おるがん選集、春編「藤・桜」2夜4作の豊潤なおもてなし。
2010年4月27日・28日の2夜にわたってオルガン選集春編両バージョン(藤・桜)を観ました。
場所は浅草橋駅から徒歩5分くらいのところにあるルーサイトギャラリー。その場所に取り込まれて、空間に満ちた物語をたっぷりと味わってまいりました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)
会場のルーサイトギャラリーは、昔、名をはせた芸者さんのご自宅だったそうです。玄関を上がって廊下を進んでいくだけで、雨がそぼ降る表と肌に触れる空気の違いを実感する。
奥にカフェとなっているスペースがあるのですが、そこには古色蒼然とした椅子が置かれたりもしていて・・・。開演前のあわただしい会場なのに、なんだろ、時間の流れ方がすごく静か。でも、冷たさはまったくなく、むしろ家からその場にいる人への愛想のようなものも感じられて。狭い階段を上がると二間ぶち抜きのスペースがあって、その雰囲気がもつ独特の華やぎと温もりのようなものに目を見張る。
丁寧な客入れ。スペースの広がりを心地よく感じている中で、すっと物語がやってきます。
脚色・演出 詩森ろば
・4月27日 ソワレ 「藤」
[親友交歓 (原作 太宰治)]
部屋の明かりをそのままに、その場がすっと物語に引き込まれていきます。
作家、島津の家に突然上がりこんできた平田という男。島津と小学校時代からの友人だという。同窓生の関係をからめて、作家の世界にぐいぐいと入り込んできます。島津と厚顔な友人のあいだの空気の変化が観ている側にやってくる。それも、空気の広がりが伝わってくるとか、その場に醸し出された空気を感じるという以前に、ダイレクトに作家の感覚が観る側に差し込まれるような感じ。舞台の密度に観る側の感じ方のステップを飛ばしてしまうような、浸透力があるのです。
たちまちに、島津のとまどいや苛立ちが観る側のものになる。幼いころの曖昧な記憶を押しつけられるいらだちが湧いてくる、隠し持っていたウヰスキーを差し出す感覚、平田の虚実のわからない自慢から引き出されていく島津の当惑や見栄のようなもの・・・。観る側が島津の想いにあっけなく乗せられてしまうのです。
そこに島津の妻が現れることで、物語の視座がすっと上がります。作家の妻の心情が観る側に重なることで、まるで複眼を持ったかのごとく島津の心情に形が生まれる。男の手のひらに載せられた感じ、妻との苛立ちの共通点と差異、それらが、男の傍若無人な振る舞いを織り上がっていく。
作家を演じた浅倉洋介の、感覚のコアの部分を観る側に置いてくれるようなしなやかさが実に秀逸。感情の強弱がぶれずに同じトーンのなかで表現されていくので、観る側がノイズなく作家の感覚を受け入れることができる。島津の温度が微細に感じられるので、抑えた表現であっても観る側が前のめりにならずに島津の想いを感じることができるのです。妻を演じた松木美路子は、作家と比べて狭い幅のなかで緻密に存在感を出し入れしていきます。松木の演技には薄皮一枚の内側に感情を透かして見せるような豊かさに加えて、空気を波立たせずすっと場の色を作っていくような力もあって。その場に風景のように溶け込みながら、したたかに島津が家庭と共有する視線と外への意地を染め分けていく。そこに、島津はもちろんのこと平田も含めて、その時代の男の風情がすっと浮かんで物語の深さを醸し出していくのです。
平田を演じた好宮温太郎は芝居に勢いとテンションがありました。その語りの鮮やかさには単に島津を押し切るだけではなく、島津を自分の懐にひきこむような大きさがあって、それが浅倉や松木の演技にさらなる複雑な密度を作っていく。言葉の裏にあるものが、実体を見せることなく確実に存在していて、しかも、ウヰスキーのグラスを重ねる中で、その重なり感に生まれていく絶妙な緩みが感じられて。
終盤、平田の島津への感情が、ざくっと開示される一瞬もとても秀逸。最後の台詞には、まるで針でゴム羊羹をつついたようなインパクトがあって。それまで積み重ねてきた平田の想いに一気に光があたり。観る側の抱えていた島津目線の感覚までをも巻き込んで、一物語の豊かさへと昇華したことでした。
[流刑地にて (原作 フランツ・カフカ)]
舞台が整えられ、囚人が柱に繋がれて物語が始まります。
その土地の将校が、たまたまその国に寄港した高貴な旅人と従者を裁判と形の執行の場に招き入れる。そして刑を執行するための機械についての説明を始めます。
機械がいかに優れていくかの説明が、囚人の前で執拗に続けられる。将校の説明は、やがてその機械が今どのように維持され扱われているかの説明に至り、さらにはその機械を取り巻く時代の流れまでが浮かび上がってきます。
