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粗さがあっても広がりが・・「卒業?」(111)、「Fight Alone 2nd story」(Emukichi-beat)=ちょっと改訂

2010年3月20日は、午前中に用事があって午後からフリーに。で、公演を二つ拝見してきました。

午後は、谷中での111野外公演「卒業?」、夜はEmukichi-beatの「Fight Alone 2nd Story(緑)」

どちらも、楽しみどころをたくさん持った公演でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

・「卒業?」111

111:オオナカエイジ・大塚秀記・関根正幸

with 田中スウ・松場昭典・浅野千鶴・肝付鉄音

2回公演だったようですが、私は後の16時公演を拝見。場所は日暮里駅からぶらぶら歩いて10分ほどの「はらっぱ音地。」はらっぱというより住宅と商店が混在しているような下町の空き地。お彼岸ということもあって、会場の前を通る人も結構多い。

ビニールシートが張られて、そこに浴室椅子が並べられた客席。道からももろに見える場所。入場はカンパ制・・・。谷中アジマルカフェからの出店があって、飲み物が買えたり・・・。で、飲み物にワインを買って風への重しがわりも兼ねてビニールシートに腰をおろします。

空き地の奥で始まったのは、卒業式をフォーマットにしたパフォーマンス。これがびっくりするほどのクオリティ・・・。

肝付鉄音のしっかりと抑制のきいた式進行が時間に枠をつくり、卒業生役のオオナカエイジが体躯を心情のモニターにして入場すると、そこに囲いのない劇場がすっと現れる。

ポップな国家斉唱、大塚秀記の式辞は詩の朗読。これが、卒業生のパフォーマンスに絶妙に絡み合って、彼の学生生活の切れ端が魔法のように浮かんでくる。卒業証書として大塚や田中スウから丸められ投げつけられる紙。来賓挨拶で市議会議員を演じた味わい堂々の浅野千鶴の朗読では凛としたその声が、風に散ることなく、その場の色として残る。

祝電紹介のウィット、松場昭典の自由と礼節の抑制のバランスを思わせる観客参加のパフォーマンス。ときどき吹き抜ける風が、演者たちにより具象化される感覚にさらなる実存感を与えて・・・。オオカナエイジがそれぞれのパフォーマーが発する世界、さらにはその場の空気をも一人の卒業生の学生時代や卒業の感覚に昇華させていく。関根正幸のSEがその場の密度をしなやかにコントロールして・・・。

気がつけば、はらっぱの外側にも人がたくさん集まっていました。ブルーシートの客席には出演者の友人や秋に大塚氏が出演されたチョンモップの役者さんなどもいらっしゃったのですが、それ以外のギャラリーの方も道で立ち止まってその世界に取り込まれていて。そのパフォーマンスの力が道にまで溢れだしていたのがすごくわかる

ワインもとても美味しく、とても満たされた時間を過ごすことができました。

・「Fight Alone 2nd story」Emukichi-beat

4人の役者のスタイルを問わない15分のソロパフォーマンス。場所はル・デコ4F。4チームあるとのことだったのですが、その中の「緑」チームをなんとか拝見することができました。

・三鷹の女

作 友寄総市浪 演出・出演 福原冠

靴とか、ハシとかカップとかが舞台スペースの隅に置かれ、お芝居が始まります。

嘘を宣言しておきながら、虚実を曖昧にした雰囲気で、またま出会った一人の女性との出来事やへの感情が語られていきます。現実とのボーダー上にあるような妄想が次第に実存感を帯びて現実を食らい始める。嘘という前提に押し込めながら、その枠から溢れる感覚が、観る側への吸引力に変わっていきます。

心情の広がり、どこかシニカルな感覚、嫌悪の沸騰感や揮発感、気持ちの行き場のなさなど、キャラクターの内に生まれてくるものに、戯曲と演技の密度がしたたかにかみ合っていて、なにげに観る側が身をゆだねてしまう。

