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東京デスロック「ROMEO&JULIET」シェークスピアへのIn&Out

2009年10月26日マチソワの半日がかりで、キラリング☆カンパニー 東京デスロックの「ROMEO&JULIET」を観てきました。

場所はきらり☆ふじみ。

KOREA VersionとJAPAN Versionの2作。同じ戯曲から生まれる全く異なるテイストをたっぷりと楽しんでまいりました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

両作とも、

原作:ウィリアム・シェークスピア(松岡和子訳を基にしているとのこと)

構成・演出:多田淳之介

・Korea Version

さまざまな手法が駆使されながら、戯曲の流れを押し広げるように物語が膨らんでいきます。

音、光、そして何度か観たことのある多田手法で人と人との関係性が生まれる冒頭から、観る側が物語の世界に包まれて。

表現の豊かさ、与えられたメソッドを武器に変えていく役者たちのパワーは、それなりに大きさや高さのある空間をもはちきれんばかりに満たしていく。舞台後方に張られたスクリーンに映し出される文字や影が、さらに舞台を膨らませていきます。

役者たちの韓国語は当然に理解できず、頭のなかにある戯曲の流れと、スクリーンに映し出される日本語訳を頼りに物語を追っていくのですが、スクリーン上の訳の提示も単純なプロンプターからの情報というよりはひとつの表現になっていて、マンガにたとえると人物についた吹き出しというより、背景に描かれるさまざまな効果のような感じで観る側に入ってくる・・・。このことが、観る側を一層強く物語にのめりこませていきます。

それにつけても輪郭の太さに目を見張る舞台。一つずつのシーンがメソッドを武器に深く強く心を揺らしてくれる。そのメソッドがパワーでがっつりと回されていくのです。

ジュリエットの想いを女優達でガールストークのように編みあげていく部分のヴィヴィドさや、両家の争いのシーンの洗練。初夜が開けた朝の二人の想いの質感や、ジュリエットの死を何倍にも重く背負うロミオの心情、さらには自ら死を選ぶジュリエットの愛に殉じる高揚・・・。良く知った物語でありながら、さらに一歩引き入れられて、自分が頭のなかに持っていたロミオとジュリエットの物語がとても陳腐なもののようにすら思えてきて。

観終わってしばらく舞台の世界から抜け出せませんでした。

終演時の2度のカーテンコールですら足りないような気がしたことでした。

出演:キム・ユリ カン・チョンイム イ・ユンジュ クォン・テッキ キム・ソンイル オ・ミンジョン イ・クノ パク・キョンチャン 佐山和泉 チェ・ソヨン

・Japan Version

スクリーンに「Text」と表示されたとおりに、戯曲の紹介から始まります。役者はまだ現れない。ショーアップされた形でちょっとクロニクルっぽくスクリーンに戯曲の一部を提示して観客に読ませる・・・。

坪内逍遥訳の提示が効果的で、戯曲そのものが観客に表わすもの、台本に書かれた言葉が見る側に発するニュアンスや色が抽出され伝わってきます。ライティングや音楽から生まれるコンサートの直前のような高揚感がなにげにしたたかで。

次に「Human」と表示され、素のライトの下、役者が舞台上に並んで順番に自分の恋愛体験を語り始めます。すごくナチュラルな語り口で、虚実はよくわからないのですが、観る側が心をすっと開くような雰囲気が醸し出されて。そのトーンというか流れのままにでキュピレット家のジュリエットさんの話を・・・、聞いてしまう。戯曲のお仕着せを脱いで私服で楽屋口から出てきたような、素顔で等身大のジュリエットの心情に、笑いながらもなぜかうなずいてしまって・・・。

そして「Text&Human」、前の二つの要素が重なる中、作り手による、目隠しをしての表現の模索が始まります。

何から目をふさいでいるのか・・・。役者たちの動きをみていると周りというだけでなくかつてのロミオ&ジュリエットの作品のイメージまでリセットされるような感じがして。

舞台の上ので探りのなかで語られる台詞は、やがて見えない者どおしで絡まりあい膨らみ始める。そこから少しずつ動作が生まれ、スクリーンの文字が遊び、音がやってきて戯曲から溢れ出てくる感覚がどんどんと具象化されていく・・・・。

観る側からすると、戯曲が作り手たちの創意にふれて線描として次々に描かれていく感じ。そして、手で周囲を探り足で舞台のエッジを確かめながら、台詞を頼りに模索し徘徊する役者たちの姿に、作り手たちの創作の苦悩を感じて・・・。でも、芽生え、揺らぎながら膨らみ、舞台上に形となり、そこから舞台を超えて施設全体にまで広がる表現に、雛鳥が貪欲に餌を啄ばみ、羽根を広げ、やがて羽ばたき始めるような、ぞくっとするような創意の飛翔への過程を感じるのです。

ブリッジで語られる台詞に文字がクルっとひっくり返るような、シンプルな遊び心から現れるとんでもない質量を持った何か。朝を告げるひばりの声はずるいと思いながらも個人的にツボで、こういうウィットが作り上げる舞台のニュアンスがどんどんと世界を豊かにいくようにも思えて。コインを危なっかしく投入して「毒薬」を手に入れる姿に薬入手の不思議な軽さやリアリティを感じたり・・・。カメラを使ったライブ感(館内の道程をしめすグラフィックもよい)や、スクリーンに映像として具現化される現場目線の霊廟のシーンにも瞠目・・・。

そして、いったん目隠しを取った役者が、再び目隠しをつけて手探りを始める姿に、限りのない演劇の深淵を思ったことでした。

出演:夏目慎也 石橋亜希子 坂本 絇 橋本久雄 堀井秀子 中林舞 浦壁詔一

戯曲にひたすら惹きこまれていくKorea Version,戯曲から次々となにかが現れていくJapan Version。戯曲に対してのものすごいIn&Outを半日で体験したような。で、観終わって、なにか抱えきれないほどに満腹なのですが、その感覚には演劇という筋がしっかりと通っているから、すっと心に吸い込まれていく感じがする。

