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こゆび侍「はちみつ」はまり込む危うい甘さ

2009年9月27日ソワレにて、こゆび侍第8回公演「はちみつ」を観ました。場所は王子小劇場。

こゆび侍は前回公演の「エスカルゴ」が今でも強い印象として残っています。また、味わい堂々が先日、作・演出の成島秀和の小品を上演したのもすごくよくて・・、あれやこれやで今回の公演をとても楽しみにいたしておりました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)

作・演出:成島秀和

商店街のちょっとおしゃれなはちみつ専門店、そこの店長とバイトの店員の物語。バイトの男子は映研に所属していて、自主制作の映画の主演をしたもらった後に、一旦振られた女の子を忘れられない。そこに女の子からふたたびのアプローチがあって。

一方の店長は隣の花屋さんの旦那とひそかに不倫中。その時間を楽しんでいる。

報われる恋ではないことが、はたから見ていてもわかるのに、それが止められないことに濃密な説得力があって、ただ息を呑んで二つの想いのゆく末を見つめていく感じ。

間に挟み込まれる幸せそうなはちみつ屋のお客夫婦や、初めて告白をするためのプレゼントを買いにくる学生、さらにはメイド喫茶の擬似的な愛のテイストなどが物語に厚みを作っていきます。まっとうな恋や代替の思いまで世の中にはあるのに、二人はアリ地獄にはまるように相手への想いに引きずり込まれていく。

働き蜂が憑かれたように働いて、一生に集めるというティースプーン一杯ぶんの蜜。その毒をも持った甘さを集めるために働き蜂が羽根を動かし続けることををいぶかしく思うことがないように、はちみつ屋の二人の愚かとも思える行為の必然性が、不思議な位に自然と観る者に伝わってくるのです。

バイト店員の友人の、負け続けた博打の続きに彼にかけようという感覚からにじみ出すテイストに取り込まれ、さらには舞台が満ちる中で、働き蜂が女王蜂に抱きしめられる時、聴こえてくる羽音の生々しさにぞくっときて・・・。なんというかある種の絶望的な盲目感やドミノ倒しのようにやってくるものへの無力な従属感に息を呑む感じ。

自らが意図しないものまでを女王蜂に奪われたそのあとに、蜜を失ったような愛を語り始める終幕の二人の会話の質感もすごく研がれていて。また、シャッターを叩く音は二人の想いを観る側に打ちつけていくようにも感じるのですが、それより、シャッターを叩けばたたくほどに広がっていく「空」のような感覚にがっつり染められて。

最後に荒れた店を片付けながら二人が交わす訥々とした言葉にもやられた。前回公演に続いて非常に印象の強い、まさに出色の舞台でありました。

役者も本当によくて。

ハマカワフミエには舞台の時間を止めるほどの一瞬を作り出す力がありました。単なる性悪な娘にとどまらない純真さの匂いや相手を蟲惑するようなオーラがあって、しかもその出し入れが絹のようにしなやかなのです。たくさんの引き出しをもった女優さんであることは過去に観た彼女のお芝居で知っていたのですが、今回の彼女には一つの引き出しからなにかを取り出すのではなく、いくつもの引き出しを開け放ってさらなる色を作り出すような凄味すらあって・・・。また、ハマカワに引き込まれる店員役の安藤理樹が大好演。どこか冷静な部分を観客に示しながら、何かに憑かれたがごとく走り出す姿にがっつりとした説得力がありました。安藤はPrefix2で一度観た覚えがあるのですが、その時とは全く異なる印象で・・・。舞台のトーンを見事に作り上げていたと思います。

ハマカワのイマ彼を演じた板橋駿谷もどこか人を喰ったようなキャラクターの雰囲気や性格を丹念に演じてみせました。やわらかなお芝居の中にハマカワが演じる女性を引き付けるようなフェロモンを内在しているように感じさせるところがすごい。

はちみつ屋さんの店長役を演じた佐藤みゆきのお芝居にも力がありました。今回は30才の女性という設定で、落着きを出すというかじっくりと抑えたお芝居でしたが、演技の広がりが大きいというか、キャラクターの内にある炎の色や熱が絶妙な力加減で観る側に伝わってくるのです。また、他のシーンが前面で続く間にも後方で時間をしっかり刻みながら、時の流れや次第にたまっていく蜜の存在を暗示するお芝居も効果的。暗めの舞台のなかでもニュアンスをしっかりと作る力が彼女にはあって。そうそう、不倫の現場シーンに生まれる空気のしなやかさにも目を見張りました。安藤とともに作り上げた終盤のテイストも本当に秀逸。

佐藤の不倫相手を演じたNARUも、内側にだらしなさというかチープな感じをもった男の匂いをきっちりと作りだしていました。こう、どこかにまとわりつくような薄さを観客に感じさせて・・・。それが佐藤の演じる女性に潜んだ愚かさをうまく際立たせていました。さらに、男の奥さん役を演じた根岸絵美の演技にも力量を感じました。LeDECOで観た短編や「佐藤の。」での彼女の男役を観た時にも強く感じたことなのですが、この人にはジェンダーが持つ色を強く深く伝える力があって。彼女のお芝居だから、キャラクターが「女」の想いではちみつ店を壊してしまうような常軌を逸した行為を導くことにも、すっと納得できたような感じがするのです。NARUが演じる男性をがっつりと動かす力が表現できていたと思います。

バイト店員の友人を演じた矢澤勇輝福島崇之はそれぞれの色を持って、ふつうの映研部員を演じてみせました。普通さを実直に表現する感じなのですが、安藤が演じる揺らぎともすごくナチュラルにマッチしているというか、3人の時間に変なべたつきや、あるいは逆に空々しさがないのがとてもよい。積み立てたお金が安藤に渡るときの二人のお芝居は勢いがありながらきめ細かくて、安藤の想いや狂気にも似た愚かさがしっかりと浮かび上がっておりました。

メイドを演じた二人も味のあるお芝居でした。遠藤友香理のお芝居には役をがっつり取り込んだような安定感があって・・・。カムヰヤッセンでの演技などと比較するとけれんもたっぷりなのですが、まったくぶれない感じ、よしんばメイド口調であってもお芝居に腰が据わっているというか本当に瑞々しく安定しているのです。そもそもメイド姿の魅力をきちんと醸し出していることもすごいのですが、その上に観る側が安心して身をゆだねられる感じまでを作り出していて、この人やはりただものではありません。廣瀬友美の演じるメイドから滲み出る包容力にもなんともいえない味があって。母性とある種の天然がきちんと舞台上で癒しを生んでいて。すっとシーンをメイドの時間に染めるような器用さもあって、その色が物語の底辺を広げていたように思います。さらには二人が演じるメイドの時間を離れた女性の姿にもたっぷりの実存感があってうまいなぁと感じたことでした。

山本真由美加藤律ははちみつ屋を訪れる夫婦を適切なデフォルメとともに演じていました。こう、お互いを信頼し合うよい夫婦という感じががっつりと表現されていて。山本が演じる奥さんの雰囲気と加藤の思いやりに溢れた夫にはなんともいえない実存感があって。そのテイストがはちみつ屋の二人の恋愛の陰影を深く作り上げていたような気がします。川連太陽が演じる高校生の、まっすぐな演技も、どこか笑いを誘うような力があって舞台の色を豊かにしていました。

音楽の使い方にもセンスを感じて。舞台装置にも工夫があって、破壊後の背景ボードの使い方などもとてもよいアイデアかと。それと照明がすごくきれい。明かりが次第にはちみつ色に染まっていくシーンなどには目を見張りました。また、照らすだけでなくものを言うような照明の使い方が何箇所かあってそれにも感心しました。

それにつけても、したたかな脚本だと思うのですよ。成島作劇でなければ表せないようなニュアンスというか感覚を前作「エスカルゴ」同様に本作でも強く感じて。不可避な愚かさを駆け抜けた後、佐藤と安藤が舞台に作り出した空気の不思議な軽さがなんとも心に残って。

