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MCR「貧乏が顔に出る」売っぱらう記憶の切なさ

ちょっと遅くなりましたが、10月25日ソワレで、MCRの本公演、「貧乏が顔に出る」を観てきました。

会場のシアターMOMOに行くのは初めて・・・。お隣のポケットもよい劇場ですが、この劇場もとても魅力的。素敵にコンパクトでとても見やすい・・・。その中で演じられる風変りな口語劇に時間を忘れて引き込まれてしまいました。

(ここからネタバレがあります。十分ご留意くださいませ)

MCRの芝居には、見るたびになんとも不可思議な満足感があります。近くでは「シナトラと猫」もそうだったし「マシュマロ・ホイップ・ウェーブ」の時にもそうでした。ちょっと過激でどこかずれた会話、これがたまらなくよくて・・・。それだけじゃないのだけれど、というかいろんな色をあふれるほど感じるのだけれど、最後に劇場をでると、舞台上で交わされる会話を聴いての満足感に戻ってしまう。役者の方たちの会話がそれほどに心にのこるのです。すごいセリフを言っているわけではない。あひるなんちゃらがいう駄弁に近いような気もする。でも、そのセリフって舞台が表現するものをたっぷりと吸い込んでいるはんぺんのようなもので・・・。

今回の作品でも、冒頭の櫻井智也と黒岩三佳のやりとりにほれぼれしました。まあ、ぼけと突っ込みの豊かさに引き込まれているうちに、舞台上の世界が刷り込まれてしまっている。手品のようにすら思える。

MCR流の現代口語演劇について主宰の櫻井氏はパンフレットに、しらっと「現代(今現在)口語(こういうしゃべりかた)演劇(見せ物)」という目の覚めるような解説をしていましたが、ベースにはまさにそういう雰囲気があって、MCRの舞台では、その現代口語演劇が見事に機能しているのです。

その、無駄にも思えるようなボケと突っ込みのなかにある種の切なさが醸成されていく。日々の時間を染める粒子のようなものが舞台全体を満たしていく。

連れてきたというお地蔵さんの設定が本当に秀逸。そこから派生する物語にぞくっとするほどシュールなリアリティがあって。記憶を金に換え慰安に費やしていく、そのどうしようもなく自堕落な感覚と、そこから浮かんでくる櫻井演じる男の価値観にぞくっとくる。

アパートから抜けだせない人たちや、そこに引き込まれさえする人々から伝わってくるある種の諦観から、今の世の中の感覚がしっかりと伝わってくる。さらにやってくるチープな悪や情けないセールスマンが提示する富と実生活との距離感、さらには抜け出せない生活のなかで脱力していくことの居心地のよさまでが、彼の記憶を失っていく姿の背景に見事に描き出されて・・・。

やがて世界が破たんしたとおもいきや、ラストシーンにその時間の継続が表現されて、さらにどうしようもない逃げ場のなさと慰安を心に刻まれるのです。櫻井智也が切り取った、日常の感覚がじわっと染みいってくる感じに、ふっと心が震えるのです。

役者のこと、それぞれに力があって、それゆえに舞台全体に観客が入り込めるなにかを感じるのでしょうね・・・櫻井智也は本当に持ち味全開でした。強さといい加減さの裏側にある純粋な部分が包み込むように客席に伝わってくる。黒岩三佳も持ち前の突っ込みにいつもにも増しての輝きがありました。北島広貴の不器用さもうまいとおもいました。中川家兄をおもいださせるような演技に不思議な実存感があるのです。それをしっかり受けた渡辺裕樹にも概念を作る力を感じました。江見昭嘉がまっとうな世界から舞台上の世界に来たがる櫻井の弟も、なにかすごく存在感があって・・・。

おがわじゅんやの存在感の薄さも良い演技だったと思います。存在感が薄くても黒岩の芝居に染まらないところもよい。そこに設定されたカップルの空気がしっかりと出ていたような・・・。中川智明と櫻井のからみにも妙な説得力がありました。立場と距離感の表現が絶妙なのです。

上田楓子の演技にはフレキシビリティがあって観ていて安心感がありました。小野紀亮の抑えた演技に乗りながら、一方でちゃんと支えている部分もあったりして・・・。15minutesに出ていた時にも思ったけれど、演技に包容力のあるよい女優さんだと思います。

福井喜朗は怪演、無理やりの存在場所をしっかり確保する力に瞠目。宮本拓也はあひるなんちゃらに客演していた時とどこか共通する乱入系の演技でしたが、この人が演じると妙に舞台に収まるところが不思議(褒め言葉)でした。

そう、今回も感じたこと、うまく言えないのですが、なにかぎゅっとつかまれるような感覚がMCRにはあるのです。柔らかくしっかりと心のどこかを染められるような・・・。それは作・演出の櫻井智也に宿っているなにか・・・。観ていて笑えるような作品でもないのですが、笑いに包まれながら心が浸潤されていく・・・。なにげにいろんな伏線もしたたかに機能していて、その感覚をさらに高めていく。

MCRの作品って観ていてずっとそういう感覚があって、次の作品もきっと観てしまうような何かがあって・・・。

やっぱり個々の作品ごとに何かを受け取っているのでしょうね・・・。今回も取り込まれるようにいろんな感覚を反芻しながら駅までの道をたどったことでした。

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王子落語会、喧嘩の秀逸

10月27日、王子小劇場にて秋の王子落語会を聴いてまいりました。桂都んぼ師匠が主任を務めるこの落語会、夏には瀧川鯉昇師匠などもお出になられて3夜連続の常にクオリティの高い高座を現出させたのですが、今回は楽王さんとのふたり会、非常に密度のある会で大満足をしてまいりました。

・春風亭正太郎 「子ほめ」

入門して2年半という前座さんなのだそうですけれど、座に浮ついたところがなく、落ち着いた語り口が好印象。なんというのか、無理がない。前座さんにありがちな強引な噺のもっていきかたがなく、きちんと観客のリズムで話を持って行ってくれるのです。だから笑いが高座から引っ張られるよりも、より観客側から湧いてくる。なにか天分を感じさせる高座捌きでありました。

・桂都んぼ   「堪忍袋」

やわらかい口当たりの枕から、一気に噺に入ります。さすがに観客がついてこれるか不安だったのでしょう、ちょっと素に戻してもう一度噺に突入するものだから、その鮮やかさがますます際立つ・・・。先日大銀座落語会で聴いた雀々師匠の「あたま山」を髣髴させるような勢いで始まる夫婦喧嘩のすざまじいこと、設定からして夫が金槌を握れば妻が包丁を振り回すようなケンカ、それをグルーブ感のある語り口で演じていくわけですから、聴くほうは圧倒されるしかない・・・。でも、都んぼ師匠の語り口には安定感があって勢いがすごくても切っ先に乱れがない。仲介役の平兵衛さんの視点がきちんととれていて、夫婦が渾然一体となってがなりたてているように感じない、勢いをそのままに噺が観客に整理されて伝わっていくのです。演者が噺の持つ勢いに負けていない。しっかりと噺を自分の手のひらに乗せて演じている・・・。