そして、劇場を出るとき、満足感だけではなく両Version(特にJapan Version)のさらなる広がりの予感とそれを観たいと渇望する気持ちがやってきて・・・、自分の貪欲さに驚愕したことでした。

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閑話休題20091017、「恋愛ポリス 恋(REN)」とか太田美術館特別展とか・・・、足をつい止めたもの

お芝居の話とは関係ないのですが、10月17日、こまばアゴラ劇場でマチネ芝居を観た後、別のお芝居を観るために高円寺に向かうまでの時間に遭遇したものをで観たものを二つほど。キーワードは「足をとめたもの」です。

・恋愛ポリス ボーカル恋(REN)

文字通り足を止められてしまいました。新宿某所で路上ライブをしていたところに遭遇したのですが、キーボード一本での弾き語りをしている彼女はマイクを通さずにオリジナルの曲を歌い上げていて。その声がかつて聴いたことがないほどにしなやかなで。

低音部をしっかりと支える声量、高音部からファルセットに至る部分の伸び。それらを操りながらのボーカルにつややかさがあって、歌詞が包み込むような豊かさに織り込まれてやってくる。さりげない揺れを持った瑞々しい想いが中高音の強弱で伝わってくる感じもあって。

いっぺんにはまりこんでしまいました。時々パラパラっと雨がふってくるのですが、彼女がもつ声の惹きつける力にその場を去ることができないのです。

オリジナル曲の後、座興っぽい雰囲気でカバーナンバーを何曲か歌ったのですが、単に歌うだけではなく、歌詞が本来持つ想いを聴く側の思いと共鳴させるような奥ゆきがあって。力みのない、でも聴く者の心をその声質で開かせるような部分に、彼女の天から与えられたような才能を感じて。嘘偽りなく、この人の声をずっと聴き続けたいとおもった。

手売りの3曲入りCDを買ったのですがそれもすごくよかったです。早速通勤のお供に・・・。

なにか新宿の路上にいることすら忘れてしまうような、奇跡の時間を過ごして。東京の奥深さに出会った気がした事でした。

・太田美術館 「江戸園芸花尽くし」

話は前後しますが、あごら劇場の岡崎藝術座が比較的早くおわったので、とりあえず急いで訪問。

なにかテーマがある浮世絵の展示会って、こう見る側にもイメージが積もっていくような感じがするのです。解説にテーマとなる植物の種類が書いてあるのも興味を一層そそるトリガーになって・・・。

そうそう、鳥居清長の藤をテーマにした柱絵の女性にちょいと懸想をしてしまいました。風に吹かれる風情が、どうにもこうにも仇っぽい。色香にすっとした透明感を感じて。安藤広重描く蒲田の梅の絵にも惹かれた。その色の美しさはたとえようもなく、絵の前で見惚れて固まってしまいました。

展示には前期と後期があるようで、10月25日までにもう一度前期を見れたらいいなと思っております。ちなみに後期は11月1日から。

マチソワのお芝居の間に、良いものに出会う。なんかすごく贅沢をしたような・・・。良いものが重なってやってくる日は、あたりまえですが、そりゃもうとても幸せなのです。

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岡崎藝術座「ヘアカットさん」たとえようのない喪失感の醸成

2009年10月17日マチネにて岡崎藝術座「ヘアカットさん」を観ました。会場はこまばアゴラ劇場。

不思議な色の残るお芝居でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

開演前、舞台の後方には本棚が見えます。そこに女性が現れて・・・。紀伊國屋新宿南口店のインテリア雑誌売り場であるというその場所で、彼女は突然歌い出します。

興が乗ってくると観客に手拍子まで求めて。なにか自分のことを独白しているようでもあるのですが・・・。やがて、後方では男性が一緒に踊りだしていることにも気づいて。

冒頭のシーンに愕然としてどうなるのかとひと膝乗り出すのですが、その突飛さにだんだんと舞台がなじんでいく。語られていくのは、たぶん数か月の時間軸の話。事実だけを見るなら数行で語られてしまうような物語。カラオケをしたあとあっけなくバイクの事故で死んだ恋人・・・。

でも、そこから訪れるものには、物語にすっと押し込むことのできないような色や質感が醸し出されていくのです。

カラオケルームの室内の雰囲気が身体の動きや音楽で描きだされていきます。さらにはカラオケ屋に勤める女性と彼氏との最後のエピソードが織り込まれて。焦がしたベーコンとオクラのソテーを介しての想いのすれ違いが、さらにその時間の質量を変えていく。

髪を切り落としていくような感覚。昔通ったという「さいとう」理容店のイメージ。痛みもなくすっと離れていくものや落ちていくものの質感・・・。

作・演出の神里雄大が舞台に描き出すその色にとらわれてしまいました。やってくる感覚にたとえようがないのです。たとえば「喪失感」という言葉で括ったとしても、何かがはみ出してしまう。深いとか浅いというような区切りでも割り切れない。暖色でも寒色でもないその色はよしんば何千色のカラーサンプルがあったとしても合致しないような気がする。どんな言葉に落としても違和感を感じるような、オクラとベーコンのソテーから生まれるその色、髪を切り落とすような感覚でやってくる立体感、さらには付随するカラオケの空気。もっといえば、登場人物たちが東京で過ごした時間が放つ鈍っぽい空気。その残存感の強さと薄れていく感覚の頼りなさ。

理髪店に誘い込まれた女性に対して示されるクリスマスの特典によって、ヘアカットさんが具象化するものがすっと明確になって、冒頭のシーンへとつながっていきます。日頃接することのないヘアカットさんによって、閉じられたままの何かがすっと切り落とされて、心の時間が前に進みはじめる感じが伝わってくる。

最初に聴いた歌がリプライズされるとき、その内容から唐突さは消えていました。新宿南口側の紀伊國屋書店、その雑踏のなかでインテリア雑誌を探す女性の、瑞々しい心情のスケッチに、神里の描写力の卓越を思い知った事でした。