不揮発性のなにかを反芻するように駅への帰り道をたどった事でした。

R-Club

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TorinGi「捨てる。」重ね方の秀逸

遅くなってしまいましたが、2009年9月21日18時の回でTorinGi「捨てる。」を観てきました。場所はエビス駅前バー。

それほど大きくないビルの3Fに会場はありました。中に入ると典型的なバー。カウンター奥の棚には普通にお酒が並べられていて・・・。

しいて言えば焼酎の種類がちょっと多い感じ。

(ここからネタばれがあります十分ご注意ください)

内部にはトールスツールと丸椅子、合わせて20人ほどの客席がしつらえてありました。一番奥の3人掛けのテーブルとカウンター席が舞台という趣向。

木戸銭&ワンオーダーのシステムで必ず飲み物をオーダーさせるのはそんなに珍しくないやりかたですが、今回のお芝居ではその店のドリンクを楽しみながら開演を待つというやり方で観客から観た舞台の敷居がすっと低く感じられたり。

演じられるのは3組のお客の会話劇。

作:米内山陽子  演出:池田智哉

まったくの閉塞空間ではない場所で、登場人物たちの身内の話を漏れ聞くという観客としての視点設定、なかなかおしゃれだと思いました。なんというか観る場所と同化してすっと入っていけるのです。その距離感で導入部分で示されるバーの店員やひとりで待ち合わせをしている女性客の存在が、うまく個々の物語に取り込んでいきます。

最初のお客は結婚式帰りの3人づれ。店への入り方にも登場人物たちのパーティ帰りの高揚があって。

3人は花婿の姉といとこたちらしい。小さいころから互いを知り合っている関係。ワインの種類を決めるあたりの表現もうまいと思うのですよ。親戚という連帯感の中で1本のボトルを頼む。白にするか赤にするかに彼らの間での依存と寛容と妥協の関係がうまく込められて・・・。

でも、それぞれの性格を知り尽くしても、いとこの間は最近やや疎遠らしく、お互いの近況報告などの会話からはじまって。そこから3人がそれぞれに相手に対して抱くものが浮き彫りになっていきます。文学少女で小説家を志していた花婿の姉への憧れがあって出版社に入った従妹。女性としての憧れをもってずっと花婿の姉を眺めていた従弟。日々の生活やあこがれていた仕事や抱き続けた恋心、親戚どうしだからこその愛憎。

やがて、1本目のワインボトルが開くころには、それぞれが触媒となるように過去のことや今の閉塞感のようなものが溢れでて、バーという場所での会話のルールをやや逸脱し始めて・・・。トイレを活用して作られる2人のシーンから従姉弟どおしの秘めた関係までがあらわになっていきます。

長岡初奈の見栄というか強がりと、その内側にあるわだかまりなどがすごく実直に伝わってくる。熊谷高太郎の一途さにはバックボーンが感じられるのがよい。こうお芝居のなかに過去からのつながりを咀嚼した上での想いが伝わってくるのです。蒻崎今日子はふたりの想いを受ける広さに加えて、彼女が抑え込んでいるなにかを複雑な重さとともに隠すしたたかさがあって。それが3人の過ごしてきた、血縁のにおいのようなものを絶妙に醸し出してくれるのです。彼女が内側に抱えている、そのなにかが終盤の伏線としてがっつり生きることにも瞠目。お芝居の作りを骨太に支える好演だったと思います。

ふた組目のお客は兄弟、東京で暮す弟のところに実家を守る姉が上京してきて・・・。

それぞれの生活の閉塞感があけすけに伝わってきます。弟は漫画家でやっと少しだけ安定してきたところ。姉は田舎の空気に嫌気がさしている・・。でも、両親が経営している会社のことがあって、姉は田舎を離れられないという。田舎から出たい姉は弟に実家を継ぐように求めるのですが・・・。

姉を演じた中村貴子には、酔いに任せて電車道のごとく舞台を押し切るキャラクターのパワーを存分に表す演技の力量があって、その一方で女心の初々しさを繊細に織り込めるような器用さが彼女が上京してきた理由にピュアな切なさを与えていました。弟役の福原冠は中村の芝居の受けに回りながらも存在感を巧みにリティを育んで、キャラクターが東京にとどまる感覚を観る側にしっかりと伝えていました。姉の大冒険を否定できない弟の気持ちになんともいえないテイストを与えていて、実直さと巧みさのバランスがすごくよい演技だったと思います。

姉弟が店を去ると、待ち合わせをしている女性客の物語に・・・。

両親の離婚二加えて母親の再婚で親戚に預けられた女性と生き別れのようになっていた実父の対面。男の取り繕わない正直さと女性の醒めた感覚のすれ違いにどきどきと引き込まれます。親子という強い血縁に繋がれていても、二人の間に横たわる空白の時間が満たされるわけもなく、空洞の時間の両岸でお互いの想いがかたられていくような・・・。父親役の山内一生から伝わってくるキャラクターには言葉にできないような実直さがあって、それが正しいかどうかは別にして、そうならざるを得ないというような説得力があるのです。それが、細井里佳のもつ聡明な雰囲気と不思議な接点を生みだして・・。待ち合わせの客として、他のエピソードにも絡んだことで、細井の演じるキャラクターがうまく観客に示唆されていて、それゆえ彼女の内心にある孤独がグラスの酒にやわらかく麻痺していく感じにえもいえない深さがあって息を呑む。バーであるということで、お酒の使われ方がここでもすごく効果的。

演出も兼ねた池田智哉は、役者としても抜群の間を持っていているような。バーカウンターの中で物語の密度をうまくコントロールしていました。

三つ目のエピソードの終わり方も、洒脱で私的には大好き。

それにつけてもしたたかな良い脚本だと思うのですよ。ミルフィーユのように登場人物の想いが重ねられ、3つの物語がやわらかく繋がっていくような感じ。小さな感情の揺れが幾重にも書き込まれていて、それがほどけていく口当たりもきちんと納得ができるのです。心地よさとどろっとした人間関係が、なんというか不思議な調和を持っていて・・・。次第にあらわになってくる人のつながりや過去に、したたかに引っ張り込まれる感じ。米山内作品、もっともっと色々と見たくなりました。

そうそう、ふっと思ったこと。今回はシルバーウィークの公演を観たわけですが、平日の夜、ちょっと遅め(20時とか、今回のように21時もあるみたいな)にこんなお芝居、なかなか素敵かとも思ったり。東京のように成熟した街には、こういう雰囲気でたのしむ演劇も、とても似合いそうな気がするのです。

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chon-muop「夜の口笛」ゆっくりと常ならぬものへ

2009年9月19日ソワレにてchon muop#6「夜の口笛」を観ました。場所は仙川のniwa-coya。

劇団から丁寧な道案内のメールを頂いて、さして迷うこともなく到着。建物の持つ雰囲気に包み込まれるように開演を待ちます。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ)

台本・演出:櫻井拓見

木造のやわらかい雰囲気に満たされた喫茶店での公演。開場時から流れる時間がそのまま物語につながっていきます。手作り感いっぱいのカフェの雰囲気がそのまま借景になって・・・。

ふたりの女性の会話がすごくヴィヴィッド。

客入れ中から時々練習する「三ツ矢サイダーの歌」(!?)

