虚構の劇団『リアリティ・ショー」おかえりなさい、鴻上さん
ちょっと遅くなりましたが、12月17日、紀伊国屋ホールにて、虚構の劇団公演「リアリティショウ」を観ました。作・演出は鴻上尚史。
前回池袋での公演に、劇団としての勢いというか何かの萌芽を感じて、偶然スケジュールが空いたので観賞。当日券Web予約のシステムがとても便利。
(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)
導入部分の客電の落とし方から物語の切り出し方、昔を彷彿とさせる鴻上演出の香りが場内を包み込みます。くっきりとした役者の演技、シチュエーションの説明が要領よくなされていく。舞台となる家の内と外に人を配することで小気味よく舞台の状況が観客に伝えられていきます。
ある劇団の4週間にわたる強制合宿、そのすべてをインターネットTVに晒す代わりにアクセス数が一定数を超えればその劇団に大きな特典があるという企画。大衆という視点を一番外に置いて、その中での個々を動かし、さらに一人ずつの登場人物が抱えるものが、インターネットTVからの要求という必然の中で作られた仕組みにのせて巧妙に開示していきます。
劇団が演じるのは「ロミオとジュリエット」。その物語に名前しか登場しないはずの人物に狂言回しをさせて、彼らが演じるものと彼らが直面するものを撚糸のように一体化させていく・・・・。物語を構築していく手腕が実に鮮やか。鴻上はバックボーンになるシェークスピアをうまく使って、幾層にも渡る劇団員たちが直面しているものが次第に露出させていきます。
中盤あたりからはさらにインターネットTVのルールが付け加えられて、劇団員が秘めている内側がさらに浮かんできます。劇団の運営に始まって、恋愛感情、宗教によるマインドコントロールやジェンダーの不一致など・・・。それらを見せる仕組みにあざとさを感じないといえば嘘なるけれど、晒されたものには虚飾を感じさせない現実味があって・・・。
宗教にマインドコントロールされたキャラクターに与えられたのは、「こうやって宗教から抜けました」という美談ではなくやはり宗教の枠から抜けることのできない現実だし、性同一性障害に悩んだキャラクターはジェンダーを変えてもやはり過去のジェンダーに縛られる。宗教にしても性にしても、個々が抱える問題に関して裏側やディープな部分を知るキャラクターを配することで、苦悩するキャラクターの現実がさらに照らし出されていきます。
一時期の鴻上演劇だと、舞台上に晒されたものと現実の感覚の乖離を感じることが部分がけっこうあり、さらにはずれた現実への救済を舞台上に表したりもしていたのですが、そういうものは、幕が下りた時点でたちまち腐敗を始めていた・・・。しかし、今回の鴻上尚史は非常にドライかつクールにキャラクターを舞台におきます。救いがなくてもそこにあるしかないキャラクターの現実を冷徹に描いていく。よしんば、テーマが多少言い古されたり陳腐化したものであっても、その慧眼と自らの理想に舞台を彩る誘惑を律する冷徹さで作られたものは観客に残るのです。
あくまでも推測ではあるのですが、それは彼が非常に若い役者たちと芝居を作っていることの一番の成果なのかもしれないと思います。まあ、最近の秀逸なお芝居などとの比較になると、感じることはいくつかあります。個々のキャラクターを描く画素が多少荒いように思えたり・・・・。しかし、一方で手練のテクニックも随所に見られて。中盤のダンスで現す時間の経過やそれぞれの思いの表現などには今のお芝居が忘れていたような表現のメソッドがあってぞくっときたり・・・・。プラスマイナスいろいろとあるのですが、でも、鴻上の良さが出た芝居には底知れぬ力を感じるのです。
役者達は夏の公演時より一段とクオリティが上がったような・・・。一番目を引いたのは小沢道成で軽さのある表現からその内側に刻み込まれた重さがくっきり伝わってきました。渡辺芳博の押しの強さも舞台の質量を高めていたと思います。大久保綾乃は前回の公演の切れに円熟が加わったような・・・。強さがあって滑らかな演技に惹かれました。小野川晶の芝居もキャラクターに忠実な粘度が感じられて、ちょっと難しいキャラクターでありながらきちんと実存感を出していました。・・・。山崎雄介には演きちんと心の揺れを表現できるしなやかさが物語の芯を支える感じ。三上陽永は舞台にトーンを作ってうまく全体を後ろからまとめていたような・・・。高橋奈津季にはのびやかさがありました。なにか大きなキャパの中で演技をしている。杉浦一輝には切れがあり観ていて気持ちよい。小名木美里の勢いに流されない軸をしっかり持ったお芝居も魅力的でした。
しばらく芝居の余韻に浸った後会場を出ようとすると、役者たちが満足げな表情で客出しをするなか、鴻上さんそれを見守るように立っていました。迷惑かなって思ったのですが、それより先に「よかったですよ」と声をかけてしまった。そのあと余計な事かとは思ったのですが「戻られたような気がします」という言葉が自然と続いてしまいました。失礼なことをしたよう気がして、階段を降りながら反省をしたのですが、でもそれが偽らざる気持ちであったことも事実。
作品からもらった高揚感のようなものとは別に、なにか本当にうれしかったのです。無くなったものが帰ってきたようで・・・。
で、出てきた独り言。「お帰りなさい。鴻上さん。」
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