« さいたまゴールドシアター 「アンドゥ家の一夜」の唯一無二 | トップページ | 「「UNO:R」「ひばりの大事な布」「GOOD DESIGN GIRL LOVES ART」(先週の3作 »

キリンバズウカ 「スメル」ウィットに潜んだ表現のすごさ、それを支える役者のすごさ

2009年7月4日、キリンバズウカ「スメル」を観ました。場所は王子小劇場。実はこのお芝居、10日前にワークインプログレスを拝見させていただいていたのですが、その時にも本当に心を惹かれて・・・。

で、初日に観た本番は・・・・、WIP時の期待をはるかに上回るものでした。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。特にこれから公演をご覧になる方は、格別のご配慮をお願いいたします)

ごく近未来、職がないと東京から退去を命じられるという永住禁止条例によって、東京に住むためにごみ屋敷の清掃をせざるを得なくなった若者たち。その家に暮らす母親の歳ほどの女性に関わらざるを得なくなって。東京に出てきて定職を得ることができず、でも帰郷する気にもなれない、戯曲上の表現を借りれば帰るタイミングを失った者たちの姿が浮かび上がってきます。

一方、その家に本当にしばらくぶりに娘が帰ってきます。ゴミの整理に来ていたメンバーの中に元の同棲相手を見つけたりするなかで、母親との確執や、不治の病に冒された彼女の諦観が少しずつ明らかになっていきます。

ゴミを集めることをやめない女性と、そのゴミを整理することによって東京での暮らしを続ける人々、さらにはその娘から広がる繋がり・・・。架空の条例によってデフォルメされた世界の中に、帰る場所があってもその場所に住みつづけたい気持ちや住むことができても帰る場所がない不安定な想いが、高い解像度をもった表現のなかで観る者を浸潤していきます。観客に沁み込んでくる様々な想いには、さりげない表層と裏腹に常ならぬ深さがあって。

作・演出の登米裕一は、ウィットの効いた語り口で、舞台上のキャラクターたちが作り上げる世界に観客を引き入れていきます。また、それを具現化する役者たちにも底力があって、ぐっとひと膝前ににじり出たくなるようなシーンが次々と重なっていきます。

たとえば、浦井大輔が演じる男が深谷由里香の演じる女性に結婚を匂わされて感極まり嗚咽するシーン、浦井のリアクションは深谷が伝える想いとどこかずれていて客席に笑いが起こります。でも、浦井はそのずれを単なる滑稽に終わらせず、彼の内側に積もっていた想いとして観客に伝えていくのです。さらには深谷がしなやかに表現したキャラクターの想いまでもすっと舞台に映えさせる。

細野今日子が永山智啓に頭突きをくらわす場面なども凄くよくて。永山の話を聞いた細野の気持ちの変化が、頭突きのあとの一呼吸の沈黙からしっかりと観客に伝わってきます。コメディエンヌとすら思える細野の無表情は、観るものを彼女の想いにすっと染めあげたうえに、永山が醸し出すちょっとへたれなどうしようもなさに実存感を与えいくのです。

それらを含めたたくさんの秀逸なシーンは、単にキャラクターの色を場に供するだけではなく緩やかな波紋を舞台に残していきます。時間差のように現れる波紋の重なりからキャラクターの心情がストンと観客に入り込んでくる。WIP時には、どちらかというと一つの事象として淡々と演じられていたシーンの多くに絶妙なふくらみが生まれていて、ほんと、よくここまで作り込んだと演出や役者の力に感嘆するばかり。

なかでも母と娘のやり取りは実に見ごたえがありました。お互いにぶつかり合う姿には母娘だからこその距離感があって。そこには当然に家族というか血のつながりが浮かぶ。ぶつかり合うからこそ見える家族のフレームがあるのです。それが、互いの理解と許しのシーンにも実存感を与えていきます。

