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柿喰う客「すこやか息子」、具体性がなくてもリアル

2009年12月25日、初日ソワレにて、三重県文化振興事業財団主催の「すこやか息子」を観ました。場所は王子小劇場。

この作品、柿喰う客のメンバーが三重県で全国の役者とともに作り上げたとのことです。

初日の時点で、すでに前売りチケットは完売、がっつり満員の中で、舞台が始まります。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

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「立川亮とタンゴアカシアーノ×渡辺塾国民学校×部活動の「鱈。」」溢れかえる上質なエンターティメント。

2009年12月20日、「立川亮とタンゴアカシアーノ×渡辺塾国民学校×部活動の「鱈。」へ行ってきました。場所は渋谷、7thFloor。

実は先週末は、知り合いの近しい人に不幸があったり、突然自分の携帯が壊れたりで個人的にちょいとへこんでいたのですが、そんなことをまるごと吹き飛ばしてくれるようなパフォーマンス、たっぷりと楽しんでまいりました。

(ここからネタばれがあります。ご留意をお願いいたします。)

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ブラジル「Future」、2つの空気感の重なり

2009年12月19日マチネにて、ブラジル「Future」を観ました。場所は下北沢駅間劇場。ブラジル自体はずいぶんと昔に公演を観たはずなのですが、実は記憶がほとんどありません。ただ、主宰のブラジリィー・アン・山田氏の作もしくは演出作品は何度も観ています。

(この先にはネタばれがあります。十分にご留意くださいませ)

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Dull-Colored Pop 「Proof/証明(reprise)」さらに乗り越える力

2009年12月12日、マチネにてDull-Colored Pop 「Proof/証明(reprise)」を観てきました。場所は渋谷、space EDGE。

前回、10月公演時の初日を観ていて、打ちのめされた作品。

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青☆組 「午后は、すっかり雪」やさしく、前に歩みだす時間

2009年12月5日ソワレにて青☆組「午后は、すっかり雪」を観ました。場所は小竹向原の「アトリエ春風舎」。

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孤天 第二回 「ボクダンス」観る者を浅ましいほど貪欲にする。

2009年12月4日、コマツ企画員 川島潤哉 個人企画 「孤天」第二回、「ボクダンス」を観ました。「孤天」は第一回もの「たとえば皮膚」も観ていて、その舞台の密度や作品の切れに愕然とさせられています。

場所は千歳船橋のAPOCシアター。この劇場初めてです。劇場の天井がとても高いのと下にバーカウンターというか喫茶店があるのがすごく魅力的。演劇をとても快適に観ることができるだけでなく、その余韻を楽しむ環境が整えられている。千歳船橋は都心から若干距離があるのと急行が止まらない不便はあるものの、駅からそんなに離れていないのもよくて。

その中で、たっぷりと川島ワールドを堪能することができました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)

冒頭のダンス(をしている人)のシーンから取り込まれてしまいました

流れがひたひたとやってくる。大爆笑したり腹を捩ったりとあからさまに声に出るような笑いではないのですが、独特のウィットが舞台に満ちてきて、観ている側がなすすべもなくどんどんその世界にうずめられていきます。

前回同様個々のシーンが独自の完成度を持っていて。シーンたちのルーズな束ね方も絶妙。全体を通しての流れのようなものはあるのですが、観る側はその流れに頼って舞台と対峙しているわけではなく、あくまでもその刹那に現れるものを受け取って結局舞台側の世界に閉じ込められてしまう。

で、その空気の中に、気配すらなく突然見る側の守備範囲を超えるようなセンスが現出するのです。違和感を感じたり身を引いたりすることすらできないような感覚が光臨してすっと観る側をすり抜ける。

大喜利で一番ダメな芸人の運命を見せられるあたりでこちらがわの理性のアンカーが流されて、あとは舞台に翻弄されるばかり。セキセイインコにあれよあれよと蹂躙され、縄文時代になすすべもなく踏み潰されてしまいました。

でも、不思議なことに、蹂躙され踏み潰されることによって観る側の目が開く。そうして初めて見える作り手の世界の広がりがあって。何かを越えてあふれてくるような感覚がやってきて、その驚きにますます目を見開いてしまうのです。

それが、彼が表現の中で本当に見る側に渡そうとした感覚なのかはわかりません。むしろ、彼が伝えようとした感覚は、私が感じたよりも実はもっと先を行っているような気もする。

