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PRIFIX3、たっぷり味わう

2009年8月29日「PRIFIX3」を観てきました。場所は王子小劇場。

今回は合計で7劇団。休日の朝、ちょいと早起きして11時30分に劇場到着。

良席を確保してたっぷりと観てまいりました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

・劇団競泳水着 「地球の上で待ち合わせ」 60分

冒頭にちょっと戯画化されたようなスパイ映画風のシーンがあって。そのなかでの待ち合わせという概念が本編のボディブローのよう。

登場する3組のカップルそれぞれに背負っている時間があって、その表現の仕方がとても巧み・・・。

川村紗也黒木絵美花が演じる女友達の二人は携帯メールでのコミュニケーションがとても秀逸。絵文字の部分が台詞でもしっかりとアクセントになっていて、そこからリズムが生まれお互いの距離の遠さと近さがきちんと観客側に伝わってくる。再開してからのお互いの久しぶり感や親近感に、再び出会う友人がそれぞれに抱えているものもナチュラルにこぼれてくるのです。

細野今日子堀越涼のカップルには、ふっと手を放してしまうというか男女が堕ちていくような感じに高い密度があって。ある一線を越えるときの軽さとさらなる枠を超えられない重さに男女の感覚が鮮やかに浮かび上がってきます。淫靡で自堕落な雰囲気と果たされない約束を洗い流すような雨の音にぞくっときました。

大川翔子澤田慎司のカップル、ゆっくりと何かが離れていく感覚がすごく丁寧に描かれていきます。日々の重さが二人の関係のかけ金をすこしずつはずしていく感じ。シーンごとに日常の空気がしたたかに醸成され、それが二人から発せられてふたりを押しつぶしている感じがしなやかに観客に伝わってきます。過去の待ち合わせや時間の経過をトリガーにした関係再生の予感にちょっとときめいて。

3つのカップルにはなんの関連もないのですが、それを括るように冒頭のシーンが効いてくる。宇宙から地球の上のいろんな待ち合わせを俯瞰するような感じすら生まれて。実は稀有な確率での出会いがたまらなく愛おしく思えてくるのです。

とても高い完成度を持った作品、繊細さと広さを持った上野作劇の力量に瞠目しました。

・ナカゴー 「超能力学園Z」20分

劇団のホームページにもあるとおり、超能力が使えなくなった高校生の話。

最初のペラペラ感にかなり戸惑ったのですが、力技で広がっていく世界にぐいぐいと押し込まれていく。荒く太い線で描かれた物語に登場人物たちのエピソードがすごくベタな風合いで吊るされていくのですが、なんというか、観客が自らの意志にかかわらず手を伸ばしてしまうような魅力が沸いてくる感じ。癖になるような力とでもいえばよいのでしょうか・・・。

出演は以下の通り

日野早希子・米光一成・加瀬澤拓未・壁子・篠原正明・山本夏未

こう、なんというのか、気はあまり進まないけれど観てしまう感、すごく残るのです。

・ロロ 「ディナー」 20分

最初に「脚本が書けなかったので昔の作品をやります」との断わりがあって。でも律儀に食事のシーンなどを絡ませたりする。

始まるとあれよあれよという間に引き込まれてしまいました。立ち位置や向きから拾ってきた父親に対する感覚が示される冒頭。これが結構効いていて、不思議に突飛な感じがしないのです。なしくずしに家庭という構造が崩壊していくのは、既成概念の屋台崩しのようにも感じるのですが、観ている方があるがままに受け入れてしまうような流れが底流にしっかりとできていて散漫さがない。

でも、もっとすごいのは崩れた概念が散らばるのではなく、変容しながら繋がるのです。なんとなく流動体のように家庭が残る・・・。

前回の本公演の時を観た時にもおもったのですが、概念や関係性のつかみ方、さらには表現の独創性にどきどきしました。

出演は以下の通り

篠崎大悟 亀島一徳 板橋駿谷 池田野歩 崎浜純 北川麗 多賀麻美 森本華

・マーク義理人情「白鳥の湖」 60分

冒頭の雰囲気に、本当に60分持つのかとちょっと心配。ところがこれがまったくの杞憂。ボディービルディングの男臭さと似合わない体育会系の雰囲気がじわっと劇場にまき散らされていく感じ。破綻のないぐたぐたで舞台が引っ張られていきます。役者たちの体躯からは想像できないような体の切れがあって・・・。

あまり好きなタイプのコントではないのですが、失笑の導き方を心得ている感じにはすっと乗せられてしまって、観ていての過剰なストレスはありませんでした。

ラフでルーズな空気を作り上げる演技の力を感じる舞台でありました。

出演は以下の通り。

成瀬功 岡崎智浩 高橋康則

・自己批判ショー「自己批判ショーの、とても練習したコントたち」

やくざ者のコント。構成の柱に噺家の世界の借景をさりげなく盛り込んで。

演技に張りや安定感があり、ベースがあったうえでコントコントしているので、観る側もリラックスして楽しめます。

次第に登場人物が増えて、話が膨らんでいくあたりも気持ちよく常道。でも、ベタさを貫いて揺らがないのはけっこう強いことなのです。タイトルどおり、観るものに負担のない笑いを与えるだけの詰がきちんとなされている感じがして。

個人的には好感触でした。

出演は以下のとおり。

山本治 小菅節男 大久保宏章 紺野秀行 鮫島ひかる 中川稔朗 高雄一徳

・Mrs.fictions「20minutes Made」

ちょっと不条理な部分をもっているお芝居なのですが、「うる星やつら」の骨格がうまく取り入れられていて。

空気にソリッドな肌触りを感じるのですが、一方で現実と仮想の出し入れのべたさにも妙に引かれたり。ラムの性格が等身大の人間に置き換えられたりあたるの逃げ方がマンガチックだったりその流れでスタンガンの電撃が普通にあったりするところがけっこう個人的に好みだったりもします。

就職問題がちょこっと風味づけのようにつかわれていて、「うる星やつら」の時代の能天気さに不思議な風化を感じたりもしました。作品の立ち位置の取り方にセンスがあるのでしょうね・・・。いつものMrs.fictionsの香りが王子にもしっかりと持ちこまれていたように思います。

出演は以下の通り

岡野康弘 夏見隆太 今村圭佑 宮嶋みほい 伊藤毅

・バナナ学園純情乙女組 「遊ぶ金が欲しかった+ミニおはぎライブ」

よくも悪くもこの劇団のにおいに海上が満たされて・・・。個人的には決して嫌いな雰囲気ではないのですけれど、やっぱりセリフは聞き取りにくい。

でも、それもしょうがないかなと思わせる雰囲気がこの劇団にはあって、そのノリにはついつい心踊らされてしまうのです。浅川千絵のシュール感、今回も前回でなにか惹かれる。

私にとっては観た感を与えてくれるステージでありました。最初から観ているものにとってはおなかいっぱいの別腹デザートにもなって・・・。

出演は以下の通り

二階堂瞳子・加藤真砂美・菊池佳南・前園あかり 浅川千絵・鈴木康太

2500円の入場料はすでに最初の競泳水着で元をとって、どこかの初売りの茶箱のごとくものすごいおまけをもらった感じ。

フルコースっぽく食べまくった感に満たされて劇場を後にした事でした

R-Club

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CASTAYA PROJECTの4日間

2009年8月10日・11日・24日・25日とこまばアゴラ劇場のCASTAYA PROJECT「Are You Experienced?」を観ました。Castaya Projectは今回初見(昨年も公演があったそうで、その内容は賛否両論だったとのこと)。

とりあえず初日と二日目を予約していたのですが、初日に魅了されて急遽後半の二日間も予約・・・。息を呑むような演劇体験をすることができました。

(ここからネタバレがあります。お読みいただく際にはご留意ください。なお、公演の内容に著しく触れている部分があります。問題があるようでしたら、ご連絡をお願いいたします。)

初日(8月10日)

