「鬼姫」から溢れる血の匂いのクリア感
2月21日ソワレにて廻天百眼7發目日本公演「鬼姫を観ました。
実は、私にはこの人の出るお芝居を追いかけるとよい演劇に巡り合える確率がとても高いというタグを持った、ある意味贔屓の役者さんが何人かいらっしゃいまして・・・。たぶん役者さんたちに芝居を呼びクオリティを高める力があるのだと思うのですが・・・。牛水里美さんもそのひとり。今回私が初見の劇団にご出演との情報を得て、土曜日の夜にふらふらと夜の新宿二丁目に出かけてまいりました。
劇場はタイニィアリスです。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
作・演出 石井飛鳥。牛水さん以外の役者はたぶん初見・・・。でも、実際に観劇してみると表現力を持ったキャストが集まっているのですよ。しかも個々の得意技にバラエティがあるのです
冒頭の「かごめかごめ・・・」の歌、童謡だし、だれが歌っても同じかというと決してそんなことはない。しっかりとした張りと浸透力を持った声での子守歌が、観客をその世界に閉じ込めてしまいます。その歌を聴いた瞬間に物語に向き合わざるをえないような気持ちにしてしまう。
そこからは、おどろおどろしく見えながら、一方でしなやかさと透明感を兼ね備えたシーンが重なっていきます。物語の全景が見えないから、個々のシーンは記憶に積み重なっていくだけなのですが、それが成り立つのは、各シーンが醸し出すイメージにぶれがなくしっかりと立っているから・・・。とにかく役者がくっきりとした表現をするのです。前述のとおり個々の役者には役割分担というか得意技のようなものがあってストレートな芝居だけじゃない、舞踏や人形遣い、さらにはコンサバティブなバレエの動きまでが随所に取り入れられ、三途の河を越えて輪廻の裏側がさらけ出されるまで観客を飽きさせることがない。さらに死の向こう側の世界のシーンに至った時にそれまでに積み上がったものが雲が切れたように再度現れて観客の内側に返ってくるのです。
しかも物語にはさらに奥行きがあって、「思春期(アドレッセンス)の怨念とか「カーニバルのようなもの」というような台詞をトリガーに血を吸い殺戮を犯し暴れまわる主人公の片割れの心情とそれをたしなめる力を舞台上に表現していく。
物語はふたたび子守歌に戻って、観客はこの物語の全貌を抱きながらその歌を聴かされて・・・。少しの驚愕を残したまま、一方でなにか懐かしく思う気持ちも芽生えて・・・。そこまで持ち上げる力がこのお芝居の内外には備わっていて。
役者は以下のとおり
泉カイ 泰造 桜井咲黒 常川博行 牛水里美 大島朋恵 こもだまり 仲村弥生 宮田真奈人 大畑篤志 伊藤花りん 篠原志奈 紅日毬子
アバウトな表現で申し訳ないのですが、観終わった後、深さは感じても陰にこもるような重さは残りませんでした。抜けられないという苛立ちや、生への執着などもおどろおどろしく描かれていはいたのですが、舞台上からは怨念などというようバウトな表現で申し訳ないのですが、観終わった後、深さは感じても陰にこもるような重さは残りませんでした。抜けられないという苛立ちや、生への執着などもおどろおどろしく描かれていはいたのですが、舞台上からは怨念などというような得体の知れないものではなく、もっと実感のある人間の業のようなものとしてそれらが伝わってきて・・。
その昇華したような感じは、物語を支える役者から人形の動きまで、乱れなく演じきられた故に現出したものなのでしょうし、裏返して見るとその感覚を観客に得心させるところにこの芝居の持つ底力的な強さがあるような気もします。
耳に残ったものが3つ、前述の子守歌に鞭の音、そして狐の塩梅のよい鳴き声。そして目に焼きついた血の噴出する一瞬。
余韻に心が満たされているうちに、新宿二丁目を足早に抜けて、寒さを心地よく感じながら新宿駅まで歩いた事でした。
R-Club
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント