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Nylon100℃「シャープさんフラットさん」は両バージョンを(ちょっと改訂)

今回のNylon100℃は2バージョン、ブラックチームとホワイトチーム。ケラリーノ サンドロヴィッチの作品ゆえに(コンテンツがすごくしっかりとしていてしかもそれなりのボリュームもある)1日で観尽くすのはいくらなんでも無謀というもの・・・。

ということで、20日のソワレでブラックチーム、23日にマチネでホワイトチームを観てまいりました。

ケラ作品の充実ぶりは今回も顕在、Nylonの役者たちの力に加えて客演陣も良い方に想定外の力を見せて、出色の作品となりました。

(ここからはネタばれがあります。十分ご留意ください。)

二つのバージョンとも物語の骨格は一緒・・・。バブル絶頂のころ、とある劇団の主宰兼座付作家の男が芝居を書かなくなってしまう・・・。そしてサナトリウムとは名ばかりの金持ちたちのシェルターのような施設に入所してしまう・・・。

人と少し感覚の違う自分、それは幼いころの体験がもとになっていて、アル中になった母との体験や父とのことをごまかすために、まるで昔のモノクロコメディの出来事のように事実をすり替えてしまうすべを身につけて・・・、でも一般にも同棲している女性にもその感覚が理解できなくて・・・。

そのサナトリウムにはいろんなタイプの人がいて・・・。それぞれに自分のなにかをごまかしたり、あるいはなにかをかくして・・・。妥協していく心と、抗しきれない本当の気持ちがあって・・・。本当の気持ちに徹しきれないなにかがあって・・・。

役者たちの滑らかな演技にはノイズがまったくなく、入れ子のような構造の物語がとてもスムーズに舞台からやってきます。よしんば語られなかったり、笑いのオブラートにくるまれていても、しっかりと浸潤してくる登場人物たちの心情が、観ているほうの心にすっとのってくる。自分を守るためにつく嘘の痛みや、ゆるく深くやってくる孤独、癌を妻にだけ隠すコメディアンからも子供に媚を売って孤独をいやす中小企業の社長からも、面白ろうて笑ったあとに、透明な居場所のない寂寥がひとひらふたひら積もっていく・・・。

その中でも、主人公の孤独は誰にでも癒せるものではないのです。同じ歌を歌っていてもメジャーとマイナーが重なり合うようだと気持ちが悪いだけ・・・。同じ旋律でもハ長調と変ロ長調ではずっと違和感が続く・・・。孤独への癒しの欲求と違和感との葛藤・・・。それは公私両面のこと・・・。作品を作る上でも、人と付き合っていく上でも、生きていく上でも・・・。

逆にハ長調をハ長調でともに歌うことの高揚感と慰安・・・。よしんばそれが世間からはタブーなことでも・・・。それどころかインモラルな感覚がスパイスになるような感覚・・・。バブルがはじけたあとの、どこか陰鬱な雰囲気がかえって、同じ感性が重なるハーモニクスの軽やかさを際立たせて・・・。

バブル前後の時間の流れといろんなエピソードが織り込まれて・・・。2時間30分の上演時間が、流れるようにすぎていくのです。

ふたつのチームを観ていて思ったこと・・・。この物語って、主人公内側と外側の世界があって、それぞれの描き方がバージョンによって違うような。両バージョンとも演劇的な洗練を前面に押し出した部分と、事象や心情に対してのリアリティを強く押し出した芝居がうまく同居している感じなのですが、その比率が巧妙に調節されているのです。パラレルワールドという感じもするのですが、むしろ一つの彫像を朝日と夕日で観ている感じと言ったほうが近いかもしれません。浮かび上がってくる陰影が異なるのです。

たとえば主人公と同じ感覚を持った赤坂弥生というキャラクターを黒では峯村リエが演じ、白では松永玲子が演じます。峯村は主人公が持つ感性に関してすべてを悟った達人という感じで主人公役の大倉孝二を引っ張っていきます。結果として物語の骨格というかシャープさんフラットさんとの主人公の関係性がまっすぐに観客にやってきます、一方松永の演技は主人公と互いに同じ匂いをかぎ分けている感じ。座っているときにかすかに漂う憂いのようなものが、三宅弘城演じる主人公との時間のなかですっと消えるとき、両者の安らぎの萌芽のようなものがやわらかく観客に伝わってくる。峯村も松永も凛とした貫禄があって奥行をしっかりもった女性をあっぱれ見事に演じきっているのですが、でも彼女たちの演技が浮かび上がらせる主人公側のイメージが微妙に違う・・・。その表現の繊細さが二つのバージョンの色を微妙に変えていく。

それは、劇団の主宰と女優の関係で主人公と同棲している日田美果についても同じこと・・・。黒でこの役を演じる小池栄子は内に秘めるものをそのままに、主人公を理解できないことに対して自分を追い詰めるような強さのある演技・・・。それに対して白の新谷真弓には主人公を理解できないことにかんする諦観がどこかにありながら、それでも彼女をして自らを追い詰めざるをえないようなどうしようもなさを感じます。主人公に関する現実に対しての能動と受動の違いというか・・・。小池栄子の演技は、ナイロンの手練の役者達に比べると末梢というか伸びていく先にほんの少しだけ乱れを感じるものの、観客にしっかりと心情を伝える力があり、新谷真弓の演技から感じる日々には、一種の粘度と物語に強いリアリティを与える力があって・・・。彼女たちは終盤異なった結末を迎えることになるのですが、黒の日田さんが迎えるドラマティックな結末も白の日田さんが迎える未来も、それぞれが色を変えて、終盤の主人公の姿が伝えるニュアンスを彩っていく・・・。

同じことが黒で主人公の母やコメディアンの妻にしなやかな狂気を演じた犬山イヌ子と、白でコメディアンの妻の嘘にリアリティをしっかり持たせる一方、主人公の母役にだんだんと固まっていくような狂気を演じてみせた村岡希美にも。