喧嘩の品質がそのまま堪忍袋の存在感につながっていくところがこの噺のおもしろいところ。前もってこれだけしっかりとした喧嘩をしておいてくれると堪忍袋の出来もきわめてよろしい。良い堪忍袋ができているとオチの部分が本当に鮮やかに感じられるわけで・・・。で、頭を下げた時観客に残る統一感のようなものがすごく良いのですよ。

前回の王子よりさらに噺にひろがりがあって・・・。瞠目するほど腕を上げた師匠にひたすら感心してしまう高座でありました。

・三遊亭王楽  「三方一両損」

王楽さん初見、来年には真打昇進という今が旬の噺家さん。父親の好楽師匠とともに圓楽師匠の直系の弟子にあたられるそうです。

端正な顔立ち、自分の身上を話す姿は歌舞伎役者の台詞まわしを思わせるような凜とした気品がある・・・。だから、噺に入って財布の3両をどうするかという野郎の喧嘩にも趣がでるのです。啖呵が鮮やか、押しもあって・・・。江戸っ子の意地の張り合いが醸し出す粋に不純物がない・・・。もっといえば華がある。ちょっとほれぼれするような喧嘩のやりようでした。

でも、場が変わって、そんな二人がお白州に座ると、今度は大岡越前がもっと大変・・・・。その二人を上回る知恵と包容力を見せなければならない・・・・。そこがちょっと弱かったですね・・・・。一同が納得するような裁きのメリハリがもう少しあればと思いました。

まあ、そこで完成されてしまうと、演者にとってのこの噺は大きさが定まってしまうわけで、もっと大きく育てようという意気込みの裏返しであったのかもしれませんけれど・・・・。まだ、余地がある・・・。観客にとっては、芝居絵を見るような噺の雰囲気に浸るだけでも、十分儲けではあったとおもいますが・・・。

    ー仲入りー

・三遊亭王楽  「転宅」

この噺はいろんな噺家さんで聴いたことがありますが、王楽さんのお妾さんの利発さは群をぬいているかもしれません。こう、あふれ出る色香をすっと内にしまったような感じがすごくよくて・・・。どろぼうならずとも、ふっと騙されたくなってしまう・・・。

ただ、やっぱり後半が淡泊に感じたのも事実。馬鹿などろぼうをあざける部分、ちょいと品がよすぎるような気がしました。もっとあざとく泥臭くやってもよいような・・・。そうすることによってお妾さんの知恵がもっと浮かび上がってくると思うのです。後味の良さはしっかりと残ったのですが、なんというか、一番おいしい笑いどころが場に染み込んでしまうような印象がありました。

でも王楽さん、その高座捌きには天性の才能を感じます。古今亭志ん朝師匠のような気品を感しるその語り口は本当に魅力的でした。

・桂都んぼ   「まめだ」

都んぼ師匠は噺の中に絵を描ける噺家になってこられたような気がします。なにげない描写に密度があるというか・・・。この噺でも、観客をすっとその世界に引き込むような場面の描かれ方が何箇所かありました。

たとえば、初日の舞台を終わった主人公の市川右三郎が家に帰る場面、傘に悪さをした豆狸を、得意のトンボを切ってたたき落とすのですが、そこに雨の雰囲気がしっかりと出ている・・・。周りの風景もふっと浮かんでいる・・・・。こう墨絵で描いたような世界が見えるのです。

あと、オチの部分も見事でした。秋の早朝の空気の中で黄色い落ち葉が豆狸によってくる風景が本当にさわやか・・・。さわやかだからこそ、まめだの哀れさと市川右三郎の悔いが観客に染みいってくるのです。

噺のバランスが本当に良いのですよ。売れない役者の鬱々とした毎日や毎日膏薬の売り上げのなかに銀杏の葉が一枚混じっているあたりの流し方、そういう日々の雰囲気がしっかりと描かれているから、オチの光景のなんともいえない温かさと切なさが生きてくる。

都んぼ師匠、熱心に語る境地からもう一歩先に進まれたような・・・。王子の会も継続されるとのことで、次回がとても楽しみになりました。

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「ベンドラー・ベンドラー・ベンドラー」、Piperの素敵な「寅さん」化

10月18日、Piperの「ベンドラー・ベンドラー・ベンドラー」を観てきました。開場すると場内は怪しげな雰囲気がいっぱい。でも舞台の構造はどこかで観たような・・・。そう、これはまごうことなき「スプーキーハウス」、「ひーはー」の系列を踏襲したお芝居でありました。

(ここからネタばれがあります。十分ご留意くださいませ)

この公演についてはまだ、大阪や地方公演があるそうなので、コンテンツにはなんとなく触れないように印象だけ列挙してみると・・・

そもそも、セットのレイアウトが前作の「ひーはー」と同じだものなぁ・・・・。

デザインはタイトル風になっているけれど・・・。導入部分の後藤ひろひとも同じ・・・。一品小道具を加えるところも前回と同様・・・。(「ひーはー」で仕掛けた拳銃にあたるものが今回もあった)

あの3人家族・・・・。3話を通じて設定をここまで貫きふくらませてくれるとなにかうれしくなってしまう。

まあ、設定を変えても3人家族がたのしくすごしているところにいろんな人がおしかけてくるというフレームも見事に3作同じ・・・。今回は焼き直しなどとおっしゃる方もいらっしゃったみたいだけれど、そういわれてもしょうがないかも・・・。

でもねぇ・・・。ぎりぎりのところまで前回作品を踏襲しながら、しっかりとおもしろいのですよ。同じパターンで笑わせる部分も多いのですが、ひとつずつの笑いがしたたかで、なおかつ丁寧に作られていて、しかも微妙にいろんなものが進化しているから、シリーズリピーターの観客もうまく乗せられてしまう・・・。というか禁断症状がでるような笑いのつぼがある・・・。

こういうキャラクターを引っ張り出してくるかねぇとおもうような設定で今回も着ぐるみ登場。名前つながりなのでしょうけれど、後藤ひろひとのセンスですよねぇ・・・。うまいと思う。またこのぬいぐるみが絶妙に場違いでかわゆかったり・・・。

あと、劇中でしなやかに多用されるくりかえし・・・。だんだんにはまるのですよ。あざといといえばそれまでだけれど、使えるものは無駄なく使うところには吉本興業的な粘りすら感じられる・・・。しかも回を重ねる中である種の洗練すら増しているような。

いっぽうでどっから思いつくのだろうというような設定もあたりまえにちりばめる。大福もちを目玉につけて目をみえなくするなんてどういう発想なのだろうとも思うのですが、それがしっかりと舞台で機能していることがまたすごい・・・。