少しずつ霧が晴れていくように機械の実像が明らかになっていくその過程に、密度が醸成され、観る側を次第に圧していきます。白布に映しだされた機械の姿が将校の言葉とともに立体感を持ち、その機械に仕組まれた正義が時代を守る価値観へとつながり時代を俯瞰するまでに昇華していく。しかしながら、もっとも合理的な極刑のための機械を喧伝する将校の語り口が熱を帯びるほどに、モラルを具象するようなその機械が置かれている現実が明らかになり、機械への反対者達の影が実像となり、さらには将校自身と時代の乖離が明らかになっていくのです。
そのドミノの制御された倒れ方が観る者をしなやかに引きつける。浅倉洋介のしっかりと抑制の効いた芝居から滲みだしてくる将校の意図や想いが、その場の密度に抗うようにゆっくりと揺らぎます。将軍が囚人の手錠を外す動作のシンプルさと表情に込められた将軍の達観を、時代の変遷の具象として成立させしめた、浅倉の芝居を貫く演技力に息を呑む。
五十嵐勇の演技が、物語のフレームや観る側の感覚を一層確かなものにしていきます。キャラクターの年齢ゆえの戸惑いとその血の高貴がまっすぐに伝わってきて、機械や将校の想いが彼の感覚として観る側に醸成されていく。力みのない実直なお芝居が功を奏して、観る側の物語に対する視座が意図された座標で形成されておりました。
松木美路子も場の外枠をしっかり固めていました。地味な役回りではあるのですが、彼女の存在が高貴な旅人をその場に置く支えになっていて。台詞はもとよりその立ち姿が、その場のトーンというか旅人と将軍しっかり維持していました。好宮温太郎の囚人も、松木同様にその場のふたりの関係性を浮かび上がらせる存在をがっつり貫いておりました。悦びも絶望も呑み込んでしまったようなある種の無表情を貫き通して、定まらぬ時代の行方を眺めている風情を作り出していきます。将軍がコンサバティブな思想を、旅人が中庸でリベラルな思想を具象化しているとするならば、囚人のそれは、時代の変革を息をひそめて見つめる一般の人々の具象化にも思えて。その曖昧さを貫いたお芝居力が最後の退出時のおどけ方に生きておりました。
観終わって、価値観の遷移の質感がそこにはあって・・・。それも100%否定しえないような、機械に込められたある種の美学を伴って残るのです。
そんな風に、物語の奥にまで観客を導くこの芝居のしたたかさに、改めて瞠目したことでした。
・4月28日 ソワレ 「桜」
[寡婦 (原作 ギ・ド・モーパッサン)]
女性が自らの昔を語るというスタイルで物語が綴られていきます。良家の令嬢らしく、美しい振袖を身にまとい、テーブルには赤ワインのデカンタとグラスが置かれ、運んできた女中が目立たぬ位置に控えます。
やがて、乞われて話す体で物語が始まる。今は途絶えたというとある由緒正しき家の3代の男たちの物語が綴られ始めると、そこに少年が現れ彼女を見つめます。やがて、それが彼女の幻想だということがわかるころには、観る側も彼女の語り口にしっかりと閉じ込められている。
事実を淡々と語る彼女の声と少年の姿が交錯し、やがて地語りの部分が少年との会話に移るころには、二人の心情の行き違いが明らかになっていきます。あどけない愛情を弄ぶことの軽さ、その顛末と後悔。まるで絵にかいたような悲恋の構図が浮かび上がる。でも、観る側がその悲恋にのめり込めるかというと、それを妨げるなにかがそこにはあって。うまく言えないのですが、彼女の後悔と彼女がその物語を語ることの間に微妙な違和感が差し込まれているのです。
そうはいうものの、、物語が終わるころには、彼女が償いとしてきた時間が感じられて、女中が「お時間ですわ」と声をかけた時には、少年の死から物語を語り終えた「今」の時間までのの長さがしっかりと伝わっていくる。
松木美路子の語り口には、空気をゆっくりと巻き戻す力がありました。そのテンポや間から、語る彼女と物語の中の彼女の表裏が生まれて、観る側を、彼女の時間の尺が見える位置まで連れて行ってくれる。醸し出される情感が淡々としているのにどこか生々しいのもよい。そこに折り込まれたヒロイズムの出し入れが実にしたたか。
少年を演じた五十嵐勇は、少年の純粋さを担保しながら、やっぱりどこかに生々しさを残したお芝居。瑞々しさではなく生々しさが、一振りされているところが物語を膨らませていきます。
物語は満ちて、語る女性の今と重なる。
そして、二人が退出した後、上野理子の驚愕のお芝居がやってくるのです。飾り物のごとく奥に控えていた忠実な女中のたたずまいをさらりと捨てさり、ちょっと伝法にテーブルに残されたワインをグイっと飲み干して出ていく。切れを持ったそのお芝居は、それまで築き上げられた芝居の色を一瞬にガラッと変えてしまいます。覆われていた悲恋のベールが無造作にはがされ、二人それぞれのの生きざまの稚拙さが白日に晒されたような・・。前述の違和感がしっかりとバネの効いた伏線となって観る側を愕然とさせる。
しばし呆然。そして芝居のだいご味をてんこ盛りで味わったような気分になりました。
[濹東綺譚 (原作 永井荷風)]