ただ、すくなくとも、作り手が見る側の視点にあわせるのではなく妥協をせずにその感覚で挑んでくることで、観る側の何かが突き抜けて解き放たれていくのです。もちろん観客にとっては、役者の演技で観客の視線にまで舞台に落とし込んでもらうことで見える物もたくさんあるのでしょうけれど、逆に観客に対して挑むように表現をしてもらわないと見えない世界もあるのだと気付く。よしんば、観客が作り手の感覚にぶっちぎられたとしても観客にはなにかが伝わり広がる。すべてではないけれど、作り手が観客に与えるのではなく、勇気を持って挑んでくれることによって初めて見えるものがあるように思うのです。

たっぷり、大満足。すごい。

副産物のようなお話。たまたま、私が観た回にはお手伝いや観劇に何人ものすご腕の役者の方がこられていたのですが、終演後彼らの姿を見たり少し言葉を交わさせていただいたりしている中で、彼らの演技が観る側に迎合するだけでなく、観る側の感性に対してしっかりと挑んでいたことに気づき、時間の感覚がどこかへすっとんでしまうような感じが、今回の質感とすっと重なり合って。秀逸な役者のよいお芝居というのは、観る側と作る側が同じことを思う場ばかりではなく、時にはその感性を競う場すら創成していることにまで思いあたった事でした。

このシリーズ、さらなる展開があるのだと思います。それがすごくたのしみ。もう、十二分に満たされているのに、また、出来る限り早く、川島が紡ぐ世界に触れて、観る側として舞台からやってくるものと鍔を合わせてみたいと思う。浅ましいほどもっと見たいと思う。

こういう作品は観る側を暴君ネロのごとく貪欲にするのです。

R-Club

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DART'S #001 「IN THE PLAYROOM」さらに突き抜ける

2009年12月3日 Le Deco4にてDART’s #1「IN THE PLAYROOM」を観ました。

ワンドリンク付き。一杯飲んでリラックスしてお芝居を観てくださいという作り手側の配慮が感じられて・・・。平日の20時開演というのも時間にゆとりがあってすごくうれしい。

場内は舞台を囲む3方に座席があって座る場所にかなり迷う。当初は中央に席を取っていたのですが、その後奥側の前方席に移動・・・。

わくわくしながら開演を待ちます。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

プロデューサー:池田智哉

作・演出   :広瀬格

導入の部分がまず秀逸。

連作の推理小説の最新刊を常連読者たちが手に入れていきます。待ちきれないような感覚、読みすすんでいく情景の描写がすごくうまい・・・。舞台に一気に密度が生まれます。

で、読みふける読者たちメッセージがはさみこまれていて。次の作品の物語を一緒に作りませんかという招待状が・・・。

一度でも時間を忘れて物語を追ったことがある人ならば、参加したくなるその気持、本当によくわかる。導入部の扉がしなやかに違和感なく開かれます。集められた読者たち、ゲームのルールが明らかになっていくときのわくわく感に始まって、そのゲームと現実のリンクの緻密さ、さらに物語が現実を食べ始めるような緊張感が観る者をぐいぐいと釘づけにしていきます。ベストセラーの推理小説という前提が鮮やかに具現化されて、当日パンフの言葉に偽りなし、気がつけば観客が「この、ストーリーから、逃げることは、許されない・・・」状態になっている。

観客に配られた地図、緻密で流動的で有無を言わせない物語展開、閉塞したその場所に凝縮される、街全体に広がった恐怖。ルールは必ず守るという部分が底辺をかため限られた外枠の時間と、移動の距離や所要時間のリアリティが物語に捉われた観る側のグルーブ感をしたたかに膨らませていきます。役者たちの手練の演技に、手に汗を握るような時間が現出する。冷徹な物語の展開に息が止まる。やがてゲームの勝者が明らかにされて・・・。

しかも、そこまでだけでも十分に出色の展開なのに、物語が現実を食べつくしても舞台は終わらないのです。突き抜けた先に、物語の外郭が次第に晒され舞台上での「死」の意味が明らかにされていきます。伏線がしなやかに機能し、疾走の中で観客に生まれた物語の澱を見事に一掃する、なにもかもが腑に落ちるところまで妥協なく物語が突っ張り通されていきます。