19時30分開演。仕事をそそくさと切り上げて駒場東大前へと向かう。

私にはCASTAYA Projectがどのようなものかについての知識がまったくなく、劇場につくとぼんやりと開演を待ちます。

名の知れた某劇団の主宰を名乗って役者が登場。そこから劇団のけいこ風景が始まります。前半にはウォーミングアップや基礎訓練(?)のようなものあって、そこからシェークスピアのお芝居が稽古の一部として演じられていきます。

前半、雰囲気的にはポストパフォーマンスにお邪魔した感じ・・・。ウォームアップのやり方などを他の劇団で拝見させていただいたことがあるのですが、その時同様に、役者たちの距離や関係のつくり取り方、さらには稽古場の空間の温め方のようなものが、少しずつお芝居のへの萌芽につながっていく感じがして。

名の知れた主宰の名を別の役者が語るあたりから、演劇の現場のリアリティとドラマとのボーダーを曖昧にしながら演じられていることが伝わってきたり。

後半は恐ろしく要素を抽出された「マクベス」のけいこ風景。その中に表現の技法や創造性、戯曲の解釈への偽悪的なデフォルメなどまで織り込まれていて。「真夏の夜の夢」や「ロミオとジュリエット」がカジュアルに繋がっていくところで吹き出しながらも、戯曲や演出とはなにかについていろいろと考えさせられたり。

稽古の終りの感想を車座になって語り合う劇団員たちが次第に闇に消えていく終盤。演劇と観客の距離や、演劇そのものの重さのない質量のようなものが伝わってきて。溶暗のなかで、作成の過程を垣間みたことからやってくる演劇の内側に身をおいたような感覚が、演劇を俯瞰する観客の存在までを含めた外殻にまでズームアウトしていく。

この公演の外枠を為すCASTAYA氏の存在やコンテンツに含まれた挑むようなウィットにも強く心を惹かれて・・・。

「もっと!」と思う気持ちを抱いて劇場を後にしたことでした。

2日目(8月11日)

冒頭に字幕メッセージが流れて・・・。公演の色がしっかりと作られて。そこから完成された表現が始まります。

ひとりの女性が現れる。観客はその存在とずっと向かい合う。そこから動きが生まれ、リズムが生まれ、さらには舞台上の人数が増えていく。

数理処理を施されたようなルーティンの中で、それぞれの人数での人間の関係性が浮かび上がってきます。

ふたりの関係から3人の関係になっていくときにぞくっとくるようなバリエーションの広がりがあって、4人から5人へと繋がっていく中で瑞々しく関係の色合いが増していく。

まるでカメラがどんどんと引かれていくように舞台上が個人から社会へと広がっていく。曼荼羅のひろがりを観るような感じにどんどんと舞台に取り込まれていく。。

繊細に伝わってくる個人やシンプルで奥深い個人同士の関係から、湧き上がってくるようなスケール感と高揚が生まれ、やがて突き抜けていくのです。

その高揚に私の身体までが巻き込まれるような感覚が生まれて。

人の身体表現のルーティンが成長し繋がり広がっていく姿に目を見開き、表現が醸成する質感と熱と大きさに心を奪われた事でした。

3日目(8月24日)

2週間おいての月曜日。

二人の女性のお芝居。

何枚もの布団に覆われた舞台。シチュエーションがよくわからないままに、抑揚を制限され感情を拘束されたような演技が始まります。どうやら眠れない夜の話であることはわかるのですが、台詞の一つずつがしなやかに繋がっていかない。体調を崩して眠ろうとする女性と目がさえていく女性。劇場内を満たすノイズの音が真夜中のかすむような意識や、粒子の荒れたような質感を醸し出し観客を浸していきます。観る者にはひたすら台詞にすがるような時間が続く・・・。

途中で、それがどうやらカニクラの公演で観た前田司郎氏の戯曲であることに気がついて。すると女性たちの台詞が別の棚の記憶を借景にすこしずつ繋がりを持ってきて、それだけで台詞の豊かさまでが増して来るように感じたり。

とはいうものの、その演じ方で通された戯曲が終わりまできた時には、観疲れしたというか、少なからず消耗を感じてしまいました。しかし、舞台はそこで終わらなかった・・・。

役者たちが乱雑に広げられていた布団状のものを片付けるとそこにはリアルな部屋の風景が現れます。中央に寝床があって、奥の小机には水槽がおかれて。散らばった雑誌からそこが女性の部屋であることがわかる。

二人の女性の役柄が裏返しになって、再び冒頭から戯曲が演じ始められます。端折ることなくお芝居が繰り返されることを悟って、無意識に持久戦を覚悟するような気持になったり。同じ戯曲を2度続けてみることに軽いフラストレーションすら感じたり。

しかし、そんな事が頭をよぎった割にはがっつりと舞台に引き込まれてしまいました。何かが解けた感じ・・・。最初の演じ方では伝わってこなかったセリフの意味や細かいニュアンスまでが舞台から流れ込むようにやってくる。、たたずむような時間には透明感があって、海の底を想起させるに足りる深夜の沈み込むような感覚が訪れる。サザエやエイや宝貝の殻からこぼれ出すイメージの豊かさやニュアンスの深さが、観客に見続ける力を与えてくれる。

でも、その一方で最初の演じ方から伝わってきた眠れないことへのざらざらしたフラストレーションや苛立ちの感覚が霧散していることにも気付くのです。荒い粒子だから見えるものや感じられるものがいまさらながらに露わに浮かび上がってくる。

2回目が終わって、さらに戯曲は繰り返されます。今度は解像度が暴走したような演じられ方・・・。強まる光とノイズに深夜の時間が埋もれ、物語がメルトダウンしていく。常ならぬ程に強く見えるものがあって、その強さに滅失する世界があってこの舞台自体の終演が訪れます。

やってきた衝撃に客電が灯っても少々呼吸が荒れていた。深い消耗を感じながらも、同じ戯曲からやってくるドラスティックな質感の変化に、強い驚きと「冴え」のような感覚が残ったことでした。

*** *** ***

この日はサミットディレクターの杉原氏と「CASTAYA PROJECTに強くかかわっている」という多田氏のPPTがありました。トークショーから企画のゲーム性などもそこはかとなく露出されて。観客の方の質問内容にも洗練があって、とても興味深く拝見することができました。。。

4日目(8月25日)

この日も19時30分開演。

素舞台。

上手から女性が、現れ落ち着いた口調で「演劇を始めます」と宣言します。

まっすぐ前を見つめて私は俳優ですと語り始めます。俳優の役割がわかりやすい言葉と口調で観客に伝えられていきます。「私に作られていない言葉を私の言葉にするのが仕事だ」と話します。同じことが何度か繰り返し語られます。

続いて私は作家ですと語り始めます。作家の役割がわかりやすい言葉と口調で語られます。若干の動作が加わりながら同じことが何度か繰り返し語られます。

さらには私が演出家ですと語り始めます。演出家の役割がわかりやすい言葉と口調で観客に伝えられていきます。動きがさらに増え歩き回ったり・・・。舞台に広がりが生まれます。

加えて私は観客ですと語り始めます。観客が為していることがわかりやすい言葉と口調で語られます。

観客である私が劇場を出ると、私は観客ではなくなると言います。外では時間が過ぎていたとも。

俳優と作家と演出家と観客。演劇が構成される。

ゆっくりと規則正しい語りで演劇を構成する者の説明が繰り返されていきます。動作に様々な変化が生まれ、舞台に空気の緩急が生じて世界が広がっていきます。

女性が上手に去っても、照明が落ちることはなく、空間が舞台を作り続ける。存在がない俳優と言葉のなさを書いた作家といない場所を決めた演出家とそれを観る観客がいて演劇がある。

観客を空間に浸潤させるに十分な時間が経過して、2人の女性が現れます。衣装が異なる女性と最初の女優の衣裳をまとった別な女性。台詞は従前と同じ・・。それぞれが演劇を構築し次第に瑞々しく重なりあいます。舞台の要素達が熱を持ち始める。コンテンツを記号化された舞台が生み出す密度や質感の広がりに目を見張る。

衣装の異なる女性が舞台を去り、男性が現れます。台詞は同じ。やがて女性が去り彼一人が残ると彼はポロシャツとズボンを脱ぎ去る。その下には目を引く花柄のワンピース。彼は自らに舞台を背負いそこに立ちます。

