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4x1hproject 「Play#0」黒澤世莉の手練

9月21日、Gallery LE DECOにて4x1project、「Play#0」を観ました。

見に行った動機は意外と単純、先日観た「月なみなはなし」の戯曲を書いた黒澤世莉が演出するということと、その作品を「柿喰う客」の中屋敷法仁が提供しているということ・・・。

想像していたものとは若干色は違っていたけれど、期待値をはるかに超える作品を拝見することができました。

(ここからネタばれがあります。十分留意の上お読みください。)

Le Deco自体決して大きいとは言えないスペースですが、それにしても客席の少なさには驚かされます。椅子が客席側に1列、その後ろのスチール棚のような場所に座布団が敷かれて座席になっているのですが、全部合わせても30席程度でしょうか・・・。比較的早く着いたのでやや入口よりのいす席に・・・。

舞台が始まる少し前から、会場の空気が醸成されていきます。出演者が場内でさまざまな動きを始める。それはウォームアップのようにも、なにかのレッスンのようにも思えるのですが、場内いっぱいに広がる動きが場内の空気を常ならぬものに引き締めていきます。

・ひとさまにみせるもんじゃない 作:中屋敷 法仁

冒頭、浅い闇のなかで朝の風景が群舞のように演じられます。目覚めて、歯を磨いて用をたして・・・。役者たちの体の切れが次第に増してくる。芝居の空気に場内が満たされていく感じ・・・。そして目覚ましの音。目覚ましの音目覚ましの音目覚ましの音。役者6人の作り出す目覚まし時計の音が場内を圧倒します。

上に身につけていた服を脱ぎ棄て、戦闘用の衣装に着替えたら、そこから一気に物語が語られ始めます。中央にしつらえられた小さな台がメインステージ、虎視眈々とその場所を狙う役者たちによって、次々に物語がかたられていきます。バスのストライキのためいやいや乗った痴漢だらけの地下鉄で、おっぱい専門の痴漢に自分だけがスルーをされた女子高生とそれを取り巻く人々の話、ある意味奇想天外な話ではあるのですが、疾走する舞台は有無を言わせず観客を物語に引きずり込んでいく。役者が殺気すらみなぎらせて次々と奪い合うように同じキャラクターを演じていくのですが、そこに違和感がない不思議。同じ役者が異なるキャラクターを演じたとしても混乱が一切なく一本道を走り抜けるように物語が観客に伝わってきます・・・。挑むような瞳でステージを見つめ、すきあらばキャラクターを奪い取ろうとするような役者の熱と力が、舞台の中の舞台上で物語の質感に変わっていきます。

役者が変わるとき鍔迫り合いのように重なりあうセリフの冒頭、観客を振り落とすようなスピードでの長台詞に力感にみちた所作。いっぽうでふっと風がふきこむようなゆとりをもった演技。ジャズのフリーセッションに近い感じ・・・。でも、主旋律がぶれることがない。それはきっと台本の力に演じる力と演技を導く力が重なったことの賜物なのだと思います・・・。さまざまな力感が交錯する中で、ひたすら役者の台詞のパワーに圧倒されたりふっとナチュラルに演じられる女子高生の恋慕がものすごくピュアでヴィヴィッドに思えたり・・。(PPTのときに恥も顧みず質問をさせていただいたのですが、その部分は同じことをやっていると飽きるからということで、演出側でつけたアクセントのようです。まっすぐであけすけな恋慕が観る者の心を浸潤したのは、女優さんのしなやかな芝居の勝利でもありましたけれど・・・)

