カニクラ 「73&88」伝達の補助線が浮かび上がらせる現実の不自由さ
7月16日ソワレにて、カニクラ公演「73&88」を観てきました。会場は五反田のアトリエヘリコプター。
久しぶりに訪れてみるとマンションのモデルルームのような建物がお隣にできていてビックリ。
開演前から物販でメロンパンや水を販売していて・・・。メロンパンは終演後に購入して、自宅で夜食がわりに食しましたがどちらかというとお菓子テイストでとてもおいしかったです。
まあ、お芝居自体はもっとおいしかったですけれど・・・。
(ここからネタバレがあります。十分にご留意くださいませ)
作・演出 柴幸男
舞台には気持ち良いほどなにもない。素舞台ってこういうのを言うのだという見本のよう。よく見ると下手奥にはラジカセが置いてあってそこから耳障りにならない程度の音楽が流れていて・・。
で、開演時間になると出演者がさりげなくラジカセをかたずけて、その流れて舞台の中央にやってきて。
役者の観客に対する素の挨拶があって、そのままシームレスに仮定の世界に入り込んでいきます。このながれの自然さに秘められた力があって、なんというか肩の力が抜けた無抵抗の状態でそのまま舞台の世界に引き込まれてしまいます。
女性同士のテレパシーでの会話、最初の困惑からやがてスムーズに心が広げられていく様がすごくヴィヴィド。ふたりの中にある違和感が氷解するなかでそれぞれの生活の息づかいまでが沁みこむように伝えられていく。
それにくらべて男性感のテレバシーのやりとりにはちょっとうざい感じもあって。でそれがある意味すごくリアルに思えるのです。やわらかな拒絶と依存が同居するような部分がなにかすごくわかる・・・。
それらのシーンに重ね合わされて演じられる電話や直接会話するシーン、特別なデフォルメもない会話の中から言葉をさまたげるようないろんな想いが浮かんできて、夫婦と姉弟がリアルな質感で話すなかでの、そこはかとない不器用さや不自由さがすごく自然に伝わってくるのです。
toiで柴氏が演出した公演を観た時にも感じたのですが、柴氏がリアリティにちょっと加えた補助線のような設定や仮定には現実をさらにクリアに見せる魔法のような力があって。その力は役者たちの「実」の入口から仮定の世界を導く誘導灯となり、さらには仮定の世界から「実」の世界を見つめる視座を観客にあたえていく。
観客が身構えることもなく、ありがちな夫婦や家族(姉弟)の関係が透視図のように浮かび上がってくるのです。
役者のこと、カニクラの二人には素舞台でのお芝居を十分に支えうる表現力との安定感がありました。川田希のお芝居には生活のナチュラルさがありました。主婦としての毎日の生活感覚がきちんと演じ切れていたと思います。平凡を描く難しさって絶対あるとおもうのですよ。その部分をきちんと取り込んだ上で表現される生活の惰性とみずみずしさがすごくよくて。宝積有香には仕事をする部分での緊張感のようなものがありました。主婦とは違った背負うものが直接の表現だけではなく小さな仕草からも伝わってくるのです。
坂本爽が表現する男性が背負うものには、しっかりとした実存感がありました。個性ともいえる生真面目さがある種の暑苦しさとなって観客に入り込んでくる。妻との会話での不器用さには実直さが混在していて・・・。観客の心に入り込んでくるようななにかがありました。
玉置玲央はこれらの役者のなかでも演技の解像度が抜きん出ている感じ。たとえば姉に電話するシーンでのわずかな沈黙から心の揺れの振幅一つずつがくっきりと見えるのです。で、自らの演技を絶妙にコントロールして宝積のお芝居をきちんと生かしているところがすごい。このお芝居での唯一のけれんは玉置演じるキャラクターが事故を起こすシーンあたりなのですが、物語のトーンからはちょっと違和感を感じてもおかしくないはずなのに、彼の秀逸な表現力はそれをすっきりと舞台の流れに収めてしまうのです。逆立ちをしながらの彼の表現のしたたかさには舌を巻きました。
それにつけてもこの透明感と深さはなんなのでしょうね。すっと過ぎていく上演時間、別段の高揚もないのに、心の中にはいっぱい残されているものがあって・・・。その後味が深く湛えられた水のごとくすごく豊かなのです。
帰ってきてメロンパンを食べながら、お芝居の記憶が戻ってきて、その向こう側で自分がある人に本当に言いたいことってなにかを真剣に考えたり・・・。それがおいしいかどうかは別にして、ふっと自らの記憶までが別の色にそまったことでした
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