結局、後藤ひろひと一流の緻密に作り込まれたいいかげんさにやられたのだと思います。伏線がしっかりと張られ、それが豊かな手法で次々に花開いていく。シリーズのパターンのかなでリピーターに見せるところはこれでもかというくらいに見せて笑いをとり、その笑いが初見の人にはそれなりに分かるように設定しておく奇跡のような作劇技術。悔しいけれど感動してしまう。

終わってみれば笑うだけ笑ってあとにはなにも残らないような不思議な感触・・・。気持ちよく笑っただけというか・・・。観客に負荷が残らずカーテンコールがすごく楽しく見れる・・・。

緻密という点では、たとえば三谷幸喜のように瞠目するような仕組みを作りえる作家はいるけれど、それでは三谷喜劇が後藤喜劇より上かといわれると、そうも思えない・・・。このレベルになると優劣が比較できないようにも感じます。どちらが優れているとかいう話ではなく、最上級のラムと焼酎、どっちがおいしい?みたいな話なのですよね・・・。

役者にしても、Piperの5人(川崎大洋、後藤ひろひと、山内圭哉、竹下宏太郎、腹筋善之介、)の演技は見ていても本当に安心できます。ホームグラウンドであることで緊張感を失うこともなく、でも型にはまらない大きさがあって・・・。そこにからむ楠見薫平田敦子も手練の芝居をたっぷり見せてくれます。けっこう卑怯なこともやっているのですが、ナチュラルに奇抜なので観客が引かないしボンボンと観客のツボをついていくような流れの作り方がほんとうにうまいのです。

鈴木蘭々もよかったです。平田あやの代役ということで急遽登板したこともあるのでしょうが他の役者とちょっと演技の色が違っていたのは事実、でもそれが意外な効果を生みました。彼女がそのトーンで竹下宏太郎の演技とからむと、ふたりの芝居がともに映えるのです。相乗効果と言ってもよい、竹下の演技の良さが今回すごくよくわかって、そこから鈴木の魅力がさらに引き出されていく感じ・・・。ましてや、この二人は踊れるわけで、流すようなダンスにぞくっとするような切れがひそんでいて見とれてしまいました。

松尾貴史もあいかわらず芸達者ですよね・・・。よい人と悪い人の出し入れの巧みさはたぶん彼でないとできないのではないでしょうか・・・。

本編のエンディングがさらに次回作を暗示して・・・、まあ、「Big Biz」は最上級までいって終わりでしたが・・・、こちらはいくらでも続けられるタイトル付けだから、寅さんのようにまだまだ続くのでしょうね・・・。

吉本新喜劇とどこか通じる、パターンをもった笑い・・・、後藤ひろひとが目指しているものの一つなのかなと思ったりもします。まあ、観客にとっては面白いことがよいことなわけで・・・。ちょっと失笑しながらも、その裏で次回作に期待をしてしまうのです。

あ、そうそう、カーテンコールで川崎大洋が話をしているときに平田敦子と鈴木蘭々がなにげに無視してあそんでいるような小芝居をしていて、これも妙におかしかった。こういう雰囲気の作り方、個人的に結構好き・・・。最後の最後まで楽しませてくれる舞台でありました。

R-Club

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「JANIS」DULL-COLORED POPのタイムマシン

10月13日マチネにてDULL-COLORED POP、第7回公演を観ました。場所は新宿2丁目のタイニィアリス。入場するとバーカウンターにてワンドリンクを引き換え・・・。Janis Joplinが大好きだったというサザン・コンフォートもちゃんと用意されていました。

Janis Joplin、60年代後半から70年代初頭にかけて彗星のように登場し、わずか27歳でこの世を去った伝説のロックシンガーです。歳がばれますけれど、彼女の歌をはじめて聴いたのは高校生のころ・・・。、友人から借りた「In Concert」という2枚組のアルバムでしたが、その時の衝撃は今でも忘れられません。理屈ではなく心を揺さぶるなにかに自分の心が共鳴していく感覚。そしてその奥にある慰安。その感覚はうん十年たった今、「Get it while you can」とかこの舞台のサブタイトルにも使われている「Ball & Chain」などを聴くたびに色あせることなくよみがえってきます。
時に観客の心を切り裂くように叫び、、語りかけるように口ずさみ、抱擁するように歌う彼女の声は、一度聴いたら烙印を押されたように耳から離れることはない・・・。

そんな彼女の最後の1か月を描いたというこの作品、客席には初老の方もちらほら・・・。中には、出演者のご家族という方もいらっしゃったかとは思うのですが、それ以上にJANISの歌を懐かしんでこられた方も多かったような・・・。
開演時間が過ぎて、まだざわつく場内、客電が消えるなかでJanisは姿を現わします。そして彼らの期待をはるかに超える奇跡のような舞台が始まるのです。

(ここからはネタバレがあります。十分にご留意の上お読みください)

最初のワンドリンクをお願いしたカウンターがそのまま舞台の一部になり、日々のレコーディングが続く中でのリラックスしたJanisや、彼女の最後のバンド、full tilt boogieとバーのマスターの打ち解けた会話が始まります。

最初、バンドのメンバー達の台詞にはちょっとぎこちなさを感じました。しかし、その店で1曲やるということになって、演奏が始まるとそんなことは一気にふっとんでしまいます。

すごい・・・。Janisを演じる武井翔子がマイクに向かい「Move Over」を歌い出した瞬間、ぶるっと体が震え息が止まりました。武井のヴォーカルは「Summer Time」の時、絞り出すようなファルセットの音程が若干上がりきらなかったことを除けば全編ほぼパーフェクト。シャウトする時の圧倒的な声量。硬質に変化する高音部・・・・。うなりが踏み込むようにやってくる中低音部、そして全体を凌駕するように伝わってくるパワー・・・。それはまさに私が昔から聴き続けていたJanis Joplin。誇張でもなんでもなく、Janisが憑依していることが確信できるほど、まさにそのものなのです。歌にしっかりと魂が乗り移っていました。彼女の歌が舞台上のすべてにJanisのいる世界のリアリティを与えていく。バンドの演奏も実に安定していて・・・・。最初の曲が終ったとき、私はすでに心の震えが止まりませんでした。

そのなかで物語はJANISが次第に孤独に苛まれていくすがたを、追いかけていきます。プロデューサーとの意見のすれ違い、ドラックやヘロインの誘惑との戦い、親友や恋人との確執・・・・・。武井のボーカルを聴いた後だと、ぎこちなく感じられたバンドメンバーの会話がふっとナチュラルなものに思えてきます。「Me and Boggy McGee」を歌う時の彼女の円熟したボーカル。それと引き換えのように打ったヘロインが彼女の命を奪っていく・・・。武井はその行き場のない孤独をしなやかに演じていきます。叫びたくなるような感情が降り積もるように観客に伝わってくる