ただ、強いて言えば、醸成されていく妄想の中で彼自身の立ち位置(部屋)が比較的早い時間から次第に薄れてしまったのが惜しい感じもして。妄想の発信場所が現実の生活からすっと湧き出ていることをもう少し辛抱強く観る側に認識させ続けてもらえたほう方が、妄想の凌駕感のようなものがもっとくっきりと感じられるのではと思いました。

・硝子の瞳

作・演出・出演 太田守信

自らが作り上げたドールへの想いや愛情が、何かに目隠しをされたような感触を伴ってやってきます。ドールとの会話のなかで、妄想に生まれた愛情が静かに密度を増していく。その椅子にしっかりとした存在を感じていることが、役者の演技から伝わってきます、キャラクターから染みだす座標軸からのずれを感じるような純粋さには、観る側の息を止めるほどの濃密さがあって・・。劇場全体が彼の世界観に浸されていく。

ただ、そこまで作りこまれているのだから、彼の内での人形との交感の質感は、ただ凝縮するだけではなくもっと広がりがあってもよいかなとも思ったり。一方的に想いを語る時の間が少し不安定で、観る側にキャラクター視点での人形の想いが広がる前に、キャラクターの心情がさらに重ねられてしまうことがあったりもして。そうなると観る側にとっては彼の想いが広がらず彼の言葉にのみタイトに縛られてしまうように思えたり。

作品としての質量や時間の密度は十分に伝わってきているので、彼の内心での人形との対話を、うまい例ではないのですが、たとえば落語で上下を切るような間で見たいようにも思いました。

・Catastrophe 

作・演出・出演 漣 啓介

とある場所を占拠した二人のテロリスト。ちょっとコメディ仕立てで物語を広げていきます

漣の演技には一瞬にその場をつくり維持する力があって、その枠の中で、着々とポイントを稼いでいく感じ。今回の作品の中でいちばんわかりやすく、ストレートな印象を受けましたが、その一方でストレートを単調にしない物語のメリハリががっつりと作られているのです。

物語が澱まずにどんどん進んでいくのが良い。しかも、単調にならないように、随所に物語の節目が作られていて、それが観ている側をここちよくも引っ張ってくれる。また、キャラクターがどこかシニカルで人間臭いので、単純に印象が流れない・・・。終盤には観客を「おっ!」と思わせるもう一歩の踏み込みも物語にあって。

流れを15分という尺にしっかり納めて、過不足ないボリューム感とともに観客を取り込む力。その完成度にかなり惹かれました。

・リミットのための習作~まちえーるのままに

作・演出・出演 緑茶麻悠

冒頭に空気を作っておいて、そこから感覚をヴィヴィドに展開していきます。なんだろ、空気の締まり具合がすごくよい。突飛な比喩ですが、おにぎりでいえば硬すぎず崩れない程度に握られた食感というか・・・。

その中での動きがしなやかでわかりやすく、すっと持っていかれる。眠りと覚醒の端境での妄想が、ふわふわしたり弾むように広がる感じ。眠り側にある心の軽快さが軽くしなやかな動きで膨らむ。。一方で睡眠に取り込まれて寝崩れる現実の動きの確かさにぞくっときたり。身体表現が夢と現のそれぞれできちんと武器に昇華していく。

見る側に想起されるイメージの元ネタが、ベタではなく、しかもわかりやすく提示されて、軽やかに想像の世界に広がっていく。その質感がとても心地よいのです。

単なるダンスとか芝居とかではない、ちょっとジャンルの枠からはみ出した表現に魅入られる。どこかコミカルに、でも細かい粒子で実感として伝わってくる演じ手の想像力の広がりの連鎖に、観ていて、素直にわくわくしてしまったことでした。

*** *** ***

なにか昼も夜もたっぷりと楽しんだ。

ちょっと素敵な春の土曜日でした。

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