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チェルフィッチュ 「わたしたちは無傷な別人であるのか?」過る感覚の浸潤度

2010年3月7日、ソワレにてチェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?」 を観ました。場所は横浜美術館。

冷たい雨が降りしきる、3月とは思えないような天気でしたが、とても秀逸な舞台を観た高揚に、雨の憂鬱な気分などどこかへすっ飛んでしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ。)

作・演出:岡田利規

建設が予定されている高層マンションへの入居が決まっている夫婦、妻の職場か何かの友人がその家を訪れる・・・・。それぞれに経済的には安定していて、生活にもゆとりがあって・・・・。

でも、ゆとりがありながら見え隠れする不安・・・。実態はあっても実感がないなにかが彼らの生活感の周囲にアラベスクのような影を落とす感じ。

たとえばふっと「べき論」で浮かび上がり語られるもの。あるいは電車のドア上に表示されるニュースからやってくるもの。画面の向こう側にある飾り物のように概念化された現実とすっと通り過ぎていく実態のないダークな気配がほんの一瞬共振する感覚。

過る感触の鮮明さが、直感的ともいえる切っ先で舞台上の空気に醸成されます。滲み出す「ベキ論」が妻を捕らえる強さや消失していくさま。選んだワインとチーズを持って電車に乗る友人が過ごす時間の色とその中に織り込まれるニュースなどの情報の感触や重さ。

観る側に語りかける言葉が背景や小道具のように場をつくり、会話がダンサーの四肢の動きのようにその時間を紡いでいく。舞台上の表現は密度をもった空気に染められて、やや下手側に掛けられた小さな時計が刻む時間にクリップされて観る側にやってくる。その広がりに観る側はひたすら取り込まれていくのです。

黄昏の公園で男が食べるコンビニのパンとチーズとともに供されるバケットの対比。あるいは、翌朝夫婦がおいしいパンを買いに行き、さらに投票に行くというエピソード。夫婦あるいは友人の視座から垣間見えるものが、水と油の境界線のような混じり合わない揺らぎを伴ってそこにある。明らかに存在を感じさせるものへの、満たされたものたちのあいまいで不確かな感覚に息を呑む。そこで表現される刹那の感覚や一過性のような時間が観る側にしっかり残る。

観る側に残されたものの質感はちょっと言葉で代替するのが難しい。そこにあるものは、明らかにぞくっとくるような洗練に支えられているのですが、でも、一方で、それは愚直で原始的な泥つきの現実にも思える。夫婦や友人もあからさまには認識していないであろう感覚の塊が、素の光を当てられてそのままに置かれているよう。そして、その感覚の先に「今」という時間の俯瞰図がゆっくりと浮かび上がってくるのです。

出演:山縣太一 松村翔子 安藤真理 青柳いづみ 武田力 矢沢誠 佐々木幸子

終演後、しばらく呆然・・・。なんだか、すごいボリュームと研ぎ澄まされた感覚に満たされていて・・・。

当日会場で販売されていた劇団の次回公演チケット、むさぼるような気持ちで購入したことでした

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