役者のこと、武谷公彦はキャラクターが持つある種の無頓着さをというか神経の太さをうまく表して見せました。バイクで骨折をして、それが治ったお祝いのカラオケというシチュエーションをうまく舞台上の雰囲気の色にする力あって。キャラクターの考え方のトレンドから人物像が逆引きのように浮かんでくるのです。坂井和哉にはある種の繊細さを具現化する力がありました。奥にいごこちのよさそうな優しさを内包する感じが次第に見る側にも伝わってくる。二人の友情というか関係の空気がしっかりと女友達からの目線で浮かび上がってくるところもすごいと思ったり。

冒頭で歌をうたってみせた坊薗初枝は目鼻立ちのくっきりとしたお芝居で女性の心情を明確に表現してみせました。冒頭のあけすけな歌によるキャラクターの想いの説明が、彼女のお芝居の積み重ねからだと、しっかり納得できるのです。描写の解像度が常ならぬというか・・・・。内田慈が演じるカラオケ店員からは普通の女性としての感覚がベースとして伝わってきて、そこにベーコンとオクラのソテーのエピソードを巧みにからまっていきます。キャラクターが持つナイーブな感じと彼氏に対するちょっとした甘えの余白が同じ時間の中にヴィヴィド編みあげられてやってくる。そのしなやかさが、彼にたいする想いのクオリティへとうまく引き継がれて、観る側に透明感のあるビターな感覚を残していきます。

折原アキラは理髪師を演じるというよりは、女性の内心の想いを演じるような役回り。表層にでてきたり内側にもぐったりといった存在の出し入れを巧みにこなしながら、彼氏を失った女性の心に残るものや、前に歩きだすときのちからのようなものを絶妙のテンションで具現化していきます。無形のものを具象化していく方法に無理がないというか、演技から伝わってくるニュアンスにしっかりとした形があって・・・。

今回の神里流の表現、これまでの彼の作品に感じた広がりに加えて、表現しようとするものの切り口の滑らかさと粒子の細かさを感じて・・・。

来年の鰰の公演もとても楽しみになったことでした。

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ハイバイ「て」濃密な家族の匂い

遅くなりましたが、2009年10月2日と10日に、ハイバイ「て」を観てきました。場所は池袋、東京芸術劇場(小ホール1)。

ハイバイは前回アゴラ劇場でみた「KOBITO」がすごくよくて・・・。今回再演になるというこの作品も楽しみにしていました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

チケットにお洒落に書かれた入場整理番号は2日が145、10日が61.十分に希望の席に座れました。ここって小ホールとは名ばかりですごく広い空間であることを再認識・・・。

作・演出 岩井秀人

東京芸術劇場の小ホールに対面形式の舞台が設えられて、とある家族の祖母の死の直前から葬儀に至る風景が描かれていきます。

彼女の最期の時間と葬儀の風景が、息子と母の2つの視点で繰り返して演じられるのですが、それがとんでもなく効果的で・・・。アクリル板に描かれた二つの絵が繊細に重なって平板だったものがたちまち立体感をもってやってくるような。

鉄拳制裁の父や、どこかあっけんからんとした母の個性の豊かさや、その育て方に確実に影響を受けた子供たちが祖母の前でのあけすけな想いを話し始めます。父との確執や兄弟それぞれの祖母への想い。泥を落としていない野菜の瑞々しさのようなものが、観客が身構える暇もなくどんどんと入ってきます。

意地を張りあったり、ためらったり押し付けたり・・・。地層のように積もった思いが露出していく中で、ひとりずつのナチュラルで不器用で、でもそれぞれに真摯さをもった個性に、見る側の心が共振していく。

その行き場のなさのようなものが、なんというか愛しむような実感とともに観る側に満ちてくるのです。

家族の喧騒のなかでの祖母の死の静寂なさりげなさにも心を打たれました。彼女の静かに消えていく生の透明感が、生きてのこる家族たちの姿を一層鮮やかに浮かび上がらせて・・。祖母の不自由な手を棺の内に収める葬儀屋さんのとまどいのおかしさが素の色を与えるように生々しい死の現実を呼び起こします。

教会に棺桶を家族で運ぶ場面。泣きつづける長男の想いに観る側もたまらないほど心を染められて・・・。生前の祖母とのちょっとした縁で入り込んできたキリスト教会の価値観に家族丸ごとはめられる時の滑稽さ・・・。朗々とした牧師の讃美歌と家族の戸惑いが積もってどうしようもなくはじける姿に抱えきれないほどのおかしさがこみあげてきて。でも、そのあとに深く逃げ場のないペーソスが不思議な突き抜け感とともにやってくるのです。

終演後しばらく呆然としておりました。気がついてみると、家族それぞれの想いが息が詰まる位にそばにあるような気がする。家族の匂いが息を呑むほどに生々しい。

二度見て、やってくるものが色褪せるどころか、さらに強く鮮やかになっていって。舞台の持つ力に凌駕されて、二回目など、終演後、気しばらく腫らした目で舞台を見つめたままでした。

役者のこと、父親を演じた猪俣俊明は恐いというより、過去にすごく恐かったという感じをうまく表現していました。通子を演じた菅原永二は、岩井が描く母の包容力を、岩井自らが演じるがごとくしたたかに演じきりました。役とのジェンダーの違いをうまく利用しての年齢の作り方から、その歳廻りの中年女性の雰囲気が生まれ、繊細な心情表現がその中に細かく内包されていくのです。その想いの表現が丸まったり固まったりせず、とてもデリケートに滲みだしてきて。母であることを守ろうとする心情が沸き立つように醸し出されて・・・。

