CASTAYA PROJECTの4日間
2009年8月10日・11日・24日・25日とこまばアゴラ劇場のCASTAYA PROJECT「Are You Experienced?」を観ました。Castaya Projectは今回初見(昨年も公演があったそうで、その内容は賛否両論だったとのこと)。
とりあえず初日と二日目を予約していたのですが、初日に魅了されて急遽後半の二日間も予約・・・。息を呑むような演劇体験をすることができました。
(ここからネタバレがあります。お読みいただく際にはご留意ください。なお、公演の内容に著しく触れている部分があります。問題があるようでしたら、ご連絡をお願いいたします。)
初日(8月10日)
19時30分開演。仕事をそそくさと切り上げて駒場東大前へと向かう。
私にはCASTAYA Projectがどのようなものかについての知識がまったくなく、劇場につくとぼんやりと開演を待ちます。
名の知れた某劇団の主宰を名乗って役者が登場。そこから劇団のけいこ風景が始まります。前半にはウォーミングアップや基礎訓練(?)のようなものあって、そこからシェークスピアのお芝居が稽古の一部として演じられていきます。
前半、雰囲気的にはポストパフォーマンスにお邪魔した感じ・・・。ウォームアップのやり方などを他の劇団で拝見させていただいたことがあるのですが、その時同様に、役者たちの距離や関係のつくり取り方、さらには稽古場の空間の温め方のようなものが、少しずつお芝居のへの萌芽につながっていく感じがして。
名の知れた主宰の名を別の役者が語るあたりから、演劇の現場のリアリティとドラマとのボーダーを曖昧にしながら演じられていることが伝わってきたり。
後半は恐ろしく要素を抽出された「マクベス」のけいこ風景。その中に表現の技法や創造性、戯曲の解釈への偽悪的なデフォルメなどまで織り込まれていて。「真夏の夜の夢」や「ロミオとジュリエット」がカジュアルに繋がっていくところで吹き出しながらも、戯曲や演出とはなにかについていろいろと考えさせられたり。
稽古の終りの感想を車座になって語り合う劇団員たちが次第に闇に消えていく終盤。演劇と観客の距離や、演劇そのものの重さのない質量のようなものが伝わってきて。溶暗のなかで、作成の過程を垣間みたことからやってくる演劇の内側に身をおいたような感覚が、演劇を俯瞰する観客の存在までを含めた外殻にまでズームアウトしていく。
この公演の外枠を為すCASTAYA氏の存在やコンテンツに含まれた挑むようなウィットにも強く心を惹かれて・・・。
「もっと!」と思う気持ちを抱いて劇場を後にしたことでした。
2日目(8月11日)
冒頭に字幕メッセージが流れて・・・。公演の色がしっかりと作られて。そこから完成された表現が始まります。
ひとりの女性が現れる。観客はその存在とずっと向かい合う。そこから動きが生まれ、リズムが生まれ、さらには舞台上の人数が増えていく。
数理処理を施されたようなルーティンの中で、それぞれの人数での人間の関係性が浮かび上がってきます。
ふたりの関係から3人の関係になっていくときにぞくっとくるようなバリエーションの広がりがあって、4人から5人へと繋がっていく中で瑞々しく関係の色合いが増していく。
まるでカメラがどんどんと引かれていくように舞台上が個人から社会へと広がっていく。曼荼羅のひろがりを観るような感じにどんどんと舞台に取り込まれていく。。
繊細に伝わってくる個人やシンプルで奥深い個人同士の関係から、湧き上がってくるようなスケール感と高揚が生まれ、やがて突き抜けていくのです。
その高揚に私の身体までが巻き込まれるような感覚が生まれて。
人の身体表現のルーティンが成長し繋がり広がっていく姿に目を見開き、表現が醸成する質感と熱と大きさに心を奪われた事でした。
3日目(8月24日)
2週間おいての月曜日。
二人の女性のお芝居。