また、黒の坂井真紀と白の佐藤江梨子が演じた成瀬南というサナトリウムの職員の役にしても、同じようなセリフに異なるニュアンスが感じられる部分がいくつも・・・。

さらには主人公の父親と劇団を引き継ぐ演出家を演じる黒のマギーと白の河原雅彦にも違う色があってしかもどちらもすごく秀逸な芝居に支えられている・・・。

黒と白で男女の設定を変えてあるキャラクターもいくつかあって、さらに物語のニュアンスに変化がついていきます。

全体的にみるとブラックチ-ムでは、内なる世界にリアリティを強くして、外側の世界に洗練を求めた感じ・・・。一方のホワイトチームでは主人公の記憶にある父母の情景の部分を硬質に描いて、現実の日々により強い実存感を持たせたような・・・。

何年か前のケラ作品では、ある種のトーン徹することのすごさに観客が圧倒されていたのですが、ここしばらくの作品では極上のクオリティをもった幾つものベクトルの絶妙のバランスに舞台全体の溜息がでるほどの洗練と広がりを感じるのです。時には下世話で淡々としたシーンが積み重なっていくような部分もあるのですが、それらが一つのお芝居にとりこまれるとちゃんと溶けてしまったり流されることなく必要な色を発する。

それが今回のように二つの形で提示されることにより、ケラ氏が表現する世界に立体感が生まれてくるのです・・・。

「片チームだけ観ても充分楽しめるし、両チーム観ると別の楽しみが付加される。そんな二本立てだ。」とは作品発表時のケラ氏のコメントですが、まさにそのとおり。

終盤近くにでてくる、作家が創作したという設定のキャラクターとのひと時が実に秀逸・・・。稚拙と洗練を隔てる研ぎ澄まされた刃の上に構築されたキャラクターたちが、主人公と作り出すぬるく切実な空気には笑いながら鳥肌が立ちました。

あとタイトル映像や劇中の舞台とそのままつながるような映像はやっぱり凄い。これ、ブロードウェイが買いに来るんと違いますか・・・、そのうち。

他にも

ブラックチーム

みのすけ、長田奈麻、植木夏十、喜安浩平、大山鎬側、廻飛雄、柚木幹斗、水野顕子、住田隆

ホワイトチーム

廣川三憲、安澤千草、藤田秀世、吉増裕士、杉山薫、眼鏡太郎、清水宏、六角慎司

など、すごい役者が目白押し・・・。

10月18日までの公演でチケットも100%完売というわけではないようです。できれば両バージョンの観劇がおすすめ・・・。ケラ氏がおっしゃるように片方でももちろん楽しめますが・・・、ちょっと大盤振舞しても決して損のない作品だと思います。

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4x1hproject 「Play#0」黒澤世莉の手練

9月21日、Gallery LE DECOにて4x1project、「Play#0」を観ました。

見に行った動機は意外と単純、先日観た「月なみなはなし」の戯曲を書いた黒澤世莉が演出するということと、その作品を「柿喰う客」の中屋敷法仁が提供しているということ・・・。

想像していたものとは若干色は違っていたけれど、期待値をはるかに超える作品を拝見することができました。

(ここからネタばれがあります。十分留意の上お読みください。)

Le Deco自体決して大きいとは言えないスペースですが、それにしても客席の少なさには驚かされます。椅子が客席側に1列、その後ろのスチール棚のような場所に座布団が敷かれて座席になっているのですが、全部合わせても30席程度でしょうか・・・。比較的早く着いたのでやや入口よりのいす席に・・・。

舞台が始まる少し前から、会場の空気が醸成されていきます。出演者が場内でさまざまな動きを始める。それはウォームアップのようにも、なにかのレッスンのようにも思えるのですが、場内いっぱいに広がる動きが場内の空気を常ならぬものに引き締めていきます。

・ひとさまにみせるもんじゃない 作:中屋敷 法仁

冒頭、浅い闇のなかで朝の風景が群舞のように演じられます。目覚めて、歯を磨いて用をたして・・・。役者たちの体の切れが次第に増してくる。芝居の空気に場内が満たされていく感じ・・・。そして目覚ましの音。目覚ましの音目覚ましの音目覚ましの音。役者6人の作り出す目覚まし時計の音が場内を圧倒します。

上に身につけていた服を脱ぎ棄て、戦闘用の衣装に着替えたら、そこから一気に物語が語られ始めます。中央にしつらえられた小さな台がメインステージ、虎視眈々とその場所を狙う役者たちによって、次々に物語がかたられていきます。バスのストライキのためいやいや乗った痴漢だらけの地下鉄で、おっぱい専門の痴漢に自分だけがスルーをされた女子高生とそれを取り巻く人々の話、ある意味奇想天外な話ではあるのですが、疾走する舞台は有無を言わせず観客を物語に引きずり込んでいく。役者が殺気すらみなぎらせて次々と奪い合うように同じキャラクターを演じていくのですが、そこに違和感がない不思議。同じ役者が異なるキャラクターを演じたとしても混乱が一切なく一本道を走り抜けるように物語が観客に伝わってきます・・・。挑むような瞳でステージを見つめ、すきあらばキャラクターを奪い取ろうとするような役者の熱と力が、舞台の中の舞台上で物語の質感に変わっていきます。

役者が変わるとき鍔迫り合いのように重なりあうセリフの冒頭、観客を振り落とすようなスピードでの長台詞に力感にみちた所作。いっぽうでふっと風がふきこむようなゆとりをもった演技。ジャズのフリーセッションに近い感じ・・・。でも、主旋律がぶれることがない。それはきっと台本の力に演じる力と演技を導く力が重なったことの賜物なのだと思います・・・。さまざまな力感が交錯する中で、ひたすら役者の台詞のパワーに圧倒されたりふっとナチュラルに演じられる女子高生の恋慕がものすごくピュアでヴィヴィッドに思えたり・・。(PPTのときに恥も顧みず質問をさせていただいたのですが、その部分は同じことをやっていると飽きるからということで、演出側でつけたアクセントのようです。まっすぐであけすけな恋慕が観る者の心を浸潤したのは、女優さんのしなやかな芝居の勝利でもありましたけれど・・・)

