« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

太字の輪郭で描いた人をごつごつと当てていく「誰ソ彼」ジェットラグ

5月30日、ジェットラグプロデュース、「誰ソ彼」を観ました。作は吉本のお笑いコンビ「ピース」の又吉直樹。ピースは南海キャンディーズなどと同期の世代だそう・・・。そして演出は先日の空間ゼリー公演で、繊細な感情表現を見事に作品に積み上げていった深寅芥

(ここからネタバレがあります。十分にご留意ください)

又吉が描いたのは、ある意味シンプルでわかりやすい物語・・・。しかし、人間の根源に巣食う真理をしっかりと内包していました。世の中には才能を持った人間とそうではない人間がいるということ。才能を持った人間が特に意識することもなく生み出していく果実が、その才能のない人間にとってはどうしても手の届かないものになる。それは、あがいても泣いても手にはいるものではない・・。作品を作り上げることもしかり、人の心を掴むことも然り・・・。たくさんの夢があるなかですべてが満たされるわけではない。自らの才能の中での折り合いをつけるしかない現実。でも満たされない苦しさは自らが満たされている領域すら侵食していく・・・。すぐ隣に現実として実っている理想と自分の手の中にある現実の差異への困惑、苦悩、自らへの欺瞞、あるいは逃避、そして溢れ出でる感情・・・。又吉が綴る物語は、ぞっとするほど冷徹な視点をもって、東京のアパートに暮らす男女の、すべてが満たされることがない日々の顛末を描いていきます。

演出の深寅芥は、又吉が作り上げた登場人物たちを努めて太い線でがっちりと表現していきます。役者たちは、キャラクターが持つ個性を前面に押し出すようにして、広がったスペースで心の動きを演じていくような感じ。線の太さは役者が表現する心の微細な動きをそのまま観客席に浸潤させるのでなく、まるで半透明の殻のようになって、キャラクターの外に現れる姿を強調していきます。ちょっと飛躍しているかもしれないけれど、輪郭線がしっかりとしたエゴン シーレの人物像を想起させるような・・・。実際のところ、これまでの深寅作品で観たような、登場人物の気持ちを丹念に積み上げるなかで鳥瞰するように世界を構築していく手法とはかなり異なった感じがしました。

しかし、舞台上ではこのやり方が見事に機能していきます。登場人物たちの、時にはガチガチと音を立てるようなぶつかり合いのなかに、一対一の関係性がベタとも思えるほどシンプルかつ強く提示され、その中からそれぞれの登場人物のキャラクターが瞠目するほど鮮やかに浮かびあがってくるのです。キャラクターの内側には又吉が描きあげたキャラクター達のそれぞれが抱えた逃げ場のない必然がはっきりと見えてきます。

前半のすこし居心地の悪い調和が空洞化していくなかで、後半、いずれの役者の演技も鎖から解き放たれたように個性の輝きを増していく・・・。溶け合う空気で観客を引き込むのではなく、建前や強がりや見栄を前面に押し出したキャラクターを観客のなかに打ち込むような感じで観客を縛っていく。その背景には妥協の余地がない現実がしっかりと構築されていて、殻の中で、それぞれの役者が自らの演じるキャラクターの感情を膨らませていくのが、鼓動のように生々しく観客に伝わってくる。小説家志望で、それを亡くなった母に報告する男性も、芸術を隠れ蓑に欲望を映画を撮り続ける男性も、才能に恵まれたミュージシャンも才能が降りてこないミュージシャンも、女達の気を引く男も男を愛する女性達も・・・。

やがて殻が感情のふくらみや他の殻との衝突に耐えられなくなって破れる時が来て・・・。それぞれのキャラクターのカタストロフから、キャラクターが抱えていた真実が生々しく観客に流れ込んできます。強弱の抑制を失ったようにすら思えるそれらの表現が次々と観客を浸潤していく。又吉の冷徹な視点に晒された原色に近い想いが観客を少しずつ押し流していく。自分を支えきれないことと癒されること、時代に流されていく愚、自分の欲望に身をゆだね、あるいは自分の内側に逃げ込む中からほどばしる狂気・・・。

そして、叫びがやってきます。聴いた瞬間にある種の生理的な嫌悪があり、なのに、心情を直接揺さぶられるようで耳を塞げない叫び。開演冒頭の叫びを伏線に、後半あれだけ唐突でありながら違和感のない叫びを浴びて、観客は又吉の慧眼とそれを具現化した深寅のしたたかな才をガッツリと思い知ることになるのです。