何枚もの布団に覆われた舞台。シチュエーションがよくわからないままに、抑揚を制限され感情を拘束されたような演技が始まります。どうやら眠れない夜の話であることはわかるのですが、台詞の一つずつがしなやかに繋がっていかない。体調を崩して眠ろうとする女性と目がさえていく女性。劇場内を満たすノイズの音が真夜中のかすむような意識や、粒子の荒れたような質感を醸し出し観客を浸していきます。観る者にはひたすら台詞にすがるような時間が続く・・・。
途中で、それがどうやらカニクラの公演で観た前田司郎氏の戯曲であることに気がついて。すると女性たちの台詞が別の棚の記憶を借景にすこしずつ繋がりを持ってきて、それだけで台詞の豊かさまでが増して来るように感じたり。
とはいうものの、その演じ方で通された戯曲が終わりまできた時には、観疲れしたというか、少なからず消耗を感じてしまいました。しかし、舞台はそこで終わらなかった・・・。
役者たちが乱雑に広げられていた布団状のものを片付けるとそこにはリアルな部屋の風景が現れます。中央に寝床があって、奥の小机には水槽がおかれて。散らばった雑誌からそこが女性の部屋であることがわかる。
二人の女性の役柄が裏返しになって、再び冒頭から戯曲が演じ始められます。端折ることなくお芝居が繰り返されることを悟って、無意識に持久戦を覚悟するような気持になったり。同じ戯曲を2度続けてみることに軽いフラストレーションすら感じたり。
しかし、そんな事が頭をよぎった割にはがっつりと舞台に引き込まれてしまいました。何かが解けた感じ・・・。最初の演じ方では伝わってこなかったセリフの意味や細かいニュアンスまでが舞台から流れ込むようにやってくる。、たたずむような時間には透明感があって、海の底を想起させるに足りる深夜の沈み込むような感覚が訪れる。サザエやエイや宝貝の殻からこぼれ出すイメージの豊かさやニュアンスの深さが、観客に見続ける力を与えてくれる。
でも、その一方で最初の演じ方から伝わってきた眠れないことへのざらざらしたフラストレーションや苛立ちの感覚が霧散していることにも気付くのです。荒い粒子だから見えるものや感じられるものがいまさらながらに露わに浮かび上がってくる。
2回目が終わって、さらに戯曲は繰り返されます。今度は解像度が暴走したような演じられ方・・・。強まる光とノイズに深夜の時間が埋もれ、物語がメルトダウンしていく。常ならぬ程に強く見えるものがあって、その強さに滅失する世界があってこの舞台自体の終演が訪れます。
やってきた衝撃に客電が灯っても少々呼吸が荒れていた。深い消耗を感じながらも、同じ戯曲からやってくるドラスティックな質感の変化に、強い驚きと「冴え」のような感覚が残ったことでした。
*** *** ***
この日はサミットディレクターの杉原氏と「CASTAYA PROJECTに強くかかわっている」という多田氏のPPTがありました。トークショーから企画のゲーム性などもそこはかとなく露出されて。観客の方の質問内容にも洗練があって、とても興味深く拝見することができました。。。
4日目(8月25日)
この日も19時30分開演。
素舞台。
上手から女性が、現れ落ち着いた口調で「演劇を始めます」と宣言します。
まっすぐ前を見つめて私は俳優ですと語り始めます。俳優の役割がわかりやすい言葉と口調で観客に伝えられていきます。「私に作られていない言葉を私の言葉にするのが仕事だ」と話します。同じことが何度か繰り返し語られます。
続いて私は作家ですと語り始めます。作家の役割がわかりやすい言葉と口調で語られます。若干の動作が加わりながら同じことが何度か繰り返し語られます。
さらには私が演出家ですと語り始めます。演出家の役割がわかりやすい言葉と口調で観客に伝えられていきます。動きがさらに増え歩き回ったり・・・。舞台に広がりが生まれます。
加えて私は観客ですと語り始めます。観客が為していることがわかりやすい言葉と口調で語られます。
観客である私が劇場を出ると、私は観客ではなくなると言います。外では時間が過ぎていたとも。
俳優と作家と演出家と観客。演劇が構成される。