終わりの世界観がじわっと観る側を包み込んで・・・。ここちよい脱力感すらやってくる。この戯曲、すごい。

役者たちも本当によくて、個々のキャラクターが強く深く観る側に伝わってきます。

編集者を演じた島田雅之が持つ演技の奥行きが舞台全体を支えます。舞台を流していくしなやかさに、終盤は舞台を背負いきる足腰の強さもあって。そのお芝居が物語をばらけさせずにベクトルを定める力になっていく。作家を演じた服部紘二の切れも印象に残りました。シチュエーションを定めていく語り口の鋭さに物語が切れをうしなうことなく進んでいく。どことなく得体の知れないような知性の表現がそのまま劇場の雰囲気を常ならぬものにしていく感じ。この二人に研がれるように他の役者の演技の切っ先がどんどんと鋭くなっていきます。

プロデューサーでもある池田智哉が演じる某IT企業の元社長がまず秀逸。基になるイメージを丁寧に生かして物語に縫い込んでいく。キャラクターが持つプライドと行動力に加えてかすかな脆さの表現、そのバランスが絶妙なのです。OLを演じた中村貴子はOLが持つ普通さというかちょっと下世話な感覚を巧みにデフォルメしてみせました。密度の濃淡がくっきりした演技に理性を少しだけ超えるような感情の表現がすごくナチュラルに感じられる。たとえば交差点を渡ろうとするときの一瞬で必然を醸すその演技など、物語を貫く危機感やテンションに細かい質感を作り出す極上の隠し味になっていたように思います。

女医を演じた鈴木麻美の丁寧なお芝居も舞台をしっかりと支えていました。キャラクターが持つ熱をもった冷静さのようなもので舞台の色をしたたかにコントロールしていく。この人の演技には常ならぬ解像度があって見る側が安心して身をゆだねられるのです。冒頭の読書シーンでの観客を引き込む力も凄かったし、死の諦観が生まれるシーンでの感情の立ち上がりと収束の切れにも観客を一瞬にそめるような力がありました。無職の女性を演じた細井里佳が醸し出す繊細さと奥に隠されたスイッチが入った時の一途さにも瞠目。弱い部分を演じていても色がきちんと舞台にある一方で、狂気が露出した時のぶれのなさと圧力もすごい。観客を一瞬で捕まえた上で、キャラクターのもつ硬質さと繊細さの端境を絶妙に出し入れして、観る側に彼女自身にとどまらず物語自体の色の変化を実感させていく・・・。

長谷川太郎は、狂気のなかでの常なる感覚を貫きとおして見せました。キャラクターが持つ優越感と劣等感がアラベスクのように表現されて、その中に彼の人間としてのまっとうさを浮かび上がってくる。どちらかといえば地味な役回りなのですが、彼のお芝居にはアスリートであったキャラクターへの不思議な実感があって、単に物語のパーツというに留まらず、他のキャラクターの個性までもを浮かび上がらせるような力を感じるのです。國重直也のお芝居には度量があってキャラクターの持つ芯の太さが強くくっきりと伝わってきました。その懐に抱える伏線がきちんと収まるようなお芝居の厚みがあって。他のキャラクターたちを生かしながらきちんと仕事をして、その成果で物語をみごとにゴールにまで導いてみせました。

最後に舞台に登場する川田希は、フィクションと実在の二つの匂いを見事に束ねてみせました。ひとつのキャラクターには本来重ならないようなリアリティがこの人のお芝居だとすっと収まる。定められたキャラクターを表現する硬質なお芝居のなかに、血の温かさやしなやかさが絶妙に織り込まれて彼女の世界が生まれていく。物語の切り札的な部分を演じても舞台に存在するボリューム感をさらに広げていく豊かな存在感があるのです。

それぞれの個性が観客に体感的に伝わることで物語の展開から淀みが消えていく。しかも、舞台にグルーブ感が醸しだされても、いたずらに走らせることなくその感覚を広げていく着実さがあって・・・。、だから、観る側はぶっちぎられることなく最後まで物語に寄り添っていける。

観終わって、走り抜けたような感覚に満たされて。極上の推理小説を一気に読み上げて、すべてが腑に落ちたような満足感。なかなかこんな舞台に巡り合えるものではありません。

ちょいと奇跡のような、極上のエンタティメントに巡り合った感じ。がっつりと楽しませていただきました。

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