世田谷シルク「グッバイ・マイ・ダーリン」林檎の過不足と愛のいびつ
2009年8月8日、世田谷シルク「グッパイ・マイ・ダーリン」を観ました。場所は下北沢楽園。蒸す外気から逃げるように場内にはいると整然と並んだ椅子たちまでが気持ちよく感じて。今回は飲食付きの特別席(シルク席)もあったようですが、通常席を利用しての観劇でありました。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
ソリッドな感じの場内。舞台上には二人掛けのソファが3つ並び、お芝居で使われる煙草の煙は害があるものではない旨のメッセージが繰り返し投影されます。
そして舞台が始まると、そこはリアルな雰囲気をもった風俗店に早変わり。おしゃべりタイムやハッスルタイムが交互に組み合わされる「セット」の仕組みなどもさらっと観客に伝えられていきます。
店内の生々しい人間関係のもろもろをバックステージにかかえながら営業されていく姿から、女性一人ずつの抱える生活のディテールがさらっと自然に伝わってくる。そのなかで物語のキー的な要素を暗示するりんごの存在が次第に観客の目を引いていきます。毎日店の前にはたくさんのリンゴが置かれていることが示されて。また、他のお店から移ってきた女性についてきた客が持ってくるものもりんご。
さらには、お店の女の子すべてが並べられたりんごにおきかえられて、そこから恣意的に生活感をそぎ落とされたような薄っぺらさを持って、風俗店の2階に住む4人家族の物語が語られていきます。並べられた無表情の女性たちの語りに合わせて、家族の物語が駒を進める感じ。その世界では母が毎日たくさんのりんごを食べたがり、食べかけのリンゴを窓の外に放り出すのです。父は一日一つのりんごで我慢するように母を諭す・・・。
1Fの風俗店の描写にはディテールの加えてデフォルメされた時間の流れが差し込まれて。人の動きや物事の流れが、「山の手事情社のメソッドを彷彿とさせるやり方で重ねられていく。早回しとスローモーション、ルーティンと微細なバリエーションの変化・・・・。それらによって時間のボリュームが形成され、お店の従業員達の疲労感までがリアリティを持って観客に伝わってくる。そして変わらず店には箱一杯のりんごが届けられ・・・。
2Fでは母子や兄弟の関係性なども次第に浮き彫りになって、やがてりんごたちの語りに従ってカタストロフがやってくる。
その理解が正しいかどうか自信があるわけではないのですが、私にはりんごを「愛」とか「愛の対価」に置き換えて合点がいったようなところがあって・・・。そう観ると疑似愛の捨て場になっている風俗店にりんごが集まる姿も、2階の家庭に生じたりんごの量感のアンバランスもすっと入ってくるのです。
1階の風俗店と2階の家庭、どちらにも生じたりんごの受け渡しのバランスの悪さのようなものから、不毛に受け渡され使い捨てられていく愛の姿と、それを維持させしめるための逃げようのない世界の構造などもが浮かんでくる。
下敷として寺山修司「アダムとイブ、私の犯罪学」があげられています。その知識があれば、作品に対する理解はさらに深まったのかもしれませんが、それがなくても、作・演出の堀川炎が現わす世界の質感には、シニカルで普遍的ななにかを感じることができて。ダイナミックにデフォルメされた表現達の巧みさにも心を奪われて、上演時間があっという間に思えた事でした
役者のこと、女優陣には個々のキャラクターをがっつりと描き上げる力がありました。えみりーゆうなの日本人とすこしずれた感覚の表現や大竹沙絵子、下山マリナといったところの沈んだ部分を持った色香や生活感のしなやかなにじませ方には、観客を心よりうなずかせるに足りる実存感がありました。
辻沢綾香の子持ちであることを納得させてしまうようなずぶとさの表現もすごく秀逸。双数姉妹や競泳水着などでたびたび観ている女優さんですが、彼女のお芝居は観る毎にどんどんと間口や深さを増しているような気がします。今回もキャラクターが抱える世界をがっつりと浮かびあがらせて存在感抜群のお芝居でした。守美樹の演じるキャラクターの時間とともに変化する姿の表現も旨いと思いました。教えられたことをそのまま行うというキャラクターの滑稽さなどに絶妙な間があって。堀川炎が最後に演じる新人の演技にも物語をしっかりとつなげていたように思います。
中里順子には抜群の切れがありました。一つずつの表現が、しなやかでしかも凜としていて・・・・。大胆な演技も下世話にならず物語にたっぷりとメリハリを与えるのです。キャラクターの醒めた部分の演技も、弱くならずにその色を明確に残すような力があって。踊りも秀逸、がっつりとした安定感を感じました。
黒田浩司の演技にはどこかにまっとうさというか暖かさをのこすような質感がありました。これが家庭劇の部分にベースとなる厚みを作っていたと思います。堀田尋史の持つまっとうさは黒田とは異なる色、キャバレーの客としての演技に内包された安っぽいクールさと家庭劇での気弱さそれぞれを裏打ちする力の出し入れの仕方がすごくスムーズだったように思います。
椎名豊丸にはある種の華がありました。地味な部分の多い役柄なのですが、淡々となったり埋もれたりせずに、包容力のようなものを舞台上にきちんと滲み出させていたように思います。店長役の時の、女の子との対話のやわらかさにもさりげないリアリティがあって、お店の女の子と出来ていることにも説得力を持たせるような演技でありました。
堀越涼は懐の深い演技でした。キャバクラでの繊細な部分にも観る者をひと膝前に惹きよせるような含みがあり、家庭劇での母になったときのかぶき方にも目を奪われました。いずれの演技にも一瞬に舞台を染めるような力があって・・・。母親が食べてしまうというりんごの量にもなにげにボリュームが醸成されている・・・。単に強いお芝居ができるということだけではなく微細さや瞠目するような感情の切れをもった役者であることを再認識したことでした。
終演時の拍手をしながら、やっぱりりんごのことを考えていたり。この舞台ってりんごに何を見るのかで観客が感じるものが大きく変わってくるような気がするのです。人間の根源的な欲望に置き換えるのか、あるいはスピリチュアルなものをそこに見るのか・・・。いずれにしてもその時に置き換えたものがそのまま観客自身が誰かと受け渡そうとしている愛の姿を映しているような気がして、ちょっとどきどきとしたことでした。
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