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ミクニヤナイハラプロジェクト「青ノ鳥」溢れだす情報が形成するもの

2009年2月22日、NHKふれあいホールにてミクニヤナイハラプロジェクト「青ノ鳥」を観ました。NHKシアターコレクションの有料収録メニューのひとつ・・。

初演当時、かなり気になっていた作品なのですが諸事情で見逃していて・・・。

ふれあいホールはチェルフィッチュのFilm上演会に続いて2回目、テレビのスタジオっぽくてどこか作りが薄っぺらいのですが天井などはしっかり高くて・・・。で、席に座ると横に何かが立っていてよく見ると集音マイクだったりする・・・。こりゃ咳払いもしにくいぞ・・・っと。

でも、ソリッドな劇団の雰囲気にはなにかなじみそう・・。舞台には鬱蒼とした森のイメージが投影されていて、ときどき白衣を着た出演者の画像や映像がその中に混じって・・・。

前説がわりの場内放送も一味違っていて、携帯電話の説明などのほかに、震度5弱以上の地震が起こった時の説明があったり・・・。

いつもの観劇とはどこか少し勝手が違う雰囲気でしたが、開演するとそんなことはたちまちどうでもよくなって。作・演出の矢内原美邦の作りだす世界に浸り込んでしまいました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)

それは、森の生態系を調査するグループのスケッチのように描かれていきます。登場人物にはそれぞれの専門分野があって、それぞれのベクトルの中で生きていて。素の芝居だと多分隠れてしまうようなニュアンスを矢内原美邦はその表現力を駆使してひとつずつ積み上げていきます。

エピソードも細かく作られていて・・・。善良なアナグマの話やアライグマの話、鴨を撃つことにしても、飛ばなくなった鳥の話にしても・・・。矢内原のメソッドだから舞台に与えられるニュアンスが確実にあって。それは言葉や動きに加えて音や画像も織り交ぜてすっと入ってきて、まるでバスフォームが溶けていくようにしなやかに広がる力を持っているのです。で、表現のアイデアに斬新さと強さがある。いらだち、恐れ、怒り、希望・・・、それらがこんなにあざやかに観客に伝わってくる・・・。

あたりまえなのかもしれないけれど、ダンスの表現力が半端ではありません。観ているものから時間を奪うような切れが役者にあってひたすら瞠目してしまう。分散した動きとシンクロした動きの絶妙なバランス、ジャンプの高さ、ステップや動作の速さと確実さ・・・。ニブロールなどの公演に比べると浅く広い表現には思えますが、それが演劇とダンスの融和するぎりぎりの深さのようにも思えます。

圧巻だったのは、前半にあった、高校時代の文化祭の表現、さまざまな群像を的確に表現するダンスに溢れる映像や文字が、ありあまるほどのエネルギーと素敵な無駄話に満ちたその時代が息が詰まるほど瑞々しく現出させる。

そこには、透明で豊かな表現の知(インテリジェンス)を感じるのです。

役者は以下のとおり

荒川修寺、有坂大志、稲毛礼子、上村聡、鈴木将一朗、高山玲子、渕野修平、光瀬指絵、矢沢誠、山本圭祐

中盤から後半にかけて、若干だけ説明調になった感じもしましたが、それも終わってみればエピソードのブロックを積み上げるための漆喰のような役目を果たしていたような。ヴィヴィッドな感性の発露だけではなく、そのあいまいさ、行き場のなさや貫く強さなどが重なって、精神世界の色にまで昇華していく感じに目を奪われていく・・・。

終盤のとべない鳥などのダンスとラストの映像も秀逸で・・・、物語の広がりをさらに高めていたように感じました。

観終わった後、老婆心よろしくこれって映像になった時点で若干繊細さが失われるのではないかな・・・、なんて思ったりもしたのですが、それでも、この作品は出来る限りの手段で記録して伝えられるべき作品なのだと思います。よしんば、そのクールな豊潤さが画面からそぎ落とされていたとしても、観ていて惹き込まれるような雰囲気はきっと伝わるだろうし・。

でも、やっぱり生でこの作品を観ることができたこと、とても幸せだったと思いながら公園通りの坂を下ったことでした。

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「鬼姫」から溢れる血の匂いのクリア感

2月21日ソワレにて廻天百眼7發目日本公演「鬼姫を観ました。

実は、私にはこの人の出るお芝居を追いかけるとよい演劇に巡り合える確率がとても高いというタグを持った、ある意味贔屓の役者さんが何人かいらっしゃいまして・・・。たぶん役者さんたちに芝居を呼びクオリティを高める力があるのだと思うのですが・・・。牛水里美さんもそのひとり。今回私が初見の劇団にご出演との情報を得て、土曜日の夜にふらふらと夜の新宿二丁目に出かけてまいりました。

劇場はタイニィアリスです。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出 石井飛鳥。牛水さん以外の役者はたぶん初見・・・。でも、実際に観劇してみると表現力を持ったキャストが集まっているのですよ。しかも個々の得意技にバラエティがあるのです

冒頭の「かごめかごめ・・・」の歌、童謡だし、だれが歌っても同じかというと決してそんなことはない。しっかりとした張りと浸透力を持った声での子守歌が、観客をその世界に閉じ込めてしまいます。その歌を聴いた瞬間に物語に向き合わざるをえないような気持ちにしてしまう。

そこからは、おどろおどろしく見えながら、一方でしなやかさと透明感を兼ね備えたシーンが重なっていきます。物語の全景が見えないから、個々のシーンは記憶に積み重なっていくだけなのですが、それが成り立つのは、各シーンが醸し出すイメージにぶれがなくしっかりと立っているから・・・。とにかく役者がくっきりとした表現をするのです。前述のとおり個々の役者には役割分担というか得意技のようなものがあってストレートな芝居だけじゃない、舞踏や人形遣い、さらにはコンサバティブなバレエの動きまでが随所に取り入れられ、三途の河を越えて輪廻の裏側がさらけ出されるまで観客を飽きさせることがない。さらに死の向こう側の世界のシーンに至った時にそれまでに積み上がったものが雲が切れたように再度現れて観客の内側に返ってくるのです。

しかも物語にはさらに奥行きがあって、「思春期(アドレッセンス)の怨念とか「カーニバルのようなもの」というような台詞をトリガーに血を吸い殺戮を犯し暴れまわる主人公の片割れの心情とそれをたしなめる力を舞台上に表現していく。

物語はふたたび子守歌に戻って、観客はこの物語の全貌を抱きながらその歌を聴かされて・・・。少しの驚愕を残したまま、一方でなにか懐かしく思う気持ちも芽生えて・・・。そこまで持ち上げる力がこのお芝居の内外には備わっていて。