長男役を演じた吉田亮には一徹な部分があって・・。その強い意志にまで至った達観二裏打ちされる意地の張り方が、棺桶を運ぶシーンでの涙としっかりとした表裏を作り上げていました。長女役の青山麻紀子のキャラクターの押し方も絶妙。自分の事情を「長女」の重さに置き換えながら独善の薫りにまで広げていくところに不自然さがまったくない。次男を演じた金子岳憲は前半部分の舞台の視点をしっかりと背負い切りました。彼の価値観を見えない仕付け糸のようにして、うまく物語が進んでいきます。長男との確執を端々に織り込んで、観る側の無意識領域に家族の雰囲気をインプットしていくような力があって。二女役の上田遥にも瑞々しい実存感がありました。姉との関係や、家のちょっとした居心地の悪さが、台詞やしぐさを超えて伝わってくるのです。小さな仕草に切れがあって、伝わってくるものに透明感が生まれて。母との絡みなどのシーンでその色が舞台の奥行きを作るのにしっかり貢献していたと思います。祖母役の永井若葉は本当に献身的かつ緻密な演技で舞台の礎の役回りを全うしました。家族を見続ける視線が途切れることのないトーンを舞台に醸し出して・・・。舞台からあふれだしそうになるような家族の想いを仕草や表情から醸し出される色でしっかりとキャラクターの内側に収めていたようにおもいます。娘婿役の平原テツの超然としたところには、家族との時間や血の濃さの違いがありました。彼の義父へのおおらかさのようなものが、逆に家族の歴史をしっかりと浮き彫りにしていきます。葬儀のシーンで最後まで父親のそばで立っていた彼のポジションも家族の雰囲気を観る者に伝えていく。次男の友人役の町田水城も娘婿と同じ様な役割を実直に果たしていました。外側に立って家族を浮き立たせるような存在感をしっかりと舞台においていたと思います。

牧師役の大塚秀記は、家族の外側にあって、なおかつ飛び道具的な要素すらある役回りなのですが、牧師としてのすごくナチュラルな描写で家族としっかりと対峙してみせました。家族の違和感がすごく自然に導き出されていく。ラストシーンなど、賛美歌が持つ独特の高揚感になじみ切れない家族をがっつりと引き出していました。葬儀屋の二人が舞台に作り出す葬儀が持つちょっとコメディぽい雰囲気も家族のテイストと抜群の相性があって。用松亮のちょっと摺れたような慇懃さには思わずうなずいてほど。坂口辰平が細かく演じる新人社員の仕事へのキャリアの浅さもうまいなぁと思う。そのお芝居がひっぱってくるものがとてもしっかりしているのです。プロ意識でカバーできないなにかが、死者を弔うということ生々しさをしっかりと観客に伝えていたように思います。

圧倒的なお芝居というのは、こういうのを言うのかも・・・。役者たちの演技ひとつずつにお芝居を呼吸させるだけの十分なクオリティがあって、うまく形容する言葉が見つからないのですが、ひたすら本当によいお芝居でありました。

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仏団観音開き「レ・ミゼラブルーシート」がっつり作り込まれて生まれるペーソスの力強さ

ちょっと遅れましたが、2009年10月9日ソワレにて仏団観音開き「レ・ミゼラブルーシート」を観ました。場所は新宿二丁目タイニーアリス。

この劇団、コントレビューのような形式では、継続的に公演が打たれているのですが、ストレートプレイでの公演は久しぶり。演劇的側面の強いたっぷりと作り込まれた彼らの世界を堪能することができました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

タイトルのとおり、ブルーシートの家に住む路上生活者たちと青空カラオケのお店(?)のひと冬の話でした。そこに飛田新地のおはこびさんやえせ慈善団体、警察や市役所もからんで、大阪っぽい匂いがいっぱいの世界を展開していきます・・。

掴みの「新世界の車窓から」の映像がうまく観客を取り込みます。天王寺界隈の路上生活者の生きざまに加えて、フェラガモの鞄を持つような商社のサラリーマンが路上生活者になっていく姿にぞくっとくるようなリアリティがあって・・・。

ラフなようで、実は緻密に描かれていく登場人物たちの心情と、ミュージカル仕立てなども駆使した秀逸な戯画化。下世話なシーンと人の心情をすっと浮かびあがらせる密度のバランスが絶妙なのです。

路上生活者や底辺の女性たちの群像劇ともいえるのですが、そのばらばらさとまとまりの二律背反を貫くトーンの作り方がすごくしたたか。ステレオタイプな人々の処理ではなく、キャラクターの個性を埋もれさせないうまさがあって。その雰囲気を作るために、よしんば演歌とミュージカルナンバーがごった煮にして演じても、それらがあたりまえのように成り立つたせる強さがこの劇団にはあって。しかもいろんなメソッドが「・・・風」というレベルではなく、しっかりと作り込んで観客をわくわくさせるほどの切れを持って演じられていく。見せて聴かせる芸に妥協がないというか、表現をおふざけや遊びに終わらせないけじめがしっかりとついているのです。

クオリティがあるから「難しいことは分からない」的ななげやりさや割り切りに、圧倒的な説得力が生まれ、結末にも陰惨なだけではない沁み入るような透明感が生まれる。笑いやパロディーをはさみ込んで人生を描くのに、半端は許されないというような作り手の気概が感じられ、そのスピリットでしっかりした骨や筋肉が作り込まれているからこそ、シニカルな味わいや暖かさ、さらには、諦観やペーソスが、ノイズやあざとさを感じることなく観客に伝わってくる。

役者たちのお芝居が持つ線の太さからきめこまかな質感のペーソスを醸成する、作・演出:本木香吏の芝居のレベルに対する執念のようなものががっつりと感じられるお芝居でありました。

役者のこと、カラオケ店のママを演じた金明玉は街の雰囲気をしっかりと作っていました。とても安定したお芝居から、達観と押しの強さに隠れた人情がうまくにじみ出ていて。路上生活者のばばあを演じた本木香吏は体を張ったお芝居。そこにためらいやぶれがないから観客もそのえげつない人物描写を受け止めることができるのです。現役のお運びさんを演じた藤原求実子には一種の華があって、その色が舞台の雰囲気に溶けて醸成されるペーソスがすごく良い味を出していて、人生に余白を持った女性がきっちりと浮かび上がっていました。かつてのお運びさんを演じた松岡里花は、藤原とは逆に余白をおおむね使い果たした女性の雰囲気をうまく作り上げていました。枯れた中に生きていくことへの力をさらっと折り込んだお芝居に好感が持てました。えせ福祉団体のメンバーを演じた峰U子が作り出す胡散臭さは絶品で存在感も抜群にあって。正統派のコメディエンヌのお芝居を貫いていたと思います。