物語はやがて愛に収束し、歌がうたわれるのは中屋敷芝居のパターン通り。そして、戯曲のなかでちょっと自嘲して、まるで絵を額縁にはめるように最後は夢落ちにもっていく。

終演後のPPTで演出の黒澤氏は、中屋敷氏の戯曲に対して、物語の結末を拾わないと冗談ぽく揶揄していましたが、柿喰う客の公演や今回の作品を観ていると中屋敷氏にとって物語が語られ尽くすということは演劇の形式のひとつにすぎないようにも思えます。むしろ、物語の身や肉汁のようなものが劇中で濃く存在していることこそが重要なのかもしれません。たとえば絵画や写真などには物語の収束という概念はないけれど表現としては十二分に成り立っているわけで・・・。よしんばそれが演劇の脚本であったとしても、物語を最後まで拾い続けることは中屋敷氏にとっては描き方のひとつであっても必須ではない・・・。別に中屋敷氏もコンサバティブな演劇を否定しているわけでもなく、悪意をもって物語を投げ出しているわけでもないのだとおもいます・・・。ただ客観的に物語が拾い尽くされていなかったとしても、表現としてはそれは中屋敷氏のなかでは普通に「あり」だというだけ・・・。中屋敷氏の主旋律を尊重しながら、楽器として見事な音色を響かせた役者たちをフリージャズの名演に導いていった黒澤氏が、その才で、PPTでのパフォーマンスとは裏腹に中屋敷氏の「あり」を見事に実証していたようにおもいます。

出演は石黒淳士、大竹悠子、菊池奈緒、猿田モンキー、星野菜穂子、三島義信、いずれもがパワーと表現力を兼ね備えた演技で圧倒されました。一人ひとりがもれなく舞台上の舞台で場を支え切る力を持っていて、なおかつ空間の高い熱をしっかりと維持し続けていました。

・いそうろう

脚本は快快の篠田千秋。繊細さのなかに透明感と豊かさをもった30分の2人芝居。

まあ、乱暴にサマライズしてしまうと部屋に同居する二人の女性、ももかといちこの大げんかの物語なのですが、その出来事の語られ方がとても巧みなのです。喧嘩のあと、いったん出て行った部屋の持ち主が再び戻ってきて居候しているもうひとりと、喧嘩の経緯を話しだすという趣向。中央にA0判くらいのおおきな模造紙が貼ってあって、自分が観たものなどを互いにそこに描きながら物語を進めていきます。

部屋の借主が買い物をしてきたものの絵を描くところからはじまって(肉とかホールトマトとか・・・)、彼女たちの生活があちらこちらから顔を出し始めます。冷蔵庫のこと、ビールのこと、部屋のこと、カーテンのこと、テーブルのこと。いそうろうさんのビーフシチューが食べたいという言葉から始まった諍い。二人が観たものが白い紙に書きくわえられていくたびに、点のように見えた二人の生活が線になり面になり・・・、気がつけば透明感をもった空間となって観客を包み込んでいきます。

話が進んでいるうちに、お互いの感情の交差が次第に浮かび上がってくる。ただ、二人が面と向かって罵り合っているわけではなく、それぞれの言葉が受け渡しされることがあっても、絵を描くというワンクッションがあることでふたりが持つ感情のノイズが濾過されていきます。二人の想いが生々しくではなく生き生きと伝わってくる。お互いの立場や感情がいたずらに混じり合うのではなく、それぞれの色をしっかりと保ちながら観客に入り込んでいきます。

二人の役者のしなやかで自由な演技が観ていてとても気持ち良い。後半ももか役の大川翔子が感情を爆発させるときも、そのあといちこ役の百花亜希が1時間だけの心地よい眠りに落ちる時も、彼女たちにとっては非日常的な出来事なのに、彼女たちの演技に流れる日常の時間がすうっとその出来事を吸い込んでしまい、彼女たちの作り上げた世界におさまってしまうのです。

物語の視点の秀逸さや役者たちの演技の力に加えて、その場を作る工夫の積み重ね。絵の表現や模造紙に仕込まれた仕掛けや二人の目線や立ち位置・・・。それらのものがさりげなく観客を揺り動かしていく。彼女たちのちょっとした事件を眺めているうちに、彼女たちに流れる時間がいつしか舞台上と同じ視点を客席に与えていく。

この時間の純度のようなものは、演劇という表現だからこそ伝わってきたような・・・。

演出の黒澤の才に舌を巻いたことでした。

なにかすごく見ごたえがあった2作品。すごい贅沢をさせていただいたような・・・。私にとっては演劇というものなんたるかを感じるためのとても素敵なトリガーにもなったような気もするし・・・。

ほんと、観にいってよかったです

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