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空間ゼリー「暗ポップ」緻密さとその先

2009年8月26日と29日、空間ゼリー本公演「暗ポップ」を観ました。場所は赤坂レッドシアター。

見ごたえのある坪田ワールドを堪能してきました。

相対性理論の耳触りのよい曲が客入れ時に流れて・・・。ふっと見渡せば男性比率がとても高い客席・・・。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

グループセラピーが行われる病院の一角が舞台。参加者と医師、看護士たち、さらにはその病院の患者。それぞれの個性とコアの闇と回復の姿が描かれていきます。

冒頭のカウンセリング参加者たちの自己紹介の場面から観客を違和感に浸していきます。医師や看護師たちの人間臭い会話と、参加者たちのどこか偏った雰囲気から物語が動き出します。普通さと普通からの乖離。軽い性格障害から拒食症、対人障害や境界性人格障害の兆候といった部分であっても概念でなく丁寧にスケッチされていく。参加者=異常という図式ではなく、それぞれの姿が個性としてナチュラルなトーンの中で描かれていきます。

そこから抜け出せるもの、抜け出すことをせずにとどまるもの、出口の手前で後戻りしてしまうもの・・・。それぞれが他の救いとなったり刃物になったり・・・。

登場人物たちの変化の過程に「他人との関係性」がしだいに介在していきます。グループセラピーという世界のなかで、参加者にはいやおうなく他者とのかかわり合いがうまれ、相互に揺らぎが生まれていく。他との比較や依存の中で自分の姿をみつけ居場所を確認していく姿に、人間が否応なしに抱える闇の色やどろっとした生々しい生き様のコアが浮かんでくる。

さらには、その闇を抱えているのが、カウンセリングの参加者ばかりではなく医師とて普通に同じことであるという終盤のエピソードにも息を呑むのです。

役者たちの演じる個性がそのままこの作品に色やクオリティを重ねていくような感じ。

セラピーを主導する医師を演じた小川麻琴はキャラクターの陰陽を観客にしっかりとさらして見せました。やや硬質の演技でしたが、参加者に与える安心感と内側に抱えた揺れる心のアンバランスをうまく滲ませていたと思います。

同じく医師役の八木ひろあきは舞台上での中庸を作り上げていました。他の役者を生かしながらすっと自らの存在を舞台に載せるような器用さがあって。ただ、キャラクターの想いが籠るような印象があって、それが良い方に働く部分と残念な部分、両方あったように思います。

院長の息子を演じた深寅芥は、キャラクターの表層の軽さを作りつつ違和感なく医師としての熟練やプロフェッショナルとしての力量を表現してみせました。小川や八木のお芝居を絶妙に引き出すあたりもうまいなぁと瞠目。

キャラクターのプロフェッショナルとしての気概という点では猿田瑛も看護士のそれを奥行きを持って表現していたと思います。派手な演技ではないのですが、醸し出す深さに安心感があるのです。TAKERUには舞台の空間をうまく満たすような器用さがありました。彼のイケ面なのにちょっとダルな存在感に舞台の厚みが増していく。同じく看護士役の仙石みなみはひと色のキャラクターに徹して成功していました。物語の中での他のキャラクターの揺らぎが彼女の色の貫き方で鮮明に映えていく・・・。彼女のキャラクターのもつパターンのようなものがぶれがないことが、舞台の雰囲気を重くなりすぎないように安定させていたと思います。

セラピー参加舎の妹を演じた澤田由梨は斎藤ナツ子のお芝居をがんばって受けきった感じ。間がしっかりとしていて斎藤の演技とうまく色を作っていく・・・。自らのキャラクターをもう少し膨らませることもできたかとは思うのですが、一方で舞台の流れのなかできちんと演技の抑制ができていたようにも思えて・・・。

その斎藤ナツ子は対人障害の女性を繊細かつ大胆に演じてみせました。心から発するものが視線から指先までを伝わってやってきます。タイトになったキャラクターの心は、観る者を息を止め、心が開かれたときの表情は、観客の四肢をゆっくりと緩めていく。半田周平が演じる長期入院患者と花を眺める表情や、口紅をさすときの女性の素顔には常ならぬ輝きが生まれて。キャラクターを見つめるというよりはキャラクターの内側に観客が導かれるような感じがやってきます。やっぱりこの人只者ではない・・・。

半田周平には、ガラスのような心の安らぎと薬を飲まないに足りる内心が大きく表現できていました。その言葉のやわらかさに脆さが隠し糸のように縫い込まれているのです。百日紅の花を咲かせることへの執着が、執着するものを失った時の崩れを予感させて・・・。百日紅を人に見せたい気持ちは、自分が与えてほしいものの裏返しにも思えて。

斎藤が心を寄せることになる男性を演じた江賢は、容姿に加えてキャラクターの持つ潔癖さをしたたかに表現してみせました。自分のありたい姿と現実の軋轢に気付かない風が旨く表現されていて。1日早くセラピーを切り上げるような、自分の理想を維持する姿から、危うさが皮膚を染めるように浮きあがってくる。斎藤とのシーンでも、視点が斎藤から自らの内に移っていくような感じにぞくっときた。そこに見えるキャラクターの姿からでしょうか、物語のラストで電車を遅らせたのは、彼のような気がしてならなかったり。

軽い性格障害を持った女性を演じた西田愛李はある種怪演。役者としてキャラクターの理解がしっかりしているというか、ここ一番での心の厚化粧がうまくできていたように思います。ぎりぎりのところで一瞬薄皮のうちに浮かぶような本心が、うまいなぁと思うのです。仕事から逃避してきたライター役の塚田まい子は恣意的にやや硬質な演技でキャラクターの正常さと弱さの両面をソリッドに演じてみせました。突発的な怒りを抑えられない男を演じた岩田博之はキャラクターの心の移ろいをうまく演じきっていました。一気に怒りが頂点にいたるまでの迫力に観客も押されて。病識が自身を苛む部分もうまく表現されていたと思います。

阿部イズムの演技は突きぬけていました。視線の使い方や言葉の抑揚で舞台の空気を支配する。シニカルな言動や感情の爆発に違和感がないのです。しかも、単にヒールとして暴れるのでなく、実は彼自身の価値観に対してフェアであるというキャラクターの本質がきちんと表現できていて・・・。物語を回していく上でのアクセント的な役目も背負い、見事にやり遂げていました。

能登有沙はとても丁寧な演技で拒食症の高校生を表現していました。戯曲をつつがなく具現化していたし、背景に回っているときにも心が入っていて空間の密度を損なうことがない。十分に及第点のお芝居だったとは思います。その一方で、彼女のお芝居する力にはさらなる余白を感じたりもして。26日のお芝居からやってくる世界が29日にはひとまわり膨らんだようにも感じたし、斎藤とのやり取りなどをみていると、さらにキャラクターを広げることができる力が解放されていないようにも思えたり・・・。なにか化ける前の時限爆弾を観ているような気がしたことでした。

26日の観劇時には物語の前半のトーンと物語が展開していく後半の質感に若干のちぐはぐさを感じましたが、29日にはその溝もなくなっていました。舞台上の人物の姿に無意識に自分の正常さを確認していることにドキッとして。

坪田戯曲に織り込まれた仕掛けのしたたかさと深さがじわっと伝わってくる。深寅演出もこのクルーから絞れる出汁を十二分に絞った感じ。

そんなにどろどろした印象は受けないのですが、終わってみれば個々のキャラクターの質感がなにげに心に残っているのです

両日とも駅までの帰り道、やわらかくいろんな想いが降りてきて・・・。作品が持つ懐の深さにゆっくりと浸潤された事でした。

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