役者のこと、個性的ではありましたが、癖がなく自分に与えられたキャラクターを愚直なほどまっすぐかつ真摯に追っていける感じの方が多かったような・・・。

玉置玲央の演じる弱さと妙なずるさには必要な表現のもう一つ外側まで演じきるよな力を感じました。この芝居のキモを観客にはっきりと見せるための原動力になっていたと思います。鹿谷弥生が演じる童話作家の卵も印象に残りました。彼女の素直さに潜んだ無意識の残酷さには鮮烈なものがありました。

西山宗佑は、与えられたキャラクターを淡々と演じきって舞台の潤滑油に徹していた感じ。彼の演技の安定がそのまま、後半観客に伝えられる真実の純度を上げていたように思います。津留崎夏子の演技にも同様に安定感があって、物語の外側をしなやかに支えていました。この人は小さな仕草にも豊かなニュアンスを籠めることができる・・・。布団を叩くところなど何箇所かに目をすっと奪われるような部分がありました。

私にとってはほとんどが初見の役者さんの中で、岡田あがさのみが例外。で、彼女にとって、今回はこれまでと違ったニュアンスでのはまり役で、過去観た何作かで一番伸びやかに演じられていた印象・・・。演技の隅々にまでもてる力をストイックにぶつけるのではなく、自分のサイズにあった服をすっとまとうようなしなやかさがありました。キシモトマイ演じる中国人の女性に抱きしめられるまでの、岡田の心の揺れ方の瑞々しいこと・・・、観客が息をふっと止めてしまうほど豊潤なものがあって強く印象にのこりました。。一方のキシモトマイの演技にも岡田あがさを受け止めるだけの奥行きの積み重ねがあって・・・。その他のシーンでも自分のペースをしっかりと守りながら舞台に色をつけていくようなゆとりがあって好演だったと思います。

森陽太、西川康太郎は、ちゃんと裏打ちのある軽さを演じて見せました。どこかにすっと抜けたような明るさがだせていることで、逆にある影の部分もちゃんと表現できていたような・・・。

また、半田周平、岩井太郎が演じる狂気にも何かを凌駕するような力がありました。彼らの狂気には積み重ねがあるのですが、それがすごく丁寧にできていたから、後半のインパクトが実に強くなった。シュールささえ感じる演技が観客をしっかりと捕らえていました。また奥山雄太も、出番こそ少なかったですけれどインパクトは強かったです。しっかりと存在意義が伝わってきました。

まあ、中盤がやや冗長だったり、2日目でちょっとせりふに噛みがあったりとこまかい修正部分はあるのだと思います。しかし、終わってみればいろんな意味で印象がしっかり残るお芝居であり・・・。

雨のなか小さな折り畳み傘をさしての帰り道となりましたが、そんなことがちっとも苦痛ではなかった・・・。観てよかったと思います。

R-Club

PS:おまけのトークショーけっこう楽しめました。ピースの二人とキシモトマイの吉本風仕切りが心地よくて・・・。肩の凝らないエンタ^-ティメントに仕上がっておりました。吉本の芸人さん、力がありますよね・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

これだけの個性は贅沢の極み、でも溶け合って良いお味に「ガンまげ」

5月24日マチネで「ガンまげ」を観ました。場所は新宿紀伊國屋ホール。小劇場の役者を20名以上集めて、若いタレントさんも加わって・・・。演劇バトルロイヤルと銘打ったこの芝居、フライヤーその他で戦いをあおられた割には役者達のそれぞれの個性が丸くうまく溶け合って・・・。当初の演出(高橋いさを)の降板などはあったものの、役者の力がおいしく溶け合ったエンターティメントに仕上がっていました。

(ここからネタばれがあります。ご留意のうえお読みください)

不況の影響で大江戸とウェスタンのテーマパークが一つになって、目玉となるショーも二つが並列して行われることになった。板ばさみになるMC、問題を抱える双方のチーム、その中で始まる忍者側の興行には演歌歌手がゲスト出演、ただでさえ失敗が許されない舞台なのに役者の離脱が大江戸側に勃発して・・・