歌遊びのような感じなのですが、導入部分から観客をちょっと楽しくさせるようなグルーブ感があって、観て聴いて心地よく・・・。

それがカフェの雰囲気に実存感を与えてくれます。一方でずっと客入れ時から奥のテーブで眠っている役者さんのお芝居があったり・・。

客入れの時間が終わって気がつけばお芝居の時間にそのまま導かれています。無口なマスターが現れて。客入れの時間がいつしか芝居の内側に塗りかえられている感じ。

眠っている女性が目覚めたり、途中で乱入してくる男がいたりで、木造りの家の雰囲気が少しずつ変わっていくのですが、それらを、なんていうのか、すごく自然に受け入れることができるのです。個々の役者が自然な肌合いで織り込む小さなお芝居のデフォルメが、古くて家の魂が宿るようなカフェを妖もいっしょに過ごせる世界へとすこしずつずらしていく。

ドアのきしみ音や窓ガラスの揺れる音。コーヒーの味比べが物語のモチーフを浮かび上がらせて・・・。

夜に口笛をふいてはいけないよ・・・とか、ことひこ(?)のこととかも含めて、この場所にあるものが、観る者の呼吸にまで入り込んでくるように思えてくるのです。だからこそマスターと眠っていた女性の対峙する時間、マスターの表情の変化に息を呑んで。

終盤、そっとどんくりを添えた女性のお代の置き方が、とてもほほえましく感じられて。気がつけば常ならぬ世界と流れる時間にやわらかくしっかりと取り込まれておりました。

役者のこと、二人の女性、菊地千里たけうちみずゑは前述のとおり、なにか木造の家に息吹を与えるような勢いがありました。菊地の所作にはなにげない切れがあって観ていて小気味よい。一方たけうちはキャラクターのどこか底知れぬ強さをしたたかに表現してみせました。でも、明るく元気というよりはふたりの時間をつぶしている感じが実感として伝わってきて。

途中で入ってくる男を演じた田中晶は、その場になじむぎりぎりのインパクトとウィットを具現化させてみせました。大仰さが醸し出す不気味さとおかしさの配分が絶妙。マスター役を演じた渋谷橙は、ストイックな感じのマスターをテンションを持ちつつも気負わずに演じて・・・。二人の女性との距離感のようなものが観る者ちょっとしたキャラクターの気難しさのようなものを感じさせます。それが後半のヤスミとのお芝居にしっかりとつながっていました。

その眠っていた女性、ヤスミを演じた中村智弓は彼女の時間を滑らかに作り出していました。彼女に訪れる眠りがすごく心地よさそうで・・・。一方で豊かな感受性が観る者につたわってくる。その雰囲気がすっと木造の建物全体の時間を取り込んでいくようで・・・。

お芝居が終わって、アンケートを書きながら、ふっと自分の見えているものが従前と違っているような錯覚にとらわれたり。

コーヒーの香りをお土産にいただいて、ちょっとふわっとした気持の帰り道。最寄駅から家まで、すこし遠回りのお散歩をしたくなったり。

家の近くの欅並木、風の音が何かのささやきとも思えた事でした。

余談です。

場所が不安だったので開場時間前について、入場と同時に席の選択になやむ。奥側の並びのできるだけ見切れのすくない入り口の方だと役者の方の表情がよく見える。(私が座ったのかここ)。一方で舞台というかお芝居全体を俯瞰するのであれば入り口がわの席の方が良席かも・・・。早く着いたものの特典としてこういう選択もちょっと楽しかったり。まあ、どの席であっても、この近さでこのクオリティのお芝居を観るのは、凄く贅沢なことかと。23日までの全公演が完売になるのも至極うなづけるのです。

ワンドリンク付きとのことで、ミントティをいただいたのですが、これもすっきりとしていて美味しゅうございました。

ちなみに、今回の芝居と劇団が11月末におこなうお芝居は、共にヤスミさんの日記として「100の耳打ち」というブログにUPされている出来事と結び付けれらているとのこと。観劇前にはざっと流し読んだだけだったので、気がつかないところもあったのですが、帰ってから読み返んで思わずうなずくところがあって・・・。同時に仙川劇場での次回公演も是非に拝見したくなりました。

(ブログのリンクについて、問題があるようでしたらご指導ください。対応いたします。)

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MU「神様はいない」味の濃い不気味さ

すこし前になりますが、先日のMUの公演、「神様はいない」の感想です。

もう一本の「片思い撲滅倶楽部」とは全く異なった、ハードテイストな作品でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ)

とあるお蕎麦屋さんのお話。

どうやらあまりはやっていないらしい。そこには実直に蕎麦屋を営む長男とちょっとチンピラっぽい次男、さらにバイトがいて、次男が・・・。それと小説家の長女がいる。

長女が自らの想いをぶちまけた小説は難航している様子。しかし幼馴染の編集者が書かせた万人受けをするような作品は屈辱的に思えて・・・。彼女が書きたいと思う何か、それは編集者ですらコントロールできないような衝動を伴っていて・・・。

そのうちに、長男と次男は新興宗教にはまっていきます。流行らないお蕎麦屋さんの兄弟が現世利益にはまっていく姿と、神を内心に宿らせた妹との似て非なる心の移ろいが丁寧に描かれていきます。

兄弟が宗教に取り込まれていく姿には粟立つような不気味さがあって・・・。自由を標榜し、蜜の味でたらしこんで信者を蟻地獄に惹きこんでいく姿からは、独善のなす恐ろしさがたっぷりと溢れだして、微笑みとともに宗教の振りかざす正義に底知れぬ恐ろしさを感じて。

その一方で、長女の内心に潜む神とのさらなる葛藤とそれゆえの破壊への衝動も浮き彫りにされていく。次男が日本に連れてきたという留学生の存在が、したたかに長女の想いを照らしていきます。

新興宗教が他の宗教の排他を正として暴走を始めるとき、小さなカタストロフが起こって・・・。

内心に広がる世界と現実の切り分けというか、現実の教条が内心の色に介入することへの不気味さや恐ろしさが、ラストシーンの雨の音とともにじわっと伝わって。

作・演出:ハセガワアユムの慧眼に改めて息を呑んだ事でした。

役者のこと。長谷川恵一郎は、宗教の持つ表面を着実に表現していました。柔和のなかに内に秘めた企みのようなものがしっかりと滲みでていたと思います。商店会の会長役を演じた杉本隆幸には、宗教に盲信する人間のぞっとするような素直さがあって。その宗教の色をうまく作り上げていました。

お蕎麦屋さんの長男役を演じた小林至の葛藤には力がありました。きちんと醒めた感じを残しながら、店の存続のために宗教に足を踏み入れる姿に、新興宗教のもつ相手の弱さを突くずるさを感じさせて。次男の芦原健介のスムーズさが醸し出す軽いノリが小林のお芝居とよい対象を見せて。蕎麦屋さんの家族という枠をうまく感じさせるお芝居で舞台の枠を構築していました。バイト役の寺部智英もニュートラルの危うさをそこはかとなくにじませる好演でした。外国人留学生役のカトウシンスケは、表層的な雰囲気のなかに、思索的な色をしなやかに織り交ぜていました。長女の小説へのシンパシーの表現で長女が内心に抱くものを代弁するような役回りをしっかりと演じきって。

編集者役の橋本恵一郎は、無味になりかねない編集者の役柄をしっかりと作り上げて物語のトーンを維持してみせました。この人が舞台に立っていると、物語に立体感が生まれ実感として感じられます。よしんばパンツをかぶった演技であってもも、人間的な息づかいが舞台に与えられるのです。彼の存在で舞台全体に安定感が生まれていたと思います。

長女を演じた足利彩のお芝居には強いインパクトがありました。抱える物の重さとどこか空洞のような心の隙間がうまく表現されていたと思います。ちょっとさばさばした感じが彼女が抱えた苦悩を一層引き立たせて。なにか底知れない闇を突発的に吹き抜ける風の音が彼女のお芝居から聞こえてくるような感じ・・・。小説を描く者の内心と受け入れられる表現との折り合いの部分もナチュラルな感じで表層に対する中庸さやその揺らぎも伝わってくるだけに、その内側にある色から目が離せない。それは神の不在に入り込んでくるだけでなく、神が存在する者の内心への干渉を図る新興宗教の狂気を一層浮き立たせていくのです。

終わって、ふっと息をついて、それでもどこかまとわりつくような感覚が消えることはありませんでした。

なんというか、今を描いた作品ですから、やってくる感覚の強さもひとしおなのですよ。ちょっと的外れなのかもしれませんが、癌細胞のように入り込んでくる新興宗教の恐怖と「キャバレー」などが描いたファシズムの台頭が結びついたりもして・・・。

舞台が「今」を違和感なくスケッチしているだけに、ほんと、やわらかく締め付けられるようにいろいろと考えてしまいました。

R-Club

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MU 「恋愛撲滅倶楽部」見えない糸を現す力

2009年9月10日、MUの「片思い撲滅倶楽部」を観てきました。コミカルなテイスト。でも、偏光板を回すようにみえてくる、恋する想いの向こう側にぞくっとするような作品でした。