そして、その孤独が武井のボーカルに一層の輝きを与えていきます。千葉淳(Dr)、岡部雅彦(g)、新戸崇史(b)のバンドは当時のfull tilt boogieを超える演奏で武井をしっかりと支えて、それをさらにブレイクするような武井のボーカルが場内を魅了していく。

NYのオフオフで良質なミュージカルを観ているような高揚感が何度もおとずれ、そして、それはレコードのJanisの歌とともに幻のように消えていくのです。

その他の役者たちのこと、彼女の愛情や孤独をもてあそぶ中村祥桑島亜紀にはきちんとその雰囲気があり、親友の衣裳デザイナーを演じた堀奈津美もアメリカ人的な頑固さがしっかりと出ていて好演でした。プロデューサーのポール・ロスチャイルド役を演じた齋藤豊からは典型的なアメリカ人のプロデューサーの雰囲気がよく出ていて、武井Janisとしっかり絡んでいました。

ホテルのベルボーイを演じた清水那保の慇懃さも印象に残りました。Janisの求める愛情のクオリティを浮かび上がらせ、特に最後近くのシーンではJanisの孤独を見事に際立たせて見せました。バーのマスターのドイツ人を演じた景山慎二の客との距離感もよかった。淡々と狂言回し的にドラマを進めていくその語り口はひとつの時代のトーンを絶妙に作り上げていたように思います。

私にとって、ものすごくうれしかったことをひとつ、生まれて初めて「生きながらブルースに葬られ(Buried Alive In The Blues)」をボーカル付きで聴くことができました。それも武井演じるJanisの声で・・・。なにか宿願が突然果たされたような気がして、舞台の物語を一瞬離れて、感動に浸ってしまいました。不思議に目頭が熱くなりました。

こういう、自分にとって100%ツボのようなお芝居って、もう理屈じゃない。まずは「すごくよかった」としか言葉が思いつかないんですよね・・・。

本当に、観に行ってよかったと思います。

R-Club

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@「吾妻橋ダンスクロッシング」

10月12日、気持ちの良い秋の日差しを浴びながら、久しぶりに浅草へ・・・。お正月でもないのに、仲見世は人通りが滞るほどの大混雑・・・。「末吉」のおみくじをひいたりとぷらぷらした後で吾妻橋を渡って・・・。

表現に満ち溢れた素敵な時間をたっぷりと楽しんでまいりました。

(ここから多少ネタばれが含まれます。ご留意くださいませ)

会場にはダンスのスペースがあったり、アーティストの物販があったり・・・。さすがアサヒビール系の建物ということでワンドリンクフリー&とても良心的な価格で売られていたり・・・。faifaiによるピタパンとスナック菓子の販売コーナーがあったり・・・。

そのなかをのびアニキ(金子良)がビデオランドセルを背負ってパフォーマンスをしながら歩き回っていたり、おやつテーブルのメンバーがお菓子をお盆に載せて配っていたり・・・・。

会場の壁面に大写しされるビジュアルも実に秀逸。。KyupiKyupiなどの表現と同系列なのですが、華やかな中にクラフィックアニメーションが持つ硬質な印象とアニメーションに含蓄されたユーモアのセンスなどが絶妙にバランスを保って・・・。みていて飽きませんでした。クレジットは稲葉まり+せきやすこのVJ,コモエスタ八重樫のDJ。

そして、頃合いが満ちてパフォーマンスが始まります。

・Mちゃん「エミネムさん」

ソロアクト。すっと舞台に立って、そのまま舞台に観客を引き込んでいきました。身体表現としてはシンプルなのですが、とてもバランスが良い。見る側に心情の襞のようなものがまっすぐに入り込んできます。観客に負荷がなく、でもなにかを残していく力がある・・・。

不思議な存在感に惹かれてしまいました。

「Line 京急 「ベルベラ・リーン」

出演 山縣太一、大谷能生

断片的な物語で柱をたてて、そこにコトバのリズムや音楽が絡んでいく。言葉と身体表現から重なりとずれにリズムが生まれ、そこに妄想や高揚が挟み込まれて舞台の密度が高められていきます。

山縣の言葉や動作にはメリハリときれがあり、言葉の繰り返しのなかですうっと現実のもやもやがすっと消えてシンプルでエキスがいっぱい詰まった世界が浮かび上がってくる・・・。

音楽、特に生サックスが効果的で、舞台をソリッドな感触とふくらみを与えていました。

・快快(faifai)「ファイファイマーチとpeter-pan」

一人の男性が現れてちょっと脱力感のあるシンプルなリズムを足音と手で刻みながら舞台を歩いていきます。なんとなくゆるい感じがするのですが、ある種のシークエンスがあって・・・。

続いて女性が加わる。同じような動作、シンプルだけれどしっかりと持続の意思を感じさせる・・・。ときより織り込まれる空気を一瞬引き締めるような素早い上半身の動作が舞台全体の世界を広げる。さらにひとり、それが2人となり3人となり・・・、それぞれのリズムがどんどん重なっていく・・・。そして舞台に明確な高揚感が生まれたところで、ロシア民謡が流れ出し・・・。

なにかが突き崩され、やがて現れる感覚の広がりに極上のユーモアのセンスが一気に湧き上がってきます。なにかとてつもなく面白くて逃げられない笑いが感動を道連れにしてこみあげてくる。これは凄い・・。

しかも、その笑いを引っ張りきらないセンスもすごくよくて・・・。やがて舞台からひとり、またひとりと去っていき・・・。あとに残るのは、なにか癖になりそうな不思議な感覚・・・。なにかすごい才能に巡り合ったような気がする・・。

そのあとのpeter-panの物語もめちゃくちゃおもしろかった。素敵にいい加減な物語の端折り方、そのぐたぐた感のなかでもピーターパンが宙を舞うという部分はしっかりとしたテクニックで守り通されていく・・・。その温度差にものすごいセンスを感じるのです。そして、後半、ピタパン繋がりで舞台からピタパンの売り場まで客席内に分解写真のように動作をつないでいくところもしっかりとしたテクニックに裏付けられていて・・・。

出演は 北川陽子、佐々木文美、篠田千明、大道寺梨乃、中林舞、野上絹代、藤谷香子、山崎皓司、加藤和也,NAGY OLGA。

夏に見損なった彼らの王子小劇場での公演が今更ながらに悔やまれたことでありました。

・康本雅子+戌井昭人+村上陽一「五輪さん」

今回も、康本雅子の動きには魅了されました。艶があり、下世話ななかに豊潤な世界観を感じる。細かい動作の連続が作り上げる下半身の豊かな動きが上半身で語る生活感や思いに安定感を与えていて・・・。