藤原新太郎はお芝居に加えて歌とダンスで見せました。ジーザスクライストのボーカルに瞠目。こういう役者がひとりいるとお芝居がくっとふくらみます。どこかこてこて笑いよりに目がいっている客席をぐっと締めるような力がありました。お世辞抜きで高揚感を感じるようなパフォーマンスだったと思います。ベッカム木下は強さの裏側に存在する人間としての弱さをうまく醸し出していました。関西風の喜劇に必須のキャラクターの落差がたっぷりと作れていて、物語のすそ野をしっかりと広げていました。東口善計は本木の怪演に喰われないだけのキャラクターを具現化する力がありました。「こんな路上生活のおっちゃんおるわ・・・」と思わせた時点で彼の勝利なのでしょうけれど、それだけではないキャラクターの奥行きがお芝居から伝わってきたように思います。

元商社マン役の桂都んぼのお芝居も実に秀逸でした。一般人の人生から轍を外れて落ちていく様のリアリティに息を呑む。噺家としての表現力の強さをそのままに違う引き出しから実直に色を作っていく感じ。その多才に舌を巻くと同時に、逆コースで芝居が彼の高座での表現力の広がりを作り出していく可能性もあるような。なにか二兎を追っておまけに別の獲物までを銜えてくるようなパワーを彼の芝居には感じるのです。

小林徹は、一般の基準線を舞台に作る役回りで、実直にその任をこなしていたと思います。人の良さから生まれる揺らぎがきちんと表現できていて、それが物語のモチーフを埋もれさせない力になっていたように感じました。

ゲストの宮奥雅子とんとろとんは、出番こそすくなかったもののいずれも好演。しっかりとお芝居に刺さって一般人側の視点を舞台に作り、路上生活者の色を鮮明にしていたと思います。

この劇団、まだまだいろんな可能性を内包していると思うのですよ。キャバレー公演といわれるものの力や今回のようなミュージカルテイスト付きのストレートプレイ、よしんば時間がかかっても、あるラインを凌駕し突き抜けるまで作り込む力というのは半端ではないように感じるのです。

なんというか、いつブレイクしてもおかしくない劇団の底力を感じた今回の公演でありました。

R-Club■□■

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Dull-Colored Pop 「心が目を覚ます瞬間」わからないけれど響き、居座る

Dull-Colored Pop「心が目を覚ます瞬間~4.48サイコシスより~を観ました。2009年10月10日、ソワレにて。場所はサンモールスタジオ。Dull-Colored Pop休止前公演のひとつ、「Proof」との日替わり上演です.

正直言って、その内容を及第点まで理解できたという自信はまったくありません。でも舞台からやってくるものには、圧倒的な吸引力があって、目を閉じるのも疎ましいほどに見入ってしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作:サラ・ケイン 翻訳・演出:谷賢一

客入れ時のすでに二人の役者はベットにいます。ビートルズ。女は眠ったまま。男はウィスキーをラッパ呑みしたり、ベットの脇のノートをめくったり何かを書き込んだり。ビートルズがフラットっぽい部屋の雰囲気をより強くしていきます。開演前の説明をしている女性の真後ろに立って、遊び心に溢れた仕草をしてみたり。

ベットの上でお互いに愛の言葉を交わす冒頭シーン。出かける男・・・・。ラブストーリーのワンシーン???でも、そこからは、想像もできない展開に翻弄されることになります。

舞台奥に大きく映し出されるのは男がオペレーションするパソコンの画像。音楽とリンクしたメディアプレーヤーのイメージ。打ち入れられる短い文章。示唆や概念の断片のような・・・。

さらに、男が白衣をまとったことから次第に心を病む女性と医師の関係が浮かび上がってきます。

100から7を引いていくことによって自らの正気というか判断能力を確かめる。正しい時もあれば明らかな間違いもあって。観る者にそれが彼女の素の時間なのか、あるいは彼女の内側に展開する時間なのかが示されているようにも思えて・・・。

何度かけても留守電になる電話。閉ざされた対人関係。人との接し方、自己嫌悪や被害妄想、大量に投与される薬、増減する体重・・・。拒食や過食、睡眠や記憶の障害。それが、たぶん医師が彼女に施した物理的な治療の履歴。薬がばらまかれる音、冷徹にも思える白衣の医師のレポート。

一方でその時間に覚醒した彼女の心が次々と具象化されていきます。彼女の揺らぎや医師の精神的治療に起因するとみられる患者のさまざまなイメージが演劇的な表現を駆使して次々に現れてくる・・・。

ベットの上に築かれた自分の言葉を離す(ボイスレコーダーを頭に見立てた)不安定な人形。

ジャニス・ジョップリンがバックに流れるかりそめの信頼。彼女が求めるものと医師が保とうとする距離・・・。書きこまれた紙を互いに拾って読む時・・・。時に彼女が書いたはずのメモは医師の思いに感じられて。また彼女が読み上げる、医師から渡されたレターサイズの紙には彼女の想いとも思える言葉が書きこまれていたり。それは互いの理解と無理解の暗示にも思えて。

自分の顕示と自分の拒絶。

死のボーダーがすごく軽い。オーバードース。リストカットのイメージ。死への誘いの説得力。

想いをふくらまされた風船がライターの火で破裂したり。なんどかのボールのやり取りがいつしか彼女によって拒絶されたり・・・。

モラルや目標のようなことひとつずつを我慢大会のように着こんでいく姿・・・。それらのモラルによって線引きされ確立された他人が入れない空間・・・。それが治療の一つの完成形なのかも。そしてまた、その時間はやってきて。覚醒の中で求める物は治療では満たされることのない、なにかのようにも思えて。