(ここからネタばれがあります。ご留意ください)

とある結婚相談所の話。ちょっとドライな女社長、会社設立に援助をもらった愛人関係の男に浮気をされて、その意趣返しに相手の女性を自分の会社に拘束してしまいます。ところが、その女性には恋愛の赤い糸が見えるというとんでもない能力があって・・・。

ちょっとしたドタバタ劇なのですが、それをただ笑ってみることができないのは、表層的な相性とか「べき」論で人を思う気持ちと、人を好きになるという自分でもコントロールできない内心の気持ちの乖離が鮮やかに描かれているから。

赤い糸は思う人へのベクトルのようなもの。表層的な相性でしかカップリングを行なうことができないはずなのに、赤い糸が見えるその女性がカップリングをすることによって、驚異的なレートでカップルが誕生していきます。しかし、相性の良さだけで人は満たされ続けるわけではなく、人の気持ちはうつろうもので・・・。

作・演出のハセガワアユムは、結婚相談所の経営というドライな側面を借景に、広告塔ともなるべき有名人のカップリングなどをエピソードとしてしたたかに織り込みながら、「恋愛」という概念と必ずしも一致しない「想う」気持ちをしたたかに舞台に浮かび上がらせていきます。その女性は、人に思われたいという気持ちはあっても人を想う気持ちが欠如している女社長に、赤い糸を観る力を渡す・・・。そこに見えたものの生々しさに愕然とするというか、ちょっと後ずさりしてしまうのは女社長ばかりではないわけで・・・。

しかも、刹那で現すだけではなく、その糸がからまったり外れたりすることまでを表現した物語の広がりに舌を巻いたことでした。

役者のこと、堀川炎は内心にある心のブランクを鮮やかに描いてみせました。動きに切れがあって、それゆえ彼女が演じる孤独にエッジの効いた深さがあって。観ているものにキャラクターの感情がまっすぐにやってくる。それは佐々木なふみの醸し出す人を想う気持ちの豊かさとぞくっとするほどの対比を作っていきます。佐々木の演じるキャラクターに込められた「天然」的な雰囲気にはひたすら瞠目、もう芸術的・・・。二人が絡むシーンにはさりげなく果てしなく深い奥行きが生まれておりました。

結婚相談所の職員たちの個性もしっかりと立っていたと思います。浅倉洋介のプロフェッショナルな部分には説得力があって、躁的な雰囲気にもよいノリが感じられました。男のいやらしさのじとっとした部分と、仕事にかかわるときの切れの対比がうまく切り分けられていて。川本喬介の神経質さにも実存感がありました。キャラクターの実直さがしっかりと伝わってくる・・・。ストレスをこういう風に負うと胃がおかしくなるよなぁ・・と、お芝居からきちんと連想させてくれるのです。石川ユリコが演じる新人社員のどこか普通な感じも細かい演技に支えられていたと思います。小心さと開き直りの部分のバランスもとてもよくて。

元吉庸泰はひりひりするようなキャラクターのコアを、切れをもった演技で現出させて見せました。女性を引き付けるような匂いを作り上げる一方で、ヒール的な部分とピュアさがきちんと見えるお芝居。うまく共存しているなあと感心。

チェリーボーイ的な雰囲気をうまく演じたのが松下幸史。会話する相手によって色をコントロールしながらキャラクターのピュアな部分と得体の知れない部分をそれぞれに舞台に存在させました。

声優を演じた大久保ちかは、松下と同じにおいをシンクロさせながら、彼女自身がもつ頑迷な部分とさらに内側にあるガラスのようなコアを作り出していました。「タレント」的な魅力というかカリスマ性も折り込みながら、素の部分を垣間見せるように演じていく。それがすごく自然にとけあって、ひとつのキャラクターとして観る者に伝わってくるのです。マネージャーを演じた辻沢綾香は今回も大好演。この人は観るたびにお芝居が豊かになっていくような感じがします。当日パンフによると40代という設定なのですが、彼女は実年齢をキャラクターの若づくりに置き換えて、その上にキャラクターがその人生で得たであろうなにかを雰囲気としてちりばめて齢を作っていく。色のはっきりしたお芝居ができる人で、でもキャリアを積んだ女性ならではの経験則が織り込まれたような緻密さは塗りつぶされることなく観客に伝わってくるのです。そこにはマネージャーを生業とする「仕事をする女性」が見事に現出しておりました。

成川知也はキャラクターのだらしない部分をウィットを持って演じながら、したたかに経営者としての懐の深さも折り込んでみせました。舞台のトーンを包括的にコントロールできる役者さんで、今回もしなやかなお芝居で物語の印象を構築していたように思います。堀川のキャラクターも佐々木のキャラクターも彼の芝居と絡むとくっきり見えてくる。相手を大きく生かす彼の才能を改めて感じた事でした。

***** *****

観終わって、「恋愛」とか「結婚」という概念を甲冑のようにまとっても、人が相手を愛する気持ちはそれぞれにビビッドなものなのだと、今更ながらに気がついて・・・。

カジュアルな雰囲気の中に人が「想う」気持ちの普遍性がしたたかに折り込まれ、口当たりがよく深さをもったこの作品。たっぷり楽しみ、心を豊かにして劇場を後にした事でした。

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吾妻橋ダンスクロッシング より魅せる舞台

2009年9月12日、吾妻橋ダンスクロッシングを観てきました。たっぷり充実の舞台でございました。

個々の作品についての印象を自分のメモを兼ねて・・・・。

(ここから舞台の内容が含まれます。ネタばれが含まれることにご留意ください)

今回は前回にくらべてイベント的な内容が減って、舞台を見せることを重視した感じ。ダンスエリアがなくなり椅子座席が大幅に増えて舞台を観る時の居心地がかなり改善されていました。トイレがアートスペースになっていたのにはちょっとびっくり。最初トイレの現場感に本当にそこで用を足してよいのか迷ったほど・・・。

ワンドリンクフリー。今回も快快がフードのお店を出店していました。前回とちがってシングルメニューでちょっととまどう。でもこの「ジャークチキンサンド」、舞台を観るには恐ろしく優れていて・・・。

・持ちやすく食べやすい。厚めのブレッドにしっかりチキンが守られて崩れにくく、パッケージから食べていても手が汚れず、バラケてしまうような粗相がないのです。

・匂いが強くないのがよい。ものを食べるときにその匂いがまわりにするのはかなり不調法なもの。でも今回のメニューはブレッドの内側に匂いが閉じ込められている感じで、周りを気にせずに食べることができるのです

・おいしい。いやぁ、本当においしかったです。チキンの味の良さだけがたっぷりあって、鳥の厭味がまったくない・・。ソースというか味付けが絶妙なのです。フルーティな酸味や野菜のうまみも加わってけっこう複雑な味なのですが、それらがきちんと居場所をみつけている感じ。しかも、食べるまでは抑えられていたかおりも口の中にはいっぱいに広がって、これも不思議。ビールにも実によく合いました。

・ボリュームがある。おいしさに取り込まれて夢中で平らげてしまったのですが、実はボリュームがあって。おなかベコベコで入場して、これ一個を食べただけでしたが、3時間の公演中空腹を感じることはまったくありませんでした

で、食べ終わって一段落すると舞台が始まります。場内は超満員です。

・ハイテク・ボクデス「無機Land」

いろんな「物」だけでのパフォーマンス。それらの動きの連続から無機質な時間が作りだされていきます。

単純に面白いかといわれると多少首を傾げるしかないのですが、でも、物たちの動きに感情移入を始めている自分がいてちょっとびっくりする。記号が自分の意志にかかわらず自らの感情を広げていく不思議。

パフォーマンスとしてはボーダーに位置付けられるような作品かと思うのですが、ちょっと頭が刺激された感じもあって、なかなか素敵な冒頭でありました。

・contact Gonzo「(non Title)」

前回も拝見したのですが、より動きに無駄がなくなってスピリッツが純化された感じがしました。肉体を押しつけながらその空間に入り込んでいく感じに麻薬のような引力がある。観ていて、うっとこちらが顔を背けるような殴打もあるのですが、一方で力のバランスする一瞬に安定した感覚が混在したりもして、気が付くと目が離せなくなっていました。