戌井昭人と村上陽一が作り上げる康本の妄想、アバウトにも見える表現を支えるきめ細かな創意、ナチュラルで純粋な想いが舞台にどんどんと膨らんでいく・・。

気取りなく普段着で過ぎていく夫婦の日常と、その中に織り込まれたピュアな想いのアラベスクに思わず見惚れてしまうのです。

ただ、なんとなく感じたこと、康本はもっと表現したかったのではないでしょうか。うまく言えないのですが、どんなに密度を上げても精緻を尽くしても、この尺の中には押し込めえないような力が彼女のコアから伝わってくるような気がするのです。

彼女のやりたい放題を無性に見たくなりました。

休憩

・ボクデス(小浜正寛)「ボク Tube」

映像とパフォーマンスのコラボレーション。透明なアクリル板を張った枠を使っての演技を中心にいくつかの物語やパロディを展開していきます。

映画館で上映前に流れる盗撮防止のCMをパロった冒頭のパフォーマンスにまず笑って、そのあとの映像を見事に取り込んだパフォーマンスをゆったりと楽しんで・・・。

脱力系なのですが、そのユニークさについひと膝乗り出してしまうような・・。特に交通標識をつかった物語には噴き出してしまいました。

・KENTARODX!!「nothin’」

圧倒的なステップワーク。久しぶりにその早さと滑らかさにぞくっときました。細かいステップワークには見惚れるばかり。タップを踏むような細かいステップが観客にリズムをたたき込んでいく。まさに靴が呼吸をしているように見える。

靴を脱いでさらに腕が脚に絡んでいくような動作に粘度が生まれ、流れるだけのダンスに複雑な広がりが生まれていく。滑らかでとどまらない動きが観客の心までときほくしていく感じ・・・・。

けれんのないダンスが常ならぬ域まで観客を押し上げ、まっすぐに突き抜けていくような感覚が演者から観客に伝わっていく。旬の極みを観たような・・・。

才能のほとばしりの中心で彼自身が本当に輝いていました。

・Chim↑Pom 「こっくりさん TATTOO」

背中にTATTOOをする時のペンをコックリさんをするように走らせていくというパフォーマンス。

遊び心に潜む苦痛の感覚を伝えていると考えると、確かにそこには表現が存在するのだと思います。また、能天気にこっくりさんを呼んだり返したりする部分には突き抜けたユーモアのセンスを感じます。

しかし、観ているほうからするとその苦痛にさまざまなノイズが入っているように感じられるのです。その感覚が観客に取り込まれるためにはもう一段の昇華が必要な気がする・・・。その昇華ベクトルの適性は苦痛を上げることではなくむしろ苦痛を引き気味にしていくあたりにあるような気がするのですが・・・。

・おやつテーブル「畳がない。」

年齢的には幅がある4人組のユニット。開演前や休息中に着物姿でお盆を持っておやつを配っているすがたは場内でもかなり目を引いていました。

パフォーマンスには実に豊かなぬくもりがあります。時間を愛でるような感覚がふわっと舞台から伝わってくる。着物の美しさに統一した演技と年齢によってことなる所作がさらに世界を広げていきます。ヴィヴィドですきっとした動きに含まれるゆとりになぜか心がなごみます。

一方で、着物の袖をそれぞれに縫い合わせていくなかに大きな世代のつながりのようなものが鮮やかに浮かぶ・・・・。また、その着物を3人が抜き捨てて、着物を着たままの一番年嵩の女性がその抜け殻になったような着物達をひきづって退場していく姿もとても暗示的でした。

出演者のなかの木村美那子はたかぎまゆさんなどと非常口で行ったパフォーマンスで観ていて、その力量は十分に承知しているのですが、今回のパフォーマンスではその力が切れだけに向かっているのではなく、全体を包括するような部分にも振り向けられているような・・・。彼女のキャパの大きさを痛感するとともに、休息中に彼女から羊羹をいただいたことがなにかうれしくなってしまいました。

他の出演者は岡田智代、おださちこ、まえだまなみ

フィナーレのあとでさらに演じられたおやつテーブル+のびアニキの石鹸で手を洗うパフォーマンスも本当に楽しくて・・・。その時間が生き生きと感じられる。石鹸の泡が舞台に飛び散った瞬間、ほんとうに素敵なエンディングでした。

会場を出て、ちょっと肌寒い空気がとても心地よくて・・・。てんこ盛りのすごい才能に火照った心がやわらかくクールダウンされていくように感じた事でした。

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黒色綺譚カナリア派「そまりえ」デフォルメとフェイクであらわすもの(ちょっと改訂)

2008年10月5日ソワレにて黒色綺譚カナリア派の「そまりえ」を観ました。会場はザムサ阿佐ヶ谷・・・。ちょっと雨がぽつりぽつりと来かけたところで開場になり中へ・・・。土蔵のような独特の雰囲気に気圧されないように最前列に座って・・・・。さまざまなものが少しずつ小さくみえる舞台装置を不思議に思いながら開演を待ちました。

(ここからはネタばれがあります。お読みいただく方の観劇の妨げになることは心苦しく思いますので、何卒充分に留意の上お読みいただければと存じます)

戦前から高度成長期に入る前の昭和のかおりが残るころの話、女流画家とその贋作を描く少女、少女の叔父夫婦や少女に恋する若者、さらには女流画家の弟子に近所にすむ刑事までが加わって、そまりたる絵をめぐるミステリータッチの世界が展開します。

失踪した画家のついての謎解きにもなっているのですが、それより何かを作り上げる業を表現している色が強く、舞台の雰囲気に体がなれるに従って、物語の空気にだんだんと心が傾いていきます。

画家を扱ったその舞台自体に、生活空間の卑小さと生身の人間の大きさが強調されていて・・・。それだけでも、登場人物の建前からにじむ本音の想いのようなものが、やわらかく溢れ出してくる。

そして、赤澤ムックが今回仕掛けたこと・・・、キャストの男女逆転。最初はちょっとぎこちないかとおもったのですよ。しかし、物語が進んでいくうちに、これはしたたかだと思うようになりました。ジェンダーを変えての演技はキャラクターのニュアンスからなにかをそぎ落とす・・・。そして別のニュアンスが浮かび上がってきます。男性が隠す見栄のようなものも女性が演じると具象化されてでてくる。男性が演じると肌の厚さや筋肉に隠れてしまう本音のようなものも、女性が演じると血管が透けて見えるようにやわらかく浮かんでくる。逆に女性が演じるとゆっくりと出てくるような情念や感情を男性が演じるとまっすぐにその演技に現れてくる・・・。

もちろんそれは強いデフォルメですから、舞台全体はある種のトーンに彩られた戯画のようにも思えます。また、女性が女性を切り取る感覚が男性によって演じられることで、どろどろと入り混じった感情が水洗いをされたようにばらけてほどけて、なおかつ強い色に染められる。男性が演じる女性は女性が自然に隠すものを隠さない。まったく違和感がないわけではないのですが、逆に女性が表に出すと生臭くなるような感情には不自然さがないのです。一方男性の本分や建前が女性によって演じられることによって、その時代の男性が持つ気概のようなものから虚飾が形骸化して本音が透けていく。それらが今の時代にも滑稽に見えないのは、赤澤の抱くイメージにしっかりとした芯が通っているから・・・。女性が表現する情念や女性自身ががコアに持つ強さ、さらには女性から見た男性のコアの脆さが赤澤にとって歪められることなくしっかりと表現されていて・・・。赤澤的美学がスパイスのように効いて、美しさのなかにシニカルな視点を残した作品となりました。