上演中の舞台の裏側で起こる様々な出来事を題材にしたコメディにはこれまでも秀作があって、たとえば「ショー・マスト・ゴー・オン」(東京サンシャインボーイズ・三谷幸喜作/演出)などはその代表的なもの。あのお芝居は練りに練られていて、なおかつ観客にとっても枠がしっかりしているから安心してはらはらできるみたいな部分がありました。西村雅彦が難問を次々に切り抜けていくシビアでプロのゆとりもある舞台監督を演じきり彼の役者としての真骨頂を見せた喜劇でした。

今回の「ガンまげ」も作品としては同様の構造をもっています。上司からの圧力にもめげず、あちらこちらにも気を使いながら苦闘するテーマパークのショーイベントのディレクターが次々とやってくる難問と格闘していく・・・。その中で舞台全体がハイになるような疾走感が生まれ、舞台上の役者達から観客までがその流れに巻き込まれていく・・・。表の舞台を守るということを大前提に裏側で守るべきことがどんどん崩れて笑いにつながる構造がしっかりと機能して、そこに役者同士の人間関係も上手く縫いこまれて、2時間5分といわれた上演時間にもまったく飽きはこなかったし、冗長と思える部分もほとんどなかったです。

それは、三谷作品などとくらべると緻密さに欠ける部分があったことは否めません。肌理が細かいとかスムーズな感じに欠けた部分も正直言ってありました。しかし、緻密か否かだけでよしあしが決まらないところが芝居という表現の面白いところで・・・。この作品、構造的に抱えたある種のラフさが観客に未知数の好奇心やスリルをあたえて、チープだけれど惹き付けるような波が次々と巻きおこる・・・。積み重なって面白さが膨らんでいく三谷作品にくらべると薄っぺらではあるのですが、でも観客は舞台から目が離せない。花やしきのジェットコースターのようなもの。いったん取り込まれてしまうと、多少劇中劇が破綻していようが、役者の演技が息切れしていようが、最後をみとどけるまで離れられないような粘着力がこのお芝居にはある。

なんでもありの雰囲気のなかでも、構造は結構しっかり作ってあるのですよ。與真司郎福井未菜演じるちょっとストイックな主人公達にもしっかりと裏側の物語が構築されているし、それぞれの出演者のキャラクター作りもかなり骨太にできている。大仏の大道具や劇団から抜けた人間の行く先がスペイン村という設定にしても、後から考えればかなり無理のある露骨な伏線であるにもかかわらず、この芝居には見事に馴染んでいたし、その露骨さがかえって舞台によい味を出していた。役者達も、有象無象の集まりのような体裁で宣伝をしてはいますが、要所にいるのは、それこそ手練の技で極上の演技ができる歴戦の猛者なわけで・・・。それは、直せばさらに良くなる部分もたくさん残っている芝居だけれど、そのあたりまで織り込んでしまったというか清濁を飲み込むような度量がこの作品にはあって・・。鴨下裕之の脚本が現場にぴたっとはまっていた・・・。

こういう手法で作品を100回作って何回成功するのかはわかりませんが、少なくとも今回に限っては、高橋いさをを継いだ野坂実の演出も冴えて、観終って予想外の充実感を感じる芝居に仕上がっていました。嘘みたいだけれど、まっすぐな高揚感のようなものがしっかりとあった・・・。帰り道、どこかうきうきしている自分が不思議といえば不思議なのですが、なんか舞台からパワーをもらえているのです。

役者のこと、 與真司郎はエーベックス系のユニット(AAA)の一員だそうで、場内にはファンもけっこういらっしゃったような・・・・。、初見でしたが、芝居を維持するだけの役割はきっちり果たしていたと思います。舞台上のキャラクターとして思いを作ることも出来ていた・・・。ただ表現の間口が必要最小限しかない感じで、役としての広がりが十分ではなかったような気もしました。なんとなく思いはわかるのですが、それがもどかしいほど伝わってこない部分が何箇所もあって・・・。これは場数というか経験のなかで広がっていくのでしょうけれど・・・。同じような話が福井未菜にもあって、思いを舞台で溜めることはできているようなのですが、その表現がふっと一本調子になる部分が・・・。苛立ちやすっと心に壁をつくるような部分にははっとするような良い演技もあるのですが、平面的な感情表現や想いの吐露が息切れしてしまうような部分も見受けられて・・・。まあ、これも彼女がキャリアを積めば解消される類のことなのでしょうけれど・・・。