時間の感覚を失うように見入ってしまいました。

・チェルフィッチュ「ホットペッパー」

独自のメソッドに雰囲気がうまく切り取られて、3人の派遣社員が醸し出す仲間の送別会に対するやり取りの空気が、溢れるように舞台に醸成されていきます。

この実存感、半端ではありません。会社勤めをしている人間にとっては笑えないほどのリアリティがあって。

身体表現とセリフの不思議な一体感は、彼らの本公演よりむしろ鮮烈に感じるほど。一人ずつの独立した空気とその融合や乖離の距離感に目を見張り、役者たちの力にも息を呑みました。

・ほうほう堂「あ、犬」

個人的には好きなたぐいの時間・空間が舞台に生まれていました。繊細さがあって、でも粘り強く表現を貫く強さが存在している・・。

たわいのない時間なのだとも思うのですよ。でもそれが身体にうまくのって瑞々しく具現化されている感じ。

なにか観ていてこちら側がすっと彼女たちの空気に染まってしまうような。彼女たちから生まれる世界に魅了されました。

・快快[faifai]「ジャークチキン~それはジャマイカの食べ物」

場内で販売している「ジャークチキンサンド」の宣伝をモチーフにしたパフォーマンス。

明るく気持ちよく突き抜けていました。コックの姿や肉の焼ける音、シーンを劇的にもりあげる音楽や照明まではほほえましいくらいの感じだったのですが、そこに送風機と化け物のような蛇腹のダクトを使っての装置で臭覚、さらには観客を引き込んで味覚や触感までを現わすあたりで、目指している表現が五感を跳び超えて第六感辺りまで広がっていることに気がついて・・・。最後にジャークチキンサンドの世界観のような部分にまで運ばれると、これはもう立派な芸術表現の域。なにか観ていてわくわくしてしまった。

それを粛々とやり通す彼らの力に、素直に感動してしまいました。

・休憩

トイレにいってChim↑Pomのインスタレーションを鑑賞。なにか工事場のようなトイレでした。

・鉄割アルバトロスケット「馬鹿舞伎」「園まなぶ」「焼鳥の串」「おれの母ちゃん何処行った?」

冒頭の「馬鹿舞伎」にまずやられました。その浄瑠璃風な語りが絶妙にうまいのです。ここ一番の盛り上がりで隣の男のヘルメットを叩くあたりからもうおなかが痛くなるほど笑いました。しっかりと唸っている聞かせどころの部分で突然現代口語のような語りが一節だけ入るところがまたおかしくて。そもそも、ああいう貧乏神官のような衣装、どうやって考え付くのだろう・・・。この雰囲気すごい。後ろを向いてプラバケツを鼓にする女性もそれだけで印象が強烈で・・・。

そのあとの出し物もどこか尋常でない飛び方をしていて。レバー串の見立てにちょいと時事ネタの匂いをかもし出すところにぞくっと来たり。

11月にすずなりで公演があるようで・・・、是非に見に行きたくなりました。

・Line京急「吉行和子(ダブバージョン)」

手法的にはチェルフィッチュの匂いがかなり強くするのですが、チェルフィッチュの作品から比べると、個々のシーンの密度よりも作品全体を貫く雰囲気から物語を浮かばせていくような傾向があって。村松翔子の演技はどこか漫画チックなのですが、でもそこから浮かび上がってくる人物像が絶妙にリアルなのです。スタイリッシュで下世話な感じが身体表現まで含めた演技でがっつりなされていて。

「メモリーグラス」という曲が持っている雰囲気をデフォルメするセンスも抜群で・・。

私的には大好きなテイストを持った作品。気がつけば、彼らの不思議な世界にしっかり取り込まれておりました。

・いとうせいこう feat.康本雅子「VOiCES」

舞台は康本雅子の動きから始まります。光の少ない中での鼓動の始まりのような動き・・・。そこに、音楽といとうせいこうの語りが重なると、彼女の表現しているものが次第に色を増してくる。過去の彼女の作品はミクロに向かっての高密度で観る者を圧倒していましたが、この作品では大きく流れる時間の躍動や揺らぎを強く深く紡いでいきます。

いとうせいこうは[9.11]をメインに戦いの犠牲になっていった人々への哀悼を冷徹に語り続けます。過去への後悔を含んだ史観の主張が熱を帯びてくる。しかし、その熱をあざ笑うように康本がもっと大きな時間の揺らぎを表現していくのです。語りが声高になればなるほど、その言葉を凌駕する康本の描く時間のしなやかさや大きさが増していく。息をのむほどに強く圧倒的に康本から伝わってくる時間の流れに、歴史の残渣への邂逅から導かれる教条的なセンチメンタリズムなど脆く小さなものに思えてしまうのです。

それが舞台を作る側の意図したものかどうかもよくわかりません。いとうせいこうの言葉が康本の創出した世界に凌駕されることが本当の作り手側の意志だったのかも不明・・・。

でも、そんなことよりも、ただただ、康本が表現する人の歴史をもてあそぶほどのみずみずしい力に心を奪われた事でした。

・飴屋法水「顔に味噌」

宮沢賢治の童話「よだかの星」の冒頭が朗読されるところから舞台は始まります。フェンシングによる戦いのイメージがそこに重なって・・・。男はその名をロミオに変えるよう強いられて・・・。

そこから、幾つものコンセプトの軸が重なっていきます。

さまざまな国籍の人々がラインを作って、手拍子でリズムを刻みそれぞれの生活や感情の断片を語り始めます。ラインから伝わってくる彼らの今は、目を見張るほど瑞々しく思えて。観ているだけでどきどきしてしまう。

舞台前方に導かれたジュリエットのようなお姫様は、ドレスを脱いで化粧を落とし、さらにはあたかも知識や経験を重ねるように味噌を顔に塗りたくられていく。それは、童話の描写と交わりながら、同時に人が齢を重ねていく姿の早送りのようにも思えて。あるいは、日々の時間が一拍手ごとに刻まれる中で、人が容姿の美しさや闘争心を捨てて、経験した時間をまとう姿のごとく感じられるのです。

最後に老人がゆっくりと現れて、「よだかの星」の後半の部分を朗読します。人が生きる時間を俯瞰する場所に連れてこられたような気持ちになって。どうしてよいのかわからないほどの想いがやってきて、呆然。

その感触は自らの日々の重なりにまでつながる。齢を重ねるということはこういうことなのかと思う・・・。

観終わったあとの強い感覚がゆっくりと霧散したあとも、深く確実に心に残る作品でありました。

****  ****  ****

休息をはさんで約三時間の上演時間、本当に見ごたえがありました。25分の休憩時間もちょっと長いように思えたのですが、それはそれでトイレの事情や前半の刺激をリフレッシュする意味でちょうどよく。

充実した土曜日を過ごすことができました。

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柿喰う客「悪趣味」 柿の熟し方

9月9日、柿喰う客「悪趣味」を観ました。場所は三軒茶屋・シアタートラム。この公演、通常バージョンとキャスト総入れ替えの乱痴気バージョンがあって・・・。本当は両方見たかったのですが、スケジュールが合わず乱痴気バージョンは断念。

それでも、通常バージョンの完成度の高さに、進化する柿ワールドをがっつり楽しむことができました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出:中屋敷法仁

劇場に入ると舞台の装置に圧倒されます。いつもの素舞台かと思いきやがっつりと作られている・・・。けっこう傾斜が急な舞台で役者も大変だろうなぁと思ったり。

物語が始まると、それが山深い山村の光景であることがわかります。冒頭いきなりバナナ学園純情乙女組のような格闘シーンが現出したときにはどうなるかと思いましたが、そこに森に迷い込んだ教授と生徒の女性が道に迷うシーンが入り込んで、物語が広がり始めます。

村にたどりついた教授とたまたまいき合わせた自殺志願の女性、村人にいなくなった女子大生の捜査を依頼する、そこから村の風景、さらには主人公の家族の姿が浮き彫りになっていきます。