役者は以下のとおり

泉カイ 泰造 桜井咲黒 常川博行 牛水里美 大島朋恵 こもだまり 仲村弥生 宮田真奈人 大畑篤志 伊藤花りん 篠原志奈 紅日毬子

アバウトな表現で申し訳ないのですが、観終わった後、深さは感じても陰にこもるような重さは残りませんでした。抜けられないという苛立ちや、生への執着などもおどろおどろしく描かれていはいたのですが、舞台上からは怨念などというようバウトな表現で申し訳ないのですが、観終わった後、深さは感じても陰にこもるような重さは残りませんでした。抜けられないという苛立ちや、生への執着などもおどろおどろしく描かれていはいたのですが、舞台上からは怨念などというような得体の知れないものではなく、もっと実感のある人間の業のようなものとしてそれらが伝わってきて・・。

その昇華したような感じは、物語を支える役者から人形の動きまで、乱れなく演じきられた故に現出したものなのでしょうし、裏返して見るとその感覚を観客に得心させるところにこの芝居の持つ底力的な強さがあるような気もします。

耳に残ったものが3つ、前述の子守歌に鞭の音、そして狐の塩梅のよい鳴き声。そして目に焼きついた血の噴出する一瞬。

余韻に心が満たされているうちに、新宿二丁目を足早に抜けて、寒さを心地よく感じながら新宿駅まで歩いた事でした。

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「God No Name」死との距離感

2009年2月15日 駅前劇場にてタカハ劇団。「God No Name」を観ました。

タカハ劇団は初見。主宰の方はコマツ企画の「動転」で拝見した記憶があります。もっとも今回はご出演なしでしたが・・・。

どんな劇団なのかもあまりしらないまま、なんとなくよいという噂でチケットを購入したという経緯があるのですが・・・。噂もたまには信じてみるものなのですね・・・。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

テレビの画面だけを明かり代わりにして、男の独白から物語が始まります。人間の生理的な居心地の悪さに直接訴えてくるような・・・。でも、どこかで耳をそばだててしまうような・・・。

シーンが変われば、どこか村の集会所のような場所。。田舎の村を彷彿とさせる会話に、そこが樹海のそばの村のお寺の離れのような場所で、自殺志願者の社会復帰活動とと命の電話サービスが行なわれているということがわかってきます。中には実際に自殺を思いとどまった人間もいて・・・。さらにはその場所を取材に来ている男がいたり警察官が立ち寄ったり・・・。

で、みんなが同じベクトルにむかって力を合わせていると思いきや、実は個々に自分の問題をかかえた同床異夢の人々が集まっていることが物語の進行とともに分かってきます。

死の誘いから遠い人や近い人・・・。自殺の深淵のずっと内側に魅入られた人や真摯に自殺を止めようとする人、志はあっても自殺を概念でひとくくりにすることしか出来ない人や自殺すら私利に組み込む人、さらに死の向こう側からの幻影までもが具象化されて・・・。・・・。もうすぐ村で開催されるという自殺防止のフェスティバルの準備を巧みに背景に織り込みながら描かれるキャラクター達の死への距離感・・・・。それぞれのキャラクターが持つ死や生への感覚の相違が次第に観客を呑みこんでいきます。

死に対するデリカシーが薄い人の妙に健康な姿や、自分に余力がなくなると差し出していた手を無意識に手をこぶしに変えてしまう女性などにも有無を言わせぬリアリティがあって・・・一方で死に魅入られた人々の感覚、肯定も否定もせずに細密に彼らが醸し出す空気を描く力の凄さ。またそれを演じきる役者の力・・。自殺防止の歌を作ったり(人員削減をしている企業名を羅列しろみたいなセリフがその空気をまさに象徴していて笑えた)、フェスティバルをしたりするなかでの死とは全く異なる感覚がそこにはあって・・・。それは甘美でどこか軽く、口当たりがよくて・・・人々を捕らえる・・・。

一方で前述の肉体を物理的に切り裂く感覚の描写(言葉)が冒頭にあったり、肉を砕いてミンチを作る生々しさが妙に印象に残ったり(音だけでミンチ作りを表現するやり方がとても秀逸)・・・・。エピソードが不規則にゆさぶられ、積み重なって、生の明るさと死の軽さがアラベスクのように物語から染み出してきます。

デリケートな死の感覚が舞台を覆うとに、他の村と対立や命の電話活動の裏に隠された不正などがひどく陳腐な茶番にも思えてしまう。でも、逆方向から見ると、死の淵でバランスを何とか取ろうとしている自殺志願者の癒しや救いのありようが、死から遠い人々の生きていく汚く逞しい姿との対比、死の清廉かつ甘美な世界への安易な陶酔や依存で成り立っているようにも感じられて。

生きようとするものと死に蠱惑されるもの、双方の清濁が浮かびあがるなかで、舞台上に降りてくるどうしようもない死への誘いの香りに震えました。さらにはラストシーン、電話の鳴動音に取り囲まれた時、充満する死の近さとそれに対する自らの無頓着さにも気がついて、・・・。

まず初音映梨子にぞくっときました。彼女から広がる空気の色にはいくつもの層があって・・・。舞台の舞台の価値観の標準になるような存在感を持ち、なおかつ死との対話を続ける時の安定した危うさが舞台のトーンをしっかりと染めてしまう。その色の落差に観客が抗えないなにかが感じられて・・・。柿丸美智恵の表現にも、死から遠い人間の価値観を動かしがたいもののように見せるだけの力がありました。渡邉とかげの健康な普通さとキャラクターが直面する問題への対応にも強い説得力があって・・・。微かな希望を手に入れた自殺未遂者を無頓着に突き放す演技にも力がありました。クロムモリブデンの役者さんはほんとどこで観ても(あひるなんちゃらでもコマツ企画でも鹿殺しでも・・・)安定した力を発揮します。

男優たちにはそれぞれに骨の太さの違いがあって、舞台の色を絶妙に塗り分けていました。多根周作のしなやかな繊細さからは浸潤をとめられないような粒子の細かさがやってきて、舞台上に鉄骨立ての存在感を作り出す有馬自由野本光一郎が描くキャラクターの骨太さとの対比を際立たせていました。有馬や野本が足を踏ん張ればふんばるほど、多根の芝居が生きてくるような・・・。その中間の強さを演じる岸潤一郎、山田伊久麿、三浦竜一、迫田孝也からはキャラクターの妥当性が本当に自然な色で伝わってくる・・・。観客が普段着のテンションで接すること出来る空気が舞台にしたたかに醸成されていく感じ。