物語はやがて愛に収束し、歌がうたわれるのは中屋敷芝居のパターン通り。そして、戯曲のなかでちょっと自嘲して、まるで絵を額縁にはめるように最後は夢落ちにもっていく。

終演後のPPTで演出の黒澤氏は、中屋敷氏の戯曲に対して、物語の結末を拾わないと冗談ぽく揶揄していましたが、柿喰う客の公演や今回の作品を観ていると中屋敷氏にとって物語が語られ尽くすということは演劇の形式のひとつにすぎないようにも思えます。むしろ、物語の身や肉汁のようなものが劇中で濃く存在していることこそが重要なのかもしれません。たとえば絵画や写真などには物語の収束という概念はないけれど表現としては十二分に成り立っているわけで・・・。よしんばそれが演劇の脚本であったとしても、物語を最後まで拾い続けることは中屋敷氏にとっては描き方のひとつであっても必須ではない・・・。別に中屋敷氏もコンサバティブな演劇を否定しているわけでもなく、悪意をもって物語を投げ出しているわけでもないのだとおもいます・・・。ただ客観的に物語が拾い尽くされていなかったとしても、表現としてはそれは中屋敷氏のなかでは普通に「あり」だというだけ・・・。中屋敷氏の主旋律を尊重しながら、楽器として見事な音色を響かせた役者たちをフリージャズの名演に導いていった黒澤氏が、その才で、PPTでのパフォーマンスとは裏腹に中屋敷氏の「あり」を見事に実証していたようにおもいます。

出演は石黒淳士、大竹悠子、菊池奈緒、猿田モンキー、星野菜穂子、三島義信、いずれもがパワーと表現力を兼ね備えた演技で圧倒されました。一人ひとりがもれなく舞台上の舞台で場を支え切る力を持っていて、なおかつ空間の高い熱をしっかりと維持し続けていました。

・いそうろう

脚本は快快の篠田千秋。繊細さのなかに透明感と豊かさをもった30分の2人芝居。

まあ、乱暴にサマライズしてしまうと部屋に同居する二人の女性、ももかといちこの大げんかの物語なのですが、その出来事の語られ方がとても巧みなのです。喧嘩のあと、いったん出て行った部屋の持ち主が再び戻ってきて居候しているもうひとりと、喧嘩の経緯を話しだすという趣向。中央にA0判くらいのおおきな模造紙が貼ってあって、自分が観たものなどを互いにそこに描きながら物語を進めていきます。

部屋の借主が買い物をしてきたものの絵を描くところからはじまって(肉とかホールトマトとか・・・)、彼女たちの生活があちらこちらから顔を出し始めます。冷蔵庫のこと、ビールのこと、部屋のこと、カーテンのこと、テーブルのこと。いそうろうさんのビーフシチューが食べたいという言葉から始まった諍い。二人が観たものが白い紙に書きくわえられていくたびに、点のように見えた二人の生活が線になり面になり・・・、気がつけば透明感をもった空間となって観客を包み込んでいきます。

話が進んでいるうちに、お互いの感情の交差が次第に浮かび上がってくる。ただ、二人が面と向かって罵り合っているわけではなく、それぞれの言葉が受け渡しされることがあっても、絵を描くというワンクッションがあることでふたりが持つ感情のノイズが濾過されていきます。二人の想いが生々しくではなく生き生きと伝わってくる。お互いの立場や感情がいたずらに混じり合うのではなく、それぞれの色をしっかりと保ちながら観客に入り込んでいきます。

二人の役者のしなやかで自由な演技が観ていてとても気持ち良い。後半ももか役の大川翔子が感情を爆発させるときも、そのあといちこ役の百花亜希が1時間だけの心地よい眠りに落ちる時も、彼女たちにとっては非日常的な出来事なのに、彼女たちの演技に流れる日常の時間がすうっとその出来事を吸い込んでしまい、彼女たちの作り上げた世界におさまってしまうのです。

物語の視点の秀逸さや役者たちの演技の力に加えて、その場を作る工夫の積み重ね。絵の表現や模造紙に仕込まれた仕掛けや二人の目線や立ち位置・・・。それらのものがさりげなく観客を揺り動かしていく。彼女たちのちょっとした事件を眺めているうちに、彼女たちに流れる時間がいつしか舞台上と同じ視点を客席に与えていく。

この時間の純度のようなものは、演劇という表現だからこそ伝わってきたような・・・。

演出の黒澤の才に舌を巻いたことでした。

なにかすごく見ごたえがあった2作品。すごい贅沢をさせていただいたような・・・。私にとっては演劇というものなんたるかを感じるためのとても素敵なトリガーにもなったような気もするし・・・。

ほんと、観にいってよかったです

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「偶然の音楽」繋がれる重荷と軽すぎる自由

9月19日、世田谷パブリックシアターにて「偶然の音楽」を観ました。柴田元幸翻訳を元に白井晃が台本・演出した作品、再演だそうです。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意の上お読みください)

導入部分の演出がまず目を引きます。人が歩く姿に空間と時間の流れが次第にフォーカスが整うように現出し、主人公、ジムの背景が浮かび上がってくる。消防士であること、妻との離婚や姉に預けた子供のこと、そして音信不通の父の死と、姉と半分ずつの残された遺産。それでも1年以上遊んで暮らせるような金額・・・。

遺産はジムを日々の生活から解き放ちます。新車を買って、偶然昔の恋人に出会って・・・。解き放たれているがゆえに出会い、その恋人に去られて・・・。錨を忘れた舟のようにただよいながらお金が消費されていく・・・。そして遺産が底を尽きかけた時に、一人の若者、ジャックと出会うのです。彼はポーカーの天才で、大金持ちになった兄弟と勝負をして儲けたいという・・・。しかしその元手を奪い取られ道端に倒れているところを主人公に拾われて・・・。