小劇場からの選抜組みはおおむね出来がよかったです。キャリアを存分に発揮して、見事な芝居を見せたのが後藤飛鳥、肩に力が入らない演技なのにそこからは豊潤な天真爛漫さがあふれ出ていて・・・。とにかく舞台にいて実在感があるのです。同じようなお芝居ができていたのが江見昭嘉、かれの柔らかさとある種の芯を持ったキャラクターが物語の一端をさりげなく背負っていた。上手くいえないのですが、彼の芝居には要所で常にもう一歩の踏み込みがあるのです。彼の演技があるから、和田ひろ子演じるキャリアウーマンの顛末がしっかりと生きた気がします。その和田ひろ子もさらっと舞台にトーンを作るような力を見せて大好演、大仰な演技も彼女だと誇張にみえない。それどころか目鼻立ちがはっきりしているようにすら感じられる・・・。衣装係の鈴木歩己や美術の井上真鳳、さらには飯田卓也、押田美和などもぶれない演技でどたばた劇の要をしっかりと押さえていたと思います。本郷小次郎はまさに八面六臂の活躍で、本当に鮮やかに舞台を回していました。頼れる役者だなと感じます。赤澤ムックの演技も非常に秀逸、プレーンな女性の芝居を着実にこなしながら、一方で豊かな芸力のようなものを舞台にちりばめていました。実は陰影を作るのがとても上手な女優なのかもしれません。馬場巧もうざいキャラを絶妙のタイミングとニュアンスで演じきりました。安定感のある芝居だったと思います。

大江戸チームから離脱した役者役の二人、加藤裕猿田瑛とも、心理描写とコメディアンの両方の演技を要求される難しい役で見事な活躍を見せました。二人とも寡黙な立ち姿だけで感情の移ろいをしっかり表現できていて・・・。この演技が伏線となって、後半の演技が生きるのです。特に猿田には演技にためらいがないというか、ためを持たずにすっと演技に入り込むような部分があって、観客が構えることなく笑いに引っ張り込まれてしまうのです。これはコメディエンヌとしてなかなか得がたい才能かとおもいます。

温井摩耶は他の役者とちょっとトーンが違う演技でしたが、役柄にはぴったりはまっていました。生真面目さがちょっとあって、感情も整理されていて・・・、だから後半のブレイクがとても勢いのあるものに感じられました。高山奈央子は怪演の部類でしょうね・・・。ちょっと下ネタがらみでしたが、でもつぼをしっかりと心得た貫禄たっぷりの演技でありました。原知弘はこの芝居のなかでなさねばならない演技をじっくりこなしていました。びしっと見栄を切ったときの姿が決まっていて、彼が出番をむかえるシーンは芝居がすっと引き締まって見えました。

ウェスタン組では高野ゆらこが自由奔放な演技で笑いをしっかりとものにしていました。山崎雅志、高木エルム、和知龍範の3人の飄々としたところも妙におもしろくて・・・。時代劇のアパッチ語はつぼにきました。なにげな演技に繊細なニュアンスが織り込まれていて、その他大勢に埋もれない個性が3人それぞれにあったと思います。仲坪由紀子の演技は他から一歩ぬきんでいる感じ・・・。スケールというか大きさがしっかりとあり、雰囲気をつくり物語をしっかりと収めていました。児島功一も良かったですね。隠した感情を影で見せるようなテクニックがあり、一方でそれらを噴出させたときの抑制のきかない思いにも説得力がありました。

時代劇応援団役の堀池直毅市橋朝子は勢いで勝負。瞬発力のある演技で、場内の色を一気に染め変えて見せました。ただ、もうすこしせりふははっきり叫んだほうがよいかも・・・。勢いにせりふが微妙に消えていました。

演歌歌手のマネージャー役、倉方規安の作る軽さとエキセントリックな部分も酔いできだったと思います。

ちなみに日替わりゲストの演歌歌手役は高橋亜弓でしたが、まあ、無難な舞台さばき・・・。ただキャラとしてはちょっと親しみやすい雰囲気を持ちすぎていたかもしれません。

しかし、書いていておもうのですが、この芝居、これだけ役者が出ていて、一人ひとりが埋もれていないのですよ。みんなキャラクターがしっかりと立っている。だから観ていて役者の勢いがそのまま観客をときめかせるのです。

実は素材を大切にとても贅沢な作り方をした芝居だったのかもしれません。

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (1)

