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Nylon100℃「シャープさんフラットさん」は両バージョンを(ちょっと改訂)

今回のNylon100℃は2バージョン、ブラックチームとホワイトチーム。ケラリーノ サンドロヴィッチの作品ゆえに(コンテンツがすごくしっかりとしていてしかもそれなりのボリュームもある)1日で観尽くすのはいくらなんでも無謀というもの・・・。

ということで、20日のソワレでブラックチーム、23日にマチネでホワイトチームを観てまいりました。

ケラ作品の充実ぶりは今回も顕在、Nylonの役者たちの力に加えて客演陣も良い方に想定外の力を見せて、出色の作品となりました。

(ここからはネタばれがあります。十分ご留意ください。)

二つのバージョンとも物語の骨格は一緒・・・。バブル絶頂のころ、とある劇団の主宰兼座付作家の男が芝居を書かなくなってしまう・・・。そしてサナトリウムとは名ばかりの金持ちたちのシェルターのような施設に入所してしまう・・・。

人と少し感覚の違う自分、それは幼いころの体験がもとになっていて、アル中になった母との体験や父とのことをごまかすために、まるで昔のモノクロコメディの出来事のように事実をすり替えてしまうすべを身につけて・・・、でも一般にも同棲している女性にもその感覚が理解できなくて・・・。

そのサナトリウムにはいろんなタイプの人がいて・・・。それぞれに自分のなにかをごまかしたり、あるいはなにかをかくして・・・。妥協していく心と、抗しきれない本当の気持ちがあって・・・。本当の気持ちに徹しきれないなにかがあって・・・。

役者たちの滑らかな演技にはノイズがまったくなく、入れ子のような構造の物語がとてもスムーズに舞台からやってきます。よしんば語られなかったり、笑いのオブラートにくるまれていても、しっかりと浸潤してくる登場人物たちの心情が、観ているほうの心にすっとのってくる。自分を守るためにつく嘘の痛みや、ゆるく深くやってくる孤独、癌を妻にだけ隠すコメディアンからも子供に媚を売って孤独をいやす中小企業の社長からも、面白ろうて笑ったあとに、透明な居場所のない寂寥がひとひらふたひら積もっていく・・・。

その中でも、主人公の孤独は誰にでも癒せるものではないのです。同じ歌を歌っていてもメジャーとマイナーが重なり合うようだと気持ちが悪いだけ・・・。同じ旋律でもハ長調と変ロ長調ではずっと違和感が続く・・・。孤独への癒しの欲求と違和感との葛藤・・・。それは公私両面のこと・・・。作品を作る上でも、人と付き合っていく上でも、生きていく上でも・・・。

逆にハ長調をハ長調でともに歌うことの高揚感と慰安・・・。よしんばそれが世間からはタブーなことでも・・・。それどころかインモラルな感覚がスパイスになるような感覚・・・。バブルがはじけたあとの、どこか陰鬱な雰囲気がかえって、同じ感性が重なるハーモニクスの軽やかさを際立たせて・・・。

バブル前後の時間の流れといろんなエピソードが織り込まれて・・・。2時間30分の上演時間が、流れるようにすぎていくのです。

ふたつのチームを観ていて思ったこと・・・。この物語って、主人公内側と外側の世界があって、それぞれの描き方がバージョンによって違うような。両バージョンとも演劇的な洗練を前面に押し出した部分と、事象や心情に対してのリアリティを強く押し出した芝居がうまく同居している感じなのですが、その比率が巧妙に調節されているのです。パラレルワールドという感じもするのですが、むしろ一つの彫像を朝日と夕日で観ている感じと言ったほうが近いかもしれません。浮かび上がってくる陰影が異なるのです。

たとえば主人公と同じ感覚を持った赤坂弥生というキャラクターを黒では峯村リエが演じ、白では松永玲子が演じます。峯村は主人公が持つ感性に関してすべてを悟った達人という感じで主人公役の大倉孝二を引っ張っていきます。結果として物語の骨格というかシャープさんフラットさんとの主人公の関係性がまっすぐに観客にやってきます、一方松永の演技は主人公と互いに同じ匂いをかぎ分けている感じ。座っているときにかすかに漂う憂いのようなものが、三宅弘城演じる主人公との時間のなかですっと消えるとき、両者の安らぎの萌芽のようなものがやわらかく観客に伝わってくる。峯村も松永も凛とした貫禄があって奥行をしっかりもった女性をあっぱれ見事に演じきっているのですが、でも彼女たちの演技が浮かび上がらせる主人公側のイメージが微妙に違う・・・。その表現の繊細さが二つのバージョンの色を微妙に変えていく。