ゆっくりと規則正しい語りで演劇を構成する者の説明が繰り返されていきます。動作に様々な変化が生まれ、舞台に空気の緩急が生じて世界が広がっていきます。
女性が上手に去っても、照明が落ちることはなく、空間が舞台を作り続ける。存在がない俳優と言葉のなさを書いた作家といない場所を決めた演出家とそれを観る観客がいて演劇がある。
観客を空間に浸潤させるに十分な時間が経過して、2人の女性が現れます。衣装が異なる女性と最初の女優の衣裳をまとった別な女性。台詞は従前と同じ・・。それぞれが演劇を構築し次第に瑞々しく重なりあいます。舞台の要素達が熱を持ち始める。コンテンツを記号化された舞台が生み出す密度や質感の広がりに目を見張る。
衣装の異なる女性が舞台を去り、男性が現れます。台詞は同じ。やがて女性が去り彼一人が残ると彼はポロシャツとズボンを脱ぎ去る。その下には目を引く花柄のワンピース。彼は自らに舞台を背負いそこに立ちます。
立ち続けます。
演劇はずっとそこにありました。作家がその姿を書き、演出家がその場所を決め、俳優はその姿を自分のものにし、観客の前に立ち続けます。
客電が灯り、それでも舞台には演劇がありました。客席上手側の扉が開かれても、私には観客に観客でなくなる自由が提示されたくらいにしか感じられませんでした
外からやってくるいろいろな音、虫の声や話し声、自動車や電車の通過音。でもそれらは演劇の効果音や借景にも思えて。
舞台を見つめているといろんなものがやってきました。時間の経過からやわらかいいらだちが生まれたのは事実。しかし、舞台上の俳優を観て去来する思いに埋もれてしまう。
さらに時間がたつにつれ、舞台上の演劇の広がる果てを想い天井を見上げたり、それまでに同じ舞台空間に存在した演劇のことを想い目頭が熱くなるような切なさや締めつけるようないとおしさが降りてきたり、この場所にある演劇の奥行きに思考を超えて心が震えたり。
静かにその場を去る方がいらっしゃってもほとんど気にはなりませんでした。拍手をしたあと劇場を出られた方には賛意を感じたりもして。
退館時間が迫っていることが丁重に告げられても、周りの椅子がかたずけられても、脚立が持ち込まれてそのシーンに不要な照明が外されても舞台には演劇があって。演劇からやってくるものがあって、私が感じるものがあって。
スタッフの方に申し訳ないという気持ちもあったのですが、舞台からやってくるものに惹かれる気持ちがはるかに勝ってしまって、私はその場を離れることができませんでした。
その演劇の終りがどういう形であったかは、特に意味がないので書きません。最後には10人程度の観客が演劇の内側にいたと思います。。
「観客が劇場をでるのも演劇」と自分に言い聞かせて席を立ったあと、ほかのやり方が思いつかず舞台に一礼をしました。よしんば無粋なやり方であっても、観客として舞台と役者・作家・演出家に感謝を現わしたくて。そして出口へと足を運び、私は観客でなくなりました。。
劇場を出ると満たされきれない気持ちがゆっくりとわき起こってきました。でもすごく満たされていることにも気がつきました。
時間が過ぎていました。ふと時計を見ると22時30分を回っていました。
翌日に別のお芝居を観た後思ったのですが、「演劇」がGINというスピリットならば、「CASTAYA PROJECT」の4日間はGIN自身の味わいをメインに楽しむための様々なカクテルの饗宴だったのかも。
最終日はとてもドライなマティーニを頂いたような気がします。ベルモットでグラスをリンスしただけのやつ・・・。その口当たりや全身に広がり留まるような感覚は、私が演劇を見続ける限りずっと忘れることがないと思います。
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(上記の文章は私の観劇時の記憶にのみ基づいて書かれています。錯誤の可能性が少なからずあることについてご承知おきください。)
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