草彅剛の補色を作る、大竹しのぶの演技の確かさ「瞼の母」@世田谷パブリックシアター

前の記事と前後しますが、5月12日の仕事帰り、世田谷パブリックシアターで「瞼の母」を観ました。まあ、役者の豪華なこと・・・。篠井英介三田和代など、主役級の役者を湯水のように使って・・・。でも、見せ場はやっぱり主役の大竹しのぶ草彅剛のからみにありました。

(ここからネタばれがあります。十分ご留意いただきますようお願いいたします)

草彅剛は初見です。

序幕一場、家を飛び出してやくざに片足突っ込んだ高橋一生と三田和代が絡んでいるあたりは、ごく全うな世話物を観ている感じ。こういう繊細さとつっぱりが半々というキャラは高橋一生にとってははまり役、西尾まりの着実な演技にも三田和代が熟達の技で塗り替える空気にもすっと馴染んで・・・。さらに富岡弘福井博章たちが世界をさらに作り上げる。安定した良いお芝居なのですよ。で、そこに草彅剛が出てくると・・・・、どこか馴染まないのです。良いとか悪いとかではない。草彅のトーンが違う。下手ではないのだけれどなにか場がひとつにならない・・・。草彅剛だけ溶け合わないというか色がなにか違う感じなのです。すでに出来た世界に草彅剛が浮かんでいるような・・・。強さを前に出すときの草彅剛は、他の役者達がかもし出す、時代劇のくすみのようなものと色合いがどこか異なるのです。

しかし二場になって篠井英介とのからみになると、雰囲気ががらっと変わります。篠井の柔らかい演技に草彅の透き通った部分がすっと引き出される感じ。その透明感が抜群なのですよ・・・・。あの凜とした雰囲気と微かな甘さ・・・。さらには言いようのないはかなさを秘めた忠太郎の気配は、草彅以外誰にも出しえないのではないでしょうか・・・・。篠井の丁寧な老婆の演技に草彅の影がついた繊細さが染み渡っていくような感じ。観ていて一気に取り込まれてしまう・・・。また、梅沢昌代野間口徹とのからみもウィットのなかに市井の何気ないあたたかさが浮かんでくるようで、味わい深かったです。大詰一幕の神野三鈴との絡みでも十分な味わいを出していたし・・・・。

でも、そこまでは常の芝居、圧巻というか常ならぬものとして見入ってしまったのは、大竹しのぶと草彅剛が演じる忠太郎とおはまの親子対面の場でした。芝居の一番の見せ場というだけでなく、このふたりだからこそ築き得た稀有な時間、ここはがっつりと見ごたえがありました。広い舞台のなかに二人・・・、互いの視線があからさまにぶつかることはなく、空気だけがぐっと締まっていく。千々に乱れる思いを内に秘めた大竹のせりふに、観客の息まで止めてしまうような間・・・、大竹の感情がゆっくりとあふれ出し舞台全体をおはまの想いに染めてしまう。でも、その圧倒的感情表現に草彅がつぶれないのです。それどころか、大竹の作る色が補色となって草彅演じる忠太郎の思いが見事に際立っていく・・・。草彅は大竹の色にあがなうことなく、自分の色をしっかりと醸成していくのです。乱れる内心をぐっと押さえる大竹の芝居の豊潤さに瞠目しながら、やがて草薙の内に秘められた輝きに目を奪われる・・・。。。まさに舞台の贅沢、極みを観たような・・・。

それは草彅剛という役者の非凡さを見た瞬間でもありました。場に馴染んだ独特の声質、よく通るせりふに籠められた想いには大竹演じるおはまの想いに拮抗しうるだけの存在感があって・・・。その相乗効果が、非常に良質な舞台上の時間として観客を魅了していく・・・。しかも、草彅の力量ある存在感にあざとさがないので、観客の心が一気に浸潤される感じ。

草彅剛は、役者として、アベレージヒッターのように見えて、実はホームランバッターなのかもしれません。すべての芝居を器用にこなすには難しい部分もありそうですが、つぼにはまったときの力はものすごい。

こうなると、最後の幕によけいなしつこさはいらない。大竹や草彅が前場の流れでそれぞれに話を進めていく中で、脇を固める役者達も物語の色と勢いに任せて、小気味よく話を進めていく・・・。役者達の力配分がまた見事・・・。能ある鷹の爪を隠して地道に芝居をこなす篠井をはじめとする役者たちがまたよいのですよ・・・。でしゃばらず、一方でつぼだけをしっかり押さえて。引く所は引く芝居が出来る役者がいるから、大竹演じる慙愧の念も、草彅の満たされないままの気持ちもしっかりと舞台に残って・・・・。