立ち続けます。

演劇はずっとそこにありました。作家がその姿を書き、演出家がその場所を決め、俳優はその姿を自分のものにし、観客の前に立ち続けます。

客電が灯り、それでも舞台には演劇がありました。客席上手側の扉が開かれても、私には観客に観客でなくなる自由が提示されたくらいにしか感じられませんでした

外からやってくるいろいろな音、虫の声や話し声、自動車や電車の通過音。でもそれらは演劇の効果音や借景にも思えて。

舞台を見つめているといろんなものがやってきました。時間の経過からやわらかいいらだちが生まれたのは事実。しかし、舞台上の俳優を観て去来する思いに埋もれてしまう。

さらに時間がたつにつれ、舞台上の演劇の広がる果てを想い天井を見上げたり、それまでに同じ舞台空間に存在した演劇のことを想い目頭が熱くなるような切なさや締めつけるようないとおしさが降りてきたり、この場所にある演劇の奥行きに思考を超えて心が震えたり。

静かにその場を去る方がいらっしゃってもほとんど気にはなりませんでした。拍手をしたあと劇場を出られた方には賛意を感じたりもして。

退館時間が迫っていることが丁重に告げられても、周りの椅子がかたずけられても、脚立が持ち込まれてそのシーンに不要な照明が外されても舞台には演劇があって。演劇からやってくるものがあって、私が感じるものがあって。

スタッフの方に申し訳ないという気持ちもあったのですが、舞台からやってくるものに惹かれる気持ちがはるかに勝ってしまって、私はその場を離れることができませんでした。

その演劇の終りがどういう形であったかは、特に意味がないので書きません。最後には10人程度の観客が演劇の内側にいたと思います。。

「観客が劇場をでるのも演劇」と自分に言い聞かせて席を立ったあと、ほかのやり方が思いつかず舞台に一礼をしました。よしんば無粋なやり方であっても、観客として舞台と役者・作家・演出家に感謝を現わしたくて。そして出口へと足を運び、私は観客でなくなりました。。

劇場を出ると満たされきれない気持ちがゆっくりとわき起こってきました。でもすごく満たされていることにも気がつきました。

時間が過ぎていました。ふと時計を見ると22時30分を回っていました。

翌日に別のお芝居を観た後思ったのですが、「演劇」がGINというスピリットならば、「CASTAYA PROJECT」の4日間はGIN自身の味わいをメインに楽しむための様々なカクテルの饗宴だったのかも。

最終日はとてもドライなマティーニを頂いたような気がします。ベルモットでグラスをリンスしただけのやつ・・・。その口当たりや全身に広がり留まるような感覚は、私が演劇を見続ける限りずっと忘れることがないと思います。

×××××     ×××××    ×××××

(上記の文章は私の観劇時の記憶にのみ基づいて書かれています。錯誤の可能性が少なからずあることについてご承知おきください。)

R-Club

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あひるなんちゃら「サマーゴーサマー」あひるのてんこ盛り

2009年8月22日ソワレにて、あひるなんちゃら「サマーコーサマー」を観てきました。場所は下北沢OFFOFF劇場。蒸し暑い空気が充満する外とは異なったあひるなんちゃらの夏にどっぷりと浸されました。

(ここから、ネタばれがあります。十分にご留意ください。)

脚本・演出:関村俊介

舞台はお客様のあまり入らない映画館のロビー、なぜか甥の夏休みの宿題をやり続ける映画館のオーナー。その宿題がはかどらないいらだちから発した一言で夏が終わらなくなってしまうのです。  

素敵にゆるい感じの導入部分。主人公のひとことで季節が続いてしまうというありえないような設定が、その場の雰囲気の中でありになってしまうところにあひるなんちゃらの底力があって。

その映画館にやってくる人々の妙な貫き方がたまらなくおかしくて・・。場の雰囲気にすごくゆるい感じがただよっていても、個々のキャラクターはぶれなくタイトに描かれていて、舞台は役者たちの貫く力を持ったお芝居から生まれる隠し味のようなテンションにしっかりと支えられているのです。すてきに方向がずれたキャラクターのベクトルや絶妙な間の外し方にはまったくあざとさを感じさせないほどの洗練があって、観客は受け身を封じられてそのまま気持ちよく転がされてしまう・・・。

宿題をやり続けたり、映画を見続けたり、上映されない映画を作り続けたり・・。街という枠のなかでことこと煮込まれるようになんとなく夏が続いていきます。変化の兆しがあっても、ちょっと残念な舞台の「し続ける」雰囲気にに吸収されていく。その抜け出せなさから淡いペーソスが膨らみ不思議な居心地のよさがやってきて。

黒岩三佳が今回舞台に居続け、そのことによってあひる作品のエキスがさらに濃縮された感じ。黒岩はぼけとつっこみ両方を安定感を持ってこなしていきます。映画館のオーナーという立場と甥の宿題を続けるというベースの部分をがっつりと演じきるなかで舞台を背負っていく。突っ込みの、相手のセリフをその場に行き渡らせておいてからするどく切り返すタイミングが絶妙、十分に相手の世界を抽出しておいてそこから落とすので、テンポを超越したたまらなく豊かなおかしさやってくるのです。永山智啓のかもしだす、ちょっとダルな雰囲気は黒岩との腐れ縁を沁みいるように観客に伝えていきます。気弱ななかに頑なさを持った雰囲気が黒岩の突っ込みをがっつりと受け止めて、脱力系であるのは間違いないのですがある種の密度が二人の間に醸成されていく・・・。

篠本美帆から伝わってくる映画を観る至福がすごくシンプルで、そこに薄っぺらだけれど目一杯の満たされ感と突き抜けきれなさがふわっと浮かび上がってくる。やや強めのお芝居で舞台にキャラクターの居場所を切り開いてお客の少ない映画館の雰囲気に厚みを作ってみせました。江見昭嘉のどこかペラペラした一途さもうまいなあと思う。その場の雰囲気に一段の広がりとおかしみを醸成するキャラクターのシンプルさを演じきっていました。

佐藤達は黒岩の演じるキャラクターの常ならぬ不可思議さを際立たせる基準線のような役回り。ストレートなお芝居には芯に力があって黒岩に侵食され尽くさない強さがありました。石田潤一郎が演じる黒岩の兄にはシチュエーション的なぼけを重ねるような部分があるのですが、その味わいがちゃんと伝わってきて、一方でしつこくないのがとてもよい。根津茂尚はお芝居を骨太にして舞台のボリューム感を上げていました。所々で見せる押し切るようなお芝居が舞台にメリハリを作っていたように思います。関村俊介のちょっと脱力系の演技もなにかほほえましくてよかったです。

澤唯はちょっと飛び道具的なキャラなのですが、場の雰囲気を超越するような不思議な実存感がありました。小林タクシーのお芝居には瞠目。キャラクターが作ったという新作映画のコンテンツがひっぱりだす笑い、ネタ的にはすごくべたなのですよ。でも黒岩の演じる当惑や苛立ちにぶつかった時にそのベタさが輝やいていくような演技が彼にはできるのです。黒岩の醸し出す雰囲気に対して染まる部分と染まらない部分を細かくコントロールしながらキャラクターの色の強さを変えていくような感じ。すごく滑らかにおかしみがあふれてくるのです。

ただ強かったり抑えたりというのではなく、ずっとしなやかに立ち泳ぎを続けるような体力をひとりずつの役者から感じて・・・。そこから抽出される極上の味わいがあひるなんちゃらの言葉にできない魅力につながっているようにも思えて。

しかもその味わいには麻薬のような常習性が潜んでいるのです。

季節の終わり方も、素敵にあっけんからんとして、心に残るような軽さがあって。

しばらくあひるワールドの魅力から抜けられそうにありません。

(おまけ)

終演後、場内では舞台でかかっていたテーマソングを2バージョンのアレンジにしたCDが販売されていました。

これが良いのですよ・・・。懐かしくてどこかPOPで、生理的に好きというか。

しかも、ジャケット裏がサイン帳になっていて役者さんのサインを戴けたり・・・。こういう遊び心にも劇団のセンスを感じたことでした。

R-Club

                  