母親は、物語の中で「許す」という言葉を何度か叫びます。一度は産廃を家に持ち込んだ清掃ボランティア達に何回も。二度目は再び家を出ようとする自分の娘に・・・。最初の「許す」は、場当たり的に見えて、一方で彼女が彼女であるためにとにかく全部背負ってしまおうという覚悟のようにも思えて。そして、もう一度の「許す」は余命の定まった娘が母親の本当の気持ちを持ってその人生から離れていくことに対して・・・。一度目の「許す」を観て、母親の清濁併せ呑むようなやり方がわかっているから、二度目の「許す」にはぐっときました。しかも、そのあと母親自身が本当にそのことを受け入れる時間の表現がすごくよいのですよ。ちょっと我侭に泣くだけ泣いて・・・。最後は吉本新喜劇にでも出てくるような気持ちの切替え方なのですが、そこには若者たちの為にごみを拾ってくるような彼女なりの処世感が饒舌に語られていて。また、慰めてくれた男に朝ご飯を勧める姿には登米氏の母親感の片鱗も感じられたことでした。

役者のこと、都の職員を演じた遠藤友香理は、目鼻立ちのはっきりしたお芝居で物語の外枠をがっちり固めてみせました。作品の冒頭から職務的に揺れない女をきちんときちんと演じきって、舞台上の世界の前提ににぶれを生じさせないのです。さらには職務許容範囲内のズルに、したたかさの内側にある瑞々しい女性の心情が旨く表現されていて・・・。好演だったと思います。

深谷由梨香の演じる女性には、どこか淡い色があって、それが舞台をやわらかく落ち着かせていました。ある意味ふつうの女性を演じていて、遠藤が演じた女性とは逆に内側から舞台の色をコントロールしているような感じ。前述の浦井とのシーンでも想いの語り方がすごくナチュラルで、だからこそ、浦井の演技があざとさを残さないですんでいるようにも思えたり。その一方で細野の姉としての雰囲気も細かく作り込まれていたとおもいます。細野今日子には内面の想いをすっと観客に伝えることのできる力があって、今回もその才をいかんなく発揮していました。演技はしっかりと抑制されているのですが、観客の視線をなにげにひきつけるような力がこの人にはあって、で、伝わってくる想いに透明感があるのです。かわいさとあやうさと芯にある強さを一度に観客に伝えていくような表現のフレキシビリティも彼女の世界を深く広げていて・・。やはりこの人、ただものではありません。

浦井大輔は腰のあるお芝居でその力を見せつけました。一見飛び道具のようなキャラクターを作りながらも、内包しているピュアな部分をしなやかに表現してみせる。前述のシーンでもそうだし、後半、産廃を家に持ち込んだシーンで耐えきれなくて謝ってしまう場面でも、彼が背負ったものがけれんなく観客にやってくるのです。切れのある軽妙な演技に目を奪われているうちに、裏側からゆっくりと強く揺すぶられる感じ。コマツ企画構成員の力量、恐るべしです。

花戸祐介はある種の無神経さをがっつりと表現してみせました。まわりの色に染まらない強さがきちんと出ていて。それが終盤の泣く母親をなだめるシーンのなんともいえない良さにつながっていました。永島敬三は実直な演技をずっと貫いていました。雌伏するというか野心をなにげに隠すようなお芝居が、貫かれていて。その演技の安定が一番最後のシーンでがっつり生きました。

河西裕介の演技から伝わってくるずるさもよかったです。弱さというか脆さを内包したキャラクターの小狡さが肌理こまかい演技からまとわりつくように伝わってくる。ちょっとやばい感じと気弱さのバランスの取り方が実に巧みで、キャラクターが持つ匂いをさりげなく舞台に散らしていました。折原アキラには存在感の出し入れのうまさを感じました。キャラクターがしっかり演じきられているから、舞台上でトーンを弱くしても色を残すことができるのだと思います。仲間が正社員的な職を得たという話を聞いた時の場の空気の作り方が絶妙。その場での彼の存在がきちんと観客側に残るのです。それが、産廃が見つかるシーンにつながっていく。こういう役者が舞台のクオリティを支えているのだと思ったり。