キャスティングの良い芝居は、それだけで多くのものを伝える力を有していることを改めて実感して。

終盤の電話が乱れ鳴るシーンは劇場を出てからも頭から離れませんでした。ありふれた死への誘惑が当たり前のように潜んでいることを想い、下北沢の駅前の雑踏に隠れている何かがふっと垣間見えた気がして・・・。一瞬立ちすくんで振り返って・・・。

この感覚、この先もう少し私を悩ませるかもしれません

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文三・春蝶プレ襲名@横浜&米團治襲名@恵比寿

先週から今週にかけて2週連続で上方落語をたっぷりと堪能してまいりました。芝居もいいけれど、落語には落語の良さがあって・・・。

これだけお芝居を楽しんでいる分際で贅沢しているなとも思うのですが、まあ、別腹という便利な言葉もあることですし、まあご容赦いただくということで・・・。

☆2月8日 横浜にぎわい座第二十回上方落語会

「きん枝・春之輔二人会~つく枝改メ文三、春菜改メ春蝶プレ襲名公演~」とのこと。とはいっても披露口上があるわけでもなし、比較的普段着の会となりました。その分、噺家さんの持つ力がまっすぐと伝わってきたような気もします。

・開口一番 「いらちのあたごまいり」笑福亭瓶成

瓶成さん、久しぶりに高座を拝見しました。前回観た時より(1年くらい前かな)間違いなく腕を上げてはるような。細かい部分がとても丁寧に演じられていて・・・。まあ持ち時間より噺の尺がちょっと大きかったのか、場面の切り方に多少ぶっきらぼうなところがありましたが、最後の湯屋のシーンで壁を磨くところが実にうまい・・・。所作を丁寧にされているのと微妙な力の使い方からしっかりと壁が高座に現れていました。こういう芸の集約ってあるとき一気に実を大きくしそうな気がします。

・桂春菜 「ふぐ鍋」

春菜師匠のちょっとぼやきにちかい枕、味があります。自分の形になっているというか完成度の高さを感じて・・・。先代の春蝶師匠のCDなどを聴いていると独特の味があってそこから噺に取り込まれていくのですが、形は違っても同じようなリズムがしっかりと受け継がれているように思います。

語り口に艶があるのですが、それを前に出すというよりは高座に漂わせて場内を包む感じ・・・。噺のテンポをうまくコントロールしてメリハリをつけていくのですが、大きく噺を作っていくのでふぐへの恐れもじわっと強く客に伝わってくる。噺に聴きごたえを感じます。また、食べるまでにナチュラルなボリューム感があるから、一気にふぐ鍋を平らげるところの勢いがまた客を魅了するのです。ほんとうにおいしそうに思えて・・・。

なにか客の体までがほっくりとするようなふぐ鍋でした。

・桂春之輔 「まめだ」

観客を見定めるようにゆっくりと間合いを観ながら、明るくでも訥々と枕を振って・・・。

一旦間をおいて噺に入っていきます。「まめだ」は桂都んぼ師匠で聴いたことがあるのですが、そこには役者の繊細な部分が出ていて、まあぶっちゃけ泣かされたわけですよ。それに対して、春之輔師匠のものは、もっと太い線で役者が描かれていきます。それは今の洗練された役者の色と昔気質の役者の雰囲気の違いでもあるのでしょうけれど、噺の力点の置き方の違いでもあるような・・・。役者や母親の日々の感情をしっかりと表現していく都んぼ師匠の噺からは役者の心根の優しさみたいなものが伝わってくるし、そのあたりをちょっと伝法な感じでサクサクっと処理していく春之輔師匠の噺だと役者稼業の気の張った部分が伝わってくる。

そこが違うから結末の部分の印象もかなり違ってくるのです。都んぼ師匠から伝わってくる役者の心情のこまやかさが、春之輔師匠版では無常感のようなものに変わってやってくる。骨太なのですが命というものを俯瞰した悟りのようなものが春之輔師匠のさげの部分から感じられて・・・。

都んぼ師匠とは違う色の涙が流れたような気がします。しっとり仕上げられた都んぼバージョンとはちがうサクッとした感じに「まめだ」という噺の別の味を楽しむことができました。

(中入り)

・桂つく枝 「堪忍袋」

一時のまんまるとした感じから、しっかりと体重を落として、その分ちょっと精悍な雰囲気が出てきたつく枝師匠。噺にも陰影がくっきりとついてきたというかかパワーのかけ方に一層のベクトルがついてきたように思います。

「堪忍袋」なのですが、この噺は最初の勢いが勝負なのでしょうね・・・。いきなるスロットル全開で場を作る。そこをとりあえずは一回疾走する。しかもその走り方に乱れがあると後が続かなくなるような・・・。それは芸の安定感や噺家の資質すら問われる場面でもあるわけで・・・・。で、つく枝師匠が観客をうならせてくれるわけですよ。喧嘩のバワーとそれを止める緩急が抜群、語りの確かさが支えてくれているから夫婦のテンションが上がっても噺のフレームが崩れることがない。喧嘩の頂まで躊躇や切っ先が鈍る部分がない。

要所でのグルーブ感がすごくて・・・。で、喧嘩が一段落した後の夫婦の雰囲気の描写もいいんですよ。さらには頂に上がった後のさげ前の嫁姑がらみのところも思い切りのよいの進め方でつかんだ観客をだれさせない。嫁の叫び方など爽快感すらある・・・。聴いている方にたっぷりと厚さや充実感が降りてくる感じ・・・、グルーブ感を客席に与えられる噺家さんはやはり強いですよね・・・。

これは文三を襲名される師匠にとって間違いなく看板というか十八番のひとつになるような・・・。引出しがひとつやふたつではない噺家であることはよく承知しているのですが、こういう強弱でどんどんふくらましていくような噺にはつく枝師匠の芸風との特に強い相性の良さを感じるのです。

・桂きん枝 「孝行糖」

当然にきん枝師匠のお名前は凄く昔から知っているのですが、実際に高座を拝見するのは初めて。枕の部分、自分の過去を織り交ぜて観客を引っ張ろうとしますが、横浜はちょっとアウェイな感じでやりにくそう。若い方は師匠のあまり知らないのかもしれません。それでも、昔の芸人気質や芸の系譜のようなものを訥々とご説明いただいて・・・・。へえと思うようなうんちくもあって・・・。