大金持ちの存在は暗示的です。日々の生活のなかで買い続けたロトで史上最大の賞金を当てて、さらにそのお金を増やし続けているという・・・。彼らが見せる街の模型が象徴的です。詳細な町の姿をひとつずつ何年もかけて作っているという・・・。そのミニチュアの街を作ることに人生をかけている。

最初は勝っていた勝負も、ジムが席をはずして箱庭を眺めているうちに流れがかわり・・・・。大金持ちとの勝負に負けて持ち金をすべて使い果たした彼らは、車を取られ借金までかかえることになります・・・。そして、その借金の返済の代償に大金持ちの館の一角に石の壁を築くことを命じられます。

ひとつ数十キロもある意思を運んで積んで、600m十段の壁を築く作業を二人きりで行うことになるのです・・・。時給が定められ、その時給で借金が弁済されていく・・・。

石積みが始まるまでは、世田谷パブリックシアターの舞台の奥行きを利用して(しかも客席の何列かをつぶして)深さをもった空間で物語が描かれていきます。空間の密度にある種の見晴しと希薄さがあって、主人公の行き場のなさが浮き立ちます。ジム役の仲村トオルはしっかりとコントロールされた演技でその空気の薄さに苛立ちながら崩れて行く姿を実直に演じていくのです。その空間に溺れていく姿となじみきれない異質さのようなものが同時に彼から伝わってくる・・・。一方パートナーとなったジャックを演じた田中圭からは広い空間の潮流にただようすべを知る才のようなものを感じる・・・。

舞台の後方が闇に閉ざされ閉じ込められた空間で石積みの日々が始まります。壁が作り上げられていく段階で共通の目標を得て共通のよりどころになっていくふたり、広い空間を漂うのではなく、何かに繋がれて約束が守られていく時間・・・。その境遇に怒り、互いを責めても、繋がれた状態で生きていくしかない・・・。彼らと一緒にいる見張りの男は銃をもっているのです。

やがて、当初の期間が終わり借金を返済したと信じた時、実は食事代や完済パーティに呼んだ娼婦の費用がなどが差し引かれていたり・・・。そこで若者は逃げ出すことを選択し、主人公はその場にのこって追加されたような借金を弁済する道を選びます。再び広い空間の時間の流れに乗ろうとする若者と、その時間に漂うことを拒否した主人公・・・。若者は翌日死に至るような暴行を受けて壁の上に戻され・・・、そして病院に運ばれて安否がわからなくなります。自らの借金返済期間を延ばしてまでも娼婦を呼んで、若者の安否を確認しようとする。娼婦は連絡をすると約束をする。でも守られるとは限らない・・・。。「あなたは約束をする。でも守られるとは限らない・・・。」それは別れた恋人がジムに残した言葉・・・。

彼はさらにひとりで石を積み始めます。孤独に苛まれ、むしろ石を積むことだけが彼を支えているよう・・・。季節は夏を過ぎ、秋を越えやがて冬にいたる・・。気がつけば、監視の男はもはや銃をもたず、甥を呼び寄せたり逃走に使われるかもしれないジープを使うように提案したり・・・。むしろ仲間に近くなっていきます。

そして、借金が本当に完済されて、彼をつないでいた鎖が外れた日、主人公は監視人達とともに街にでる。帰り道、再び解き放たれた彼は・・・。

答えは観客にゆだねられるのです。

率直な感想・・・。よくできた芝居だとは思います。空間の活かし方や人や石を使った時間の表現には洗練を感じるし、心に残るセリフが本当に効果的に使われている・・・。前半のジムの虚無感のようなものが沁みいるように伝わってくるし、ジャックの持つ表層の薄っぺらさといらだちの感覚もその向こう側に背負っているであろう影とともに厚みを持って伝わってきます。あざとさのない伏線が役者たちの演技のなかで着実に機能していくし、支える助演の役者たちの演技も溜息がでるほど安定している。

ただ、惜しまれるのは、仲村トオルの演技の自らを表現する部分と相手の演技を受ける部分にかなりのギャプがあること。すべての部分ではないのですが、ジャックに白のスーツをしつらえるところや、最初に娼婦とジャックと3人になったところなど、何箇所かで演技のベクトルが消えて、共演者の芝居が宙にいるように感じました。しっかりと安定した感情表現が随所で観客を引き寄せているだけに、逆になにか目立つのですよ・・・。十分にスタンダードを満たしてはいるのだろうけれど、この部分がふさがれると、さらにクオリティの高いお芝居になっていくのだと思います。

他の出演者は、三上市朗、大森博、小宮孝泰、櫻井章喜、初音映莉子、岡寛恵。それぞれに手練の演技をみせていました。特に三上市朗のキャラクターがもつ達観したような感じはとても印象に残ったし、岡寛恵がジムから離れていく時の演技には強い説得力があって心にのこりました。また田中圭には役者としての天性のものを強く感じたことでした。

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終演後トークショーがありました。観客の質問票にこたえるという形での最初の部分も、参加した仲村さん・田中さんに加えて演出の白井さんの個性がにじみ出ていておもしろかったのですが、当日観客として劇場にいた翻訳の柴田元幸氏がトークに参加して興味が一気に増しました。一つの作品を小説の訳で表現する柴田氏と、演劇に移植して舞台空間に具現化しようとする白井さん、さらには自らが演じることでその世界の内側に身をおく仲村さんと田中さん。それぞれの視座から語られる作品の重なる感覚と異なる感覚の差異に、作品の持つ普遍性とそれを浮かび上がらせる原作の力が浮かんできて・・・。30分の予定が45分に伸びた白熱のトークショー、伸びた時間をさらに超えるだけの内容がありました。

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空間ゼリーLABO「月なみなはなし」ダイレクトにやってくる役者の演技

9月14日、桜台「再夢来」にて空間ゼリーLABO公演、「月なみなはなし」を観てまいりました。

作:黒澤世莉。このお芝居自体は「時間堂」にて初演され、その後時間堂で再演されたほかいくつかの劇団で上演されているとのこと・・・。

今回は空間ぜりーなどの演出を手がける深寅芥が主催するワークショップ生の自主公演として上演されました。

(ここからはネタバレがあります。十分にご留意ください)