舞台には魑魅魍魎が跋扈する感じ。村長はゾンビだし、河童はでる、医者は怪しい。住民たちもひと癖ふたくせあるものばかり・・・。

しかしそこを、役者たちの豊かな切れで、物語に載せてしまうところが柿喰う客の真骨頂、これまでの柿に比べて若干スピードが抑制された感じがありますが、そのことによって重すぎず適度に抜けのあるおどろ恐ろしさが舞台上に醸成されていきます。

因習の深さや近すぎる人間関係の肌ざわり、さらには妖などが息づく雰囲気を今様の描写に染め変えていく中屋敷作劇・演出の非凡さが随所に光り、よしんばメイドであってもゾンビであっても、河童であっても、中絶マンであってもそこに込められた意図が舞台の濃度をどんどんと深めていく。

河童は町の暮らしの具象化にも思えて。それを狂言回しにすることで今様な雰囲気からの物語の俯瞰を作ったり、数秒休憩などのパロディ感に溢れたシーンで時々物語からはみ出して見せるなかで作者の内心を移ろいを醸し出したり・・・。

終演までは舞台に展開する表現たちの切れと鮮やかさに目を奪われていましたが、終わってみると、中屋敷一流のデフォルメの中に織り込まれた、作品の核ともいえる家族のたくましさや健気さ、そして猥雑さ、さらにはそれらが重なり合って生まれるある種の切なさに浸されていることに気がつくのです。

しかも、舞台の遊び心も失われていない。前述の数秒休憩などの仕組み系、マリオ音をつかったようなパロディ心、役名の付け方にはじまって役者の表現、素の力技、アドリブなども軽重とりまぜて、いろいろとあとを引く部分が満載に盛られている。

お腹一杯楽しんで、あとから霧が晴れるように見えてくる作り手の内にある物語の原風景に息を呑む感じ・・・。物語の面白さや疾走感の美しさに惹かれて観ていた柿作品より、さらなる深い奥行を感じて、柿の熟し進化する力に瞠目したことでした。

柿喰う客の劇団員はぞくっとくるような仕事ぶり。一人ずつのお芝居に輝きがありました。七味まゆ味、コロ、玉置玲央、深谷由梨香、村上誠基、本郷剛史、高木エルム、それに中屋敷法仁も加えて一人ずつのお芝居が多人数のなかでも埋もれないのです。なんというかそれぞれの芝居に風格のようなものすら出てきて・・・。

客演の役者たちも、がっつりとお芝居に食らいつく感じ。

梨澤慧以子、國重直也、片桐はづき、須貝英、齋藤陽介、野元準也、出来本泰史、高見靖二、佐野功、浅見臣樹、永島敬三、佐賀モトキ、伊藤淳二、川口聡、瀬尾卓也、柳沢尚美、熊谷有芳、渡邊安理

それぞれがきちんと筋を通した演技で舞台のシーンを彩っていきます。これだけの個性がばらつかずにふくらみになっていくところがすごい・・・。

この先柿喰う客の芝居がどこまで伸びていくのか、さらには今回の役者たちがどこまでその力を広げていくのか・・・。思うだけでもぞくぞくと幸せな気分になるのです。

これだけのお芝居を見せられるとねぇ・・・、返す返すも乱痴気バージョンを見損なったことが残念に思えた事でした。

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カムヰヤッセン「トラベリング・オン・ザ・シャーレ」骨太な繊細さ

2009年9月3日ソワレにてカムヰヤッセン「トラベリング・オン・ザ・シャーレ」を観てきました。場所は池袋シアターグリーン、ベースシアター。

(ここからねたばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出:北川大輔

開場と同時に舞台ではお芝居が始まっています。舞台下手で面接のようなものが行われていて、上手側では順番待ちの人がいる。

前方にいても、内容はところどころしか聞こえないのですが、舞台の時間はしっかりと動いています。

そしてあわててやってきた最後の面接者の部分で客電が消えて本編が始まる。その時点で滑走を終えて物語が飛び立つ感じ。

過去への旅立ちまでの時間、主人公の医師やその周りの人々のためらいや葛藤がスピード感を持って描かれていきます。

すっと主人公のキャラクターや物語の設定が入ってきます。脚本が本当にしたたかで・・・。タイムトラベルという題材はPPTで柴氏がおっしゃっていたように矛盾が生じやすい、舞台としてはハードルの高い題材なのでしょうけれどそれを感じさせない流れにすっと乗せられて・・。

主人公が着いた,遡った時間での病院の雰囲気もしっかりと作られていて。

かつて強い偏見を持たれていた伝染病を借景にして、当日パンフレットの言葉どおり人が切り捨てたものや選んだもの、さらにはその選択の中で生きていく姿が軽重の彩を醸しながら透明感をもって描かれていきます。

命の重さに殉じることと引き換えに主人公が失ったものや、そこから変わっていく姿に息を呑む。その姿に不要な甘さがないから、でも、ビターであっても人が持つ想いをゆがみなく表しているから、主人公が「古事不干渉」から解き放たれて、自らが選択した世界で生きていくことや主人公によって変わっていく周囲にあざとさがないのです。

決して心やさしい物語ではないのですが、生きるぬくもりのものが瑞々しく伝わってくる。舞台に溢れだしてくる「人が生きること」が、切なさや諦観だけではなく貫く意志との繊細な綾織であることにじわっと心が熱くなりました。

役者のこと、主人公を演じた甘粕阿紗子には走り抜ける力強さがありました。キャラクターがもつ明るさがまっすぐに演じられていて、舞台をぐいぐいと引っ張っていく。それもまとめての力技という感じではなく、一歩ずつていねいさの積み重ねでなされていく感じ。観客が無理なく感情移入をして彼女に連れて行ってもらえるのです。タイムトラベルの出発点で彼女とかかわる金沢啓太小林史緒も、勢いを持った着実なお芝居で主人公が元々持つ性格をうまく浮き立たせて見せました。金沢の残された想いのちょっと内側に折り込むような感じが効果的。小林もお芝居にゆとりがあって、うまく残された側の空気を作り上げていたと思います。

トラベル先の患者や周辺の人々も、様々な個性に彩られていて。食品会社の社長を演じた松澤孝彦には生きる意志が感じられました。秘書役の野上真友美が病院との「場違いの女」感のなかでしたたかに同族企業の雰囲気を作り上げていて。単なる情婦的な色香ではなく、セリフ回しの流暢さに知性を持たせて松澤のキャラクターが持つバックボーンを照らしだしていきます。

遠藤友香理は演技にボリューム感をもった繊細さがあって。あっけんからんとしたキャラクターの質感の先に、底知れない闇の広がりを垣間見せていきます。キリンバズウカの「スメル」に客演した時の彼女にも感じた、場の雰囲気を固める力とお芝居の奥行きの深さが今回もしっかりと生きていました。宗教にはまったキャラクターを演じた荒川大にも存在感がありました。信じることへの揺らぎとそれを打ち消す意志のバランスがよく、失笑を買うようなキャラクターでありながら妙にその場にちゃんと足をつけている感じがするのです。それが、さいとう篤史が演じる教祖のキャラクターをも活かしていく。ちょっと飛び道具的に使われたさいとうでしたが、こちらはキャラクターのけれんをたっぷりと演じてみせました。このひとのお芝居には良い意味での力のはみ出し感があって、観る者の目を引きつけます。伊坂共史は寡黙な役を貫いて・・。でも、想いを発し続けたことが、終盤の舞台の空気に色をつけるような一言につながる。まるでベースのパートを奏でるようなとても地道で献身的な演技でありました。田口ともみは正攻法の演技できちんとキャラクターの心情を表現、けれんのないまっすぐなお芝居で舞台を支えました。下野友也はお芝居にリズムがあって、舞台の密度を損なわないルーズさをうまく作り上げて病院に流れる時間に豊かさを与えていた感じ。

医師役の今城文恵は感情をそぎ落とすようなデフォルメをかけて、医師のどこか風化したような心をしたたかに表現しました。洗い晒したような質感のなかで、甘粕の演じるキャラクターに次第に変化していく想いが胸が詰まるほどに観客に伝わってくる。よく作り込まれた強い魅力を持ったお芝居だったと思います。野田裕貴のお芝居にはスムーズさがあって医療側の色をうまく醸し出していました。存在感の出し入れでそれぞれの場の雰囲気をコントロールする縁の下の力持ち的な役柄をこなしてもいて。菅原達也から伝わってくる人が根源的に持つ差別感情のようなものにはどきっとするほどのリアリティが内在していました。