やわらかい口調で流れるように語られる噺には、笑うというより聴き入るような感じ・・。この噺を聴くのは初めてですが、噺家が腕によりをかけることができる見せ場がいくつもあるような。そこをデフォルメせずにしらっと流していくのも力量かとは思うのですが、ちょっと淡白すぎるかなとも感じる。押すより引く感じで観客を噺に誘い入れていきます。気が付いたら客はきちんと噺に閉じ込められていて・・・。したたか・・・。

トリとして高座のボリューム感もしっかり作っていただいて、気持ちよく打ち出しの太鼓を聴くことができました。

☆2月12日 小米朝改メ桂米團治襲名記念落語界(恵比寿ガーデンホール)

恵比寿ガーデンホールでの米團治師匠襲名披露。3回公演。米朝一門に立川談春・柳家喬太郎・立川志の輔という人気絶頂の東の噺家をゲストに加えての落語会です。

・桂二乗 「牛ほめ」

こういうおめでたい会ですから、語り口の明るい噺家さんが一番に出てくると座が一気に暖まります。素直な語り口にも芯に勢いがあって客としても安心して噺に乗れる感じ。コンパクトにまとめている印象はありましたが、あほの表現に作り事ではない実存感があるのがよくて・・・。聴きほれてしまいました。

・桂団朝 「寄合酒」

二乗さんにしてもそうなのですが、米朝一門の噺というのは登場人物にリアリティがあります。デフォルメしたキャラクターであっても現実の息遣いを残してあるように思える。

「寄合酒」も持ち時間の関係か要所を見せるようなまとめ方でしたが、出てくる人物たちまでが端折られているわけではない。鯛の料理を任された男の犬との呼吸のようなものが実に見事・・・。その男が犬を見るときの表情と表現されていない犬の姿がちゃんと浮かんでくる。

そういう背景を作る力が団朝師匠にはあって・・・。上方落語の定番中の定番ではありますが、なにか新鮮さを感じる寄合酒でした。

・桂南光 「初天神」

枕ではゲストの談春師匠を配慮して、自らの襲名披露の際に先代の小さん師匠にまで口上をいただいたところ、そこに談志師匠が現れてひとの襲名披露そっちのけで大げんかになったというお話を・・・。

本編も時間の関係か飴玉の部分が割愛されて、なおかつみたらし団子の下りまでで噺を切られていましたが、逆にそのあたりにもこう米團治師匠にたっぷりという配慮がにじみ出ているようで・・。その心づかいも含めて十分楽しめました。

前のおっちゃんのところに夫婦の営みを話に行く下りだけでも十分におもろい。こう地力で押していくような話のトーンなのですが、語り方でおっちゃん側に立った視点にうまく制御をかけているので、下世話な話自体にすれすれのヴェールがかかっている感じになっていて・・・。えげつない話になりそうでならない・・・。

お客をちゃんと噺に浸らせておいて、聴き終わった後にあまり観客に余韻を残さない、その匙加減がなんとも絶妙に思えて・・・。さすがざこば師匠とともに今の米朝一門を支える大番頭、見事なものでした。

・立川談春 「天災」

個人的に、「天災」は小三治師匠のバージョンが一番印象に強いのですが、談春師匠のものも視点が微妙に変わっていておもしろかったです。こう、なんというか、八五郎側に若干寄り添ったような感じがする。そうすると、先生側の威厳がちょいと揺らいだりもするわけです。すっきりと攻守を分けたような小三治師匠に比べてすきっとしてはいないのですが、八五郎に実存感が生まれる。

好みはあると思うのです。正直言ってどちらが好きかといえば、私は小三治師匠の「天災」の方が好きかも知れません。でもね、談春師匠の八五郎の雰囲気っていうのはやっぱり魅力なわけで・・・。よりそこに居そうな気がする。

画素が上がった落語とでも言うのでしょうか。中入り中もその肌ざわりについてしばらく考えてしまいました。

中入り

・ごあいさつ

団朝師匠が仕切って、米朝・談春・南光の各師匠がご挨拶。南光師匠の国宝いじりがもうおかしくて・・・。談志師匠の不始末を詫びる談志師匠の表情も観ていてなんか笑えた・・・。

米朝師匠の訥々とした言葉に息子を思う情もよく伝わってきました。

・桂米團治 「七段目」

小米朝師匠の時の高座を拝見したのが2年以上前だと思います。その時には芸に生真面目さがあって技巧派という印象、でもそれか面白さをややそいでいる感じもありました。しかし、米團治師匠には技巧や芸の生真面目さが熟して精緻さへと変貌しているような・・・。

声を大きく張るとか所作を大きくするのではなく、空間を大きく作る感じ・・・。空気の密度を上げてその中で芸の大きさを広げていくような・・・。若旦那が2階に上がって一人遊びを始めるあたりから、師匠が大きく見えてくる。派手さはないけれど華がある・・・。

六方を踏んで息子が帰ってくる部分は割愛されていたけれど、そこですっきりした噺が後半の歌舞伎の部分の風通しをよくしているような。人形振りで階段を上がるあたりからぐいぐいと観客をひきつけていけるのもそこまでの道筋に無駄がないからかと。丁稚が加わってからの所作など、端正で熱がこもっているのが後方座席からでもはっきりとわかる・・・

今後、凄く大きな芸が観れそうな予感をしっかりと観客に与える高座で・・・、なにを今更というお叱りもおありでしょうが、自分の無知を恥じつつも、米團治師匠からなにか目が離せなくなりました。偉そうな物言いで恐縮ですが、客の私にとっても観にいってよかったなと思うような襲名披露でありました。

こうやって会を二つ重ねで見させていただくと、芝居も楽しいけれど落語もやめられない・・・。なにか、やっぱり凄い贅沢を続けているなあと・・・。今更ながら自覚していますです。反省はしてないけれど・・・。

はい。

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あひるなんちゃら「フェブリー」のありがたい薬効

掲載が遅くなりましたが、2月6日ソワレにてあひるなんちゃら「フェブリー」を観ました。場所はサンモールスタジオ。観客は満席。会場には、ちょっとポップな音楽がかかって、さいごに「あひるなんちゃら」と歌詞にはいっているところがいつもながらにご愛敬・・・。しかも今回はおしゃれだったりもして・・・。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意のうえお読みください)

作・演出 関村俊介

とあるフェリーに乗り合わせた人々の人間模様。いつものとおり素敵にぬるい会話が積みあがって船上の時間が過ぎていきます。

2等船室とデッキの二か所で演じられるシーンの数々・・・。ちょっとずれた会話が次第に膨らみになっていく・・・。不思議な設定がそのまま生きたり、ちょっとだけ意外性をもってつながったり・・・。

