感覚が内生されるような舞台、マームとジプシー「しゃぼんのころ」、ポかリン記憶舎「humming4」
遅れてしまいましたが、先月末に観た、とても印象に残る2作品の感想などを・・・。
ひとつは5月30日に横浜STスポットでみたマームとジプシー「しゃぼんのころ」、もうひとつは5月31日に根津のギャラリー藍染で観たポかリン記憶舎「humming4」、どちらも印象に強い作品でありました。
ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。
*マームとジプシー 「しゃぼんのころ」
作・演出:藤田貴大
中学校の風景、
冒頭から様々な記憶の断片が
コラージュのように繰り返され
ジグゾーパズルのピースが埋まっていくように
とある三日間が観る側に広がっていきます。
同じ時間が何度も繰り返されたり
同じ事象の視点が変わったり
時間が行き来したり
一つの事象からいくつかの事象が広がったり・・・
その時間の外側の出来事が挿入されたり。
それは、あたかも記憶達の反芻の
細密な描写のように思える。
その再生から伝わってくる
事実ではなく感覚としてのリアリティに
次第に取り込まれていく。
表現される個々の想いが
ステレオタイプにではなく
あいまいに
なんとなくわかりだしていくような感じに
前のめりになる。
感じると理解するの中間あたりに
いろんなものが置かれているよう。
野宿、彼氏の部屋、学校のこと、
上履きのサボテン、トイレでのおしゃべり
晴れでもくもりでも雨でもない天気。
なんとなく息がつまるけれど
でも溢れてしまうほどでもない、
やわらかく行き場なく閉塞した感じ・・・。
縮れた赤毛の女性が出てくる小説(第七官界彷徨)の
作家から取ったというミドリという猫の存在が暗示的で・・・。
いつか見たという、海をたゆらぎ、どろどろになった猫と重なっていく。
記憶の重なりから醸し出されるような
第七官界での感覚に取り込まれて・・・。
たくさんの感覚が
流れ込んできて
それが単純にまとまることなく
クラウドのように心に広がっていく。
役者も、早い場面展開に遅れることなく、それぞれのシーンに想いを残すだけの力量があって。
出演:青柳いづみ・伊野香織・萩原綾・齋藤章子・召田実子・吉田聡子・尾野島慎太朗・波佐谷聡・横山真
終演してもその感覚のアドレスが見つからず・・・。
にもかかわらず、占有されふかく浸潤されたような感覚が散らず、
しばらく席を立つことができませんでした。
*ポカリン記憶舎 「humming4」
作・演出:明神慈
靴を脱いでその場所に入った時
贅沢な日本家屋のもつぬくもりにやわらかくとりこまれる。
意外と高い天井、
ライトアップされた庭。
まるでパズルのように観客が壁際の席にはめ込まれて
その家の空気が肌に馴染んだころに
すっと物語が始まります。
この場所では空気が
観客をしっかりと捉えてくれる。
登場人物が現れるたびに
空気の色や密度が
やわらかく、でもしっかりと変化していく。
登場人物たちの想いを伝える台詞が
断片的に語られ
空気が廻るようにつながっていく。
家自体のことが説明されていくくだりなどは
とても饒舌なのですが、
それ以外のことは、
その場にあるべきものがあるべき色で
あるがごとく語られていく感じ。
そして、おかれた言葉は
現の世界とは異なり
散りきらず、その場にすこしずつゆっくりとつもる・・・。
静謐さが観る側の五感を研ぐ。
音・・・、足音、カップやグラスを置く音に
現と物語の世界が重なり
さらには劇中の梅干しの味が
観る側の体をめぐる。
現と物語の世界のボーダーが曖昧になって
姉弟それぞれの想いが
積もった言葉やしぐさから浮かび
観る側の腑に落ちる。
ありふれたひと時のスケッチでありながら
観る側にとどまる質感が
鈴の音とともにスタンプされて・・・。
結末を急がない終幕とともに
この場所の一コマとして心にのこるのです。
出演:中島美紀・日下部そう・青山麻紀子 ・東谷英人・ 岩澤侑生子・ バビィ
役者たちの密度をもったお芝居が、空気の重さにならず家に漂う粒子の密度になっていく・・・。その表現の豊かさがあるからこその姉弟の空気感をたっぷりと実感することができました。
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ふたつの作品をみて、当たり前のことだけれど、所に空間や時間を共有しなければ作り手から受け渡してもらえない感覚があることを改めて実感。
演劇だからこそ表現しえることや感じることの存在を改めて体感したことでした。
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