抱きしめられるような愛なのか、消え行ってしまうことなのか、あるいはその両方なのか・・・。

最後のカーテンコールは女性だけ。それは誰の物語かの作り手からの提示にも思えて。

役者のこと、堀奈津美はお芝居の強さでキャラクターの立ち位置を観客に伝え続けました。それが狂気の中であっても、覚醒したひと時であっても、彼女の存在自体が揺らいでは成り立たない舞台。舞台の色との対比が常に求められる中で、しっかり貫き通すその力に、堀ならではの力量を感じて・・・。この人だからこそ作れるニュアンスというか、堀だからこそ表現しうる世界があることを再認識しました。

役者としての谷賢一は、豊かなフレキシビリティをもってキャラクターの色を舞台に編み込んでいました。冷徹に思える部分、軽薄なに感じる部分、支配、インテリジェンス、愛情、苦悩、・・・。堀との距離をしっかり伝える切れもあり、絶対的な存在を作る力もあって。で、なによりも、堀をしっかりと見せるのです。

観終わって、心のなかに残っていたのは少なくとも絶望ではなかったです。もっと捉えようがなく醒めた、持ち重みのするなにか。

で、片づけ場所がわからない感じ・・・。

4.48からの72分にやってくる、仮の服を着せられたままのような自分の感覚が舞台から渡されて、ずっと居座っていて・・・。

演劇的な創意や表現が恐ろしいほど研がれているからこそ、伝わってきた何かだとは思うのですが・・・。帰り道もその感覚がずっと抜けませんでした。

作り手側の意図と全然見当違いの解釈をしているような気もするのですが、そんなこととは関係なく、感覚が抜けていかないのです。

R-Club ■□■

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Dull-Colored Pop 「プルーフ/証明」才能が裏打ちする演劇表現

2009年10月7日ソワレにてDull-colored Pop「プルーフ/証明」を観ました。会場はサンモールスタジオ。

(ここからネタばれがあります)

翻訳・演出:谷賢一。

戯曲については谷氏の同翻訳でのコロブチカ版(黒澤世莉演出)を観ています。その時には、一つの貫くような質感で舞台が満たされ、個々の個性が同じ空気から深く滲みだしてくるような印象がありました。一方今回谷氏自身の演出では個々の人物間に異なるトーンや質感があって。3人が同時に舞台にあれば、3つのトーンがそこにあるのです。それらの輝度が物語の進行に伴って、次第に高まっていく感じ。ひとつに混じり合うのではなく、互いを照らすようにして舞台の密度を高めていきます。

客入り時からすでに、板についているというか、自分の家で落ち着かなく過ごす主人公キャサリンの空気に取り込まれます。机と椅子だけのシンプルな舞台に彼女の時間が鮮やかに浮かび上がってくる。

ぞくっとするような切れで物語に入り、明かされていくキャサリンの父親への愛憎。シーンが進み行き交う時間の中で見えてくる数学者のハルとの距離や歩み寄る中での互いの葛藤。姉のクレアとの確執。その重なりの中でキャサリンを中心に登場人物ひとりずつが実存感をもって伝わってきます。それらは繊細かつ丁寧なだけではなく、時には鮮やかに、あるいは恣意的なベクトルをもって、沈むように、突き刺さるように、弾けるように、包み込むように描かれていくのです。

役者が良いのですよ。たとえば、キャサリンや父親が持っている才能に対する自身の感覚と外側からの見え方の差異など、とてもしなやかに観る側へ伝わってきます。かつて女性が発見したという素数の定理に関する説明をさらっと行なうときのキャサリンのさりげなさに目を奪われて。そこから自らの才能をもてあます彼女の姿や才能をもたない者のとまどいがよりヴィヴィドに観る側にやってきます。役者が顕す刹那の感情たちの明確さが、物語を膨らませる確かな力になっていくのです。

二日酔いのクレアから溢れる人間臭さが彼女のまっとうな価値観やキャサリンの想いの重ならない部分を顕わにしたり、ハルが初めてキャサリンと出会うシーンでの緊張感が再び出会う彼らの距離を作り出したり・・・。

さらに観るものを取り込んでいく震えがくるほどの創意に溢れた表現手法達に目を瞠ります。

インナーイヤーのヘッドフォンを外す姿と音のリンク、

役者達の舞台への入り方やはけ方、(観客は母屋から外におかれたテーブルを観ているような設定になっている)

キャサリンとハルのキスシーンでの音楽とライティングの美しさ、

紅茶を注ぐ音が醸し出す時間、

ラストシーンで言葉を内包した闇が照らし出すその先の広がり・・・、

&More。

シーンの一瞬に込められたものから、骨格のように作り上げられたものまで。役者達の芝居の秀逸さが、それらの表現に切れ味のあるニュアンスと力を与えていきます。個々の役者が積み上げた感情には、手練を生かすだけの奥行きがあるのです。

べたな言い方ですが、見応えのたっぷりあるお芝居でした。

あと、うまく言えないのですが、黒澤演出と谷演出、両方観たことから同じ戯曲という土俵の上での優劣を感じるのではなく、それぞれの演出の良さがやってきたことで、とても豊かな気持ちになれて。

何かが生かされれば何かが隠れる。優れた戯曲と演出の関係にはそんな部分があるような気もして。同じ素材からやってくる異なるテイストのすばらしさに、べたな表現ですが、演劇っておもしろいとわくわく思ったことでした。

役者のこと、キャサリンを演じた清水那保には透明感をもったナチュラルさがありました。ちょっと不器用ではあるけれどその世代の普通の女性としての感覚がベースに織り込まれていて、それゆえ彼女の自らの才能への戸惑いが自然なトーンで浮かび上がってくる。キャラクターに設定されたいくつかのアスペクトが彼女の中でうまく重なり合って乖離せずに観る者に伝わってくるのです。通常のしなやかさや深さに加えて、包括された主人公のキャラクターを観客の無意識領域にまで伝えきるような浸透力、それは彼女ならではのもの・・・。清水でなければ顕わすことがかなわない秀逸なキャサリンがあることを実感しました。

父を演じた中田顕史郎には数学者としての姿がしっかりと織り込まれていました。その雰囲気が、彼の病のリアリティを見事に浮き彫りにしていきます。まるで内側を虫に食い荒らされたリンゴのような存在が、キャサリンからやってくる愛憎のしっかりとした裏付けになっていきます。キャサリンが再びの狂気を見つけるときの中田の演技には、キャラクターをして観客を凌駕させるだけの完成度がありました。物語の幹としての根をしっかりと作り上げるお芝居だったと思います。