小川貴大はインパクトでの勝負を強いられるような役柄でしたが、きっちりこなして舞台に緊張感を醸成してみせました。北川大輔はどこか人を喰ったような感じがすごくよい。役者としての引き出しもけっこうたくさん持っていらっしゃるような・・・。

金子裕紀が演じる老人は記憶を置換された不自然さが秀逸。終わってみれば物語の設定に説得力を与えていました。よくデザインされたお芝居だったとおもいます。いっぽう同じキャラクターの若い頃という役柄の小島明之は物語の時間軸の基になるキャラクターを気負いなく演じていました。さらっと深いその質感が舞台にとってはとても大切で、金子が演じる老人とつながる時間軸を概念から実感に変える力になっていきます。その時間軸が観客にあることで、甘粕やその時代を生きたキャラクターを演じた役者たちのお芝居がさらに深く残る・・・。

それぞれの時代に生きることや突然ふってくるような選択との邂逅。そのほろ苦い感覚に今の重さを感じて・・・。終演後どんどんとお芝居の余韻がひろがっていきます。

北川ワールドにどっぷりとつかってしまったことでした。

R-Club

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コマツ企画「新釈ヴェニスの呆人」自画像を称するリアリズム

少し遅くなりましたが、2009年8月28日ソワレと30日マチネにてコマツ企画「ヴェニスの呆人」を観ました。場所はこまばアゴラ劇場。

ベンチシートの会場は両日とも満席です。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出 こまつみちる

劇場に入ると舞台はすでに淡いピンクのライトに照らされていて。少しずつ傾いだ舞台や前方のネット。

客電が落ちると、「動乱」を思いだすような始まり。舞台の闇のなかにごそごそと混乱が。そのシーンが実に秀逸なものであることに気付くのはずっと後なのですが、とりあえずは作り手のペースに乗せられてしまいます。

刑事がやってくる冒頭のシーンから、物語をコントロールする主人公の高慢さというか傍若無人さがしたたかに表現されていきます。現実を無理やり自らの世界に引き込んでいこうとするなかでの混乱。乱れる想いが落ちつき心が整理される中で、物語がきしみながら少しずつ動き始めます。

その舞台の進行はちょっとシュールリアリズムを彷彿とさせるやり方で・・・。作り手の脳裏に次々と浮かんでいくイメージに、現実と乖離した主人公の感覚がそのままの形状で観客にやってくる。

平凡な存在があるだけの父、代理型ミュンヒハウゼンシンドロームの典型でもある母、その被害を背負う愚鈍な兄と醒めた目を持ったその時間の自分。物語は台本をもった今の主人公によって監修・演出されながら進んでいきます。

家族の姿には露骨と思えるほどの示唆が含まれて。

繰り返し語られる物語のなかで・・・。記憶は容易に改竄されていく・・・。正気になった兄、恋人の想いを重ねた男は自らが愛情を得るために命を奪ったという4歳年下の弟・・・。

医師や看護婦の存在、彼女をいやす存在にも思えるふたり。なんでも言うことをきく看護士は言われるままに兄や父と交わり、その夫でもある医師は休む間もなく疲弊し、クラシックミュージックに身をゆだねるように現実からの逃避を重ねます。看護婦はそんな夫の前で食事を続ける。そのパンを食べる仕草に、与えるだけの母性ようなもののたくましい生々しさが印象的に伝わってきて、どきどきしてしまう。

一夫で医師は、発作的な逃避意志の代替でもあるかのことく、母に対して病院を燃やしてしまうように教唆します。母も、そして娘も病院に油をまき始める・・・。

自らも火傷を負った娘に、母は自らの血が枯れるまで輸血をしたというのです。看護婦は自らの臓器をすべて移植してくれたという・・・。外部の人の視線が入り込んで、刑事が真実に目を向け始めて。物語の「実」が、歪められてその場を支配する虚を追い詰めるとき、明確な記憶すら仮面をつけられて不特定になり具体的な顔を失っていく。

大部分の時間、舞台前面にネットが張られていることで、観客の視座は舞台上の世界からひとつ外側におかれます。安全地帯にある観客の視線に客観性が生まれ、舞台に満ちる演劇性ヒロイン症候群を包括して眺めることができるようになる・・。

冒頭の舞台裏の混乱が、外面と内面の切り分けとしてボディーブローのように作品全体の地色の役を果たして。

そして、唐突にネットが外れます。その時は「ヴェニスの商人」のシャイロックが、「血を流さずして切ることができない肉」に行き場を失ったした瞬間にも思えます。でも、同時に主人公の業が自らの居場所を与えてくれる新しい聴き手を求めて観客に向かって再び想いを開く刹那にも思えて、思わず息を呑むのです。

作・演出に加えて出演のこまつみちるは、物語を紡ぐだけでなく、自らが舞台の上で物語をあたかも自らのものであるがごとく背負い体を張りました。演じる中で物語に虚を色付けていく姿までを晒して、虚実をすり替えて実の匂いを物語に差し込んでいく。それが舞台にコマツ企画ならではのテイストを与えていきます。

役者たちにはこまつみちるの色に染まりながら埋もれないだけの力があって・・・。

こまつの分身を演じた中川鳶のお芝からは醒めた大人の部分と何かを求める年相応の脆さがうまく醸し出されて。凛とした「脆さ」というような形容矛盾が彼女のお芝居にはきちんと同居しているのです。こまつみちるの描く世界を、足腰のふらつきなく受け止めていたと思います。母を演じた異儀田夏葉は観客までも引きずる程の自我を舞台に現出させていました。この強さがあるから、彼女はMCRやあひるなんちゃらの舞台にも映えるのだと納得したり。兄役の森田祐吏は抑制を効かせながら色を失わないお芝居。ごつっとした存在感がありながらきちんと中間色を出せるしたたかさが彼のお芝居にはあって。彼氏役の寺島功穀はさらに色を減じたお芝居でしたが、中川のお芝居をしっかりと際立たせる抑制が舞台を支えていました。単に弱い演技では支えられない役柄を実直に演じていたと思います。

父を演じた本井博之は包み込むような負を伝えていました。難しい役柄だと思うのですよ。押し出すのではなく引き入れるように演じてもらわないと、観客側にはわからないであろうニュアンスがキャラクターにはあって。彼だから演じえたように思います。

医師を演じた川島潤哉はキャラクターの内面を露出させる才をしっかりと発揮。まっすぐに伝わるというのではなく、次第に滲み出てくるようなものが強く観る側に積もっていく感じ。外部の人を演じた米田弥央は舞台の傾ぎを伝える基準線のような役廻りを冷静に演じてみせました。周りの強烈なキャラクターにも埋もれない普通さが彼女にはあって。その強さも印象に残りました。

看護婦を演じた近藤美月のお芝居にはひたすら瞠目。立ち居振る舞いの美しさのなかに、底知れないカオスの色が織り込まれていて。まわりの色にやすやすと染まるようでいて、気がつけば彼女の色が勝っている不思議さ・・・。夫の前でパンを食べるときのしなやかな空気の作り方には息を呑みました。すっと流れるようなシーンなのですが、私の中で刹那に広がったものが抜けていかないのです。

刑事役の浦井大輔は、観客を巻き込むような軽さで舞台に導いてみせました。口当たりの良いお芝居なのですが、切っ先の鋭さがその中に隠れている・・・。多層的なキャラクターを演じ上げ、こまつみちるの醸し出す世界を受け止めていく柔軟性に彼の非凡な才能を感じた事でした。

劇団主宰として、こまつみちるの役者を見極める眼力の非凡さをあらためて痛感するキャスティング、この才能がこまつみちるが具現化する世界のパワーをさらに大きく広げていたような・・・。