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国道58号戦線「反重力えんぴつ」カジュアルな形骸化

2009年8月20日、シアターサンモールにて国道58号戦線「反重力えんぴつ」を観てきました。

劇団初見。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意くださいませ)

脚本・演出:友寄総市浪

開場時間からすこし遅れて劇場に到着。入口側から舞台の手前と向こうにしつらえられた客席にはさまれて舞台には古びたアパートの四畳半の部屋とトイレ、さらに長めの廊下。座席選定をちょこっと迷ったり・・・。

イーゼルに原稿用紙を置いて男が絵を描くがごとくに小説を書くという冒頭シーン。主人公の女性が文句だらだらでモデルを演じる・・・。それが、一転して彼女がモデルとなり一人の男を原稿用紙にスケッチするシーンへと変わります。

世界で一番重たいものは・・・。

そこに次々と仲間が集まってきて・・・。四畳半は実は学生運動の活動家たちのアジトに使われていたりする・・・。

学生運動独特のにおいが時代祭のように残されているなかで、今の描き方に歪みが感じられない・・・。戦場で死に物狂いで戦うための技術であった武術がそのままスポーツになったような感じ。儀式化した会合の始まりがすごく滑稽で秀逸。

組織の内部にはちょっと体育会系の雰囲気があったり、ありがちな人間関係のもつれが現出したりするのですが、物語が進んでいくうちにそのゲーム性が明らかになってきます。一方でゲームを支えるもの、爆弾がすごくお手軽に作られてしまうあっけんからんさや、形骸化していても過激派がいなくなるとちょいと困るような力の影にも「今」の隠れた部分が垣間見えて。形骸化した学生運動のカジュアルさに加えてどこか戯画化されたような存在感が構築されていきます。

組織の中で再び問われる世界で一番重たいもの・・・。組織のロジックのなかで示される答。その一方で主人公の女性が描く絵の中には違う答えがあって。

「反重力えんぴつ」は手品。ふっとその場の心を和ませるもの。でも、宙に浮いた鉛筆は昔の学生運動のように思想とかロジックの重さを描くことはないのです。

思想やロジックの暴走が組織っぽいものの歯止めをすっとばすのではなく、もっと自然な思いがカジュアルにさえ思える質感でカレーパーティのスタートスイッチを押すところにぞくっときました。彼女の世界で一番重いもの、あるいは世界にとって一番重いものが「今」にすっとマッチして・・・。

友寄総市浪のしたたかな時代のすくいとり方にじわっと瞠目したことでした。

役者もなかなか魅力的でした。伊神忠聡にはどこかクールな印象があって、かりそめのリーダーシップが組織の存在感をうまく醸し出していました。福原冠が演じるイジメられキャラも組織の色に深さを与えていて。ちょっとした小心さがうまく表現されていたと思います。芳川痺はキャラクターの立ち回りの軽さと裏腹なキャラクターの芯のぶれのなさをうまく表していました。加賀美秀明のどこか人を喰ったようなずるさには舞台の見え方をするっと変えるような力がありました。力みなく切れを持った演技が観客の視点をさらっと物語の別の側面に導いていました。

岡安慶子にはどきっとするような表情の美しさがあって彼女の演じる今っぽさと学生運動のミスマッチをうまく浮き立たせていました。一方で彼女の実態が暴かれる終盤の表情にお芝居の奥行きも感じて。細井里佳の作り上げる知的な雰囲気も魅力的で仕草が綺麗なところも学生運動のイメージとしたたかに乖離していて、岡安同様にうまく芝居の色を作り上げていました。

新井秀幸は怪演。トークショーで舞台は2度目であるようなお話がありましたが、その演技の濃淡のなさがすごく効いていて。融通の利かなさ加減に不思議な実存感があるのです。田中美希恵のパワーにはびっくり。強くて破壊力のあるお芝居。でも強さでキャラクターがぼけないのです。一見飛び道具的なのですが終盤には実直なお芝居でキャラクターをうまく収束させていたと思います。

ハマカワフミエはこれまでにも何度か観ていますが、そのたびに同じ感覚で違う色を見せられて。京の町家のようなもので入口の印象は狭いというか同じような感じなのですが、内側の部屋数というか引出がすごく豊かな感じ。観る側にとって良い意味で油断がならないのです。今回も成熟途上の女性を雰囲気に保ちながら、イーゼルをはさんだ会話の絶妙な質感やタイミングの内にぞくっとくるようなキャラクターの感性を忍ばせておりました。

この作品、お世辞抜きに面白かったのですよ。相応のボリューム感がある一方で時間をまったく感じずに見入ってしまった。でも、その一方で終演後の拍手をしながら、自分の内側にある奇妙な納得感の存在や違和感のなさにとまどいを感じたり。なんなのでしょうね・・・。

なにはともあれ、とても気になる劇団に出会ったことだけは間違いありません。

PS:終演後友寄氏とコマツ企画主宰のこまつみちる氏のトークショーがありまして、こちらもなかなかに興味深かったです。それほど場のテンションは高くなかったのですが、こまつ氏がしらっと尋ねることが、実は舞台の核心をしっかり突いていて・・・。こちらも時間があっという間。色は淡く中味の充実したトークでありました。

R-Club

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DULL-COLORED POP「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」美しい言葉達に導かれる

2009年8月16日ソワレにてDULL-COLORED POP vol.8「マリー・ド・ブランウェリエ侯爵婦人」を観ました。会場は新宿シアターモリエール。

気持ちよく暑い日に、ビルの陰にたたずんで開場を待つのが結構楽しくて・・・。好きな役者さんがたくさん出るお芝居というのは、それだけで心ときめきます。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

史実をベースにしたお話だそうです。作・演出は谷賢一

少しだけ遅れての開演、明かりが落ちてオルゴールのような音の中、再び光がかすかに戻ると、床に多数の人がうごめくのが見て取れます。

そこは、暗くろくに光もささない貧民院、一人の若い女性が奉仕を始めます。貧しいものに洗濯や掃除をし、聖書などの本を読んで聞かせる。居酒屋よろしく「聖書入りま~す」には笑ってしまったのですが、人々は死んだかのごとくで神の言葉さえ届かないような印象。しかし、そこにマリーがシスターを伴って現れ施しを始めると、生の気配が一気に濃くなります。重い病を看取られる一人の男。その男の末期がそのまま貴族の男の死の場面に移行するなかで、光のある世界に暮らす貴族たちの、どす黒い物語が幕を開けます。

それは主人公のマリーの実家、ドオブレ家を中心とした毒殺の物語・・・。彼女が嫁いだゴブラン・ド・ブランヴィリエ侯爵家の廃頽に潜む醜美の裏表。神の意に従順な表情をたたえながら欲望の悪魔に身をゆだねた一人の女性と彼女に阿る者たちの顛末。

戯曲に綴られた言葉達が本当に美しいのです。随所に見られる表現の広がりや修辞のふくよかさはシェークスピアの新作を観ているかと見紛うほど。台詞にコンサバティブなリズムがあったり、ドミノのように表現がさらなる表現を運んできたり・・・。言い回しのところどころに古典的な様式美すら感じるのですが、でもそこからやってくるものに古臭さや過去の匂いはない。科白のフレーズからまるで今を見るようにシーンのイメージが溢れてくる。ウィットに満ちた表現、観客の心をすっと掴む比喩たち。それらの言葉は自らのふくらみを隠そうともせず、次々に繋がってキャラクター達の心情や舞台全体の世界を広げていく。言葉のつながりに理があって、登場人物たちの思いや行動に違和感がない・・・。