姉のクレアを演じた木下祐子は、キャサリンのトーンをしっかりと生かしながら、キャラクターが内包するキャリアを持つ女性としての感性を実直に表現して見せました。彼女の価値観には常識的な裏付けがあって、それゆえキャサリンをニューヨークへ連れて行こうとする姿も、その場所に執着するキャサリンとの確執も、なんというかとてもナチュラルなのです。彼女のお芝居が、キャサリンの心に澱むいくつもの本音にくっきりとした力を与えていたように思います。

ハルを演じた小栗剛は、キャラクターの若さというか彼自身の揺らぐ部分を巧みに表現していました。普通に女性が定理を生みだすことへの偏見を持っていたり、プライドと自らの才能の狭間での苦悩する姿が、物語のエンジンとしてがっつりと機能していく。一方でコアの部分にある純粋さを観る側にしっかりと伝えていて、それがラストシーンの切れをしっかり支えていました。

知っている物語なのに、惹き込まれて、目を見開き、浸潤されボリューム感を持った面白さに満たされて。コマの関係でもう一度この作品を観るのが難しいことが凄く残念。

心地よい高揚感を持って、劇場を後にしたことでした。

R-Club

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北京蝶々「呪われたバブルの塔」個々に作る色、通して見せる力

2009年10月1日と5日、それぞれソワレにて北京蝶々「呪われたバブルの塔」を観ました。場所は下北沢OFFOFFシアター。

それぞれの完成度に加えて、両方をみる面白さもある作品となっていました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ。)

*ビフォーサイド

舞台装置を含めて古い雑居ビルの雰囲気が細かく演じられていたのがまず勝因かと・・・

時代というか、不動産バブルの残滓や不況の時代の色までもが役者たちによって細かく舞台空間に織りあげられていて。

オーナー夫婦の醸し出す雰囲気が淡々とした中で深く観る者を浸潤していきます。不動産屋や入居者たちが織りなす舞台の質感が絶妙。

対面式の客席は舞台と客席の仕切りを取り払って同一の空気の中でビルにしがみつき追い込まれていく夫婦の心情をホラー仕立てで観る側に擦り込んでいきます。

時代のきしむ音や夫婦それぞれの想いや、常ならぬものの言葉のそれぞれにしっかりとした理があって真綿をしめるがごとく場の空気を追い詰めていく。

実態と乖離して生まれていくかりそめの価値と呪縛の力に息を呑みました。

終盤の切れがすごい。役者たちが描き出す、一歩踏み込んだ人間模様にはホラーのテイストを感じるに十分な、たっぷりのダシが効いていて・・・。

北京蝶々ならではの時代への俯瞰と一気に曝されるビルや人の過去、重なっていく物語の骨格のしたたかさに深く浸潤されたことでした。

*アフターサイド

ビフォーサイドとほぼ同じ舞台のつくり。ただ、その空気はかなりちがっていていました。

ビフォーで溢れていたビルに対する深い情念や怨念のようなものに変わって、もっとグローバルな視点とドライなテンションが舞台上に醸しだされていたように思います。

とはいうものの、人が虚飾の価値を膨らませていくというベースの部分はがっつりと貫かれていて。質感は違っても、ビフォー同様にビルに関わる(った)個々のキャラクターからはそれぞれが持つ視野の範囲や、範囲によって変わる思いの色がくっきりと伝わってきてきました。

風水師やビルの元オーナーなど、時間軸やグローバルな動きを見定めるキャラクターが観客の視点を見晴らしの利くところになにげに導くあたりも作劇のしたたかなところ。

バブルのころに建てられたビルのクロニクルと重なるように、この国の近過去から、静かに強く揺らぎつづける今までがぞくっとするような肌合いで浮かび上がってきます。

それらを具現化する役者達には、物語の肌触りを繊細に編み上げきるに十分な力があって。ビルを巡っての後ろ暗さたっぷりな組織同士の擦れ合う切迫感だけではなく、組織ですら抗うことのかなわぬ大きな時代の揺らぎや振幅が重低音のように伝わってきて。そのなかを泳ぎ、溺れ、浮き沈む人々の姿に息を呑む。

また、アフターサイドだけでも伝わってくるものはたくさんあるのですが、通しでみることによっての更なる膨らみも間違いなく存在していました(先にアフターサイドを観ていると感じ方は少し違ったかもしれないけれど)。なんというか1+1=3になるような仕掛けがいくつも折り込まれ、きっちりと機能していたように思います。

昔々、私が某大学の経済学部の学生だったころ、ミクロ経済学とマクロ経済学という考え方を教えてもらったのですが、今回2作品を通して見ると、ビフォーがミクロ、アフターがマクロという感じもして。ビルという媒体を通じて、個人の心情から時代をとらえたビフォー、グローバルな構造から時代を見据えたアフターみたいな・・・。こういうマルチな視点を持ち具現化していく作・演出:大塩哲史の慧眼、今更ながらに凄いと思うのです。

役者のこと、ビフォーサイドの鈴木麻美には「女性」を演じきるような力がありました。ナチュラルな表層を保ちながら繊細に心情の揺れや高まりを伝える力量があって。加えて何かをすっと踏み越えるような刹那の心情も力みのないお芝居からしっかりと伝わってきます。その演技の秀逸さがアフターの短いお芝居にも強烈な印象を作り出していました。前回公演と比較しても、また一段と腕を上げたと思わせるものが確実にあって。単に観客に想いを伝えるだけではなく、観客をキャラクターの想いに同化させるような力がついてきたように思います。岩淵敏司のどこか甘えた部分を持ったビルオーナーにもたっぷりとした実存感かありました。抱えるものが物語の軸になっていくのですが、その露出の仕方がやわらかく深くしたたかで・・。その質感が観る側にすごく残るのです。アフターサイドの凜とした突き抜け方には、物語を最後まで押し切る説得力が生まれるパワーがあって、ビフォーの芝居からの艱難辛苦の時間をしっかり表現していました。