終演時には呆然とする時間があって、重たいものが残るのも事実。でも、それがどろどろせずにクリアな感覚で残るのも、役者の力が大きいかもしれません。

なにか、こまつワールドって常習性があるのですよ。今から次回公演が楽しみだったりして。総合力に惹かれている気もするのですが、それだけじゃないアイテムごとの魅力がけっこうてんこ盛りで・・。

次回もきっと観に行くと思います。

そうそう、余談ですが、ちなみに28日のアフタートークは本編のちょっとしたスピンアウトにも思えて。その前フリてきな終演後の浦井MCもすごく面白かったです。

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空間ゼリー「暗ポップ」緻密さとその先

2009年8月26日と29日、空間ゼリー本公演「暗ポップ」を観ました。場所は赤坂レッドシアター。

見ごたえのある坪田ワールドを堪能してきました。

相対性理論の耳触りのよい曲が客入れ時に流れて・・・。ふっと見渡せば男性比率がとても高い客席・・・。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

グループセラピーが行われる病院の一角が舞台。参加者と医師、看護士たち、さらにはその病院の患者。それぞれの個性とコアの闇と回復の姿が描かれていきます。

冒頭のカウンセリング参加者たちの自己紹介の場面から観客を違和感に浸していきます。医師や看護師たちの人間臭い会話と、参加者たちのどこか偏った雰囲気から物語が動き出します。普通さと普通からの乖離。軽い性格障害から拒食症、対人障害や境界性人格障害の兆候といった部分であっても概念でなく丁寧にスケッチされていく。参加者=異常という図式ではなく、それぞれの姿が個性としてナチュラルなトーンの中で描かれていきます。

そこから抜け出せるもの、抜け出すことをせずにとどまるもの、出口の手前で後戻りしてしまうもの・・・。それぞれが他の救いとなったり刃物になったり・・・。

登場人物たちの変化の過程に「他人との関係性」がしだいに介在していきます。グループセラピーという世界のなかで、参加者にはいやおうなく他者とのかかわり合いがうまれ、相互に揺らぎが生まれていく。他との比較や依存の中で自分の姿をみつけ居場所を確認していく姿に、人間が否応なしに抱える闇の色やどろっとした生々しい生き様のコアが浮かんでくる。

さらには、その闇を抱えているのが、カウンセリングの参加者ばかりではなく医師とて普通に同じことであるという終盤のエピソードにも息を呑むのです。

役者たちの演じる個性がそのままこの作品に色やクオリティを重ねていくような感じ。

セラピーを主導する医師を演じた小川麻琴はキャラクターの陰陽を観客にしっかりとさらして見せました。やや硬質の演技でしたが、参加者に与える安心感と内側に抱えた揺れる心のアンバランスをうまく滲ませていたと思います。

同じく医師役の八木ひろあきは舞台上での中庸を作り上げていました。他の役者を生かしながらすっと自らの存在を舞台に載せるような器用さがあって。ただ、キャラクターの想いが籠るような印象があって、それが良い方に働く部分と残念な部分、両方あったように思います。

院長の息子を演じた深寅芥は、キャラクターの表層の軽さを作りつつ違和感なく医師としての熟練やプロフェッショナルとしての力量を表現してみせました。小川や八木のお芝居を絶妙に引き出すあたりもうまいなぁと瞠目。

キャラクターのプロフェッショナルとしての気概という点では猿田瑛も看護士のそれを奥行きを持って表現していたと思います。派手な演技ではないのですが、醸し出す深さに安心感があるのです。TAKERUには舞台の空間をうまく満たすような器用さがありました。彼のイケ面なのにちょっとダルな存在感に舞台の厚みが増していく。同じく看護士役の仙石みなみはひと色のキャラクターに徹して成功していました。物語の中での他のキャラクターの揺らぎが彼女の色の貫き方で鮮明に映えていく・・・。彼女のキャラクターのもつパターンのようなものがぶれがないことが、舞台の雰囲気を重くなりすぎないように安定させていたと思います。

セラピー参加舎の妹を演じた澤田由梨は斎藤ナツ子のお芝居をがんばって受けきった感じ。間がしっかりとしていて斎藤の演技とうまく色を作っていく・・・。自らのキャラクターをもう少し膨らませることもできたかとは思うのですが、一方で舞台の流れのなかできちんと演技の抑制ができていたようにも思えて・・・。

その斎藤ナツ子は対人障害の女性を繊細かつ大胆に演じてみせました。心から発するものが視線から指先までを伝わってやってきます。タイトになったキャラクターの心は、観る者を息を止め、心が開かれたときの表情は、観客の四肢をゆっくりと緩めていく。半田周平が演じる長期入院患者と花を眺める表情や、口紅をさすときの女性の素顔には常ならぬ輝きが生まれて。キャラクターを見つめるというよりはキャラクターの内側に観客が導かれるような感じがやってきます。やっぱりこの人只者ではない・・・。

半田周平には、ガラスのような心の安らぎと薬を飲まないに足りる内心が大きく表現できていました。その言葉のやわらかさに脆さが隠し糸のように縫い込まれているのです。百日紅の花を咲かせることへの執着が、執着するものを失った時の崩れを予感させて・・・。百日紅を人に見せたい気持ちは、自分が与えてほしいものの裏返しにも思えて。

斎藤が心を寄せることになる男性を演じた江賢は、容姿に加えてキャラクターの持つ潔癖さをしたたかに表現してみせました。自分のありたい姿と現実の軋轢に気付かない風が旨く表現されていて。1日早くセラピーを切り上げるような、自分の理想を維持する姿から、危うさが皮膚を染めるように浮きあがってくる。斎藤とのシーンでも、視点が斎藤から自らの内に移っていくような感じにぞくっときた。そこに見えるキャラクターの姿からでしょうか、物語のラストで電車を遅らせたのは、彼のような気がしてならなかったり。

軽い性格障害を持った女性を演じた西田愛李はある種怪演。役者としてキャラクターの理解がしっかりしているというか、ここ一番での心の厚化粧がうまくできていたように思います。ぎりぎりのところで一瞬薄皮のうちに浮かぶような本心が、うまいなぁと思うのです。仕事から逃避してきたライター役の塚田まい子は恣意的にやや硬質な演技でキャラクターの正常さと弱さの両面をソリッドに演じてみせました。突発的な怒りを抑えられない男を演じた岩田博之はキャラクターの心の移ろいをうまく演じきっていました。一気に怒りが頂点にいたるまでの迫力に観客も押されて。病識が自身を苛む部分もうまく表現されていたと思います。

阿部イズムの演技は突きぬけていました。視線の使い方や言葉の抑揚で舞台の空気を支配する。シニカルな言動や感情の爆発に違和感がないのです。しかも、単にヒールとして暴れるのでなく、実は彼自身の価値観に対してフェアであるというキャラクターの本質がきちんと表現できていて・・・。物語を回していく上でのアクセント的な役目も背負い、見事にやり遂げていました。

能登有沙はとても丁寧な演技で拒食症の高校生を表現していました。戯曲をつつがなく具現化していたし、背景に回っているときにも心が入っていて空間の密度を損なうことがない。十分に及第点のお芝居だったとは思います。その一方で、彼女のお芝居する力にはさらなる余白を感じたりもして。26日のお芝居からやってくる世界が29日にはひとまわり膨らんだようにも感じたし、斎藤とのやり取りなどをみていると、さらにキャラクターを広げることができる力が解放されていないようにも思えたり・・・。なにか化ける前の時限爆弾を観ているような気がしたことでした。

26日の観劇時には物語の前半のトーンと物語が展開していく後半の質感に若干のちぐはぐさを感じましたが、29日にはその溝もなくなっていました。舞台上の人物の姿に無意識に自分の正常さを確認していることにドキッとして。

坪田戯曲に織り込まれた仕掛けのしたたかさと深さがじわっと伝わってくる。深寅演出もこのクルーから絞れる出汁を十二分に絞った感じ。

そんなにどろどろした印象は受けないのですが、終わってみれば個々のキャラクターの質感がなにげに心に残っているのです

両日とも駅までの帰り道、やわらかくいろんな想いが降りてきて・・・。作品が持つ懐の深さにゆっくりと浸潤された事でした。

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