膚を貫いて内心を満たしていく。
内心の画像が霧散するようなラストシーンがやってきて、観る側に置かれた作者の内心のリアリティとその残存感に圧倒され、さらには体現した世界の緻密さや解像度に気づきふたたび息を呑む。
席を立つときには作者の創意と、それを支えた役者たちの力にがっつり淘汰されておりました。
出演:黒岩三佳、柴田雄平、鈴木将一朗、 たにぐちいくこ、NIWA、光瀬指絵、守 美樹
いずれも、研がれた台詞を使えるツワモノぞろい。その動きだけではなく、台詞の緩急やニュアンスの含蓄にも常ならぬ力があって。
ちなみに初日と比べると10日の公演ではカオスの部分がさらなる解像度を持ってすっきりとしていて、ちょっと感触の違った作品になっていました。公演を重ねるにしたがってさらに育っていく要素を持った作品でもあったのだと思います。
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