シンプルな舞台装置のなか、その時代を想起させる衣裳をまとい、戯曲を背負って世界を紡ぎ織り上げる役者たちの技量に瞠目するばかり・・・。それぞれに与えられた美しい言葉達に押しつぶされることなく、その切れ味を武器にできる猛者ぞろいなのです。彼らが演じるキャラクター達から伝わってくる雰囲気は豊潤のひとこと。その想いも醸し出される感情も物語に塗りこめられることなく、個々の色でヴィヴィドに観客の心を染めていく。最初に命を失うマリーの父親から、マリーの欲望に身を任せる者、さらには無知なものや善に身を律するものまで、登場人物の誰一人として物語に埋もれてしまうことがない。ぞくっとするようなマリーの存在から波紋のように広がっていく人々の心の揺れが、舞台にアラベスクを描きだします。観客は必然の交点で息を呑み、重なる闇の深さに吸い込まれていくのです。

役者は16人、戯曲に高い解像度で描かれたキャラクターをもれなくがっつりと具象化していました。、清水那保はマリーの二つの顔を見事に背負い切りました。戯曲の中心線を守り切ったといってもよいかと思います。善の表情に無垢な輝きがしなやかに作られているから欲望に身をゆだねるときの心のルーズさが見事に伝わってくるのです。神にゆだねる表情と欺く表情の変わり目には鳥肌が立ちました。その夫を演じた大塚秀記も戯曲の言葉をしっかりと自分のペースに乗せてキャラクターを演じきりました。豊かさに浸りきった末の鷹揚さと退屈にたいするいらだち、さらには愛人と過ごす刹那の幸せ感などが高い解像度で伝わってくる・・・。夫の愛人を演じた宮嶋美子には大塚が醸し出す満足に説得力を与えるだけの魅力がありました。キャラクターの「女」の部分が良い意味で露骨に滲み出ていて、貴族の退廃ぶに絶妙な色をつけていました。

貴族仲間を演じた田村元は行き先のないような自堕落な雰囲気をうまく表現していました。大塚とは違った演技のリズムをもって、貴族達の雰囲気を広げていきます。マリーの共犯者ともいえる騎兵隊長役の原田紀行はなにかを手放したような雰囲気とモラルを失った妙な軽さを落着きとともに演じて見せました。その手下役の尾崎宇内もキャラクターが持つフットワークの軽さや頭の切れ、さらには自らの残忍さに目をつぶるような心根を重くならないテイストで舞台に具現化していました。

マリーの父親役を演じた中田顕史郎は冒頭の二つの死でドラマのトーンをきっちりと作り上げて見せました。贅沢な役者の使い方だとも思いますが、観客の目を貧民窟での死と貴族としての高貴な死の同一性に惹きよせて物語に対する視座を与えてくれました。マリーの母親を演じた久保亜津子は母親としての普通を演じきりました。母としての家を守るだけの毅然とした部分などもいたずらに尖ることなく表現できていて。泣き叫ぶわけではなく、うちにとどめ置くような悲しみの表現に物語のリアリティを感じました。家政婦を演じた堀越健一は女性らしさの風化したような働き者の風貌をうまく表現していました。情の厚さのようなものがすごくナチュラルに伝わってきました。

マリーの弟を演じた酒巻誉洋のお芝居には常ならぬしなやかさと勢いがありました。場面にすっと入り込み、熱を持たせぐいぐいと上げていくその質感にぞくっときた。後半自らの命が尽きようとする時の妻との会話にも実に見ごたえがありました。その妻を演じた堀奈津美はキャラクターが持つ芯の強さをがっつりと表現してみせました。表面的な内気さや愚直さを観客に印象付けておいて、次第に気丈な部分をにじませていく。そうそう、劇団員(清水&堀)のふたりが絡むシーンは本当に見ごたえがありました。マリーの末の弟を演じた高橋浩利は幼さと気丈さをうまく織り交ぜてマリーの実家に重なった悲劇の深さを観客に印象付けました。

憲兵を演じた三嶋義信は粗野な色を織り交ぜながら、でキャラクターの冷静さと執拗さをうまく舞台に表現していました。その身分のありようと罪を追うものの執念がよく出ていたと思います。神父役を演じた日澤雄介は色を消した演技ですべてを聖書にゆだねる凡庸さをうまく観客に伝えていたと思います。

修道女となっているマリーの妹を演じた百花亜希は、シスターとしての敬虔さを強く瑞々しく演じました。その敬虔さに偽りや迷いがないことが演じるキャラクターからまっすぐに伝わってくる。敬虔な気持ちの揺らぎのなさは七味まゆ味演じる貧民窟の少女も同じこと。彼女が表現する利発さや好奇心の強さは少女の気配ををちゃんと残して・・・、物語に十分なアクセントをつけながら舞台を進める力になっていました。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という聖書の言葉に「隠されているものは、手から離さない限り絶対に見えない」というマリー。そしてその見えない部分で貧民窟の人々を毒を試すための道具と扱い、自らの肉親を葬りさっていく。神の言葉に抗うマリーの傲慢は高貴な嘘にくるまれて、その一方で昨今新聞を賑わせた身近にあるモラルハザードたちと同じ色にも思えたりして。

妹のシスターと貧民窟から取り立てられた少女が交換するパンと葡萄酒がマリーの行いから芽生えた疑心に行き場を失う結末も実にしたたかだと思います。キリストの血と肉の象徴ともされるそれらが床に落ちる姿に、マリーが欺いた神がバベルの塔のごとく人を罰する姿までが浮かんで、そこに、戯曲が内包する人の行いの因果についての普遍性を感じたり・・・。

2時間30分、役者たちの力に圧倒されつつ、この戯曲の秀逸さと作者の才の深さにただただ瞠目したことでした。

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劇団鹿殺し「赤とうがらし帝国」、緻密に裏打ちされた自由さ

2009年8月14日ソワレにて劇団鹿殺し「赤とうがらし帝国」を観てきました。場所は下北沢駅前劇場。

劇団鹿殺しは、数年前に新宿南口に路上ライブを観てすごく興味をひかれた劇団。その後に観た池袋シアターグリーンの公演でさらに引きこまれました。

関西の劇団らしいエネルギーとある種のペーソスが魅力。一時期作風に迷いがあったようにも思えるのですが、前回公演あたりから次第に力が戻ってきた感じがしておりました。

作:丸尾丸一郎 演出:奈月チョビ

(ここからねたばれがあります。公演期間中でもあり十分にご留意いただきますようお願いいたします)

菜月チョビ演じるとある女性の半生記。

冒頭に主人公に内包されているという骨たちの存在が示されてさらに「赤とうがらし帝国」に願い続ければ想いはかなう」という物語を貫くエピソードが語られて・・・。

そこから骨の一つずつのエピソードを綴る形で物語が進んでいきます。

物語は波乱万丈というかかなり奇想天外なのですが、物語の中心線がしっかりしているので、チープとさえ思えるエピソードたちも物語とのかかわりの中で違和感なく受け入れられてしまう。素芝居だけではなく、歌仕立てがふんだんにあったりアクションやギャグを巧みに織り込んだりで、わくわく感を与えながら、観客を取り込んでいく感じ・・・。シーンの見せ方に関西系の劇団が得意とするけれんがいっぱい溢れていて・・・。音や光も贅沢にがっつりと役者たちをひきたてていく。

歌も良いのですよ・・・。菜月チョビのボーカルは聴く者の心を浸潤するに十分すぎるほど。李の曲の美しさがほんと心にしみるのです。役者たちのダンスやアクションもしっかりと鍛えられていて、力感と緻密さに心地よく圧倒される。。

一時期、不安定で窮屈な部分があった役者たちの演技や「芸」が今回の公演ではきちっと安定して、観る者をぶれなく引っ張っていってくれる。

超ベタなギャクもそれなりにあるのですが、役者に迷いがなく絶妙に演じ上げてくれるので舞台のテンションが切れることなく温度がちゃんと上がっていくのです。

その一方で骨の中味がひとつずつ浮かぶうちに、主人公が生きることへのペーソスがそこはかとなく舞台の奥行きを広げていきます。骨になっていくものたちの諦観に主人公に対する想いが込められていて。

主人公自ら骨となろうと思っていた存在が逆に主人公の最後の骨になっていく結末に、心を奪われてしまいました。

終わってみれば、奇想天外がどこかに消えて、主人公の人生の力強さに心を満たされて・・・。そこにある一人の女性の生きざまを不思議なリアリティとともに実感したことでした。