瑞々しく、どこかせつなくて、でも、とても満たされる。4作それぞれに力を発揮したこの会場が一番本来の姿で舞台に力を与えた作品でもありました。
戦前の向島、玉ノ井の娼館、その一部屋での初老の大江と娼婦の雪の時間が切り取られていきます。
驟雨に追い立てられるように部屋へと飛び込んでくる冒頭のシーンに始まって、季節を編み込んだいくつかのシーンが重ねられていく。そこにはおぶ代の50銭で繋がる客と娼婦の建前があって、だからこそ、少しはみ出したような男の遠慮と女の本音がとても自然にこぼれだす。そこには枠を踏み越えるような野暮がなく、むしろその枠の中でこその粋があるのです。
生活感をどこか喪失した大江と利発で飾らない雪の気質がそれぞれに刹那の居場所をみつけるような感覚。シーンごとのエピソードに込められた、男女の機微に観る側が心地よく引き込まれていく。
茶漬けを断る男の遠慮と、食べるときに後ろを向いてと頼む女の遠慮。一方で雷に距離がすっと縮まる男女の自然さ。大江の近所からのラジオの音を絡めた互いの想いの伝え方。お互いが抱えるものが少しずつ解かれていく、その会話のヴィヴィッドさとぬくもりが観る側に安らぎと切なさを醸し出す。
大きな鏡、茶箪笥が醸し出す部屋の雰囲気。海苔、白玉氷、蚊やりや蚊帳などの道具立て。窓の外の水面と屋形船。春画を通して垣間見せるの男女の営みへの感覚や割り切り方。それらが、枠の中にしっかり生きて、きりっと男女の想いを彩っていく。
大江を演じた篠塚祥司はキャラクターをしっかりと作り上げて物語を支えました。気質とちょっと違った雰囲気にすっと滲む齢がとてもナチュラルなので、娼館の下世話さとは微妙に場違いな男の繊細さや遠慮があざとくならないのです。一方で枯れ切っているわけではない男の心情も絶妙な色で表現されていて。内に灯った想いと自らが悟る齢の重みそれぞれが、深くやわらかい痛みを伴って観る側に伝わってくる。キャラクターの味という以上のふくらみをそのお芝居からからたっぷり受け取ることができました。
おかみ役上野理子の大江との会話もとても秀逸。どこか手練の客あしらいのなかに、ご贔屓に見せる本音が織り込まれ、街の風情や、おかみの背負っているものが、世間話の体で観る側に入り込んでくる。自然で江戸前にしゃきっとしていて、その土地の市井の生活が匂い立つようで・・・。観る側に物語の風景をしっかりと描いてくれました。
土地の雰囲気を伝えるという点では五十嵐勇の演技もしっかりとその役を果たしていました。一人になって春画をのぞき見る感じや遠慮がちに氷を食べる仕草に、男の若さや幼さがうまく表現されていて・・・。そのお芝居がしっかりできているから、終盤の会話で、雪からこぼれる想いがそのまま観る側に流し込まれてくるのです。
そして、なんといっても雪を演じた津田湘子が出色の出来。会話にリズムがあって、表情に豊かさがある。想いが内に留め置かれる姿やゆっくりと溢れだす質感に、大江が惹かれた部分が観る側にも実感として感じられるのです。仕草に明るさと艶があり、下町の言葉遣いが生みだす切れが心地よい。大江の「変な女」というニュアンスを背負えるまでにお芝居が作り込まれていて。その作り込みはキャラクターの奥底に封じ込めている紅蓮の想いをも垣間見せてくれる。
そのお芝居の行き着く先だから、大江が用意する着物の30円に二人がそれぞれ乗せた想いが、抱えきれないほど豊潤でいとおしく、果てしなく切ない。
芝居が終わったそのあとでも、虚実の境を失ったように雪の存在が心に残っていました。多分それは大江の想いだと悟って、その会場や窓からの景色までがいとおしく感じた。会場を出て狭い階段を降り切るまで、玉ノ井のその場所に閉じ込められた想いから我にかえることができませんでした。
*** *** ***
2日とも、終演後に上演台本がおみやげとして配布されました。で、帰りの電車で読んで、その浸透力に驚く。言葉が生き物のように心に入り込んでくるのです。
言葉のつながりにもつれがまったくない。読む側にある種の間が生まれる美しい語り口。もちろん観て来たばかりのお芝居の台本ですから理解しやすいのは当然なのですが、それだけではない生きた感覚が読む側に溢れてくる。
思い返してみると、4つのお芝居とも、観る側が芝居を見ようと身構える前に物語がこちらにやってきていて。客電が落ちることもなければ、始まりの気配もなく、あたりまえのように観る側に物語が入り込んでしまうのですが、そこに違和感がなく、さらには物語に浸り込んでも観る側が負荷を感じないのは、この台本とそれを空間に広げる役者たちの力の賜物だと悟ったことでした。
ほんと、観客として、二日間とも演出家や役者の方たちに極上のもてなしを受けた気がします。とてもふくよかに家路をたどることができました。
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