会場に入ると、舞台の中央ではキーボードを弾く女性、練習のような感じで奏でられるちょっとだけ拙いところのある音楽が会場の空気をやわらかくふるわせます。音楽が流れていると、それだけでなにかリラックスできる・・・

やがて出演者が登場して、くじ引きであたりを引き当てた人が話をするような趣向があって・・・。会場と客席の距離感がさらになくなったところで役者たちが自らの名前と役名を告げて・・・・。ちょっとチェルフィッチュを思わせるような雰囲気で舞台が始まります。

物語は近未来、月への移住を希望する人々の話。最初は移民試験に落選したグループの残念会だったはずが、移民局のような組織から、一人だけ欠員がでたのでグループで一人だけ移民をする代表を選出するように言われて・・・。代表を選ぶ作業を中心に話が進んでいきます。

戯曲はシンプルでわかりやすく、なおかつしたたかです。代表の選考方法をめぐるせめぎ合いから削除法で人を絞っていく過程まで、時間の制約と暗黙のルールに支配されながらグループの作業が進んでいきます。ひとりずつ選考から排除していくというやりかたや、その過程すら実は月移民を選定するひとつのテストだという意識をその場に支配させることで、物語は不必要にとり散らかることなく、抑制された登場人物個々の性格や思いが、まるでカードを一枚ずつめくるようにあからさまにしていくのです。さらにはグループと直接関係しない女性がひとり討議にはいっていることや、討議から抜けたグループメンバーの恋人の存在などが、グループ全体の連帯感、カップルのそれぞれの思いなどを一層浮かび上がらせていく・・・。厳然としたグループ内のルールと個々の事情や思いが絡み合いながら、物語全体が熱を含み広がっていきます。

演出の深寅芥は、タフな舞台を設えてこの物語を紡いでいきます。パーティルームのような空間に折りたたみ椅子などを並べた客席、客電が完全に落ちるわけではなく、舞台が特別に照らされるわけではなく・・・。けれんも、隠されるものもない舞台で、刻まれていく時間の緊迫感や登場人物の月への想いが生のまま客席にまで伝わってきます。喫煙所の会話がメインの場所に聞こえにくいということくらいが演劇的なお約束で、それ以外は役者がそのままなにも足さずなにも引かずに観客に晒される・・・。もちろんこのことには功罪があって、日ごろ、照明や音響で満たされた舞台に慣れている観客にとっては、舞台上の観る方向を一瞬探してしまったり、役者の表現が重なり合う時のざらざら感のようなものをより強く感じたり・・・。しかし、役者の演技が真摯であれば、その真摯さもダイレクトに伝わってくるのです。

役者の演技には見ごたえがありました。狂言回しというわけでもでもないのですが、物語を前に進めていく役割を演じた大川智弘には空間をゆったりと取り込むような存在感があって、彼が作るペースが舞台のトーンを作り維持していたように思います。彼が表現する登場人物の想いはゆっくりはっきりと伝わってきて、観客側で大きく広がるような印象がありました。彼の表現する実直さはボディブローのように効いてくるのです。彼のパートナーを演じる西田愛李も実によかったです。前回「IdoIwant」のときにも表面的な表現と異なる芯の強さの表現に目を奪われたのですが、今回はその芯の強さにある種の繊細さが加わっていて・・・。彼女の演じるキャラクターの表面に芯の想いがゆっくりと染み出すように現れる部分にはぞくっとするほど引込まれたし、物語の最後近くに表れる、パートナーとともにその場所を離れたいという想いに強い実存感を感じることができました。

西田とともに「IdoIwant」の出演組の北川裕子には今回も強い集中力を感じました。舞台上に安定した居場所を与えられていない難しい役柄でしたが、そのグループに入り込んでいく力加減が絶妙で・・・。高いコンセントレーションで彼女自身の存在を微妙に出し入れして、次第に物語に溶け込んでいく。物語の中で一番違和感を与えかねない役回りを落ち着いて演じきっていました。また、物語の中心が本人以外にあるときにも彼女はしっかりと演技をしている・・・。これは以前の舞台でも感心したのですが、彼女が舞台上にいることで、舞台の空気の密度が繊細にコントロールされている印象もありました。

川嵜美栄子には演技の切れがありました。表層的な部分が大きい彼女のキャラクターは一つ間違えれば混濁した印象になってしまうと思うのですが、想いの深度が場面ごとにコントロールされていて、場面ごとの彼女の色をベタにならずに感じることができました。しいて言えば、ほんの少しだけ演技が走るように感じる部分が彼女にはもあるのですが、それも勢いといえないこともないレベルだったように思います。勢いという意味では、鈴木智博にも勢いがありました。トップギアに入った時に若干芝居が乱れはするのですが、キャラクターが持つある種の身勝手さのようなものがとてもよく表現されていたと思います。

早坂真純の演技には抜群のセンスを感じました。まっすぐに伝わってくる想いには質量と透明感があって、観る者を直球で彼女の世界に染めてしまう。台詞の間のようなものがものすごくよいのです。誰かと会話をしているときも、全員に語りかけているときにも、台詞がエッジの効いたタイミングでびしっと受け渡されている。彼女からやってくる想いには、観客の感覚を客観から主観に変えるような力もあって・・・。また、北川同様、物語の中心が彼女を外れても集中が途切れていない・・・。今回初見なのですが、彼女の演技はぜひまた見たいと感じました。

半田周平の演技には熟達したしなやかさを感じました。特にすこしずつあらわれてくるキャラクターの強引さのような部分。磨かれた金属のような硬度となめらかさと冷たさがあって、何かを凌駕するような強さがある。その質感のクオリティが、彼をして最後に選ばれる必然性を感じさせ、同時に観客に物語の結末を納得させる力ともなっていきます。芯にパワーを充填させたような演技、彼が選ばれた時の台詞に含まれた高揚感にはぞくっとしました。大谷由梨佳も好演、前半の葛藤する想いの表現には絹のような柔らかさがあって、でも揺らぐ気持ちに半田の演技をやわらかく包み込むだけの包容力が加わっていて・・・。この物語の後味に大きなふくよかさをもたらすことになりました。