芝原弘の演じる模倣作家の心の内側が、無垢なようで得体がしれなくてとてもよい。その兄役の山下恵の威厳というか突っ張り方に潜む滑稽さも魅力、一方で兄の妻役を演じた向井孝成の繊細になりえないような芯のずぶとさにも目を惹かれました。

牛水里美については、昨年暮れから何作かつづけて観ているのですが、その演技の幅の広さに驚かされます。柔らかさや弱さの中にもしっかりとテンションを持てる演技、それが若さというか青臭さのようなものに勢いを乗せて演じた升ノゾミとの絡みは、男女を超えたリアリティがありました。

人気画家役は日替わりで私が観た日は花組芝居の堀越涼、なんというか肝の据わり方がすごくいい。野郎歌舞伎のおやまが頑張って上品に演じているような風情が場にすごくあっていて・・・。

升ノゾミの友人役の吉田正宗も自分の場をしっかりと守った演技、刑事役の中村真季子にはちゃんと権威が感じられ、赤澤ムックが演じる刑事も場をしっかりと整えていました。赤澤は男役でもちょっと美しさがにじみ出てしまう感じはしましたが・・・。

なにか、その世界感を大上段に振りかぶらないで一定の圧力で観客に浸潤していく感じ。「とがった世界をやっています」というような昂りぶりもなく、一方で異なる趣向での男女の感性をたっぷりと味わせてもらった感じ。

少なくとも私的には、この感覚がかなり癖になってしまうのです。

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コマツ企画「DOUTEN(動転)」の突き抜けた2重構造

いきなりこういう言い方をするのもなんなのですが、よくしっかりとここまで作ったという感じがします・・・,コマツ企画「DOUTEN]。10月5日マチネにて観て参りました。

評判はいろいろと聞いたり読んだりしていたコマツ企画の最新作は、事前に想像しえないような、突き抜けた才能にあふれかえっていました。

(ここからネタバレがあります。公演期間は終了しておりますが、ご留意の上お読みくださいませ)

一見学芸会かと思うようなこじんまりと安っぽい感じの舞台装置、最前列にはプロジェクター・・・・・。このシンプルな空間で何が起こるのだろう・・・・。

客入れまでは特になにも思わなかったのですが、開演直前あたりからそのたくらみは始まっていました。劇場の扉が閉まるぎりぎりに入ってきた客がいきなり携帯を鳴らす・・・。で、なんとその電話に出る!。かとおもえば、前説中に大道具が舞台に入ってきて装置を直し始める・・・。それまで整然と進んでいた開演を待つ時間がが突然ぐだぐだになっていく・・・。加えていきなり大道具が脚立を持って入ってきたときには、さすがにこれは企んでいるなと・・・・。

昔のサンシャインボーイズの「Show must go on」や最近上演された「ガンマゲ」のようにバックステージの話かとも思ったのですが、幕があくと普通に素の芝居が始まる・・・。そもそもこれまでに私が観たバックステージものにはメインステージはでてこなかった。舞台が上手の奥側の設定になっていたり、ほんのちょっと前方でステージののさわりが演じられたり舞台上段で仮想の舞台の様子を露出させていただけ・・・、それがこの作品では舞台が中央にどーんもろにある・・・・。

あれっと思っている間もなく、ぐたぐたはどんどんエスカレートしていきます。幕があいて、いきなりのかみ合わない演技、しばらくすると段取りを間違える役者がでたり、それまでの役柄を鬘とエプロンだけで変える役者が出てくる。行き詰まった役者が突然切れたり・・・・。一人の役者が物語を進行させようとするとそれを押しとどめる役者がでてきたり・・・。本来禁じ手であるはずの主宰というか演出家が舞台上に登場してきて混乱が収まるかと思いきや、さらに混乱は増していくばかり・・・・。気がつけば、観客は舞台の裏側や表を交互にみるのですらなく、舞台裏がもろに透けた家族劇風の芝居をみているのです。しかも、観客はある程度時間がたつまで、出演者たちが役者を演じるのではなく素で家族劇と関わっていると錯覚してしまっているので、家族劇を追いかけようとする感覚から抜けられない・・・。作者の作ったトラップにはめられてしまったようなもので、途中で芝居が止まろうが役者が言い争いを始めようが、すべて舞台上の物語の一部として頭に入ってきてしまう・・・。

しかも、作者は観客が罠に落ちたとみるや、どんどんと混乱の要素を広げていきます。舞台に乱入した演出家の指導力のなさや制作側と役者の感覚の差を巧妙に描いたかと思うと、劇団内の恋愛から公演を降りた役者のこと、さらにはやめた役者から役者の親戚の生態まで、虚々実々、ボーダーラインぎりぎりというか演劇界のタブーを恣意的に蹴とばしては舞台に取り込んでいく・・・。舞台袖の幕が外されて舞台の上手・下手までがさらされる頃になるとそのやりたい放題はさらに力を増していきます。その場しのぎに稽古をしていない役者が舞台にあがる、台本をちぎった紙切れ一枚分で役者が舞台に上がる、ほとんど素人が舞台に上がる、芝居のなかでこくる、歌が出る、安っぽい映像のエフェクトが来る、上演中の写真撮影がでる、家族の差し入れが入る・・・

役者達は、舞台の内外が混然一体とした空間の中で、家族劇の人物に加えて演じている役者の素にあたる部分も舞台に表現するという2階建のような演技を強いられていきます。しかも話は個々の役者が演じるキャラクターをこれとこれみたいに数えられるほど単純ではないのです。作者は、登場する役者ごとに演じるキャラクターのバックグラウンドをしっかりと用意して、その上で家族劇上のキャラクターや劇団運営の役割の中に、役者としての演劇観や価値観、さらには恋愛感情や、金銭にかかわるちょっとしゃれにならないような話までもしっかりと織り込んでいく・・・。挙句の果てには役者の実話とみまごうような話までもからんできて・・・・。結果として、観客は個々の役者の2階と1階部分だけではなく、1~2階の踊り場の部分や演じている役者の話にマージされたプライバシーというかB1や半地下の部分までもひとつの空間で同時に観ることになります。

作・演出のこまつみちるは役者たちの必死さやタブーを犯す当惑までを糧にして、いろんなニュアンスを実にヴィヴィッドに浮かび上がらせていきます。その手練手管には目をみはるばかり・・・・。でも、場あたり的に表現を重ねているわけではない。随所に伏線を張りキャラクターを見事に役者に背負わせて、大小を問わずひとりずつ繊細かつしたたかに役者たちを配置し動かしていくのです。しかもこの人は小劇場界の色やにおいを絶妙に切り取ったり本質にかかわるような部分までも見透かす非凡な力も兼ね備えていて・・・・。虚実のすれすれまで(時には確信犯的に踏み越えて)それらのネタを織り込みながら舞台の内外を表現して、そこには極上の喜劇を現出させます。下世話さをうまく盛り込んだり秀逸な比喩を使ったり小さなネタを捨てずに膨らませていったり・・・・。ひとつずつのシーンに常ならぬ才能があふれかえっている・・・。それに、時には土足で踏み込むような表現をしたかと思うと、隠し味のようにゆっくり利いてくる表現があったり・・・。そのバランス感覚というかセンスも独特かつ秀逸・・・。なによりもこれだけのことを90分に取り込んで、なおかつ芝居の手綱がしっかりとコントロールされていることのすごさ!!