役者のこと、大技・小技を淡々とこなす脇役陣の出来がすごくしっかりしているのです。谷山知宏・岸潤一郎・丸山厚人・橘輝といったところの演技が細かい部分まで安定しているから舞台全体の盛り上がりに斑がない。パワーが客席にぐっと集中される感じ。高橋戦車のお芝居には力技にあざとさを感じさせないというか、ビリケンのような反則技もこの人なら許されてしまうような人徳があって。山岸門人の演技には繊細さがあって、舞台の密度が細かく作られていく。

女優陣にも底力がついてきました。傳田うにには不思議な淡さや淡白さを醸し出す力があって、物語に陰影をうまくつけていく。坂本けこ美にはぐっと凝縮したような力が内包されていて、他の個性の強い役者たちと渡り合っても埋もれないのです。

丸尾丸一郎のお芝居には大きさがありました。舞台の視線をしっかりと受け止める力を感じて。オレノグラフィティのお芝居が持つ奥行にも魅力が増したように思います。

菜月チョビの舞台を引っ張っていくちからには今回も瞠目。で、今回はそれがすごく心地よさそうに見えるのです。演じていても手ごたえがあるのでしょうね・・。余計な負荷を背負うことなく自分のペースでお芝居ができているように思えて。

「僕を愛ちて」からついつい見続けてしまっていますが、今回はたぶん私が観た中でも一番の出来かと思います。一時期いろいろとあった劇団ですが、力が過去を凌駕しさらに勢いを感じる・・・。

これからの鹿殺し、ほんと楽しみです

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「3人いる!」の不思議な実存感

少し前になりますが、2009年8月7日ソワレにて、千駄ヶ谷リトルモア地下で上演された「3人いる!」を観てきました。

7月31日から8月12日までの連続公演(8月6日だけがお休みだったようです)。しかし、多田淳之介の同じ戯曲にもかかわらず、飴屋法水の演出も出演者も毎日違うという・・・・。

当日は時たま強い雨がやってくる日和見の落ち着かないお天気で、開場を待つ間も時々雨に見舞われて・・・。その中を傘を飛び出てまで観客の荷物を預かったり整列を誘導するスタッフのがんばりに頭が下がったり。

そして入場すると、けっこうぎゅうぎゅう詰めの場内。でも、芝居が始まると、ちょっと憂鬱な気分など、舞台からやってくる色や雰囲気にあっという間に消え去ってしまいました。

(ここからネタばれがあります。ご留意くださいませ)

不思議な物語です。

部屋の中に寛ぐ一人の女性、間に合わない締切に落ち着かない中で、ちょっとした現実逃避・・・。その時突然、同じ部屋の住人がやってくる・・・。共通した記憶と独立した存在。そこに彼女の友人や元彼が現れて、それぞれが同じように複数の人格として表現されていく・・・。

3人の役者たちがめまぐるしく人格を移動させていく中、そのあいまいさと現実の中に浮かび上がってくる自らの多面性の感覚に、観ているものまでが受動的に巻き込まれていく感じ。

その部屋に映る大きすぎる美しい月がしっかりと効いていて・・・。一見理不尽に思える舞台が次第に心にフィットしていくのです。

自らと面識がないものが自分に共存している感覚。登場人物の内なる葛藤が、次第に普遍的な色に落ち着いていく一方で、内に秘めた心の揺らぎが実存感をもって感じられて・・・。舞台から導かれる、誰にでもあるかもしれない自らへの違和感が凄く生々しい。

バンバイアじゃないけれど月の光はひとの内なる姿を暴き出してしまうものなのかも・・・。

脚本のもつ普遍性を舞台美術や演出ががっつりと具現化して。個人的には、自らのうちなるあやふやさへの苛立ちがひとひらの孤独に収束していくような感覚に捉われて。

終演の拍手をし終わった後しばらく呆然としてしまいました。自分の内に満ちた感覚がなかなか抜けていかないのです。見えるはずのない、自分のまうしろにできた影が、すっと姿を現したような・・・。

役者が日替わりに変わっていく意図もわかるような気がしました。戯曲に織り込まれた普遍性は演じる者やシチュエーションで色を変えていくフレキシビリティを内包していて、この出演者の変化や伝え聞いた他の日の演出のバリエーションは、演出家の誠実な戯曲の具現化であったかと・・・。

私が観た日の出演者:國武綾・佐野友香・柴田貴輝

他の日を観ることができなかったのが凄く残念に思えました。まあ、1バージョンを観ただけでも、十分に圧倒された作品ではありましたが・・・。

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劇団銀石「リチャード・イーター」安っぽくならない今っぽさ

2009年8月12日に劇団銀石第六回公演、「リチャード・イーター」を観ました。会場は池袋シアターグリーン、Big Tree Theater。

とてもわかりやすい「リチャードⅢ世」を観ることができました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)

原案:W.シェークスピア

作・演出:佐野木雄太

リチャード3世の葛藤を、天使と悪魔のように切り分けて二人の役者で演じるところがこのお芝居の肝のひとつ。善人のリチャードとそのリチャードを食らうもの(イーター)としてのリチャードがひとつの人格の分離として描かれていきます。さらには狂言回しに戯曲にはない人物を配して・・・。

また、他の登場人物も戯画化されていて、今の感覚に寄り添うように演じられていく。これがあざとさがなくちゃんと機能していくのですよ。戯曲に100%忠実にということではなく、戯曲をうまく解きほどいて行く感じ。

正直言って、コンサバティブな演じ方がされた「リチャードⅢ世」の舞台がもつほどに登場人物たちの深い愛憎までは表現できていなかったように思いますが、それでも普遍的な人間の業のようなものは、しっかりと演じ上げられていました。そこには、今に通ずる苦悩のようなものがが浮かび上がっていて、軽薄・陳腐な印象を受けることもありませんでした。前述のリチャード3世を二面的に分離する手法もしっかりと機能していたし、書き加えられた狂言回し役である未来からの推理小説家と編集者が巧みに時代に閉じ込められて、戯曲のコンテンツを整理し物語のスピード感をつけてきます。物語はレース編みのごとく繊細に織り上げられ古色に染まった不要な重さや大仰さはほどよく削られていく。

戯画化されたような脇役たちの味付けも、常なる人の善良さやその奥に潜む愚かさのデフォルメとしてうまく観客を取り込んでいたとおもいます。歴史からの戯曲の歪曲を「なまり」にのせて表現していくやり方にも感心しました。しっかりと足音を立てる健常なる不具者の足音もとても効果的。

観たのが初日ということもあってか、終盤主人公が王の座をその手におさめてからの没落の部分がバランスとしてすこし淡白すぎるような印象はありましたが、そのあたりは公演が重なるうちにうまく落ち着くような感じもして。

役者は以下の通り

斉藤マッチュ・内山唯美・浅利ねこ・横田秀允

荒川ユリエル・安藤理樹・池亀三太・池田靖浩・石澤サトシ・石原麻美・宇佐見輝・加藤諒・北尾亘・小嶋美紗央・小太刀賢・佐藤友紀・すずき麻衣子・花戸祐介・星野満里奈・村山恭子・望月雅行・守山真利恵・矢鋪あい・矢野由布子

役者にもキレとメリハリがあって、物語の不要な重さを消して今のテイストに仕立て上げるやり方にも、古典のテイストはきちんと守っていました。単なるキレだけではなく、芯を残した演技ができていたと思います。

舞台装置や衣装も役者たちをしっかり生かしていたし、なによりも遊び心がここそこにちりばめられていて、観ていて理屈をこえておもしろいのです。

こういうお芝居、個人的には決して嫌いではありません。

上演時間は2時間20分とやや長め。でも、飽きることなく観ることができました。

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世田谷シルク「グッバイ・マイ・ダーリン」林檎の過不足と愛のいびつ

2009年8月8日、世田谷シルク「グッパイ・マイ・ダーリン」を観ました。場所は下北沢楽園。蒸す外気から逃げるように場内にはいると整然と並んだ椅子たちまでが気持ちよく感じて。今回は飲食付きの特別席(シルク席)もあったようですが、通常席を利用しての観劇でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