それは、いろんなタイプの人々のデフォルメでもあるとは思うのですよ。冒頭で出てくる二人の男から漂ってくる生活からの抜けださなさ、他の船客との距離。パディシエの奇妙なこだわり、パティシエの弟子の揺らぎ、バンドの追いかけの3人組の中のルール。それらがやわらかくこすれ合ったりぶつかったりするたびにこぼれおちるような何かがそこはかとなく観ている側につたわって・・・。で、ちょっと突き抜けた滑稽さとともに積もっていく・・・。

実はちょっと体調を壊して万全ではない状態で見に行ったのですが、別に誇張でもなんでもなく、芝居を見終わったらとても元気になってしまっていた・・・。演劇ヒーリング???なんてわけでもないのでしょうけれど。空気をやわらかく盛り上げてそれがしわっと観客を包み込むようなトーン、今更ながらですが他の劇団にはない感触で・・・。その空気のなかでの人間模様をもっと眺めていたくなるような・・・。ゆるい笑いに肌理のこまかさや質感を作り上げておいて、すました顔をしているところがまたよくて・・・。ここのお芝居には、ついついはまってしまうのです。

役者では追っかけ3人組にまず目がいってしまいました。その・・・、似合うんですよ、3人ともポップな追っかけ姿が・・・。金沢涼恵のかわゆさはもう拍手もの、ちょっと無知や無垢を装うような部分があって、でも鋭い動きがちゃんとついていて。なんというか演じるキャラクターのとんがった重さと軽さのバランスが抜群なのです。墨井鯨子はヘリコプターの新年会が初見でしたがイメージが全然違って、存在感がある・・・。黒岩三佳は派手めの衣装が奇異に見えないどころかナチュラルですらあって、一方でいじめられっ娘っぽい部分が(T_T)をだすのが絶妙におかしい。彼女たちの演技の繊細さがキャラクターのなかにきちんと生きておかしさをじんわりとひろげていて。不可思議な生真面目さがそれぞれのキャラクターからみえ隠れするのも良い。こういうものを無理なく演じる3人の力量はやっぱりすごい。

永山智啓の演技もとても秀逸・・。たまたま昨年の夏から比較的続けて彼の演技を観る機会に恵まれているのですが、この人は旨い。彼が舞台にいるとそれだけで舞台の輝度が増し密度が安定するような気がします。昨年の15minutes,MUや競泳水着などで見せた安定感が今回も顕在で、口癖で周りが勘違いするような部分にナチュラルな説得力がすっと生まれる。観客がそこに寄りかかっていけるのです。小野ゆたかの色の作り方も永山とは違った意味で旨いと思いました。色をぐいぐい押すような感じが舞台に歯ごたえをつくっていたような・・・・。

尾倉ケントは年末の北京蝶々の公演でもとても目鼻立ちのくっきりとした演技をみせていましたが、今回もその力が生きていました。表現しているのは結構ステレオタイプの葛藤なのですが、彼が演じるとそのありふれた感じが流れることなくちゃんと観客の側に残るのです。異儀田夏葉篠本美帆の卒業旅行組もその表層的な夢になんともいえない味があって、これもありがちでちょっと痛い感じの卒業旅行風景なのですが、よしんば亡霊であったとしてもその根にあるずぶとさというか人間臭さが絶妙で・・・。根津茂尚からふっと垣間見える繊細さや江見昭嘉が表現する小心さも、フェリーという世界の空気をさらに醸成させているような。

今回のあひるなんちゃら、いつもにもまして、役者たちの緻密なお芝居に脱力系の創意が映えていたように思います。個々のシーンはけっこうとげとげしたりもするのですが、終わってみれば極上の野菜スープをいただいたようなあったまり方があって。まさに薬効あらたか。

毎回見終わって思うのですが、この劇団にはまだまだ私の気付かない秘密というか隠し味がひそんでいるような・・・。

終わってすぐになんですが、次回の公演が今から楽しみになりました。

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「汝、隣人に声をかけよ~ドゲスバージョン~」、観ればみるほど・・・。

2月10日、7日に観た「汝、隣人に声をかけよ」をドゲスバージョンで再度観ました。R15という自主規制(?)付き。

(一回目のことはこちらを参照ください)

たとえば、すごく良い絵が目に触れたとき、最初はその場に立ちすくんでただ眺めているのですが、その世界が自分の中に満ちると今度は絵のそばによってさらに絵の細部を観たくなるじゃないですか・・・。今回のお芝居にも同じように観る者を引き寄せる力があるのですよ。

前回の「動転」の時にも強く感じましたが、こまつみちる作劇には観客を取り込む魔力が潜んでいて・・・。

で、リピーター割引もあるとのことで会社帰りを王子小劇場へ急ぎました。場内は押し込まれない程度に満席。心地よいジャズが場内に流れ、わくわく感がゆっくりとやってきます。

(ここからネタばれがあります。R15というわけではありませんが、十分ご留意ください)

バージョンが変わってもお芝居全体の流れが特に変わったわけではありませんでした。どちらかというとディテールの表現に人間本来の姿が使われていたというニュアンス・・・・。芝居全体のトーンという意味では、ある種の透明感が若干だけ減じられて、その分キャラクターの実存感が増したような感じ。一瞬ドキッとする場面や噴き出すような場面もあって、お得感は間違いなくありました。

それより、再見して、このお芝居の秀逸さを改めて実感。シーンの積み上げ方といい、個々のシーンの表現の巧みさやそこから伝わってくるものの深さといい・・・、ほんと舌を巻きました。なんというか表現方法にためらいがない・・・。伝えるべきものが伝わるための力が手段を選ばずそれぞれのシーンにしっかりと込められて、そのシーンが次々と手をつないでいくような感じ。

最後にそれぞれのキャラクターが同時に異なる歌を絶唱するシーンにしても、そこに観客を導く前に男女が自転車に乗るシーンがあり、そのシーンの瑞々しさは男の親のところに女性が遊びにきたシーンに裏打ちされていて、女が遊びにきたシーンのインパクトはご近所付き合いの表現が前提にある・・・・。歌の部分は強烈なシーンですが、そのシーンだけの力でお客様を圧倒しているわけではないのです。すこしずつずれて立つドミノが倒れていくその強さとしなやかさこそが観客をぐいぐいと舞台に引っ張りこんでいきます。しかもこの作品、そういう導線が一本や二本ではなくて・・・。