大塚秀記は短い出番でしたが、そのインパクトには今回も瞠目させられました。移民局の職員という役柄でしたが、事務的な所作に鋭い刃のような冷徹さが込められていて・・・。メンバーに結果をはっきりと伝えるメッセージには問答無用の切れがあって、その一瞬に他の登場人物の存在が舞台からホワイトアウトしてしまうほど・・・。そのあとの少し長めの舞台の沈黙にリアリティを持たせるには、きっとこれほどの切れが必要なのです。正直、他の役者たちがその切れを十分に受けきれていない部分もあったほど・・・。そのあとの半田周平とのやりとりにも本当に迫力があって息をつめて見入ってしまいました。

この舞台、単なる試みというレベルをはるかに越えていて、他の上演を観てはいないから比較のしようはないのですが、この場所だから表現できたものがきっとあったのだとも思います。

芝居が終わると、バーカウンターの営業が始まって・・・。

演出の深寅芥さんが会場にふれまわっていた「ここのビールはおいしい」という言葉を信じて、生ビールをいただいたのですが、これが本当においしいのですよ・・。お世辞抜きにここしばらくこんなにおいしいビールをのんだことがなかったかも・・・。

ほんの少しの酔い、戯曲が示唆した「月に行きたい」という想いに含まれるメッセージにふっと今の自分の重なって・・・。月に移民する登場人物に思いをはせて、月にいけなかったものが授かったものにもふっと心を奪われて・・・。

良い芝居を観た後の充実感がさらにそのあとからやってきたことでした。

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浮世絵ベルギーロイヤルコレクション展

太田記念美術館は、今月が特別展、ベルギー王立歴史博物館とベルギー王立図書館からの浮世絵の逸品が大量に展示されるとのことで観てまいりました。まあ、太田美術館ですから、良いものだけお茶漬けさらさらで観てこようおもっていたら、とんでもない・・・・。そもそも、ベルギーの両施設だけで7500点ちかい浮世絵が非常によい状態で保存されているそうで・・・、その中のよりすぐりがたっぷり展示されていて・・・。流せるような作品がひとつもない・・・。それどころか足が棒になってもその場から離れられないような作品がいくつもありました。

まあ、ちょっと目の付けどころがおかしいのではといわれるかもしれませんが、とりあえずその中でも特に足を釘つけにされた作品をいくつかご紹介・・・。

・東洲斎写楽「初代谷村寅蔵の鷲塚八平治

写楽の役者絵(大首絵)がならんでいてそれは圧巻、歌舞伎にはうとい私ですが、一枚ずつの絵から湧き出してくる役者たちの人間描写の力のようなものにはやっぱり惹かれます。

決めの表情に、どこか人間味があって観る者をそらさない・・・。「ああ、この役者は舞台の上でもこんな魅力があったのだろうな」と思わせる・・・。写楽の恐ろしいほどの描写力は、人を圧倒するのではなく、そのまま絵の世界に誘い込んでいくのです。芝居の中ではそれほど大きな役でも人気があったわけではない敵役の絵姿なのだそうですが、でも、一種のペーソスがしみこんできてずっと眺めてしまう。端役といわれても板の上での豊かな表現力に間違いがない・・・、そういう役者の姿が浮かんでくるのです

・東洲斎写楽「初代中島和田衛門のぼうだら長左衛門と初代中村此蔵の船宿かな川やの権」

2人の役者が描かれた作品。吉原へ遊女を買いに行く長左衛門を船宿の権が案内するシーンとのことですが、大きく描かれた二人の人物のコントラストの見事のなこと・・・。陰と陽というか・・・。どこか生真面目で神経質な感じもする長左衛門の着物の色が微妙に浮くような枯れた表情も見事なら、案内をする権のどこかに含みを持った腰の低さ・・・。一枚の絵の中に、舞台のシーンの一瞬の色が鮮やかに浮かび上がっている・・・。qば、名人上手がここ一番の見せ場を描くものかとおもうとそうではない・・・。写楽は役者の姿をを通してその舞台の空気をしっかりと写し取っているような・・・。

この絵に関していえば、最初は権が古田新太さんに似ているなというくらいに眺めていたのですが、描かれた二人の対比を見れば見るほど絵の中の時間に取り込まれてしまう・・・。役柄の身分の上下と心の座り方の優劣の面白さが、まるで舞台を見ているように伝わってくる・・・。

上記2点以外にも写楽の役者絵は数がけっこうあるのですが、一つずつに役者が演じている世界が実に鮮やかで・・・。本当に見ごたえがありました。

・喜多川歌麿「高島おひさ」「富本豊ひな」「当時三美人」

江戸時代と今の美人という感覚は若干違うのでしょうけれど、少なくとも内側に凛としたものをもった女性には時代に関係ない美しさがあるわけで・・・。歌麿の描く女性の美しさにはどこかに内面のしっかりとした心意気のようなものを感じます。

「高島おひさ」は両国の水茶屋の看板娘、当時まだ10代だったといいますが、その若さが表情にしっかりと現れています。幼さではなく若さ・・・。ちょっと勝気な世間知らずさというか放埓さが魅力にとして、画面からにじみ出るような感じ・・。歌麿の筆が映したのは、彼女の容姿だけではない。彼女のしぐさからあふれるビビッドな雰囲気が強くやわらかく観る者を魅了するのです。

「富本豊ひな」は年齢的には「高島おひさ」より若干上らしく、やや艶を感じます。落ち着きの中に若さが潜んでいる感じ・・・。芯の強さも感じます。細い眼、小さな口、平面的とも思える描き方なのに、そこに血がしっかりと通っている感じガする不思議さ・・・。絵の前に立ち尽くす時間と彼女が存在する時間が解けるように重なって、どうしようもなく見入ってしまいました。

