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東京ネジ「遡上」余韻より深いなにか

2009年4月20日、東京ねじ「遡上」を観ました。場所は阿佐ヶ谷の名曲喫茶ヴィオロン。この場所は初めてです。古い喫茶店、蓄音機を彷彿とさせるラッパ状のスピーカーがあったり・・・。入って席に着くとその場の空気がやわらかく包んでくれる。開演前に流れてくるジャズが本当に心地よくて・・・。

(ここからネタバレがあります。充分にご留意の上お読みくださいませ)

この公演はワンドリンク付。喫茶店ということもあってちゃんと陶器のカップやグラスで供されます。客入れをしながら役者の方も、なにげに飲み物のオーダーを取ったり運んだり・・。開演前の雰囲気が次第に物語の時間にすりかわっていきます。

開演時間になって、役者の方から声を掛けていただき飲み終わったグラスを下げていただくと、そこからシームレスにお芝居が始まる。ちょっと出かけてくると店を出て行くお店の人、残った女性も電話でお客様にお店の場所を案内したり・・・・。地名や街の雰囲気が語られる中で、観客たちのいる場所が、そのまま東北の地方都市の喫茶に塗り変わっていく・・・。やがて臨月の女性が店に入ってきて、物語が動き始めます。

香川からきたというその女性、お店の女性とのどこか食い違った会話に、彼女が暮らす場所からの距離が実感として伝わってきて・・・。その女性は、母親や姉妹を訪ねてきたといいます。彼女の父親がなくなる前にそう教えてくれたという・・・・。尋ねてきた女性と話しを聞いて当惑する女性を前に、お店をしている年嵩の女性から本当の話が明かされていきます。

回想での、彼女たちの母親真砂子とちえのシーンが実に秀逸・・・。酔っ払った34才の母親を演じる八日市屋美保からいくつもの想いや揺らぎが包み込むような密度でやってくる。11歳年下の男への想い、その娘を捨ててきた過去、もうひとりの娘を妹と偽る今、彼女からは観ることができなかった現実も・・・・。それらを包括するような彼女の色・・・。

想いが、抱えているものの重さと一緒に観客に降りてきます。この場所での出来事を観ているという感じが、いつしか女性の過ごしてきた時間のなかにあるこの場所にいるような感覚へと染め変えられていく・・・。彼女の抱えきれないものの質感や、それでも流れを進もうとする気持ちに観客は深くやわらかく浸潤されていきます。その話を同じ場所で聴く二人の娘たちと同じように・・・・。

時が満ちたことを悟り、凜としてその話を語る佐々木なふみ(ちえ役)の実存感が同じ場所でのふたつの時間の枠をしっかりと支えます。受け入れる娘たちを演じる佐々木香与子と佐々木富貴子にも、この喫茶店での時間から広がる過去と今が密度をもって深く醸成されていく。この場所に生まれ、時が満ちてこの場所に重なり合うこと。・・・。

何気なく交わされる会話や前後に流されるラジオ番組のようなもので語られる、遡上した鮭の末路。鱗がはがれ骨まで見えて、鳥たちについばまれて・・・。でも、それは嬉しいことだという。さらには痛みや熱などに耐えられなくなったときに母を呼ぶ気持ちも語られて・・・。それらが物語に重ねられていくなかで、深いところで長くやわらかい共振のようなものがやってくるのです。「余韻」よりもっと温度と弾力をもった感じ・・・。

この公演のクレジットは以下のとおり。

作・出演:佐々木なふみ 演出・出演:佐々木香与子 出演:佐々木富貴子 八日市屋美保

東京ネジを観るのは15minutes made内の作品を含めてこれが3作目。で、拝見するたびに、自分でも触れられないようなところに何かが残されて、揺れ続けるのですよ・・・・。

これは、なんなのでしょうね。何かに惹かれているようにも思えるのですが、単純に魅力を感じているというのともすこし違う感じがするのです。この感覚に導かれて、次の公演もきっと観に行くと思います。

あと、ちょっと余談になりますが、会場のこの喫茶店、もう、感動するほど居心地がよいのですよ。古びてないといえば嘘になるのですが、血が通っているというか生きている場所。言葉では表せないようなぬくもりがあるのです。終演後、コーヒーをオーダーさせていただいたのですが、ほんと、おいしかった。さらには、劇団の方などともお話をさせていただいて、とても満たされて。

作品からやってきた感覚を深いところに抱きながら家路についたことでした。

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