役者たちも本当に真摯にこの舞台に立ち向かっていました。光が当たる部分でも陰になっている部分でも与えられたキャラクターを演じきっていて、ボディブローの連打のように観客を巻き込んでいく。役者たちがシリアスでないと喜劇は成り立たないのです。役者たちの自らの役を実直に全うしようという意思がこの芝居の喜劇性をしっかり支えていたと思います。

役者のこと、七味まゆ味はやっぱりよいです。舞台上での発色というか立ち上がりが鋭く彼女の切れが舞台にしっかりとリズムを作っていく・・・。しかも芝居が表面的ではなく、しっかりと奥ゆきを持っているのです。高羽彩の演技も舞台を支えていました。骨格がしっかりしている上に滑らかに鋭い狂気を演じることができる・・・。

舞台を支えたという意味では成川知也の貢献も大でした。彼の貫くような演技が物語の心棒のひとつになっていたような気がします。この人には存在で舞台の底を固くするような力があります。浦井大輔、川島潤哉、本井博之もそれぞれに突き抜けたキャラクターを崩れることなく支え切っていました。

それ以外の役者たちも個性がしっかりと立っていて、一人ずつの芝居がちゃんと舞台に色を与えていました。松本美奈子、伊藤淳二、斎田智恵子、平間美貴、宮本奈津美、鈴木燦、清水穂奈美、相馬加奈子、それぞれの役者が舞台上でキャラクタの個性を存分に歩かせていました。名前を羅列してしまいましたが、ひとりずつの演技が埋もれていない。どの役者が抜けても芝居の色合いが変わってしまうような・・・。それだけの力が役者ひとりひとりにあったしそこまでの密度をがしっかりと醸成された芝居でもありました。

最後に最近流行のアフタートークのシーンがあるのですが、これもある意味すごい・・・。世の中にはよいアフタートークと企画倒れのアフタートーク(これが結構多い)があるのですが、後者の胡散臭さが見事に表現されていました。この慧眼と表現のセンスにはけっこうぞくっときた。最後に舞台には「主義主張」がばらまかれて・・・。もう恐れ入りましたと言うしかない・・・。

こまつみちるさんの作品、しばらくはがんばって見続けていきたいと思った事でした。

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「THE DIVER」演劇でしか表現できないこと 

10月4日ソワレで野田秀樹作・演出の「THE DIVER」を観ました。世田谷パブリックシアター 現代能楽集Ⅳとして上演されたもの。「The Bee」と同様ロンドンのソーホーシアターにて初演され大きな評判を得たそうです。

(ここからネタばれがあります。十分ご留意の上、お読みください)

物語は一人の男が読書をしているところから始まります。彼は精神分析医、殺人を犯した女性の判断能力を調べるように警察から依頼されているのです。

彼女の物語へ踏み込んでいく精神科医、それは彼女に向き合う中から彼女の心に映るものを読み解く作業・・・・。彼女と手をとり精神世界へと溶け込む中に、能の世界や源氏物語の世界が現れる。愛人となっていく経緯を夕顔の世界になぞらえ、そこから出ずる修羅の感覚を能の「葵上」になぞらえて。

取り調べをする検察官や刑事は、彼女が自らをなぞらえる名前でなく、彼女の現実につけられた名前だけを求めていきます。罪を認めて罰を与える、それを正義の勝利という・・・。しかし、精神分析医は彼女が語るいくつかの名前の奥にある彼女を翻弄したものを、ともに能の世界に沈むなかで理解していきます。

現実の新聞に現れた陰惨な事実に源氏物語の夕顔の世界が重なり、さらに葵上の物語がすっと一つの図柄に重なった時、葵上の物語に現実がのりうつる。扇が刃物に変わり、股間を突いてそのあと引き出される赤い布から、むせるような胎児のにおいが湧き上がる・・・。その先にある般若の心、六条が牛車の車合わせで受けた屈辱への恨みをそのままに、殺人の現場へと導かれていくその過程は、もはや文字では足りず映像では過ぎる、まさに舞台空間でしか表現しえない世界・・・。やがて、物語と現実が渾然と混ざり合う世界の中に、悲劇の悲劇たる構図がひとつの真理として浮かび上がる・・・

昔風に言えば本妻と愛人・・・、葵上の物語に合わせて牛車のさや当てから、本妻の嫉妬、そして愛人を攻め立てる気持ち・・・・。現実と能の世界がより糸のように絡まりながら、その先にある必然的な結末が導かれていきます。

よしんば法が彼女の人生を奪っても、そこに女性が内包する不変の心情心理が残ることを精神分析医は知ることになる・・・。デリバリーピザをむさぼり喰いながら精神分析医はためらいそれゆえに検察官はいらだつ。 内なる物語は法の外側へ押しやられ、法の枠組みは検察や警察の意向を定めて彼女の人生を殺してしまう。

定められた法の世界と観た世界がしっくりとなじまないことに精神科医は困惑するのですが、法の世界の絶対は精神分析医が沈んで観た物事を見ようとはしないのです・・・。

彼女の刑が確定した後も、困惑は精神分析医はとらえて離さず、その心は古の物語に再び沈んでいく・・・。

暗転して物語が終わった後、そこには鮮やかな女性のどうしようもない心情が行き場を失ったようにそこにのこる・・・・。鉛のような重さがあるわけでもなく、油絵のように塗りつぶされるわけでもなく、透明な空気でやわらかく押し入って観客の心をその色にそめるように・・・・、そこに女性たちと男の想いが残る・・・。

出演は、野田秀樹に加えて、「The Bee」でも共演したキャサリン・ハンター、彼女の演技には一歩一歩しっかりと築き上げる部分と、それらを踏み台にして一気に物語を深みに沈めるような力があって、観る者を引きずり込むように能の世界にいざない、現実へと差し戻します。その他グリング・ブリチャード、ハリー、ゴストロワが出演・・・・。