「当時三美人」は上記のふたりに難波屋きたを加えた3人の絵姿・・・。そこには一人ずつの世界がしっかりと描かれていると同時に、その3人が並び立つことによって生まれる美のしたたかさのようなものがあります。キャンディーズの3人が一つの歌を歌う時の迫力のようなもの・・・。それぞれのメンバーの魅力を離れたなにかがそこに存在するのです。清らかな艶やかさが混じり合ってある種のなまめかしさが生まれるような・・・。溜息がでるような豊潤さがあって・・

そりゃね、男のスケベ心の現れなんていわれたらその通りかもしれません。でもスケベ心だけじゃ、江戸時代のなまめかしさに取り込まれることがあっても絵に恋慕なんてできません。そこにあるある種の色に心が浸潤されるから、その場を離れがたくなるのです。この美女3人の絵には単純に美女が3人並んだというだけでなくむこうからやってくるような何かがあって・・、歌麿の筆力に立体的な常ならぬふくらみを感じたことでした。

・鈴木春信「漢詩を作る若者」「座舗八景 鏡台の秋月」

春信の描く人物の人間臭さからはいろんな物語が見えて・・観る者を魅了します。「漢詩を作る若者」は子供に硯を持たせて、ちょっと唯我独尊で気取って漢詩の創作たしなむ・・。揶揄するというわけではないのですが、その「気取り」と本人のまじめさみたいなもの、さらには子供の表情がとてもユーモラスに思えます。まるで、時間のここぞという瞬間をスライスしたような・・・。その時間のなんともいえない安息と豊かさが観ていてなんともいえず心地よくて・・・。

一方「鏡台の秋月」は時間をやや厚めに切り取った感じ。髪を結いあげている女性の時間に満月に見立てた鏡と窓の外のススキにすきとおった秋の空気が感じられて・。描かれてもいない虫の声が聞こえてくるような気さえする・・。淡々と髪を結っている姿に、なぜかある種の静寂の音を感じてしまう。

日々の暮らしの中のちょっとしたテイストが、なにかいとおしく感じられるような作品たち・・・。描かれている背景や人物の何気ないしぐさとか表情にいろんなテイストの香りが感じられて、いくら見ても飽きがこない作品がたくさんありました。

・葛飾北斎「鳥羽絵集 くつろぐ中間・転ぶ駕籠かき」

葛飾北斎というと、やっぱり富士山という印象が強いのですが、彼の作品って本当に多岐にわたること・・・・。画集を見たりあちらこちらの美術展に行くたびにびっくりさせられます。

化け物の意匠の個性的なこと、若いころの緻密な画風、もちろん風景画の世界のすばらしさ・・・、かと思えば北斎漫画のような世界ももっている・・・。

鳥羽絵というのは、日常生活に題材をとっておもしろおかしく表現したものだそうですが、これがすごく魅力的なのですよ。

くつろぐ中間というタイトルがついた作品には緩やかな時間があって、中間のあくびが持て余した時間のどうしようもなさが絵を観た人間にも伝染するような感じで・・・。脱力系というかリラックスの極みのような絵のなかに、自分の絵の会の看板を立て懸けることで闊達にいかないことへの自嘲がすごくよいスパイスになっていて・・・。ほんの少しだけ中間としての緊張感を保ちつつ9割5分は力を抜いている力加減に惹かれてしまう・・・。

転ぶ駕籠かきにしても、あっと声がでるような場面なのですが妙に緊迫感がない・・・。そこはかとないユーモアがあって、中に乗っている武士が背中から転げ出ようとしているのですが、そこに本来あるべきシリアスさがない・・・。絵の中の登場人物もさることながらその外側に漂う時間に、ここちよいけれどちょっと持て余すような、許容範囲の徳俵で悠然としているゆとりのようなものを感じるのです。

赤富士の雄大さも繊細な筆使いの芝居小屋の風景も、すべて葛飾北斎の懐の大きさのなせる技・・・。たとえば、古今亭志ん生の落語をCDなどで聞くと、師匠自身がもつ懐の深さから噺が湧き上がってくるような感じがあるじゃないですか・・。それと同じような深さが北斎の鳥羽絵集の作品群には隠し味になっているような・・・。

べたな言い方ですけれど、この絵は良いです。ほんと、ふっと肩のこりがとろけていくような温かさがありました。

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しかし、よくここまでというくらい粒のそろった展示でした。素人が観てもわかる保存状態のよさも魅力。緑とかの色がすごくきれいだったりあずき色のような赤にすごく気品があったりしてして・・・。上記以外でも一筆斎文調や鳥居清長、歌川国芳など、見ごたえ十分の作品群、前期は15日までだそうですけれど、そのあと、ほとんどの作品を入れ替えての後期の展示もあるそうな。これはいかずばなるまいて・・・。

ちなみに、今回の展示は、太田記念美術館での会期が終わった後は、来年初頭には京都に回り、ゴールデンウィークになると今度はお江戸日本橋高島屋に戻ってくるそうです。きっとリピーターの多い展示会になるのではと・・・。

とりあえず、お勧めも兼ねて・・・。

R-Club Annex

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8月の思い出・・・、サンプル「家族の肖像」・G-up「ペガモ星人の襲来」などなど

9月に入ってバタバタして遅れに遅れてしまいましたが、8月に観て記録を残せなかった舞台などの鑑賞の記録をあれこれと・・・

8月の話ですから、公演はすでに終わったものばかりですが、そうは言ってもネタバレがまずいとお感じになることもあるかと思います。ご承知おきいただいた上で読み進んでいただいきますようお願いいたします。

・サンプル「家族の肖像」

個人的にはギリで取った夏休み、8月29日アトリエヘリコプターにてサンプル「家族の肖像」を観ました。結構荒れた天候だったのですが、五反田駅を降りた時には、まるで劇場に誘い込むように雨が小降りになっていて・・・。

