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逃げない鴻上だから描けるもの「グローブ・ジャングル」虚構の劇団

5月15日ソワレで虚構の劇団旗揚げ公演、グローブジャングルを観ました。第三舞台の旗揚げのような平均年齢21.X歳の役者に鴻上尚史作・演出。第三舞台後の鴻上作品とは一味違った、秀逸な作品と舞台でひさしぶりにめぐり合うことができました。また、細川展裕氏がプロデューサーとしてクレジットに名を連ねています。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

この作品、ある意味、鴻上自身の再生のようにも思えます。現実の片端を理想のベールで覆って、絶望のさらに先にあるものへの冷徹さを隠したり、ごまかしたような印象が強かった一時期(結構長かった)の作風が影を潜め、現実を冷徹に見つめ向き合う姿勢が前面に出ていたような・・・。結果、鴻上の様々な演劇的テクニックが呪縛から開放され、舞台に瑞々しい感動が戻ってきたように思います。

気になるというか、ちょっと今様でない部分はたくさんあります。笑いの感覚についてはさておいても、たとえば、最近の秀逸な芝居たちにくらべて、肌理が粗い感じは否めない。様々な痛みを表すとき、鴻上は構造を語って痛みを定義します。そして役者はその定義を持ってステレオタイプに痛みを演じていく・・・。その痛みが生まれるまでの構造を描くスキルは実に見事だし、役者たちも十分に鴻上の描く構造を具現化していくのですが・・・。ただ、その痛みはラベルが貼られて「痛み」と表現される類のもので、わかりやすいといえばわかりやすいのですが、観客は「痛み」という言葉のイメージより奥に入っていけないのです。役者が上手いとか大根だとか言う問題ではなく、キャラクターが痛みを感じる時の心の色や密度の濃淡を観客に伝える構造が戯曲に存在しない。ひりひりと心に張り付いてくるような実感が舞台から伝わってこないのです。だから、舞台の登場人物にどっぷりと引き込まれない。観客は客観的に登場人物の心情を眺めるだけ・・・。昨今、観客が芝居に求める登場人物を描くための画素数と比べると、かなり足りない感じは否めません。キャラクターはある種のシチュエーションにパターン化され役者は記号という範疇の中で演技を強いられているようにさえ見える・・・。

それでも、観客が舞台を追いかける力を失わないのは、記号であれパターン化されたキャラクターであっても、それらが背負い、形成する物語の構造が鴻上の様々な演出のスキルで実に多彩に上手く表現されているから・・・。

平面的な人型の小道具が醸し出すソリッドな感じ、幽霊が死にたいと思う人にしか見えないという設定のうまさ。幽霊を見ることができる登場人物の視点ととそうでない視点で幽霊がからむシーンを2度演じて見せるような遊び心。「桃太郎」がキャラクター達の物語にモディファイされていく時の、ぞくっとくるような巧みさ。キャラクターの画素数がすくなくとも、それをカバーするための物語の創意に満ちた構造がこの舞台にはあるのです。蝋燭の使い方なんかも上手でしたね…。ブログに対する攻撃が世界広がるような感覚が、観客の抑制を凌駕するように伝わってきた…。

桃太郎の劇中劇でのダンスにしてもそうです。その躍動感・・・。役者達が必ずしもダンサーとして優れたパフォーマンスをしているわけではないのですが、そこには一気に物語が膨らんでいく跳躍感が存在する・・・。旅をはじめるときのときめきや昂ぶりのようなものが、舞台から観客の脳髄へしっかりと伝わってくるのです。あるいは物語の狭間から滲み出す、いくつもの心に残るせりふ・・・。それは全盛期の第三舞台から感じたものとおなじ匂いを放ちながら観客を浸潤していきます。

それらのシーンの後ろには、時代に対しての鴻上的醒めた冷徹な視点が存在している。神様のように100%見通しているわけではないかもしれない・・・、でも冷たく熱く、必死で時代に喰らいついていく鴻上の姿を感じることができる。そして、一番大切なこと、これまで私が観た鴻上後期のいくつかの戯曲のように、鴻上は彼が見た現実に対して簡単に「希望」や「べき論」にすりかえて答えを提示していない。想いの説明に逃げていないのです。言い方を変えれば観客が思い心を揺らすべきべき領域に足を踏み入れていない。安易に想いをせりふにたくし言葉にするかわりに、今回の鴻上はがんばり抜いて物語を描いていく。よしんば、ラストの収束にちょっぴり悪い癖がでていたとしても、鴻上が物語から両足を踏み外していないから、観客も自分の視線をそのままに物語の顛末をしっかりと見極め、受け止めることができる・・・。のほほんと与えられた結末を眺めるのではなく、飢えてむさぼるように物語の結末にたどりつくことができるのです。かつて、観客が真から心を揺らした鴻上演劇と同じように・・・。

役者も良かったです。鴻上的メソッドが強く感じられる演技にはある種の硬さも感じましたが、一方で志強く切り込んでくるような感じが観客を魅了しました。鴻上が役者の個性をしっかり生かしていて・・・、彼の役者を育てる才が観客にもしっかりと感じ取れました。

一番印象に残ったのは小沢道成でしょうか。昔「天使は瞳を閉じて」で名優伊藤正宏が演じた役とどこか似た役回りなのですが、しっかりと役の視点を失わず舞台を支えていました。小野川晶も観客に印象を残すことの出来る役者、伸びやかな部分と繊細な部分を並存させる不思議なキャパがありました。大久保綾乃の演技には自在感があります。明るさと影をしっかりと作れていました。動きにもある種の切れがあって目立ちます。高橋奈津季は舞台栄えがするし、感情の出し入れがとても上手。大柄ですが、感情をすっと消したりまっすぐに出したりする・・・、天から与えられたような器用さがありそうです。小名木美里にはパワーを感じました。今回演じている役柄が特にそう感じさせる部分もあるのかもしれませんが、なにか底力を感じる・・・。山崎雄介はしっかりと舞台に足を付けた演技ができていました。年齢的にやや上という部分もあるのでしょうが、後半部分での相手をしっかりと受け止める演技が好印象でした。三上陽永は今までの鴻上演劇ではあまり見かけないタイプの役者さんかも・・・。存在感があるだけではなく、その存在感についてくるニュアンスがこれまでの第三舞台などの名優達とはちょっとちがう・・・。でも、彼がいることで鴻上が作る舞台の幅が広がったような気もします。渡辺芳博はマイペースな演技を貫ける役者という印象。もちろんほめ言葉で舞台のトーンをキープする力のようなものを感じました。杉浦一輝もある意味マイペースで舞台にいることが出来る人。与えられたキャラクターにしっかりと乗って舞台に勢いをつけてみせました。

まあ、鴻上演劇のフィルターで観て感じた印象ですから、他の劇団などに客演をしたらまったく違う才能が開花する役者さんたちなのかもしれません。でも、鴻上演劇にちゃんと居場所がある役者さんであるということだけでも、彼らの才能の証明であるような気がします。少なくと彼らは今回の舞台において十分プロフェッショナルでありえたと思います。

なんか・・・・、鴻上交通のバス停で違う行き先のバスを何台もやりすごして、やっと自分が乗れるバスがやってきたような気がするのですよ・・・。正直なところ、この公演が今上演されている芝居たちの中で突出したクオリティというわけではないのですが、間違いなく鴻上だからこそ作りえた個性や秀逸さは存在するわけで・・・・。

虚構の劇団の旗揚げで、今後の楽しみがふえたことには間違いありません。

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