囃子方は囃子が田中傅左衛門、笛が福原友裕、その音は物語のエッジをしっかりと研ぎ澄まし、物語に立体感を与えていました。

帰りの田園都市線で購入したパンフレットを読んでいて、その造りのおしゃれさに気がつく・・・。袋とじの外側の文字と内側の舞台写真に、物語が持つ構造の秀逸さを思い起こした事でした。

上演時間は90分、立ち見でも見る価値がある一作かと思います。

なお、ベース都なった事件の詳細は

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/hino-ol.htm

観劇前後jに読むのも一興、読まずにおくのも一興かと・・・。

あとおまけというか余談ですが、扇のピザの食べっぷり・・・、ああいう遊び心もすごいしそれを成り立たせる細かい所作もすごいなと別な意味で感動したことでした。

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「花のお江戸に出没!ラクゴリラ 13」 はとまどうほどのおいしさ

9月28日、お江戸日本橋亭で、第13回「花のお江戸に出没ラクゴリラ」を観てまいりました。今年は夏にも臨時のラクゴリラがあったので3回目・・・、たっぷりと上方落語の世界にひたることができました。

・開口一番 「大安売り」桂 三四郎

ともすれば平板になりやすいネタに、しっかりとした起伏をつけて噺を観客に聴かせてくれました。枕にしても、しなやかさの片りんがあって・・・。才能をしっかりと感じる・・・。

ただ、いろんなところに少しずつ雑さがあるのですよ。初日からの黒星の積み重ねにしても、流れはよいのですが話がぐっと上がっていかない。

細かい所作にもうすこし神経がいきとどけば大化けするなにかがあるような気がするのですが・・・。たとえばメクリを丁寧にめくるとか・・・。

・林家 花丸 「寄合酒」

花丸師匠の高座には明るさがあります。まあ、犬が盗んだ鯛を取り上げたり、子供だまして鰹節をせしめたりと、結構えげつない噺なのですが、花丸師匠がやるとなにか罪がない・・・。悪さをしても何か許せるような包容力があるのです。

後半のゆっくりとたたみかけるような噺の持っていき方、明快でわかりやすく面白い・・・。

昔から知っていた噺なのですが、花丸師匠がやると一味違う感じがして・・・。たっぷり味わうことができました。

・桂 こごろう 「貧乏神

悪い意味ではなく、こころう師匠の雰囲気に合った噺かと思います。その貧乏神の情けなさが、こごろう師匠だとちょっと愛嬌に変わるような感じで・・・。これも師匠の人徳(?)かと・・・。貧乏神になんともいえない実存感があって、この世のものではない設定であることをわすれてしまうような・・・。こごろう師匠の噺には、そういう錯覚をさせるほど、何気に貧乏神が存在している。

ただ、貧乏神のいじめ方はもっと強くてもよいような・・・。とりついた人間に世話を焼くほどに立場が逆転して・・・、そこを耐えて、許して、でも耐えきれない一線があって別れにつながるという感じがちょっと弱かったようなきがします。まあ、好みの問題かもしれませんが・・・。

中入り

・桂 つく枝 「みかん屋

夏の大銀座落語祭のときより一層ダイエットされたようで、すっきりした感じ。論理的に説明された7000KCalのお話が、現在のすっとした感じを一層引き立てて。

で、語り口もやわらかくすっとした「みかん屋」、雪隠の話が出ても厭味がない。汚いものを綺麗に見せる手練を身に付けられたような・・・。お手本を見せるほうがみかんを積んだしぐさに良いみかんとわるいみかんがちゃんと見えるところが芸のたくみな部分・・・。そこをあほがやると微妙にぎこちなくなる。そのなりようがすごくよいのですよ・・・。いろんな雰囲気をしっかりと込めておいてわざとらしさがない。観客も力をすっと抜いてみることができるような感じ・・・。

こういう末端まで神経が届いている芸を見せてもらえると、師匠の文三襲名もさもありなんと思います。

・笑福亭 生喬 「蛸芝居」

なんというか、芸が大きい。豪胆な感じがする「蛸芝居」を見せてもらったような・・・。この噺は桂吉坊さんのものも見せていただいたことがあって、彼の場合は動作が精緻な感じ。それに対して生喬師匠のものはダイナミックさが魅力で、ぐっと見栄を切るところの力強さに、観客はぐぐっと押される感じすらあるほど・・・。下座との呼吸にも安心感があって、芝居話の良さがまっすぐにやってくる。

力まずにすうっと高座全体の雰囲気を上げていって、ここぞというところで一気に力を入れるような感じ。そのメリハリが客を引きよせ、引き寄せられた客の熱を凌駕するような波が、また必ずやってくる。

その満ち引きにとてもひかれたりするのです。

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いやあ、面白かったですよ。各師匠の高座にちゃんと色があって、しかも指の先にまでびしっと心が通っているような高座が続いて・・・。

出演者の方が東京の観客を大切におもっていただいてるのが凄く伝わってくるのですよ。ひとつずつの高座がしっかりと練り上げられていて、落語をそんなに知らん観客でもぐいっと惹かれる魅力があるし、多分うん十年と落語を聴きつづけたような耳の肥えてる方にも高い評価をもらえるような高座なのだと思うのです。

ただ、観客というのはわがままなもので・・・。、まあ、贅沢な希望でもあるのですが・・・。この会、4人のゴリラの会なのですからもうすこし野性味を持ってもよいのではないでしょうか。なにか良すぎる・・・。

4人のメンバーそれぞれが名人上手といわれる域に足を入れられつつあることは疑いのない事実なのですが、でも、そこで止まらないのも名人の資質、次にはさらにこんな花が咲くという部分や、あかんかったらごめんなさいみたいな取り組みが、完成度の高いものと混ざってあってもよいような気がするのです。もしかしたら関西のラクゴリラはもっとチャレンジングで、その良いところを東京に持ってきていただいてるのかもしれませんが・・・。

もちろん東京の会でネタおろしをしろなんて無茶を言うつもりは毛頭ありませんが、でも、なにかそれぞれの噺が洗練されすぎているというか、きれいすぎるような感じがするのです。発展途上のネタを披露していただいたり、たとえば「すべて食べ物の噺」みたいな企画を組んでいただいたりなんていうのも見てみたい気がします。

何回も言いますけれど、大満足ではあったのですけれどね・・・。ここまで見せていただいて贅沢な話ではあるのですが・・・。

ふっと思った事でした。

PS:今回、三味線(謡?)もなにかすごくよかった・・・。演者とあっているというか、しなやかに生きていたような気がしました。良い高座がよいはめものを引き出すのか、よいはめものに高座が映えるのか・・・。パンフのクレジットには三味線・吉崎律子さんとお名前がありましたが、上方落語ならではの相乗効果がことさら魅力的に感じたことでした。層がしっかりと広がる噺家さんに加えてこういう方も上方落語界の隠れた財産なのですね・・・。

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