こういうときには、良いものを観ることができる確率が高い・・・。

あたりでございました。

噂は聞いていたのですが、それでも劇場のある2Fに上がった時には驚きました。なんというか劇場の入口に舞台が見えていて、座席がみえない・・・。で、おまけにスタッフの方が舞台の中で手招きをしてくださっている・・・。、舞台に階段がついていてそこから2階の客席に上がるなんて想像もしていませんでした。

で、舞台が始まると最初はいろんな残像を見せられている感じ。感覚の記憶のようなものが唐突だったり具体的だったりしながら重ねられていく・・・。感覚の表現もバリエーションが豊かで・・・。極めて個人の時間のカナでゴロゴロしながら交わされるコミュニケーションがあったり、お店の従業員の夕礼で重ねられる表現であったり・・・。

登場人物たちのひとつずつの行為は、デフォルメされていたり、ピカソの絵を見るように表側の表情と内面で思う気持ちが同一の言葉として表現されたり・・・。

で、それらが不規則に観客の足元というか見下ろした先に積み重なっていくのですが、気がつけば当初違和感を感じた足の下に広がる空気のようなものが、しだいに当り前の時間にかわっていく。一人ずつのプライバシーを俯瞰するとそれぞれに特異なのに、全体の時間はけっこう平凡に流れていることについての微妙な違和感・・・。雑然ととり散らかった足もとの世界に満ちた、家族や社会生活に削れらた様々な澱のようなものが時間を追うごとに舞台からせりあがってきて・・・。

その感覚の絶妙な粘度がふっと自分の呼吸している空気に重なってどきっとしたりする・・・。

たまたま、外は雷雨。雨音や雷鳴が舞台を一層生々しくしたりというようなおまけもついて、その見ごたえにじわっと浸りきった事でした。

役者では、羽場美奈子の元教師役がまず目につきました。その実存感にやられました。西田麻耶の存在感にも目を奪われ、辻美奈子の語学教師の本音がレッスンと同じように語られる切れの良さに愕然として・・・。役者の演技の質がすごく高いからこそ、作りえた空気の濃密さに心を奪われたことでした。

その他、古舘寛治、成田亜佑美、岡部たかし、古谷隆太、野津あおい、、村上聡一、木引優子、中川鳶、江原大介が出演。

作・演出は松井周

客席の形状だけではなく、舞台のコンテンツの感触、いまでも肌にまとわりつくように残っています。秀作だと思います。

・G-up プロデュース 「ペガモ星人の襲来」

後藤ひろひと がPiperで活躍する前の戯曲を(遊気舎のころの作品)、関秀人が思いっきり豪華な役者で再演した作品。

役名に色々とでているのは、いわば物語の本筋からすこし離れた位置にいる役者さんたち。劇団で芝居をやっていたときに、出演者を増やすために作った役なのかもしれません。でも、後藤ひろひとの戯曲ってそういうところに妙に力を入れる傾向があって、しかもその部分をびっくりするような役者たちが演じるものだから、なにか突き抜けたようにおもしろい。柿丸美智恵、黒岩三佳、森下亮、岩倉チヒロ・・・、主役を張ってもおかしくない力をもった役者さん達が傍系の飾りのような部分をしっかりと演じている・・・。それは、名人が前座落語をやるみたいなもの・・・。でも、だからこそ、もう一味が芝居に加わっていくような。そのひとあじって芝居全体の印象にとって意外と大きいのです。

一方で物語の中心を歩く側も着々とポイントを重ねていく感じ。後藤ひろひと の脚本も、近年の彼のが創作しているものに比べると枝葉が若干少ない感じで、その分、役者がまっすぐな演技で勝負ができているような・・・。そして、その分役者の資質や個性がしっかりと出るような感じがしました。。役者ひとりずつの表現力が生きるような間口の深さが本にあるのです。

瀧川英次後藤飛鳥といったところが本当によいのですよ。役をしっかりと膨らませている・・・。久しぶりに観た有川マコトもさすがといった感じ。役者の力量分だけちゃんと物語が膨らんでいく・・・。後藤ひろひと の作品で感心することのひとつ、一見しょうもないねたに役者の力を引き出す魔法みたいな感じ。小椋あずき の演技を引き出したり森田祐吏をきちんと見せたり・・・。個人の力が重なり合ってどんどん世界が広がっていく。強い個性が集まっても、それぞれが力を出して、なおかつ重なり合わないような作りができていて・・・。なおかつふっと心を惹かれるようなペーソスと温かさが残っている・・・。

うまいなあと思うのです。

上記のほかにも、吉岡毅志、赤星昇一郎、森啓一郎、岩井秀人、大内厚雄、町田カナなど豪華な役者陣

それらの役者が気持ちよさそうに演じている物語の行く末、最後にまで仕掛けがあってたっぷり楽しませていただきました。

その他の書き残し・・・、クエストホールで見たイッセー尾形・篠原ともえ の二人芝居はアコーディオンやパーカッションの女性が加わって、一座で明るく軽演劇というかんじ。意図したチープさがどこか懐かしく、篠原ともえの歌が素敵に楽しくて・・・。ぬくもりと心地よいゆるさをもったエンターティメント。しかし、ひとつずつの要素が磨かれているから、全体の雰囲気を緩くしても、 観客の集中力をしっかりとひきつけたままバラけずに2時間を引っ張って行ってくれる。ある種癖になる雰囲気をもった公演でした。

その日はクエストホールから都内を駆け抜けて、米朝一門の若手が一同に会した獅子十六の会の夜の部も鑑賞。後半の4席を聴かせていただいて、上方落語のパワーにたっぷりとひたって・・・。でね、上方の大喜利が楽しいんですよ・・・。どこかぶっちゃけたところがあって、でも、決めるところは頑張ってきめているかんじで・・・。ロビーでの面会もないからと最後に写真まで撮らせてくれるサービスぶりにも大感動・・・。この会は継続してほしいですね・・・。そりゃ、円熟した名人上手の芸にも魅力を感じますが、若手の芸にはそういう枯れた芸にはない勢いがある・・・。旬というのはそういう時代なのだと思います

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