おまけに積みあがるシーンの一つずつにきちんと魂があるというか・・・。大きく輪を作って表現されるシーンは二回目の観劇でもやはりぞくっとくるほど秀逸でしたが、それ以外の個々のシーンからも観客を満たすに十分すぎるほどの質量で伝わってくるものがてんこ盛りであるのです。

舞台にあるキャラクターの関係性が研ぎ澄まされた視点を内側に収めて次々とやってくる・・・。自転車のシーンの主婦と高校生の場面なんてもうそれだけでじわっとくるし、ゴミやしきのおやじと息子の微妙な雰囲気にしても、レーザー脱毛の相談をする女性とそれを受ける男性のトーンにしても、その他のどのシーンにも舞台を見つめれば見つめるだけ観客が惹きこまれる奥行きがある。一回目の観劇時はたくさん過ぎて無意識の領域で感じていたことが、二回目になるととても豊潤な表現として見えてきて・・・。、この舞台の懐の深さに改めて感嘆した事でした。

役者もやっぱり良いのですよ。こまつみちるの世界を演じうる力量を持った役者がちゃんと選ばれたのだなって・・・。舞台上での役もあって奥野亮子森田祐吏、岩倉チヒロ、本井博之などが特に目を惹きますが、他の役者のお芝居にも舞台上に現れるキャラクターのさらに内側を感じさせる深さがあって、そのキャラクターに観客の関心が移ったとしてもまったく底が割れないだけの広がりを感じるのです。他の役者のお名前も前回の日記にに引き続けて再掲・・・。

東谷英人・末原拓馬・相馬加奈子・成川知也・横山真弓・平間美貴・こまつみちる・浦井大輔・川島潤哉

3度目の観劇はさすがに時間的に難しいのですが、それがとても残念に思えるようなこの作品・・・。まだ公演期間もあるとのことで(15日ソワレまで)、お芝居好きには是非にお勧めの一作です。

まずは、前回観劇の追記ということで・・・。

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コマツ企画「汝、隣人に声をかけよ」個性の内側に引き込む力(ちょっと改訂)

2月7日ソワレにてコマツ企画「汝、隣人に声をかけよ」を観ました。冬の9と1/2俎板公演とのこと。コマツ企画は前回の「動転」がまさに観客を動転させるインパクトのあるお芝居で、けっこう次回をわくわく待ち焦がれていた劇団。今回は前回と異なる種類ではありましたが、やはり強いインパクトを持ったお芝居でありました。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

作・演出はこまつみちる

対面式の客席、両側から見えるようにスクリーンが2枚。入口からみて舞台奥側にちょこっと机といす・・・。シンプルな舞台装置。

フライヤーとリンクするような映像が映し出され、役者たちが輪になって歩き始めます。映像上の言葉のやわらかさと音やしぐさに潜んださざめきのようなものにまずぞくっとさせられる。それは舞台全体がある種の質量に包まれる過程での重力のようにも思えて。

エピソードが次々と小気味よく演じられていきます。ボーイズバーの話、ボランティアによるリハビリ、踏切を待つ親子の風景、井戸端会議や会社でのおしゃべり、ゴミやしきの老人。スクリーンからの文字や舞台の空気と異なった視点での画像、あるいは内心の語り、舞台上での本音・・・、まるでシャガールの絵のようにいくつかのイメージや情報が一つの空間に現れる。個々のシーンの尻尾がところどころで次のシーンを呼び込むようにつながる部分があったり・・・。

シーンが重なるにつれて舞台の質感が観客を圧していきます。物語全体がみえるわけではなく、個々のシーンに驚くほどの重さがあるわけではない・・・。でも、それぞれのシーンにはニュアンスを伝えるいろんな針が内包されていて、観る者にしなやかに刺さっていくのです。不器用にすら思える人とのつながりの仕草や、いきちがいや本音の言葉が、時にはかるく、時には軋む音のように伝わってきます。

目が離せずに舞台を見つめていると、再び役者たちが輪になるシーンがやってくる。この表現がすごい。規則的な中に人が生きていく上での他の人間とのかかわりを想起させるような明確なトリガーがあって、気づいた瞬間あっと息を呑む・・・。

で、個々のキャラクターが抱えるものがダイレクトに観客を浸潤し始めます。エピソード間のくっつき感とばらつき感が絶妙で、いくつかの物語が不規則につながる中で個々のキャラクターの色や思いがまるで何かに抽出されるように滲みだしてきます。男女の会話の微細なニュアンスからごみ屋敷の内側の不思議な感覚までがダイレクトに観客にやってくる。宗教の勧誘などを切り取る視点の鋭さと表現の秀逸さに目を見開き、女性たちの個々の心情にもそのままうなずいてしまうような説得力を感じて・・・。

それぞれの個性から、透明度のあるニュアンスがあふれ舞台を浸潤していきます。抱えきれないほどの個性たちの広がりが舞台上を支配して観客はその中に引き込まれてしまうのです。

終盤のシーンにも目を見張りました。キャラクターが個々に別な歌を歌うそのノイズ感がまた圧巻。示唆に溢れたそのシーンがとても衝撃的で・・・。

そして歌が同じものに収束して再び役者たちが輪になる時、かすかな違和感を凌駕していくような安堵感がやってきてふたたびぞくっとするのです。

ラストの男女の風景にも、ひとつの歌への収斂に感じたのと同じ感覚がやわらかく湧き上がってきて・・・。かすかなためらいを打ち消すような会話のさりげなさに、何かが解き放たれたような不思議な気持ちが下りてくるのです

役者たちの演技も見事にコントロールされていました。個々のキャラクターから埋もれてしまいそうな表層の部分とどこか突き抜けた瑞々しい部分が表裏のように伝わってくる。奥野亮子、相馬加奈子、横山真弓といった女優陣からすっと浮かぶ内心にはそれぞれが抱える底知れぬ深さが感じられて。それも極端に色が染まるわけでなく中間色の演技の中に深淵の色が垣間見えるような。実に好演だったと思います。また、平間美貴の薄皮で隠されたような好奇心の表現もとてもヴィヴィドで強く印象に残りました。

男優陣には舞台の枠を固める力量がありました。東谷英人末原拓馬などの作る空気にはくっきりとした色があって、なおかつシーンの外枠を決める力みたいなものがあって・・・。成川知也は抑えめの演技ながら場面のトーンをしたたかに作り上げていました。特に女性を宗教に引きずり込む演技がつくりだす舞台の密度には包み抱くようなしなやかさと説得力がありました。