ソリッドな感じの場内。舞台上には二人掛けのソファが3つ並び、お芝居で使われる煙草の煙は害があるものではない旨のメッセージが繰り返し投影されます。

そして舞台が始まると、そこはリアルな雰囲気をもった風俗店に早変わり。おしゃべりタイムやハッスルタイムが交互に組み合わされる「セット」の仕組みなどもさらっと観客に伝えられていきます。

店内の生々しい人間関係のもろもろをバックステージにかかえながら営業されていく姿から、女性一人ずつの抱える生活のディテールがさらっと自然に伝わってくる。そのなかで物語のキー的な要素を暗示するりんごの存在が次第に観客の目を引いていきます。毎日店の前にはたくさんのリンゴが置かれていることが示されて。また、他のお店から移ってきた女性についてきた客が持ってくるものもりんご。

さらには、お店の女の子すべてが並べられたりんごにおきかえられて、そこから恣意的に生活感をそぎ落とされたような薄っぺらさを持って、風俗店の2階に住む4人家族の物語が語られていきます。並べられた無表情の女性たちの語りに合わせて、家族の物語が駒を進める感じ。その世界では母が毎日たくさんのりんごを食べたがり、食べかけのリンゴを窓の外に放り出すのです。父は一日一つのりんごで我慢するように母を諭す・・・。

1Fの風俗店の描写にはディテールの加えてデフォルメされた時間の流れが差し込まれて。人の動きや物事の流れが、「山の手事情社のメソッドを彷彿とさせるやり方で重ねられていく。早回しとスローモーション、ルーティンと微細なバリエーションの変化・・・・。それらによって時間のボリュームが形成され、お店の従業員達の疲労感までがリアリティを持って観客に伝わってくる。そして変わらず店には箱一杯のりんごが届けられ・・・。

2Fでは母子や兄弟の関係性なども次第に浮き彫りになって、やがてりんごたちの語りに従ってカタストロフがやってくる。

その理解が正しいかどうか自信があるわけではないのですが、私にはりんごを「愛」とか「愛の対価」に置き換えて合点がいったようなところがあって・・・。そう観ると疑似愛の捨て場になっている風俗店にりんごが集まる姿も、2階の家庭に生じたりんごの量感のアンバランスもすっと入ってくるのです。

1階の風俗店と2階の家庭、どちらにも生じたりんごの受け渡しのバランスの悪さのようなものから、不毛に受け渡され使い捨てられていく愛の姿と、それを維持させしめるための逃げようのない世界の構造などもが浮かんでくる。

下敷として寺山修司「アダムとイブ、私の犯罪学」があげられています。その知識があれば、作品に対する理解はさらに深まったのかもしれませんが、それがなくても、作・演出の堀川炎が現わす世界の質感には、シニカルで普遍的ななにかを感じることができて。ダイナミックにデフォルメされた表現達の巧みさにも心を奪われて、上演時間があっという間に思えた事でした

役者のこと、女優陣には個々のキャラクターをがっつりと描き上げる力がありました。えみりーゆうなの日本人とすこしずれた感覚の表現や大竹沙絵子、下山マリナといったところの沈んだ部分を持った色香や生活感のしなやかなにじませ方には、観客を心よりうなずかせるに足りる実存感がありました。

辻沢綾香の子持ちであることを納得させてしまうようなずぶとさの表現もすごく秀逸。双数姉妹や競泳水着などでたびたび観ている女優さんですが、彼女のお芝居は観る毎にどんどんと間口や深さを増しているような気がします。今回もキャラクターが抱える世界をがっつりと浮かびあがらせて存在感抜群のお芝居でした。守美樹の演じるキャラクターの時間とともに変化する姿の表現も旨いと思いました。教えられたことをそのまま行うというキャラクターの滑稽さなどに絶妙な間があって。堀川炎が最後に演じる新人の演技にも物語をしっかりとつなげていたように思います。

中里順子には抜群の切れがありました。一つずつの表現が、しなやかでしかも凜としていて・・・・。大胆な演技も下世話にならず物語にたっぷりとメリハリを与えるのです。キャラクターの醒めた部分の演技も、弱くならずにその色を明確に残すような力があって。踊りも秀逸、がっつりとした安定感を感じました。

黒田浩司の演技にはどこかにまっとうさというか暖かさをのこすような質感がありました。これが家庭劇の部分にベースとなる厚みを作っていたと思います。堀田尋史の持つまっとうさは黒田とは異なる色、キャバレーの客としての演技に内包された安っぽいクールさと家庭劇での気弱さそれぞれを裏打ちする力の出し入れの仕方がすごくスムーズだったように思います。

椎名豊丸にはある種の華がありました。地味な部分の多い役柄なのですが、淡々となったり埋もれたりせずに、包容力のようなものを舞台上にきちんと滲み出させていたように思います。店長役の時の、女の子との対話のやわらかさにもさりげないリアリティがあって、お店の女の子と出来ていることにも説得力を持たせるような演技でありました。

堀越涼は懐の深い演技でした。キャバクラでの繊細な部分にも観る者をひと膝前に惹きよせるような含みがあり、家庭劇での母になったときのかぶき方にも目を奪われました。いずれの演技にも一瞬に舞台を染めるような力があって・・・。母親が食べてしまうというりんごの量にもなにげにボリュームが醸成されている・・・。単に強いお芝居ができるということだけではなく微細さや瞠目するような感情の切れをもった役者であることを再認識したことでした。

終演時の拍手をしながら、やっぱりりんごのことを考えていたり。この舞台ってりんごに何を見るのかで観客が感じるものが大きく変わってくるような気がするのです。人間の根源的な欲望に置き換えるのか、あるいはスピリチュアルなものをそこに見るのか・・・。いずれにしてもその時に置き換えたものがそのまま観客自身が誰かと受け渡そうとしている愛の姿を映しているような気がして、ちょっとどきどきとしたことでした。

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青☆組 「花とアスファルト」流れる時間と留まる空気の描写力

2009年8月3日、青年団リンク 青☆組 vol.10 「花とアスファルト」を観ました。場所はアトリエ春風舎。

青☆組は前々回の15MINUTES MADEで作品を拝見してすごく惹かれた劇団のひとつで、今回の公演を楽しみにしておりました。

(ここからネタバレがあります。公演期間中でもあり十分にご留意ください)

冒頭のシーン、雨の夜、年嵩の女性に一通の手紙が届くところから物語が始まります。

そして、団地の集会場。自治会活動の場面から、その女性が住んでいる場所の雰囲気が観客に伝わり始めます。古くからの住人たちに混じって新しく越してきたという冒頭の年嵩の女性も加わっていて。そこにクマさんがやってくる。団地の住民が減り続けている中、住民の審査基準が緩和され、クマさんもそこに住めるようになったという。「クマ」のイメージとは裏腹に礼儀正しくその場になじもうとするクマさん。クマさんに対して、住人たちにもいろんな距離感が生まれて。すっと受け入れる人もいるなか、受け入れへの抵抗の強い人もいて。クマさんという異文化を取り込んでいく団地の雰囲気と、変わらずに過ぎていく団地の時間や人々の姿がやわらかく織り上げられていきます。住民どうしの関係。団地全体の環境、そこにある生活。

作・演出の吉田小夏はしたたかなデフォルメで団地の空気を作り上げていきます。ステレオタイプな団地のイメージではなく、ユニークな視点からのしなやかな風景描写のなかで舞台に団地の雰囲気を醸成してくのです。その中にクマさんまでが織り込まれていく感じ。

母子の関係を表すシーンがすごく秀逸。3人の母がそれぞれに子供に対して語りかけるのですが、雰囲気はそれぞれに違い、食べるものや言葉遣いに親の個性がしっかりとある一方で、トーンは違っても共通する行動に団地の暮らしのなかで暮すという空気がしっかりと満ちていきます。きゅうりやトマト、とうもろこしを食べる姿から生活の実存感が溢れだし、一方でどこかに行こうと誘いかける母親の発想が同じことから、団地という場所に醸成された住人たち共通の価値観がすっと舞台を満たすのです。母親たちそれぞれが発想するちょっと箍をはずしたようなおもいつきが、じつは団地のなかではありふれたものだったりする。その内側にある日々の暮らしの地下を貫く凡庸な閉塞感がじわっと伝わってくる。