ホステスを演じた帯金ゆかりは丁寧な演技でキャラクターに地に足がついた実存感を与えていました。また場の雰囲気にある種の閉塞感を与えたり、どこか投げやりな感じを作り出したりという舞台全体の染め方が相変わらずうまい。それどころかその場の色を作る力に一層の磨きがかかった感じ。しかもそこに表層の色付けだけではなく、根をつくるような強さがあるのです。ビフォーの雰囲気に時間の経過が絶妙に加わったアフターのお芝居に、この人の天性の力を感じました。

森田祐吏の不動産屋は両バージョンでしたたかに物語を回していました。仲介という商売の特質からくる、時代を超えた普遍性のようなものをぶれずにしっかりと演じきって。流れるような滑らかな演技は一つのキャラクターにとどまらず舞台としての切れを作っていました。弁護士役の石井由多加には後ろ暗さのなかに繊細さがそこはかとなく織り込まれていました。単純に露骨な悪を演じるのではなく表皮から透けて見えるような悔いの色の度合いがすごくよいのです。きちんとキャラクターの背景が見える演技でありました。

ビフォーサイドのみの出演だった蕎麦屋役の志村剛からは実直なテンションが醸し出されていました。生活が圧迫されている様子が実感を持って伝わってくる。物語の周辺をきちんと固めるお芝居に好感が持てました。周辺を固めるという意味では警備員を演じた猿田モンキーも同様、おふだを持ってくるときのいつわりの脅えが伏線として強く効いてくる。ホラーのまがまがしさを作るには、こういう自然さへのデフォルメを持ったお芝居ができる役者が大事なのだろうなと思ったり。

オーナーの父を演じた鈴木歩己の亡霊役は、存在に説得力があって物語の結末をがっつりと支えていました。舞台のペースを微妙にずらして現と亡者の世界の時間差のようなものを作り出していく。亡霊の不気味さがビルをめぐるババ抜きの不毛さにすり替わるところがすごくしたたか。

フジタのくっきりとしたお芝居には観客にダイレクトにやってくるようなキャラクターの色がありました。不思議な存在感があってしなやかにキャラクターが夢見るもののあいまいさが伝わってくる。しかもどこか根なし草のような部分を伝えつつ、観る側にあざとさを感じさせないまっすぐな輝きを作れるのです。自然に観せておいて、あとから振りかえると力強い魅力が観る者に刷り込まれているような。けっこうユーティリティが広い役者さんになりそうな予感がしたことでした。

アフターのみ出演の役者たちも猛者ぞろい。小林タクシーが作る雰囲気がとにかく絶妙。飛び道具的な側面もあるキャラクターなのですが、物語にがっつりとかみ合っていて浮かないのです。それどころか観客に物語を俯瞰させるまでの演技のふくらみがあって、飛ばされたものが投げっぱなしにならず、ちゃんと残ってとて舞台の奥行きを大きくしていくのです。お芝居の色を自らだけに染めないような抑制がきちんと効いていて、内側に刺さるというよりは包み込むような質感を持った演技は、他の役者たちの強いお芝居を支えるしっかりとした柱にもなっていました。

細野今日子のお芝居には鋼の糸のような強さがありました。観た回にはちょっと気負いがあるようにも思えて台詞が一瞬乱れたりもしましたが、キャラクターが背負うものの重さに加えて、細かく編み込まれた彼女の内心の揺れが弾力を持って伝わってきました。赤を使った衣装をまとって不動産関係のキャリアウーマンを演じられるというのは(しかもすごく似合っていた)実は結構難しいと思うのですよ。それがケバくならずに知的な強さと美しさになってキャラクターの持つ能力をしっかりと後押しするのは、彼女が演じ上げる人物への細緻な表現の賜物だとおもうのです。

細野の部下を演じた白井妙美は普通の感覚を舞台上にしっかりと提示していました。ある意味基準線となるキャラクターなのですが、単純に普通を貫くのではなく、状況に応じて正攻法で舞台に密度を築いていくのです。表層のお芝居は他のキャラクターの色を支えるような感じ、でも観る側の深層にある価値観と共鳴するようなものがその裏側にしっかりと走っていて、観客の眼前にある世界から違和感をすっとそぎ落としていく。彼女の演技がスムースなだけでなくきちっと印象に残るのは、演じる者の普通さを足腰を使ってぐっと支えるような芝居力があるからだと思うのです。

岡安慶子はぱっとみたところ怪演なのですが、ビフォーと合わせてみるとすごくしたたかにフジタが作り上げた役を受け止めていることがわかります。ふたりで二つの作品のジャンクションをしっかりと努めてみせました。4年の時差で削ぎ取られたものと残る物が彼女たちからしっかりと見えるのです。何かを手放したような不思議な自由さを醸しながらその一方で芯に残る燃え尽きない想いのくすぶりが痛いほどに伝わってくる。それほど長い出番ではないのですが、何層もの想いをシームレスに演じ込んでいく、そのインパクトに目を見開きました。

金融業者を演じた田渕彰展の慇懃さの層の薄さは場の雰囲気にビシっとニュアンスを与えて。単純なヒールではなく中国資本と同じ匂いを作り出して物語の枠を固めてみせました。暴力団構成員を演じた図師光博はその業界の人間が内側に持つロジックを切れのある動きから滲ませて見せました。ふたりのお芝居には中国資本のやり方の対極の姿だけでなく共通する匂いを醸し出していて好演だったと思います。

それほど長い上演時間ではないのですが(それぞれ70分)、いろんなものが観終わってから鋭さをもって膨らんでくるのです。前回の「愛のルーシー」の時やそれ以前の公演を観た時にもそうだったのですが、自分の立っている場所の足もとの危うさにすっと心を縛られる。

進化した劇団役者に加えて充実の客演陣、やっぱりすごい。そのパワーが作り出した観る側の満腹感に加えて、ちょっと他の劇団にはない類の吸引力も再確認させられた今回の公演でありました。

R-Club

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