森田祐吏が演じた高校生が持つ従順さには実在感があって物語に肌理を与えていました。彼の演技からはその高校生の日々がふっと見えるような感じ。演じている時間につながる平らな前後までが見晴らせるというか・・・。台本のうまさもあるのでしょうけれど、抑えた演技でそれを表現する彼の力に北京蝶々の舞台時同様の非凡なものを感じたことでした。板倉チヒロはクロムモリブデンに加えて先日のカムヰヤッセンの父親役が非常に印象に残った役者ですが、今回は彼の個性がぐっと前に出る演技でした。狂気やずれを演じる時に芝居を軸ごと自分の領域に引っ張り込むような力が彼にはあって、その持ち味がうまく生かされていたように思います。

コマツ企画のメンバーの演技も光ります。こまつみちるの演じる母親には他の女性とは異なる分厚さがしっかりと作り込まれていました。演技の足腰の強さに高校生の子供を持つバツイチ主婦の実存感が降りてくる感じ。しかも繊細な心の揺れやコアから溢れるようなものがきちんと見える秀逸な演技でした。本井博之が演じるおじいちゃんは頑固さからぬくもりまでのシームレスな感触が実に秀逸。ボーイズバーの店員を演じているときの間にも空気をコントロールする力量を感じました。浦井大輔が演じる亮子の旦那が奥さん達の来訪を避けて寝ようとするときの描写の細かさに感心。大ちゃんのキャラクターにも有無を言わせぬ存在感がありました。川島潤哉が演じる市会議員のプライドや責任感とどこか投げやりな部分の揺れが醸し出すリアリティも目をひきました。

これだけの役者が演じる世界たちが、舞台に広げられて、しかもその個性が物語に塗りつぶされることなくそれぞれの形状を保ちながら一つのベクトルにおさまっていく。それはもう、魔法を観ているようにも思えて・・・・。

「動転」の時と同じようなべたな感想で申し訳ないのですが、こまつみちるさん、やっぱり只者ではありません。そして動転同様この作品にも、何か底知れないものを感じる・・・・。

今回の作品にはちょっとちがうバージョンがあるようなので、何とかもう一度観にいきたいと思っています。

この劇団のお芝居、その場にいないと分からない面白さに満ち溢れているのです。

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自転車キンクリートSTORE「29時」大人のコメディ

1月31日マチネにて自転車キンクリートSTORE「29時」を観ました。作・演出は飯島早苗。場所は廃館が決まっているシアターTOPS。ちょっと遅めにいったらほぼ満席・・・。周りのお客様の年齢層は割と高め・・・。こうしてみると暖かさがある良い劇場だなと実感。大きさも実に手ごろな感じで・・・。

この劇場、本当にいろんなお芝居を観ました。ちょっと郷愁を覚えながら開演を待って・・・。そして、なんとも上等なコメディの幕が開きます。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

物語はとあるマンションの一室、一人の男が窓際にカメラをセットして何かを狙っている・・・。そこに訪れる別な男・・・。話がかみ合わないままにさらにイケメンの男が現れて・・・。さらに話が混沌とするなかで最後に40半ばの女性がジョギングから帰還・・・。次第にシチュエーションが明らかになっていきます。

そこにいるキャラクターたちの設定やシチュエーションが絶妙で・・・。他人のゴシップを追うことを趣味と実益を兼ねて生業にしている40代の男、何にも関心や愛情を持つことができない才能豊かな20代の若者、そしてそれなりに遊んだくせに家庭に縛りつけられているの30代社会人。女性は40代半ばの処女だという。ゴシップ好きの男は女性にその場所を借りてキラーショットを狙い、40代女性が翌日の友人の結婚式用のアニメを撮影する手伝いに呼ばれたのが二人の男・・・。

女性はアニメの作成中に挫折してしまいます・・・。結婚を祝福するアニメを作れないという。みれば机の上には惨殺されたウェディングケーキが・・・。

男性たちが彼女の気持ちを取りなしているうちに、さまざまなことが浮かび上がってきます。突飛な話、しみじみする話、滑稽な話。そのバランスというか物語の持って生き方がホントに上手い。飯島早苗は手練の手法で40代の女性の感情や恋愛への躊躇をタイトで豊かなエピソードを重ねて描いていきます。まるでオフブロードウェイのコメディを観ているよう。

女性の苦悩は同時に男たちが抱えるものを浮かび上がらせていく。誰もが自分が当事者となる辛さから逃げていること・・・。

戯曲が役者たちからいい出汁を引き出している感じ・・・。それがドロドロにならず、成熟した大人のコメディにまとめ上げられていて。男性のデリバリーとかホモセクシュアルなどちょっとディープな性が物語に織り込まれているのですが、一方で物語を腐らせない適度な善意が登場人物にあって・・・。世間のあるがごとくを絶妙にデフォルメした上品な中での下世話さがすごく的をついていて笑えるのです。

妄想シーンが何度か挿入されるのですが、その妙に白々しいアダルトさが鼻につかないところがまたよくて・・・。

また、主人公の女性の気持ちを一元的に定義していないところが舞台の懐を深くしています。今と過去を整理しないまま混在させて女性の想いにしているところに鮮やかなリアリティがあり男性達の心情を浮かび上がらせるトリガーにもなっていて・・・。その相乗効果がさらなる登場人物たちの一面を浮かび上がらせていく・・・。飯島の安定した筆力が観客をどんどんと物語に引き込んでいきます。

役者には文句のつけようがありません。堀越悦夫の得体の知れなさが物語を引っ張ります。意固地さにほんの少しの孤独が隠し味になっているのがよい。女性が昔彼を好きだったというサプライズにも十分に説得力を与えるバックグラウンドが作られていて・・・。塩田貞治もキャラクターにしっかりとした陰影をつけて、感情の薄いという青年をナチュラルに好演しました。デリバリーされるような世慣れ過ぎた部分と私生活のちょっと線の線の細い部分の不思議な調和に説得力があり、すぐれた洞察とナイーブな部分のアンマッチもすっきりと表現してみせる・・・。表面の繊細なお芝居のなかに中に骨太な演技力を何度も感じました。

櫻井智也はMCRの演技そのままにキャラクターを自分の手のひらに乗せて演じきります。その突っ込みの鋭さには客席の老若男女を総抱えにしてしまうようなふくらみがあって・・・。一方で本音をもらす姿に家庭でのよき夫や父のすがたがすっと浮かびあがる。彼自身の劇団での演技も秀逸ですが、客演の彼を観ていると役者としての天性が一層よくわかります。他の役者への絶妙なタイミングでの切り返しに客席をひっくりかえすことが何度もあって・・・。でも、その笑いには凛とした張りのようなものがあって、舞台の密度を決して落とさない・・・。よしんばそれが下ネタであろうとも、舞台を澱ませない力が彼にはあって、それが舞台の洒脱さにつながっていたような・・・。

