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孤天 第一回公演「例えば 皮膚」のものすごさ

2009年6月14日、マチネにて孤天第一回公演 「例えば 皮膚」を観ました。場所は大久保通り沿いにある「RAFT」というスペース。写真スタジオを改装したような場内は30人で満席。

作・出演 川島潤哉

一人で演劇とサブタイトルがついたこの公演、パンフレットによると「一人芝居ではなくひとつの表現としてみていただきたい」とのこと・・・。で、私なりにですが、おっしゃっていることが理解できたような気がします。

作り手側の注文どおり、演技の積み重ねから浮かぶ物語ではなく、溢れ出すような言葉から湧き上がるイメージの重なり合いに見事に凌駕されてしまいました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

控室がないそうで、勝手口のようなドアから役者が入ってきて舞台が始まります。すっと彼の世界に引きいれられる・・・。

最初はシーンが丁寧に展開されます。某国営放送でのトークショー、4人の会議体(最初、タモリがすごく昔にやっていた4人マージャンを思い出したが、そんなものではなかった・・・)、愛を告白する男、さらには同窓会の恩師の言葉など・・・。

個々のパーツの完成度がとにかく高いのです。

トークショーに出演した牛乳パックを材料にはがきを作る男から滲み出る色も秀逸ならば、その内心として裸電球の下で話し合う4人の男たちの法則で抑制された表現もじわじわと染み入って来る。同窓会の恩師がもつシュールな無関心さや愛を語る姿が新興宗教への高揚に変わっていくグルーブ感、さらにはしなやかに穿き違えられた芸術の排他性には鳥肌が立つほどのシニカルさが込められていて・・・。

それらのシーンがランダムにまわっていくのですが、シーンのニュアンスが深まっていくのと絶妙に対比して舞台のスピードが上がっていき、気がつけば観客はある種のグルーブ感に乗せられていています。

また、表現のデフォルメなどから生まれる笑いにも、豊かなバリエーションと切れがあって。ピストルのごとく至近距離から来る言葉遊びのようなものもあれば核弾頭ミサイルのようにイメージのフレーム全体で揺すぶってくれるものまであって、それらが使い捨てのようにして織り込まれ、時には観るものを突き抜け、時には内側をくすぐりつづける。

しかも繰り返され有機的に連携するシーンが、緻密な構成のなかで回って回ってのバターのようにならず、多彩な色の広がりとして演者が表現する人物の包括したイメージを支えていくのです。どーんと一撃でくるのではなく、さまざまな力にじわっと強く締めあげられていくような感じ。

こういうのって、観ていて、理屈抜きに引き込まれてしまいます。そして、常習性をもったわくわく感として観るものに残るのです。

「孤天」第一回と銘打っているということは、次回以降もきっとあるのですよね・・・。これは楽しみです。ただ、今回の評判からすると次回はプラチナチケット化するかも・・・。公演回数を増やすとか何か工夫が必要になるかもしれません。

それにしても、最近コマツ企画員の活躍が目につきます。本公演を観ると主宰の超非凡な才能に目を奪われてしまいますが、企画員の才能もかくのごとくすごいわけで・。まさに、コマツ企画恐るべしです。

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