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「空の定義」その世代の時間を切り取るのは・・・

12月20日マチネにて俳優座劇場プロデュース公演、「空の定義」を見ました。会場は六本木俳優座劇場、。本当に来たのが久し振りで、殆ど中を忘れていたのですが、ちょっと古ぼけた階段を上がっていくと、そこにはゆったりとした舞台の間口をもった劇場。お客様はいい年食った私が前掛けの小僧に見えるような年配の方がとても多くて・・・。昔から演劇を愛し続けられた方もたくさんいらっしゃるよう。何かそういう方たちに支えられて、長い時間をかけてその場所にお芝居を観る居心地の良さが作られたような・・・。

そんななか、ピアノがクラシックを奏で始めて、物語が始まります。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください。)

物語はちょっと古びた画廊喫茶、ご近所の不動産屋さんのおくさんとマスターの娘婿の会話から始まります。小学生の算数、集合の話しなどをランチメニューを書き出すホワイトボードを使って・・・・。商店街の知り合いがお客さんのようなお店。マスターの娘もその婿もお医者さん・・・。マツターの妻は2歳の時に家を出て、どうやらどこかで服役をしているらしい・・・。娘は母の顔も覚えていないのです。

壁には一枚の抽象画、砂浜に錆びた大きな碇が晒されて、大きな空の下で少女がそれを蹴っている。それが母が出て行く前に残した絵・・・・。

娘が妊娠をし、でも同時にアメリカに研究に行きたいと思っていること。娘婿は子供のことを考えて妻が妊婦のまま渡米するのに反対であること。場のシチュエーションが順番に舞台に書き加えられていきます。中近東返りの顔見知りなども加わって場の空気が次第に膨らんでいく。間の長さやちょっとしたくすぐりが会話にあって、物語はゆったりとした流れに乗って進んでいきます。

物語がしっかりと動き始めるのはマスターが一人の女性と再婚をするというところから。戸惑いながらも、一旦はそのことを受け入れようとする娘夫婦・・・。しかし、浅間山荘事件が起こった時代に生まれた娘とその当時学生だった客との会話から、学生運動最盛期のころが舞台の話題上るようになり、さらにはその客が父親の再婚相手に援助を求めようとした旧全共闘の一員であったことが明らかになって・・・。父親が再婚するというその相手は、実は娘が2歳の時に出ていった母であることが明らかになるのです。娘にとっての自分の母への想い、革命のこと、さらには娘の家庭の外側にある世界のことなどが舞台から湧き上がってきて・・・。

ドラマにはしっかりと書き込まれていて、登場人物の心情も着実に観客に伝わってきました。算数の集合や無限などの話、具象的な絵画と抽象的な絵画の話、さらに美術館の学芸員と偽って娘の前に姿を現した母が自らが出て行く時に描いた絵を評するあたりなど、しっかりと観客を取り込んでいくようなエピソードがいくつもあって・・・。おもしろいかつまらないかと問われれば間違いなくおもしろかった。

でも、ひとつずつの伏線やエピソードは秀逸なのに、それらが観る側にとってもうひとつ連携してこない。登場人物間の想いの重なりが十分に観る側に積み上がってこないのです。足し算が掛け算にならないようなもどかしさがこの舞台にはある・・・。終盤、松永玲子演じる娘の思いが切っ先鋭く母親役の塩屋洋子に突き刺さり、一方母親役の塩屋洋子が娘が正しいとしてその場を出て行ってしまうシーンがあって、その部分は二人の演技にぞくっとくるような見ごたえがありましたが、それがふくらみとして観客にとどまる受け皿がドラマの中に十分仕込まれていないような・・・。

二人の表現する思いには息をのんでも、それが物語全体に完全にスムーズにシンクロしていかないのです。最後に娘が夫に言うお礼も、ある意味物語を包括してくれるのですが、その心情を浮き立たせる背景がどこか散漫に思えてしまう。ひとりずつの役者達のあらわす思いのクオリティはため息がでるほど高く見事に舞台上にあるのに・・・。

観客にとっては、その淡白な感じこそが今という時代から見た1970年という団塊の世代が過ごした時代の見え方なのかもしれないし、ラストの場面の密度こそがその時代を切り取ったリアルなすがたなのかもしれませんが・・・。理由はともあれ、この舞台には人間がいるのに、なにか熱が行き場をうしなっているような感じがするのです

まあ、役者を見に行くだけでも元をとったような舞台で・・・。名取幸政の達観したような雰囲気・・・、舞台にすぅーっと広がってくる。中嶋しゅうのさりげない演技にはちゃんと必要なだけ裏が透けて見えて、その見え方の適切さが舞台の起承転結を支えて・・・。津田真澄のおばさん的な雰囲気も場にしっかりとはまる。杉山文雄の演じるキャラクターのどこかいい加減な雰囲気に数学者であるというオチがしっかりとはまる凄さ。演技の深度のなせる技なのでしょうね・・・。夫役の浅野雅博は会話を受ける部分が多いなかで、演じる者の心境の変化をしっかり伝えて、しかも観客になんとなく納得をさせてしまう。

塩屋洋子の凛とした演技、役柄の年齢と元全共闘の意思の強さのバランスが絶妙で・・・溜息がでるほど。

その中でも、松永玲子はしっかりとキャラクターを舞台の一番前に押し出していました。心の揺れや不安定さ、さらにかコアにある思いが空気として観客に伝わってくる・・・。デフォルメを感じない演技の中で、ナチュラルな地のキャラクターと内側に宿る思いを見事に振り分けて見せて・・・。

芝居の品質には何の不満もないのですが・・・、でも何なのでしょうね・・・。

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