歌川椎子は本当に久しぶりにみましたが、その演技力に衰えはなく、心情の微細な表現にはさらなる円熟を感じました。昔からずぶとさと繊細さを表裏にして演じるのが上手な女優さんでしたが、今回のような精神的カオスを表現するときの時の彼女にはさらに突き抜けたような力を感じます。以前と比べて多少体躯が丸くなった印象はありますが、台詞や動きの切れは抜群で、飯島が描く等身大の女性を手練の演技で演じて見せました。

最後に交わされる幽霊話はちょっと蛇足かなとも思いました。でも、一呼吸おいて考えるとその冗長な感じが29時のけだるさには妙に似合っていて・・・。2時間程度のドラマなのに、本当に徹夜をしたような奇妙な高揚やちょっとけだるい心地よさまで感じて・・・・。この一シーンで夜なべした時間の長さがぐっと伝わってくるようにも感じました。

飯島早苗が築き上げる物語に漂う彼女の慧眼やセンスのようなものに改めて惹かれ、役者たちの力に満たされて・・・。これほどまでに充実した空間を醸成してくれる劇場がなくなることに対するさびしさを覚えつつ、それでも大満足で見慣れた劇場の階段を下った事でした

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猫の会「クツシタの夜」猫的配偶者の気まぐれ

1月30日ソワレで猫の会#2「クツシタの夜」を観ました。戯曲:北村耕治 演出:村田与志行

、場所は下北沢「劇」小劇場。天気予報には豪雨とありましたが、幸い大雨という感じではなく、傘をさした方がいいかな・・・くらいの霧雨。案外こういうお天気ってじっくりと芝居を見るのには向いているような気もします。

(ここからネタばれがあります。十分ご留意の上お読みください)

冒頭、その家にはいろんな人が集まっていて、ちょっと危ない雰囲気。どうやらご主人は留守みたい・・・。女優と映画監督がいたり小説家の卵がいたり・・・。奥さんは浮気願望・・・。ラフな集まりの中で浮気がばれそうになったり。一方で猫と地域の共生を目指す組織があって、その家の旦那さんがかなり深く関与しているらしい・・・。

物語はさくさくと展開していきます。時間の流れがさりげなく巧妙に表現されて、その中で様々なことがあっけんからんとドラスティックに動いていく。その家の奥さんは駆け落ちをしてしまったらしい。監督の映画はうまくいかないらしい。獣医の友人もやってくる。シーン間の時間は結構飛ぶのですが、状況がすっと観客に入ってきて基調になる舞台のトーンもそのままに維持されて・・・。

さらに進むと奥さんは戻ってきて女優としての活動を目指す。駆け落ちした相手の奥さんが猫のことでその家にやってきて、小説家は売れ映画監督は事件を起こし、・・・・。

冷静に考えると結構波乱万丈な人間関係なのですが、それが当然の成り行きのようにしらっと物語に吸収できてしまっているところにこのお芝居の個性というか作劇の旨さを感じます。まわりから見る大変な出来事も当事者にとっては結構受け入れられてしまうというそのギャップ、さらには個々の、他が見えていなさ加減みたいなものが、デフォルメなく平たく確実に伝わってきて・・・。

一方で、物語の中で語られる猫たちの生態とその家の夫婦やその他の人間関係が、どこかオーバーラップするところも面白い。くっついたり離れたり放浪したり・・・・。平穏に暮らしているように見える人間も、猫道を気楽にお散歩しているように見えるにゃんこ達も、いろいろあるんだなって・・・。

がんばって仕事を見つけてきた女優の奥さんが自分のことに興味を示さない旦那に切れる・・・、旦那は結婚時の約束でやめたタバコを再び吸い始めたこともばれて別居されてしまいます。一旦縒りを戻した夫婦のちょっと理不尽だけれど妙に納得してしまう関係性に芽生えたこの説得力はなんだろうか。そこには奥さんの駆け落ちの話が微塵も出てこなかったり・・・。奥さんがごろごろと甘える一方でそれは気に入らないと爪を立ててぷいっとどこかへ行ってしまう猫の生態と重なり合い、なにか納得できてしまう・・・。

さらに、蝗の大群の描写と大量に狩られた猫の行方が見えないという話がベールのように物語全体をやわらかく覆って、今という時間やその家の出来事にやわらかい陰影をつけて・・・。暗転時に照らし出される猫の像も効果的。猫道から通行人・・・じゃなかった通行猫の感覚でふっと人間ががたたずんでいる今を外から眺めるような感覚があって。

いくつかもことをバランスよく重ね合わせて、力まずに今を観客に差し出すような語り口になにか魅入られてしまうのです。結果、観客の心に不思議な共鳴を誘発するような佳品に仕上がっていたように思います。

役者のこと、旨く表現できないのですが、良い意味で個々の役者から観客にやってくる質量に統一感がなくて・・・。そのばらばら感が見事に効を奏していたような。

一番印象が強かったのは大庭智子、彼女のリズムには他が相容れないような個性があって、目が離せませんでした。大塚秀記はナチュラルなのですが他の役者に比べて表現の画素がすこし多い感じ。やわらかい台詞の中にも苛立ちが何層にもわたって積もっている感じがダイレクトに伝わってきて。用松亮はテンションが微妙に強い。増井太郎は感情の加速度が若干とんがっている演技。これらの役者たちが流れの中にしつらえられた岩のような感じで、ドラマにアクセントをつけていく。一方高橋結子、高島七海、澤唯といったところは若干控えめな表現のなかにドラマの流れをつくっていく。増井太郎にもある種の味があって・・・。

そのようにして作られた流れの中で、その家の旦那を演じた畑雅之はキャラクターの持つ生真面目さをしたたかに表現していました。一方妻を演じた石井舞には流れに足をつけても色を染められないようなしなやかさがあって。彼女の表現する猫性にはあとからじわっとくるような魅力がありました。

この作品、奇妙な表現ではあるのですが、それぞれの個性や色がうまくずれあって、物語のトーンが不必要な重さを持たずに組み上げられていたような。それが出来る力量を持った役者さんがそろったということだろうし、まさにそれは演出の力でもあるのでしょうけれど・・・。

なにかクツシタ(猫・一時行方不明)の行く末とその夫婦の後日談をちょっと覗き見したくなるような・・・。そんな余韻をおみやげにいただいて霧雨の中を駅まで急いだことでした。

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