団地の「あいさつ」の歌のエピソードもうまいと思いました。敬老会や子供のクリスマス会と同じ歌でやりすごすマンネリ感、でもそのコーラスは会を重ねるごとに進化していて、技法が次々にかさねられていく。歌の終りの部分についていけない人がでるという欠点もそのままだったりするところもこっけいで、洗練されていく部分がまだらなところにも団地に流おおらかな変化の速度が感じられて。台所の窓からの月の見え方のエピソードにも、ほとんど変わらない日々の積み重ねのボリューム感が浮かんでくるのです。

プライバシーがどこか崩れた住民同士の関係。暗黙の関係が存在したり、妻に逃げられた男に娘が突然帰ってきて、それでもバランス感が生まれていく姿に、団地という世界が持つ別の側面もすっと浮かびあがってきたり。

住人がクマさんに教えたはっか飴の効用が、ふたたびその住人に戻ってくる仕掛けに、ちょっとにんまりするような文化の広がりの姿を感じたり。

その中で、団地の新参者の年嵩女性とクマさんの交流がすごくヴィヴィドに感じられます。礼儀正しく缶切りを借りにきたクマさんの心根をすっと受け入れる女性の姿に彼女がコアに持つ感性の柔らかさというか団地の色とは異なる透明感が感じられて。次第に団地の自治会に溶け込んでいく年嵩の女性が一方で抱えているいきどころのなさ。それがすっと解き放たれたような感触が舞台に生まれる。

でも、クマさんの登場で団地に起こった揺らぎのようなものが、次第に団地の日常に取り込まれていくなかで、クマさんは自らの国に帰ることを選択するのです。ドラスティックに変わることのない空気と「潮時」という言葉に込められた感覚、そしてクマさんのように帰る場所のない年嵩の女性のとどまる想いがすっと伝わってきて・・・。

役者のこと、年嵩の女性を演じた羽場睦子の演技は圧倒的で、静かなお芝居の中にすっと観客を浸潤するような力がありました。部屋の中でスケッチブックに向かう彼女の心情に観る者も心が塞ぐような思いになり、靴を脱いで触れた草の感覚の表現に、忘れていた感覚を取り戻したような気持になるのです。荒井志郎は舞台の空気をうまくかき混ぜながらクマを演じていました。凜とした演技のどこかにしたたかに当惑の感情を忍び込ませて舞台の質感を巧みにコントロールしていたように思います。団地の主婦たちを演じた、中谷真由美、小松留美、小林亮子にはそれぞれに没個性にならない演技のうまさがありました。なんというのだろう、同質の香りを失わない中でひとりずつの性格に実存感がしっかりあるのです。実存感があるといえば藤川修二のお芝居も、デフォルメを感じさせずにしっかりと団地の空気に色をつけていました。また、福寿奈央が演じるキャラクターのどこかあいまいな立場にも微妙な説得力があって・・・。長野海が演じた子供も秀逸。もうひと役の美月にも共通するのですが、いろんな空気に染まらないような大らかさがすごくうまく表現できていて・・・。林竜三はキャラクターの神経の繊細さを巧みに演じきっていたと思います。クマさんとのかかわりの中に彼の個性がうまく生きて舞台を広げていました。

冒頭のシーンに時間は戻って、団地の人々にしてもクマさんにしても、日々の暮らしのなかに記憶が風化していくさまがほろりと悲しくて。

吉田小夏が仕掛けたデフォルメの魔術が醸し出す世界のリアリティに、どっぷりと浸り込んでしまいました。

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佐藤の、「肩の上で踊るダンシングガール」 四肢の先までのテンションであらわすジェンダー

8月1日、マチネにて「佐藤の、」第一回公演、「肩の上で踊るダンシングガール」を観ました。場所は新宿眼科画廊。「佐藤の、」はこゆび侍の女優、佐藤みゆきが主宰を務めるユニット。今回が旗揚げ公演です。

この人の演技力は、こゆび侍の前回公演でも、彼女の客演するさまざまな舞台でもたっぷり体験しているだけに、今回の公演も大変楽しみにしておりました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

受付・開場がかなり遅れて、開演時間の10分前。制作の方が謝っていらっしゃいましたが、実は怪我の功名みたいな部分もあって、早めに来た観客にとってはあまり場内での待ち時間がなかったことがありがたかったりもしました。場内はいると役者はすでに板についているというか、とある状態でスタンバイをしている演出だったので、それを目にしながら長時間開演を待たされるのはちょっとダレる感じになったかもしれません。

脚本:成島秀和 演出:広田純一

結婚も近いというような同棲中の男女、朝目覚めてみると、男性が女性になってしまっていたという奇想天外な物語。脚本がすごくしっかりとしていて、男性の意識と現実の乖離に始まり男性が現実を受け入れていく姿や、女性の心情が違和感から女性同士の感情の共有へと変わっていく姿、そしてその先にある二人の関係までが見事に描かれていきます。

時々声を発するインコが、エピソードが積み重なっていく中でのそれぞれのとまどいや、行き詰まる感情をすっとリセットしているうちに、次第に男女の愛情と女性間の友情の似て非なるニュアンスが強くしなやかに浮かび上がってくる。同じ感覚だから分かりあえるものがある一方で、同じジェンダーだからこそ満たしあえないものがすごく自然なトーンで伝わってくるのです。

台本の良さを具現化する2人の役者の出来も非常によかったです。まず、根岸絵美が演じる女性になった男性の表現がすごく緻密。単に脚を広げて座ったから男性といったそんなラフなものではなく、足先へ力の入れ方から、男性的な想いがよぎるときの表情の強さ、さらにクッションをいじるときの指の具合にまでジェンダーを表現するテンションが貫いている。しかも、その演技が上滑りにならず、キャラクターの内心にシームレスに結びついているのです。女性の声色でありながら母親との電話で女性の話し方をを演じるという不可思議なシチュエーションに違和感がないのは、観客が彼女の中の男性を見せつけられているから・・・。最後の女性を強調した容姿でも、なおかつ観客にがっつりと内なる男性を見せることができる根岸の表現力には瞠目するばかり。

一方の佐藤みゆきも根岸の演技に合わせて絶妙に想いの色をを変えていきます。男性であった恋人が女性になるという違和感から次第に相手を見つけ出していく部分を強くわかりやすく表現する一方で、いったん状況を理解した後は同じ時間の中、女性同士のシンパシーのようなものと男性としての相手に対する想いを細かく演じ分けていくのです。同じシーンの中であっても、根岸からやってくるジェンダーの比率に染められるように表情から指先の動きまでが微細に変わって、彼女の内なる想いが観客に注ぎ込まれていきます。呼吸ごととも思える想いの出し入れには、ありえないシチュエーションを現実にするに十分な密度と解像力があって・・・。具現化するためのお芝居のテンションが、根岸の演技同様に四肢の先にまで滑らかに貫かれているような感じ。

ふたりの秀逸な演技の重なりから、肩車をする力やトイレの男女の選び方といった物理的なエピソードの実存感や滑稽さが、ことごとくナチュラルに伝わってきます。別腹、化粧・・・、「女性同士でとてもたのしい」という感覚がすごくヴィヴィッドに感じ取れる・・・・。そのクオリティはさらに先にある女性の「だから一緒に暮らせない」という想いを、よしんば男性の私にまでも理性ではなく感情の部分で理解させてしまうのです。

どんなに相手を理解していても、同性としての共感と異性にむけての愛情にはどうしても同居できない部分がある・・・。理屈ではなくて真理だと思いました。演出家や役者たちが紡ぎあげた時間の余韻に浸りながら、男女の関係の切なく、だからこそ素敵な不可思議さに想いを馳せたことでした。

「佐藤の、」次の展開がすごく楽しみです。

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