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青☆組 「午后は、すっかり雪」やさしく、前に歩みだす時間

2009年12月5日ソワレにて青☆組「午后は、すっかり雪」を観ました。場所は小竹向原の「アトリエ春風舎」。

(ここからねたばれがあります。十分にご留意ください。)

作・演出:吉田小夏

冒頭の空気、舞台が明るくなって、舞台隅に見える雪を模した美術と毛布に包まる人が季節を伝えて・・・。

そして、二人の時間、ちょっと古風に見える大人の世界。それは時間の断片。

物語が重なっていきます。多分昭和30年代の終りに生きる人々、そして昭和が平成に変わる頃にその時代を俯瞰する。それを眺める今。昭和30年代の日々のスライスが、その昭和60年代の色に時間をやさしく磨かれて。舞台上の空気につつまれて、折り目正しく丁寧に観る側の今に手渡されていきます。

昭和30年代、このころってまだ一般に家族の愛情や男女の愛情にある種の箍がしっかりとはまっていた時代だと思うのです。父親が帰宅するときの一家の雰囲気など今からみると滑稽だけれど、そこには家族の縛めというものが厳然と残っている。次第に時代がほどけていきながらも、中産階級の家ではまだ父親と母親、あるいは夫と妻がそれぞれのロールをステレオタイプに担っていた時代。今とは隔絶したような感覚もあるのですが、そこに事象だけではなく空気が演じられているから、観ている側に違和感がない。姉妹たちのそれぞれの結婚観や愛情の色に加えて、日々の暮らしの肌合いまでがキャラクターの体温とともに伝わってくるのです。

父親がその場から居なくなったときの母親と姉妹たちのほどけたようなかしましさ。お見合いに失敗した末娘に父親が用意したバター飴からつたわってくる愛情の愚直さ。さりげない道具立てがその場を瑞々しく際立たせて。役者たちの解像度の高い演技が重なり合ってその家の日々が香り立つ。

向田邦子がまとう、家の枠をさらりと踏み越えた愛の空気にも息を呑みます。琥珀のような色に染められたまとわりつくように濃密な時間。冒頭の足をなぜる仕草にはじまって、相手を強く想う気持ちと相手を愛おしむが故の距離感が、男と女の普遍的な重さから溢れるようにそこにあって。食べ物や日々の暮らしをからめ合う中で、スープや昔ながらの駄菓子に編み込まれた心の交わりが美しく光る。日々の買い物の値段が下世話に流れる毎日を映し、その繰り返しが男が病に蝕まれいく時間軸にかわっていくなかで、一つの毛布の内側のぬくもりが皮膚だけではなく包み込むように心を温めていく刹那の慰安。そこに宿る感覚の実存感が、時代の感覚を舞台から消して観る側を深くやわらかく浸潤していくのです。

そんな時代の残滓が残る昭和60年代の向田家もしなやかに描かれていました。家の匂いを残したなかに、その時代のあるがままの空気がそこにはあって。昭和の終りという見知った時代の座標が観る側にも浮かんでくる。とまどいながらも猫の死をきっかけに30年代を一つの時代として受け入れる妹の変化に、昭和という時代の滅失への諦観と柔らかな受容を感じて。気がつけば、観る側が時代を生きることを俯瞰する場所に置かれている。

でも、そこにあるのは、ただ過ぎ去った時代への愛惜だけに閉じこもるのではなく、いたずらに過ぎた時間を捨て去るのでもなく・・・、そこから昔を袋に詰めてさらに歩き出すような感覚。過去の人々や時代の記憶を今として力まずに自然体に歩き始める三女の姿に柔らかい高揚を感じながら終幕を迎えたことでした。

役者のこと、福寿奈央の向田邦子がとても魅力的。才能に恵まれていることが伝わってくるだけでなく、想いの自由さと時代へのわがままさ、さらには生きることへの強がりや闊達さ、さらにはちょっとした疲れのような感覚までが色を鮮やかにやってくる。普段着の艶のようなものが人を引き付けるのです。次女役と娘の二役を演じた高橋智子はキャラクターの心の出し入れへの逡巡の有無をしなやかに演じ分けました。留まる想いの重さやすっといでる想いの素直さがが包み込むようにつたわってくるのです。三女を演じた天明瑠璃子には時代を表現する豊かな度量のようなものがありました。時間の重なりを見せながら、一方でキャラクターの変わらない部分で物語をつなぎ合わせる力もあって。母親などを演じた羽場睦子は年齢を作り上げる演技ではなく生活を醸し出すお芝居をしていたように思います。年齢とは裏腹のやや早めのテンポでの台詞がとても効果的。生活のリズムに近いその速さは、その場を概念の世界に沈めず息づかいがきちんと見える時間にひきあげてくれていました。

父親等を演じた藤川修二から不器用ににじみ出す愛情の強さもすごくよくて。表面のお芝居からこぼれ出てくる頑固さの、その分厚さには自己中心的な脂もたっぷりなのですが、それだけではない血への愛情がきちんと織り込まれている。邦子の愛人役を演じた足立誠は向田邦子をそこにとどまらせるだけの奥行きを見事に作り出していました。深さと重さは違うというか、むしろ二つのバランスがすごくよい。だから、互いの思いやりが哀愁を帯びすぎたり粘ついたりすることなく、清廉に観る側に伝わってくるのです。次女の夫などを演じた荒井志郎も、昭和30年代の高度成長期のホワイトカラーのリアリティと昭和60年代の編集者のたたずまいを鮮やかに演じ分けていました。向田家の外側に流れる時間というか、社会の匂いが演技に封じ込まれていて。舞台の幅をしっかりと広げていたと思います。

終演後、。アロマのように染み込んできた作り手からの感覚が、ずっと消えませんでした。

いろんな時間とそこであったこと、それが積み重なって生き様。昭和と同じように平成に流れる時間があって、その時間のひとひらにこんな感覚を抱いて副都心線にのっていること・・。その感覚が、作者が物語の時間を思うであろう程に、なにかいとおしく思えて。

見慣れた駅からの帰り道にも、なにか流れる時間の肌触りを感じていたことでした。

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