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寺山修司を極上エンターティメントに・・・「狂人教育」

5月5日のこどもの日、新宿で寺山修司作の「狂人教育」を観ました。演出は劇団鹿殺しの丸尾丸一郎。OSAKAテラヤマ博’07-’08(新宿公演)の演目としてSpace雑遊での公演です。

「狂人教育」は初演が1962年、元々は人形劇の台本だったそう・・・・。これまでにも、さまざまな劇団やユニットで演じられてきた伝説の作品とのことですが、私ははじめてみる作品でした。

いやぁ・・・、ひっくりするほど面白かった。座席が多少辛くても関係なし。寺山演劇のティストを失うことなく、洗練の中に血のかよった極上のエンターティメント、堪能させていただきました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意をいただきますようお願いいたします)

間口の広い戯曲だと思います。登場人物の象徴性、キャラクター達の設定に秘められた意図、装置や小道具一つずつにも示唆を感じる舞台・・・。さらに外側に人形遣いの設定までが感じられる台本。

蝋燭の火とともに物語全体を暗示するような歌と共に入場してくる役者達、ひとりずつ声が重なって、そこに家族が現れます。

ある意味どろどろした不気味な家族なのですよ。体に小児麻痺のハンデを持った主人公、クロアゲハを部屋に閉じ込めて番をしている兄、遊び好きな姉、どもりでクラシック音楽好きな父、尊大で家長としてのプライドを忘れない祖父、猫好きでありながら意にそまない紙の猫の首を切ってしまう祖母。それらのキャラクターは家族という束でくくられてはいても、本来はそれぞれ異なるキャラクター・・・。お互いに愛憎があり一定の距離感を持って、なおかつ食事などでは統一した行動をとるユニット・・・。役者達はそれぞれのキャラクタを際立たせるように、無駄のない演技を重ねていきます。

舞台の装置も比較的シンプル、しかし背景にある大きな眼の装置は象徴的です。何かがあると半分目を閉じようとしたりする・・・。わが道を行くようなキャラクター設定の家族が実は常に視線を意識して生活を続けている・・・。

さて、あるとき、法医学ドクターから家族の中にひとりだけ「きちがい」がいると告げられたことから物語が動き出します。その家にきちがいがいることは許されないと祖父は言います。そんな人は斧で首を落として棺桶にいれて裏のブドウ畑に埋めてしまうのだと・・・・。すると、それぞれが、他の目を意識するようになる。それまで意識していなかった他人への愛憎を明確に意識するようになります。

やがて、混乱を恐れた祖父は、「きちがい」を投票で決めると言い出す・・・。すると主人公以外の5人はそろって同じ行動を取り始める。全員が眼鏡をし同じ動作をする。そして一人だけ異なる行動をする主人公を、投票という形式で糾弾しクロアゲハを逃がしたり他の行動を嘘と糾弾した主人公の首をはねてしまうのです。

そして、最後に目の装置が倒され、舞台が何事もなかったように掃き清められて・・・幕。

舞台からは本当にいろいろなものが伝わってきます。それは戯曲からあふれ出てくるスープのよう・・・、さらっとしているけれど豊潤なのです。それを表現する役者もよく鍛えられている・・・。黒い網で蝶を捕る兄の動作にも瞠目したし、姉が表現するチープなパッションもよかった。また、食事のときの歌の迫力、しっかりとした調和が見事に築かれていた・・・。一人ひとりの歌唱にも不安定さがなく、踊りもきちんと機能していて。しかも主人公が持つ嘘を見抜く視点がしっかりとしているから、象徴化されるさまざまな概念に揺らぎがなく、難解さや作られた雰囲気へのもたれ感のようなものが一切ない・・・。無駄な脂肪がなく、物語に筋肉質なテンポを感じることができる。

そのテンポというかスピード感が、戯曲につもった年月の塵を吹き払い、人形となった役者たちに血を通わせ、まるで、ボードビルショーの一シーンを楽しむような感覚を観客に与えてくれます。丸尾丸一郎のユニークであっても奇を衒わないシンプルなモダンさと、無駄を排してお楽しみを減じない卓越した演出センスが光ります。

一方で丸尾丸一郎はお楽しみが観客の目をふさぐことはないように細やかな注意を払ってもいます。戯曲の言葉を大切にしていて、それらがボディーブローのように観客に利いてくる。だから、幕が下りて、小雨の降る街を歩いているうちに、今という時代のなかでも首を落とされたて埋められた少女の話が、少しも陳腐化していないことに思い当たるのです。チベットがどうのとかクルド難民がどうかというように大上段に構えるような話を思い浮かべるまでもなく、寺山修司が物語に籠めた真理に思い当たる嘘がぽつりぽつりと心をよぎる・・・。口当たりのよいテイストのなかにも、寺山戯曲がもつ真理とその苦味はきちんと残してあるのです。そのあたりにも、丸尾丸一郎の戯曲を読み解くセンスを感じます。

役者のこと、鹿殺しの三人は本当に鍛えられているなと感じました。演技が安定していて観客をしっかりと受け止める体力があって・・。坂本けこ美の演技には役柄が本来持つ不自由さに加えてちゃんと心の自由さが表現されていて、それがこの物語の根幹を支えていました。演技の柔軟さみたいなものもあって・・・、実はユーティリティにもすぐれた女優さんなのかもしれません。橘輝からはある種の一途さと純粋さ、そしてずるさの隠し味が調和して伝わってきました。傳田うには小さな仕草や表情から淫蕩感をかもし出すことに成功していました。ステレオタイプな演技のようで、細かい部分に彼女ならではのメリハリがついていて彼女が表現するマユという役柄がしっかりと成立していたように思います。

パパ役の馬場恒行もキャラクターをしっかりと作り上げていました。線の細さとクラシックに陶酔するときの心の広がりが実に秀逸。祖母の関根信一は演技にゆとりがあって。祖母という役柄のリズムがうまくコントロール出来ていました。紙の猫をはさみで切る部分とスープを配る部分の雰囲気がまったく違うにもかかわらず、きちんと両方を包括するキャラクターを演じている・・・。老婆の雰囲気も十分にあってなんというか芝居に懐の深さを感じたことでした。政岡康志演じる祖父の威厳や嘘も良かったです。大きく演技をしておいて、ふっと裏側を見せるような旨さがあって。

劇場の微妙な閉塞感や、スタッフのちょっと不慣れな感じすら雰囲気作り的にプラスへと働くほど、寺山演劇のテイストを失うことなく今の演劇をしっかりと織り込んだ秀作だったと思います。

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