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空想組曲「僕らの声の届かない場所」キャンバスに封じ込められた物語の豊潤さ

8月2日、マチネにて空想組曲「僕らの声の届かない場所」を観ました。佐藤佐吉演劇祭2008@王子劇場参加作品。昨年冬の新宿村の市に続いて、ほさかよう氏の世界を十分に堪能することができました

(ここから先にはたっぷりとネタバレがあります。十分留意の上お読みください。)

舞台はキャンパスの上です。正確にいうと外れかけた額縁と少し傾いたキャンパスを模した舞台。絵のアトリエだというその場所を訪れる一人の女性と、そこに待つ一人の男、アトリエのオーナーであるその男は彼女と旧知の仲のよう・・・。オーナーは彼女に見せたいものがあるという・・・。そこから回想のように彼女とアトリエのかかわりが明かされていきます。

アトリエには何人かの若い画家が絵を鍛錬しています。そのなかの一人の画家が主人公、偏屈で人付き合いが悪く、入選して展示された絵を美術館からもって帰ってしまうほど。その絵がまだ未完成だからというのです。彼の描く絵には完成したものがないという・・・・。その彼のいくつもの習作(スケッチ)の世界がモノクロームというか、ドライでなおかつウィットに満ちた表現で観客に伝えられていきます。

そんな中現れた冒頭の女性、アトリエのメンバーの幼馴染なのですが、ただ一人美術館から持ち帰られたその絵が、実際に未完成であることを見抜きます。その絵に潜んでいるのは夜虫、作者の分身。彼はとても醜くて、何度か人に近づいては傷つき、今は光をさえぎって夜の世界で生きている。その夜虫は、彼女の言葉で唯一彼のことを理解してくれる人を見つけるのです。一方彼女は絵を早く完成させてくれることを願います。彼女は病に冒されていて、その視力はもうすぐ失われてしまうのです・・・。

画家は彼女の病気のことを知らずに、夜虫の物語を絵に書き加えていきます。その間に挟まれるいくつものエピソード、才能のないものや自らの才能に飽き足らないものの姿、さらに適度の才能を持ちながらも、完成していく絵からあふれ出す才能に嫉妬する他の画家のすがた。それらが時間軸ともなり、主人公の孤独や画家の才能、さらに絵の完成度への指標ともなって観客に伝わっていきます。

そして、主人公は絵を完成させます。でも、それを見ようとしたとき、彼女の視力は完全に失われて・・・・。

物語の骨格はそれほど斬新なものではありません。物語に挟まれたエピソードだって驚くほどユニークなものではない。たとえば絵画に対する才能のことだって画家の間での嫉妬のことだって、それこそ「コンフィダント」(三谷幸喜の戯曲)などでも語られているような、絵画の世界では多分ありふれた話なのです。しかし、この舞台には、そのありふれたものを観客の心に浸潤させていく魔法が隠されています。舞台に織り込まれた独特の洗練というか、センスのようなものが観客の心を深く揺り動かしていくのです。せりふや動きの一つずつが的確に描いていく登場人物の心情、劇中劇のようなテイストで見せる主人公の画家の感性・・・。絵に潜む夜虫との物語が、自らの視野が闇に閉ざされていく少女へとキャンパスを介して伝わっていく姿は、ピュアでけれんがなく、自然と観客の心を満たし目を潤ませていくのです。

エピローグで冒頭のリプライズに至り、狂言回し役のアトリエのオーナーは、物語を締めくくる長台詞を残して客席側に去っていきます。あとに残るのは舞台のように横たわったキャンパス上で、画家が渡してくれと残していった絵を眺める女性の姿・・・。すべては一枚の絵に収まって・・・。その、一枚の絵の顛末からやってくる透き通った切なさに、ふたたび心が震えてしまうのです。

役者のこと、主役を演じた狩野和馬、そのキャンパス上での分身を演じた松崎史也、いずれも想いやいらだち、とまどいからおびえまでしっかり伝わる演技でした。狩野からは才能をもてるだけの人間くささがしっかりと伝わってきたし、松崎の所作には静かさのなかに強い意志がふくまれていました。いずれも好演だったと想います。加賀丈史を彷彿とするよなアトリエのオーナーを演じた中田顕史郎の台詞からは、「運命」というか「達観」のようなものがしっかりと伝わってきました。また演技そのものも流暢で、舞台を煮詰まらせないような味がありました。アトリエの絵描きたちを演じた齋藤陽介、牧島進一、田口治らも、キャラクターのなかにそれぞれの個性を生かしていました。

藤田美歌子はちょっと不思議な女優さんで、凛とした部分がありながら裏側にある下世話な暮らしが垣間見えるような演技。洗練とチープさの出し入れが自由に出来るというか、演技のユーティリティに広さを感じました。石澤美和にはキャラクターをキープするための柔軟さがあって、上手くいえないのですが、表面だけを見せるような演技と内側までを晒すようなお芝居がその場に応じて使い分けられている感じ・・・。柴村朋子は絶妙な存在感で場の雰囲気を何気にコントロールしていました。コーヒーなどを持って舞台に加わっていくなかで、その場の空気を作るような役回り・・・。ほんとうに上手く機能していて、ドラマにリズムを与えていたと思います。

牛水里美は、やや抑えた演技のなかで、キャラクターの持つ心をきめ細かく表現して見せました。彼女にはいろんな想いをすっと一つの台詞や所作に籠めるような力があって、想いの比率の変化で舞台上の色合いを微妙に変えていきます。観客にはまず彼女が作り出した色がやってきて、通り過ぎた瞬間にその色が透明感をもったテイストに変化していく。過去にも体験したことがあるにも関わらず、その表現の豊かさに驚き、次の瞬間には引き込まれてしまいました。たとえば夜虫の戸惑いが彼女と一つのキャンバスに重なる時間のなんて豊潤なこと・・・。そして、完成した絵を手に取ったとき、それを見つめることができない彼女から溢れる色の強さ・・・。重ねられていくシーンのなかで、稀有な力を持つというか、常ならぬ魅力を持った女優さんであることを再認識させられたことでした。

お芝居が終わって、もういちどキャンパスと額縁を模した舞台を眺めて・・・・。ほさかようが用意した物語の舞台に改めて瞠目しました。所詮はキャンバスの上での物語・・・・、でもキャンバスの上に描かれた世界だからこそ、眺めることができ、受け取ることができ、心惹かれるものもあるのです。美術館などにいって、たまにその絵の前から離れられなくなることがある・・・。ちょうど、そのときの感覚と同じ感覚を、ほさかようはこの舞台に閉じ込めたのです。

劇場の外には、まだむっとするような暑さが日差しが残っていて、めまいがするような日差しが肌を射す・・・。でもその感覚よりも強い印象がずっと心の中に留まっていたことでした。

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