青年団リンク 口語で古典「武蔵小金井四谷怪談」デフォルメが作るナチュラルさ
2010年4月20日・24日、二回、青年団リンク口語で古典「武蔵小金井四谷怪談」を観ました。場所はこまばアゴラ劇場。
20日にはちょっとしたアクシデントもあったのですが、それも含めてとても味わいのある作品たちでありました。
(ここからねたばれがあります。十分にご留意ください。)
作・演出 岩井秀人
・武蔵小金井四谷怪談
入口は、確かに四谷怪談の現代版で、後ろに投射される物語のダイジェストとすり合わされているのですが、でも、たちまちそこに剥がれのようなものが生じて、なにか風変りなテイストの物語へと変化していきます。
場を示すように照らされる後ろのパネルや文字情報として展開する本家の物語の超かいつまみ。
それらが、芝居の「場」の概念を観る側に押し込んだりもするのですが、舞台自体は四谷怪談から確実に乖離していく。
しかも、岩井は「て」などでも拝見した繰り返しの手法で、物語をしたたかにふくらませていくのです。
そこから浮かんでくるのが父娘の心の通い合う部分だったり娘の彼氏へのそれぞれの想いだったりしても、キッチンで料理をしながらの父と娘の会話もなかなかにキャッチー。
菜箸の動き一つで作られるその家庭の空気がぞくっとくるほど秀逸だったりする。繰り返しの部分で最初の不自然な感触が物語の奥行きに変化していくのにもわくわくして・・・。
舞台上の熟成に伴って後方の文字情報が次第に小さくなってくのもおかしくて。
娘の芯の強さや揺らぎ、娘の友人のどこか素直で天然な感じ、企みに取り込まれてしまう彼氏の純粋さや父親の娘への愛情までが、どこか、「とほほ」な茶番劇の皮をかぶりつつ、驚くようなリアリティをもって浮かんでくるのです。その描写力に囚われて、飽きることなく見続けてしまいました。
役者が4人とも大好演、萩野友里が演じる女性から女性の業のようなものがしっかり浮かび上がってくる。猪俣俊明が演じる父親の存在感には奥行きがあって。たくさんのけれんもキャラクターの中にすっと納めて娘との関係をとても自然なトーンで浮かび上がらせていく。古田隆太はキャラクターの性格を絶妙な力加減で表現していました。物語に内包されている無理を、別の角度から舞台に乗せきるようなしなやかな芯の強さがあって。
端田新菜は物語の繋ぎと色をがっつり背負って見せました。この人から発せられる強い個性は、観る側を巻き込みながら魔法のように物語を繋いでいく。そのなかでキャラクターの色を舞台全体にまで染めながら、一方で同じ空間にある他のキャラクターをぞくっとくるほどに押し出していくのです。なにか、もっと観ていたいようなお芝居が、作品全体の魅力にもつながっていて。
古典のプロットを大胆に端折るなかで、古典を蹴飛ばしてもびくともしないほどのキャラクターの存在感がそれぞれにがっつりと滲みだしておりました。
・落語 男の旅 大阪編
この作品、確かに落語でした。素に近い照明のなかで岩井を標榜する役者が語る冒頭などは正真正銘立派な枕。
そこから噺が導かれて地語りのように物語を立ち上げ観る側を引き込んでいきます。私が観た回では途中で役者が物語を見失うハプニングもありましたが(仕込みかも?)落語であってもそういうことは稀にあって、そのあたりでの演者の立ち往生は場を和らげる効果になったりする。同様の空気がかもし出されたのもこの舞台が落語のフォーマットをしっかり踏襲していたからかと。
やがて、噺が本編に入って飛田新地のちょんの間を経験する男3人とそこの女性、さらにはやり手婆までを男ふたり女ひとりが鮮やかに演じ上げていくのですが、四谷怪談同様役者の出来が本当によくて。20日には役者の方から、一瞬物語が消えてしまうというようなハプニングもありましたが、それがまた味になったりするようなところも、落語的な懐の深さに思えて。
佳境に入ってくると演劇的なデフォルメがぐぐっと突き出され、良質な落語を彷彿とさせるようなグルーブ感がやってくる。豊かな変化、密度のメリハリが観客を一気にもっていく。
よしんば、配役がめまぐるしく移っても、演劇的な上下がしっかりと切られているから観るものが惑わない。それどころかぐいぐいと乗せられていくのです。二人の役者がユニゾンで2つのキャラクターを両方演じるくだりなどでは、笑いに導かれながら同時に滑稽さを凌駕するその場の雰囲気にがっつりと取り込まれる。
それぞれのひとときが過ぎて外に出た風情にも、細やかな表現力があって・・・。さらには、落ちを極めて落語的にすっと収束させるその風合いも実に良くて。
山内健司の語り口には、観る側をすっと取り込んでいく質感があって。観る側の視座を客席から舞台空間にすっと導き入れる。それはまさに噺家が物語の世界を観る側に作る感覚。彼のお芝居がさりげなく観る側に風景を立てこんでいく。そして、その風景の中で彼を含めた3人の役者がきちんと映えるのです。猪俣俊明からは、男の胸算用や下世話な感覚、さらには照れのようなものまでががっつり出ていました。一方で女性を演じた瞬間に男性から見た女性の外側が現れる。石橋亜希子は、逆に男性が持つ混沌がすっと消し去って、骨太に男性の姿をきっちりと描いていく。
落語というフォーマットだからこそ伝えうるニュアンスを見事に舞台に乗せた作り手とそれらを舞台上で具現化した役者達の力に目を見張りました。
軽い質感が残っているにも関わらずしっかりとした充足感に満たされたことでした。
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懐かしくてとても新鮮な感じに、強い魅力を感じた2作でありました。
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コメント
きのうりいちろの、したたかみたいな標榜するつもりだった?
だけど、乖離したかもー。
投稿: BlogPetのr-rabi(ららびー) | 2010/05/03 14:36