それは、劇団の主宰と女優の関係で主人公と同棲している日田美果についても同じこと・・・。黒でこの役を演じる小池栄子は内に秘めるものをそのままに、主人公を理解できないことに対して自分を追い詰めるような強さのある演技・・・。それに対して白の新谷真弓には主人公を理解できないことにかんする諦観がどこかにありながら、それでも彼女をして自らを追い詰めざるをえないようなどうしようもなさを感じます。主人公に関する現実に対しての能動と受動の違いというか・・・。小池栄子の演技は、ナイロンの手練の役者達に比べると末梢というか伸びていく先にほんの少しだけ乱れを感じるものの、観客にしっかりと心情を伝える力があり、新谷真弓の演技から感じる日々には、一種の粘度と物語に強いリアリティを与える力があって・・・。彼女たちは終盤異なった結末を迎えることになるのですが、黒の日田さんが迎えるドラマティックな結末も白の日田さんが迎える未来も、それぞれが色を変えて、終盤の主人公の姿が伝えるニュアンスを彩っていく・・・。

同じことが黒で主人公の母やコメディアンの妻にしなやかな狂気を演じた犬山イヌ子と、白でコメディアンの妻の嘘にリアリティをしっかり持たせる一方、主人公の母役にだんだんと固まっていくような狂気を演じてみせた村岡希美にも。

また、黒の坂井真紀と白の佐藤江梨子が演じた成瀬南というサナトリウムの職員の役にしても、同じようなセリフに異なるニュアンスが感じられる部分がいくつも・・・。

さらには主人公の父親と劇団を引き継ぐ演出家を演じる黒のマギーと白の河原雅彦にも違う色があってしかもどちらもすごく秀逸な芝居に支えられている・・・。

黒と白で男女の設定を変えてあるキャラクターもいくつかあって、さらに物語のニュアンスに変化がついていきます。

全体的にみるとブラックチ-ムでは、内なる世界にリアリティを強くして、外側の世界に洗練を求めた感じ・・・。一方のホワイトチームでは主人公の記憶にある父母の情景の部分を硬質に描いて、現実の日々により強い実存感を持たせたような・・・。

何年か前のケラ作品では、ある種のトーン徹することのすごさに観客が圧倒されていたのですが、ここしばらくの作品では極上のクオリティをもった幾つものベクトルの絶妙のバランスに舞台全体の溜息がでるほどの洗練と広がりを感じるのです。時には下世話で淡々としたシーンが積み重なっていくような部分もあるのですが、それらが一つのお芝居にとりこまれるとちゃんと溶けてしまったり流されることなく必要な色を発する。

それが今回のように二つの形で提示されることにより、ケラ氏が表現する世界に立体感が生まれてくるのです・・・。

「片チームだけ観ても充分楽しめるし、両チーム観ると別の楽しみが付加される。そんな二本立てだ。」とは作品発表時のケラ氏のコメントですが、まさにそのとおり。

終盤近くにでてくる、作家が創作したという設定のキャラクターとのひと時が実に秀逸・・・。稚拙と洗練を隔てる研ぎ澄まされた刃の上に構築されたキャラクターたちが、主人公と作り出すぬるく切実な空気には笑いながら鳥肌が立ちました。

あとタイトル映像や劇中の舞台とそのままつながるような映像はやっぱり凄い。これ、ブロードウェイが買いに来るんと違いますか・・・、そのうち。

他にも

ブラックチーム

みのすけ、長田奈麻、植木夏十、喜安浩平、大山鎬側、廻飛雄、柚木幹斗、水野顕子、住田隆

ホワイトチーム

廣川三憲、安澤千草、藤田秀世、吉増裕士、杉山薫、眼鏡太郎、清水宏、六角慎司

など、すごい役者が目白押し・・・。

10月18日までの公演でチケットも100%完売というわけではないようです。できれば両バージョンの観劇がおすすめ・・・。ケラ氏がおっしゃるように片方でももちろん楽しめますが・・・、ちょっと大盤振舞しても決して損のない作品だと思います。

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