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DULL-COLORED POP「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」美しい言葉達に導かれる

2009年8月16日ソワレにてDULL-COLORED POP vol.8「マリー・ド・ブランウェリエ侯爵婦人」を観ました。会場は新宿シアターモリエール。

気持ちよく暑い日に、ビルの陰にたたずんで開場を待つのが結構楽しくて・・・。好きな役者さんがたくさん出るお芝居というのは、それだけで心ときめきます。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

史実をベースにしたお話だそうです。作・演出は谷賢一

少しだけ遅れての開演、明かりが落ちてオルゴールのような音の中、再び光がかすかに戻ると、床に多数の人がうごめくのが見て取れます。

そこは、暗くろくに光もささない貧民院、一人の若い女性が奉仕を始めます。貧しいものに洗濯や掃除をし、聖書などの本を読んで聞かせる。居酒屋よろしく「聖書入りま~す」には笑ってしまったのですが、人々は死んだかのごとくで神の言葉さえ届かないような印象。しかし、そこにマリーがシスターを伴って現れ施しを始めると、生の気配が一気に濃くなります。重い病を看取られる一人の男。その男の末期がそのまま貴族の男の死の場面に移行するなかで、光のある世界に暮らす貴族たちの、どす黒い物語が幕を開けます。

それは主人公のマリーの実家、ドオブレ家を中心とした毒殺の物語・・・。彼女が嫁いだゴブラン・ド・ブランヴィリエ侯爵家の廃頽に潜む醜美の裏表。神の意に従順な表情をたたえながら欲望の悪魔に身をゆだねた一人の女性と彼女に阿る者たちの顛末。

戯曲に綴られた言葉達が本当に美しいのです。随所に見られる表現の広がりや修辞のふくよかさはシェークスピアの新作を観ているかと見紛うほど。台詞にコンサバティブなリズムがあったり、ドミノのように表現がさらなる表現を運んできたり・・・。言い回しのところどころに古典的な様式美すら感じるのですが、でもそこからやってくるものに古臭さや過去の匂いはない。科白のフレーズからまるで今を見るようにシーンのイメージが溢れてくる。ウィットに満ちた表現、観客の心をすっと掴む比喩たち。それらの言葉は自らのふくらみを隠そうともせず、次々に繋がってキャラクター達の心情や舞台全体の世界を広げていく。言葉のつながりに理があって、登場人物たちの思いや行動に違和感がない・・・。

シンプルな舞台装置のなか、その時代を想起させる衣裳をまとい、戯曲を背負って世界を紡ぎ織り上げる役者たちの技量に瞠目するばかり・・・。それぞれに与えられた美しい言葉達に押しつぶされることなく、その切れ味を武器にできる猛者ぞろいなのです。彼らが演じるキャラクター達から伝わってくる雰囲気は豊潤のひとこと。その想いも醸し出される感情も物語に塗りこめられることなく、個々の色でヴィヴィドに観客の心を染めていく。最初に命を失うマリーの父親から、マリーの欲望に身を任せる者、さらには無知なものや善に身を律するものまで、登場人物の誰一人として物語に埋もれてしまうことがない。ぞくっとするようなマリーの存在から波紋のように広がっていく人々の心の揺れが、舞台にアラベスクを描きだします。観客は必然の交点で息を呑み、重なる闇の深さに吸い込まれていくのです。

役者は16人、戯曲に高い解像度で描かれたキャラクターをもれなくがっつりと具象化していました。、清水那保はマリーの二つの顔を見事に背負い切りました。戯曲の中心線を守り切ったといってもよいかと思います。善の表情に無垢な輝きがしなやかに作られているから欲望に身をゆだねるときの心のルーズさが見事に伝わってくるのです。神にゆだねる表情と欺く表情の変わり目には鳥肌が立ちました。その夫を演じた大塚秀記も戯曲の言葉をしっかりと自分のペースに乗せてキャラクターを演じきりました。豊かさに浸りきった末の鷹揚さと退屈にたいするいらだち、さらには愛人と過ごす刹那の幸せ感などが高い解像度で伝わってくる・・・。夫の愛人を演じた宮嶋美子には大塚が醸し出す満足に説得力を与えるだけの魅力がありました。キャラクターの「女」の部分が良い意味で露骨に滲み出ていて、貴族の退廃ぶに絶妙な色をつけていました。

貴族仲間を演じた田村元は行き先のないような自堕落な雰囲気をうまく表現していました。大塚とは違った演技のリズムをもって、貴族達の雰囲気を広げていきます。マリーの共犯者ともいえる騎兵隊長役の原田紀行はなにかを手放したような雰囲気とモラルを失った妙な軽さを落着きとともに演じて見せました。その手下役の尾崎宇内もキャラクターが持つフットワークの軽さや頭の切れ、さらには自らの残忍さに目をつぶるような心根を重くならないテイストで舞台に具現化していました。

マリーの父親役を演じた中田顕史郎は冒頭の二つの死でドラマのトーンをきっちりと作り上げて見せました。贅沢な役者の使い方だとも思いますが、観客の目を貧民窟での死と貴族としての高貴な死の同一性に惹きよせて物語に対する視座を与えてくれました。マリーの母親を演じた久保亜津子は母親としての普通を演じきりました。母としての家を守るだけの毅然とした部分などもいたずらに尖ることなく表現できていて。泣き叫ぶわけではなく、うちにとどめ置くような悲しみの表現に物語のリアリティを感じました。家政婦を演じた堀越健一は女性らしさの風化したような働き者の風貌をうまく表現していました。情の厚さのようなものがすごくナチュラルに伝わってきました。

マリーの弟を演じた酒巻誉洋のお芝居には常ならぬしなやかさと勢いがありました。場面にすっと入り込み、熱を持たせぐいぐいと上げていくその質感にぞくっときた。後半自らの命が尽きようとする時の妻との会話にも実に見ごたえがありました。その妻を演じた堀奈津美はキャラクターが持つ芯の強さをがっつりと表現してみせました。表面的な内気さや愚直さを観客に印象付けておいて、次第に気丈な部分をにじませていく。そうそう、劇団員(清水&堀)のふたりが絡むシーンは本当に見ごたえがありました。マリーの末の弟を演じた高橋浩利は幼さと気丈さをうまく織り交ぜてマリーの実家に重なった悲劇の深さを観客に印象付けました。

憲兵を演じた三嶋義信は粗野な色を織り交ぜながら、でキャラクターの冷静さと執拗さをうまく舞台に表現していました。その身分のありようと罪を追うものの執念がよく出ていたと思います。神父役を演じた日澤雄介は色を消した演技ですべてを聖書にゆだねる凡庸さをうまく観客に伝えていたと思います。

修道女となっているマリーの妹を演じた百花亜希は、シスターとしての敬虔さを強く瑞々しく演じました。その敬虔さに偽りや迷いがないことが演じるキャラクターからまっすぐに伝わってくる。敬虔な気持ちの揺らぎのなさは七味まゆ味演じる貧民窟の少女も同じこと。彼女が表現する利発さや好奇心の強さは少女の気配ををちゃんと残して・・・、物語に十分なアクセントをつけながら舞台を進める力になっていました。

「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」という聖書の言葉に「隠されているものは、手から離さない限り絶対に見えない」というマリー。そしてその見えない部分で貧民窟の人々を毒を試すための道具と扱い、自らの肉親を葬りさっていく。神の言葉に抗うマリーの傲慢は高貴な嘘にくるまれて、その一方で昨今新聞を賑わせた身近にあるモラルハザードたちと同じ色にも思えたりして。

妹のシスターと貧民窟から取り立てられた少女が交換するパンと葡萄酒がマリーの行いから芽生えた疑心に行き場を失う結末も実にしたたかだと思います。キリストの血と肉の象徴ともされるそれらが床に落ちる姿に、マリーが欺いた神がバベルの塔のごとく人を罰する姿までが浮かんで、そこに、戯曲が内包する人の行いの因果についての普遍性を感じたり・・・。

2時間30分、役者たちの力に圧倒されつつ、この戯曲の秀逸さと作者の才の深さにただただ瞠目したことでした。

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コメント

きょうr-rabi(ららびー)が具現するはずだったの。

投稿: BlogPetのr-rabi(ららびー) | 2009/08/22 13:47

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