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柿喰う客「The Heavy User」はとても残る

2010年2月28日、柿喰う客「Heavy User]を観ました。会場はシアターグリーン特設会場「仙行寺」本堂。

お寺だということは聞いていたのですが、本当に本堂の中でお芝居をするとは思わずちょっとびっくり。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ)

お堂の前で靴を脱いで板張りの階段を上がったところに受付があって。で、場内に入ると、ふわっとお香の匂いに包まれます。座布団が敷き詰められていて、その奥には折りたたみ式の椅子やベンチシート状の長椅子が並べられて・・・。舞台になると思われる部分には金色の吊り下げものがあって・・・。このまま、主宰が袈裟を着て現れ、ありがたいお話をしてくださってもおかしくないような雰囲気。

前説が終わるのとかぶるように、下手側に役者たちが喪服で現れて、ごあいさつとともにお芝居が始まります。

作・演出 中屋敷法仁

導入部はなにか心地よいのです。

挨拶から、動いて輪になるのはこの劇団のパターン。挨拶から会話、リズムにバリエーションが生まれ次第に複雑になり、どんどん膨れていくうちに、観る側を凌駕するポイントがやってくる・・・。

寿司チェーン店のお客様ダイヤルへの対応をしていた女性が死んだという。無言電話の向こうから聞こえてくるノイズを聞いているうちに、耳を交互についたというのです。。その母親は、自殺で納得したと取り合わない。調べた2人の刑事もやがて命を失って・・・。

役者たちが醸す、電話からのノイズの音が何とも言えない・・・。それを聞くなかで物語同様に観る側に混濁が芽生え、観ている側がなにかを超える感覚につながっていく。うまく言えないのですが、抱えたものが腕の間から流出していくような感覚にも近い。

ひとつずつ、順を処理されていくそのルーティンがオーバーフローして音もなく主客が逆転する。あいさつやシンプルな言葉から派生する心地よいリズム感やおもしろさや高揚に日本語や英語、さらには抑揚やニュアンス、知識などの様々な情報が入り込んで、自らが手綱を引いていたはずのものがすっと臨界点を超えて自らを縛りひきづりるものに変質していく感じ。その質感に有無を言わせないリアリティがあって。

なにかに鈍感になっていく感じや、まわりが同じように嵌っていくような部分が、体験的な記憶と重なってぞくっとくる。何度もかかってくる無言電話に対応してしまうこと、切ればよいのにと言われても聴いてしまう感覚。しかも、それが、お香の匂いがこもったお寺の本堂で演じられるから、観る側には益々の逃げ場のなさが降りてくるのです。自殺女を演じた右手愛美がすっととらわれていく感じはすごくナチュラル。その同僚を演じたコロのお芝居の太さや着実さが感覚を流さずその場にとどめる力となっていく。大村亘の世界へそっと引き込む動きや村上誠基の華を持った場の作り方にその世界が忍び寄ってくる様や持つ輝きが込められ、永島敬三野元準也の動きががその世界の密度を高める。混沌の中に響く七味まゆ味のとてもシンプルでよく通る英語にはニュアンスを深い部分にまで切り広げる剃刀ががっつりと隠され、母親役として着物姿の川田希が作る距離感には群衆に紛れない存在感があって、その世界に沈められたアンカーのごとく世界の実存感を印象として観る側に焼き付けていく。

作り手の底力というかお寺の本堂に混沌を炊き上げる作・演の事象の切り取り方と表現力、さらにはそれをしなやかに具現化する役者達の力量にがっつりやられてしまいました。

おわって、いまさらながらに中屋敷法仁の才能というか、五感の鋭さとその表現力に舌を巻く。

ほんと、感覚が捉われ共振させられるようなお芝居って、抜けずに居座るのですよ。ツイッターなどを閲覧していたりすると、ふっと聞こえてくるような気がする。このノイズ、しばらく耳から離れないかもしれません。

この作品、フランスではどう評価されるのでしょうか。すごく興味があります。

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