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空想組曲「遠ざかるネバーランド」、ファンタジーを染めるもの

2010年2月10日、空想組曲「遠ざかるネバーランド」を観てきました。場所は中野ポケット。

ほさかよう氏の作品はこれまでにも何本か観ていて、そのたびに心を惹かれていて。セット券で拝見したろばの葉文庫での「ぼくらの声のとどかない場所」の再演もとても秀逸で、今回公演を楽しみにしておりました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出 :ほさかよう

冒頭のフェアリーテールのサマリー、さくさくとファンタジーの大枠が示されて・・・・。とても歯切れのよい物語の語り口にまず引き込まれます。

そして、冒険が始まる。童話的な高揚感とお気楽感がきっちりと作られていく。

でもそこに童話の世界とかかわりのない少年が現れて。少しずつ、物語に外なる世界と交錯していく感覚が注ぎ込まれていきます。

それぞれのキャラクターが少しずつ、丹念に現実の色を塗りこまれていく。フック船長もティンカーベルもインディアンも人魚も子供たちも・・・。

空を飛びたいという高揚感と空なんて飛びたくないという抑制感。童話の世界に表される登場人物達の葛藤がそのまま主人公の内心に置き換えられるなかで、現実が少しずつ観る側にその色を現わしていきます。

ファンタジーの枠組みが残る中での葛藤だからこそ混沌からはなれて浮かび上がってくる心情があって。その葛藤からファンタジーの塗料が剥げ落ちていく中で心塞がれるような主人公の現実と心情が観る側に次々と積っていく。

しかも、ファンタジーの内側でのできごとと現実を縫いつける糸にはステレオタイプではない、体温のような触感が内包されているのです。たとえば主人公が構築するファンタジーの世界自体が、実は、昔の、ちょっとすてきにいい加減な母親との暖かい時間に裏打ちされていたり。ファンタジーの内側のエピーソードには主人公の現実での嘘が編み込まれていたり。

終盤には形になっていくその温度をあらかじめエピソードに溶かし込んでいるから、空を飛ぼうといざなうピータパンと空が飛びたくないという登場人物たちの綱引きに絵空事ではない切迫感を感じ、その行く末を祈るような気持ちで追いかけてしまうのです。

ファンタジーの世界を構築する役者たちには舞台の世界観に入り込むことを観る側に躊躇させないだけの豊かな切れと表現力があって、波の満ち引きのように繰り返される葛藤をぶれなくしっかりと表現していく。

主人公役の清水那保はこの物語の屋台骨をしっかりと支え切って見せました。お芝居に安定感と繊細さが絶妙に同居していて、観る側が彼女に身をゆだねることができるのです。キャラクターの思いがすっと浸潤してくるのですが、ただキャラクターを鮮やかに演じるというだけではなく、お芝居の中にキャラクターを埋め込む手連もあって。前回のProofなどを観たときにも感じたのですが、彼女のお芝居には観る側に伝えるだけでなくそのお芝居を信頼させる底力がある。今回も大好演でした。

中村崇はかっちりとキャラクターを固めてピーターパンを演じ切りました。子供たちだれもに愛されるというその風貌がしっかりと舞台を照らしていく。後半、ヒール的な存在に回った時でも、その表現には高い輝度があって物語を膨らませる力になりました。

子供たち3人は演技に出色の切れがありました。石黒圭一郎にしても二瓶拓也にしても、おとぎ話側に重心を残しながら心の移ろいを表現できる。もちろんそれぞれのキャラクターの本来を明快に見せる力もあって。奥田ワレタのお芝居にも強く惹かれました。クロムモリブデンの公演でも十分感じていたことですが、その凜と通ったお芝居には観る側をすっと彼女のペースに引き込む不思議な力があってしかもキュート、観ている側がころっと引き入れられる。その一方で与えられたキャラクターの範囲を守りながらしっかりとその陰影を観る側に伝えるしたたかさもあって。

ジェームス・フックを演じた中田顕史郎は、登場した瞬間にあて書きと観る側を錯覚させうるほどフック船長なのですが、その中には主人公が投影したキャラクターの色をしなやかに隠しこむようなお芝居が内包されていて。同じトーンのお芝居でありながら、舞台の流れのなかでその色を幾つにも感じさせるうまさはさすがだと思うのです。海賊の手下を演じた鶴町憲、尾崎宇内、橋本我矛威は、それぞれに場を広げる個性を感じて。童話のなかのウィットをしっかり守るお芝居で童話の枠に厚みを作り出していたと思います。

ビスカを演じた横田有加には人魚としての美しさを観客に認識させるだけの魅力があって、一方で主人公の外側の思いをうまくからめ取って・・・。しかもお芝居にまさかのウィットを込める器用さもある。シリアスな部分を醸しながら、足を使う・溺れるなどすっとはみ出す感じがすごくよい。インディアン酋長の娘を演じた小玉久仁子は、その「飛び道具」ぶりをいかんなく発揮。一瞬で舞台の雰囲気を変えてしまう力はさすがの一言。でも、単に舞台で目を引いたりといった揮発性の部分もさることながら、作り上げた空気の中で、素のお芝居も含めて、物語に編みこむべき内容をしたたかに観客に注ぎ込んでいく「総合力」にこそ、この人の魅力があることを再確認。

少年を演じた齋藤陽介は、舞台上での存在感をうまくコントロールして見せました。物語の世界に垂れた現実のアンカー的な役回りが、彼の存在感だとなじむのです。実直なお芝居だとおもうのですよ。でもそれが舞台に沈まないのです。

ティンカーベルを演じた武藤晃子はけれんをしっかりこなしたうえで、彼女の持ち味である包容力のあるお芝居を見せました。どこかいい加減なキャラクターの性格にふっと心が緩んだ刹那に、包み込むような温かさを観る側に残していく。こじつけながらピーターパンを娘の物語であり自分の物語であるといい含めるシーンに醸し出される時間のぬくもりが、この物語のたどり着く先を観る側の腑に落とせしめる力になっているようにも感じて。

終盤、舞台に描かれたネバーランドの風景が崩れて行くシーンに息をのむ。その残骸の厚みやそこからやってくるもの、さらにはラストシーンの密度が、あざとさを持たずにそのまま観る側を浸潤していきます。場面を構築する舞台美術も実に秀逸。

気がつけばシュールレアリズムのような残骸とともに描かれる最後のシーンをまっすぐに見つめていました。終わって、ふっと息をついて・・・。冒頭の物語の口当たりからは思いもよらない世界があたりまえのように心の内側を占めていることに愕然として。

きっとファンタジーの世界を同じように彷徨しなければ感じることができなかったであろう、主人公が眺める世界やその心情に深く瞠目したことでした。

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コメント

こんにちは。突然の投稿失礼します。演劇公演のことですが、私も情報を

一つご提供いたします。
米国神韻芸術団が2010年3月に4度目来日公演、詳細はホームページまで。
http://www.ticket-online.jp/home/

芸能界の有名人から2009年日本公演への評価:
http://www.epochtimes.jp/jp/spcl_shenyun_1.html

作詞家・東海林良氏(日本音楽著作権協会会員)、世界的チェロ奏者で作

曲家でもある平井丈一朗氏、演技派俳優・村田雄浩氏、日本映画ビジュア

ルエフェクト(VFX)クリエーターの第一人者・柳川瀬雅英氏、人間国宝の

善竹十郎氏、芸能人のデヴィ夫人からのコメントがあります。

投稿: TAKUMI | 2010/02/12 15:48

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