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ミクニヤナイハラプロジェクト「青ノ鳥」溢れだす情報が形成するもの

2009年2月22日、NHKふれあいホールにてミクニヤナイハラプロジェクト「青ノ鳥」を観ました。NHKシアターコレクションの有料収録メニューのひとつ・・。

初演当時、かなり気になっていた作品なのですが諸事情で見逃していて・・・。

ふれあいホールはチェルフィッチュのFilm上演会に続いて2回目、テレビのスタジオっぽくてどこか作りが薄っぺらいのですが天井などはしっかり高くて・・・。で、席に座ると横に何かが立っていてよく見ると集音マイクだったりする・・・。こりゃ咳払いもしにくいぞ・・・っと。

でも、ソリッドな劇団の雰囲気にはなにかなじみそう・・。舞台には鬱蒼とした森のイメージが投影されていて、ときどき白衣を着た出演者の画像や映像がその中に混じって・・・。

前説がわりの場内放送も一味違っていて、携帯電話の説明などのほかに、震度5弱以上の地震が起こった時の説明があったり・・・。

いつもの観劇とはどこか少し勝手が違う雰囲気でしたが、開演するとそんなことはたちまちどうでもよくなって。作・演出の矢内原美邦の作りだす世界に浸り込んでしまいました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)

それは、森の生態系を調査するグループのスケッチのように描かれていきます。登場人物にはそれぞれの専門分野があって、それぞれのベクトルの中で生きていて。素の芝居だと多分隠れてしまうようなニュアンスを矢内原美邦はその表現力を駆使してひとつずつ積み上げていきます。

エピソードも細かく作られていて・・・。善良なアナグマの話やアライグマの話、鴨を撃つことにしても、飛ばなくなった鳥の話にしても・・・。矢内原のメソッドだから舞台に与えられるニュアンスが確実にあって。それは言葉や動きに加えて音や画像も織り交ぜてすっと入ってきて、まるでバスフォームが溶けていくようにしなやかに広がる力を持っているのです。で、表現のアイデアに斬新さと強さがある。いらだち、恐れ、怒り、希望・・・、それらがこんなにあざやかに観客に伝わってくる・・・。

あたりまえなのかもしれないけれど、ダンスの表現力が半端ではありません。観ているものから時間を奪うような切れが役者にあってひたすら瞠目してしまう。分散した動きとシンクロした動きの絶妙なバランス、ジャンプの高さ、ステップや動作の速さと確実さ・・・。ニブロールなどの公演に比べると浅く広い表現には思えますが、それが演劇とダンスの融和するぎりぎりの深さのようにも思えます。

圧巻だったのは、前半にあった、高校時代の文化祭の表現、さまざまな群像を的確に表現するダンスに溢れる映像や文字が、ありあまるほどのエネルギーと素敵な無駄話に満ちたその時代が息が詰まるほど瑞々しく現出させる。

そこには、透明で豊かな表現の知(インテリジェンス)を感じるのです。

役者は以下のとおり

荒川修寺、有坂大志、稲毛礼子、上村聡、鈴木将一朗、高山玲子、渕野修平、光瀬指絵、矢沢誠、山本圭祐

中盤から後半にかけて、若干だけ説明調になった感じもしましたが、それも終わってみればエピソードのブロックを積み上げるための漆喰のような役目を果たしていたような。ヴィヴィッドな感性の発露だけではなく、そのあいまいさ、行き場のなさや貫く強さなどが重なって、精神世界の色にまで昇華していく感じに目を奪われていく・・・。

終盤のとべない鳥などのダンスとラストの映像も秀逸で・・・、物語の広がりをさらに高めていたように感じました。

観終わった後、老婆心よろしくこれって映像になった時点で若干繊細さが失われるのではないかな・・・、なんて思ったりもしたのですが、それでも、この作品は出来る限りの手段で記録して伝えられるべき作品なのだと思います。よしんば、そのクールな豊潤さが画面からそぎ落とされていたとしても、観ていて惹き込まれるような雰囲気はきっと伝わるだろうし・。

でも、やっぱり生でこの作品を観ることができたこと、とても幸せだったと思いながら公園通りの坂を下ったことでした。

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