永山智啓は私がこの一年で一番たくさん観た男優かもしれません。観るたびにうまいなぁと思う。今回もキャラクターのPにまでなりあがった強さと、内面の脆弱さというか薄っぺらさの乖離が見事に表現されていて。前述の頭突きシーンもすごく印象に残ったし、その家の娘に「あなたは嘘をつく・・・」と言われた時の空気にも彼一流の演技力を感じました。ちゃんとそこにはバカラにはまり恋人の死から逃げ出してしまう男がいる。取り繕う姿から透けて見えるものの実存感が場の質感をすっと高める。最後の笑いを見て、この人はやっぱりうまいなぁと思うのです。

黒岩三佳のお芝居にも瞠目しました。彼女の演技からは演じるキャラクターが過ごしたであろう風景が見えるのです。ただ語られるだけなのに、しっかりとエッジの立ったスマートな芝居の緩急が、母親との確執や不治の病を宣告された時の半端ではない状況に陥ったキャラクターの姿を観客の深層に浮かび上がらせていきます。永山が演じる男が逃げたときの想いも観るものにまっすぐ降りてくるし、山菜採りに行って自分の分しかとってこない父親への気持ちもやわらかい感情とともに肌に染入るように伝わってきます。だから冷静な突っ込みも、シニカルな微笑みも、怒りも、悟りも、たおやかさも、上滑りしたり揮発したりせずに観客と共振しその心を揺らすのです。キャラクターが顕す諦観の色の深さや激高の切っ先の鋭さに息を呑み、直接伝わってくるような想いに鋭く心を動かされる。あひるなんちゃらやMCRなどでの彼女の演技も秀逸でしたが、今回のお芝居にはそれらとはさらに一味違った色の鮮やかさを感じたことでした。

稲川実代子は十分な奥行きを持った演技、なによりも舞台での存在感がありました。キャラクターがもつ凜と筋の通った部分と脆さが乖離せずに内包されていて、そこからかもし出される雰囲気に無理がない。観客が多面的に彼女を感じられるというか、彼女が舞台にある時間の密度がすごく豊かなのです。娘と対峙したときの「あやまらない」というひとことに込められた時間や、一方で前述の「許す」という言葉にがっつりと取り込まれた重さ。それと最後に朝ご飯の話をするときのさばさばした感じが違和感なくひとつのキャラクターに集約される凄さに目を見張ったことでした。

そうそう、舞台装置もよかったです。近未来的というかソリッドな下手のごみモミュメントと素通しに組まれたなった家屋の和室が、機能性と物語の印象を両立させていました。

Bowのあとの、短いシーンにもインパクトがあって・・・。冒頭からの伏線としても使われた「鼻血」というどこか下世話な印象を持ったものがそこはかとなく暗示する、うさんくさくお金を稼ぐことへの野心が持つダーティさのようなものにぞくっとして・・・。

さまざまなパーツを絶妙に広げ組み合わせて、東京で暮らすことや家族との関係をじっくりと俯瞰させる登米作劇に見事に引き込まれてしまいました。本当に含蓄のある作品で、観れば観るほど様々なことが伝わってくるような・・・。

この作品、もう一度観たいと思います。できれば週末。

R-Club

りch

|

« さいたまゴールドシアター 「アンドゥ家の一夜」の唯一無二 | トップページ | 「「UNO:R」「ひばりの大事な布」「GOOD DESIGN GIRL LOVES ART」(先週の3作 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: キリンバズウカ 「スメル」ウィットに潜んだ表現のすごさ、それを支える役者のすごさ:

« さいたまゴールドシアター 「アンドゥ家の一夜」の唯一無二 | トップページ | 「「UNO:R」「ひばりの大事な布」「GOOD DESIGN GIRL LOVES ART」(先週の3作 »