まあ、脇を固める役者の贅沢さにも、最初はびっくりしましたが、大竹と草彅のシーンにつりあった前後を作ろうとすると、高橋長英高橋克実市川ぼたんなどの役者が必要なのでしょうね・・・・。その他、森本健介、塚本幸男、春海四方、遠山俊也ひがし由貴、岸昌代、・・・。役者にはずれがない芝居でありました。

この芝居、いろんな評価や賛否はあると思うのですが・・・

わたなべえりの今様な流れのよい演出も馴染みやすく、時間を忘れて駆け抜けるように見入った90分。私は、少々お高いけれど、一見の価値ありだと思います。

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (1)

逃げない鴻上だから描けるもの「グローブ・ジャングル」虚構の劇団

5月15日ソワレで虚構の劇団旗揚げ公演、グローブジャングルを観ました。第三舞台の旗揚げのような平均年齢21.X歳の役者に鴻上尚史作・演出。第三舞台後の鴻上作品とは一味違った、秀逸な作品と舞台でひさしぶりにめぐり合うことができました。また、細川展裕氏がプロデューサーとしてクレジットに名を連ねています。

(ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

この作品、ある意味、鴻上自身の再生のようにも思えます。現実の片端を理想のベールで覆って、絶望のさらに先にあるものへの冷徹さを隠したり、ごまかしたような印象が強かった一時期(結構長かった)の作風が影を潜め、現実を冷徹に見つめ向き合う姿勢が前面に出ていたような・・・。結果、鴻上の様々な演劇的テクニックが呪縛から開放され、舞台に瑞々しい感動が戻ってきたように思います。

気になるというか、ちょっと今様でない部分はたくさんあります。笑いの感覚についてはさておいても、たとえば、最近の秀逸な芝居たちにくらべて、肌理が粗い感じは否めない。様々な痛みを表すとき、鴻上は構造を語って痛みを定義します。そして役者はその定義を持ってステレオタイプに痛みを演じていく・・・。その痛みが生まれるまでの構造を描くスキルは実に見事だし、役者たちも十分に鴻上の描く構造を具現化していくのですが・・・。ただ、その痛みはラベルが貼られて「痛み」と表現される類のもので、わかりやすいといえばわかりやすいのですが、観客は「痛み」という言葉のイメージより奥に入っていけないのです。役者が上手いとか大根だとか言う問題ではなく、キャラクターが痛みを感じる時の心の色や密度の濃淡を観客に伝える構造が戯曲に存在しない。ひりひりと心に張り付いてくるような実感が舞台から伝わってこないのです。だから、舞台の登場人物にどっぷりと引き込まれない。観客は客観的に登場人物の心情を眺めるだけ・・・。昨今、観客が芝居に求める登場人物を描くための画素数と比べると、かなり足りない感じは否めません。キャラクターはある種のシチュエーションにパターン化され役者は記号という範疇の中で演技を強いられているようにさえ見える・・・。

それでも、観客が舞台を追いかける力を失わないのは、記号であれパターン化されたキャラクターであっても、それらが背負い、形成する物語の構造が鴻上の様々な演出のスキルで実に多彩に上手く表現されているから・・・。

平面的な人型の小道具が醸し出すソリッドな感じ、幽霊が死にたいと思う人にしか見えないという設定のうまさ。幽霊を見ることができる登場人物の視点ととそうでない視点で幽霊がからむシーンを2度演じて見せるような遊び心。「桃太郎」がキャラクター達の物語にモディファイされていく時の、ぞくっとくるような巧みさ。キャラクターの画素数がすくなくとも、それをカバーするための物語の創意に満ちた構造がこの舞台にはあるのです。蝋燭の使い方なんかも上手でしたね…。ブログに対する攻撃が世界広がるような感覚が、観客の抑制を凌駕するように伝わってきた…。

桃太郎の劇中劇でのダンスにしてもそうです。その躍動感・・・。役者達が必ずしもダンサーとして優れたパフォーマンスをしているわけではないのですが、そこには一気に物語が膨らんでいく跳躍感が存在する・・・。旅をはじめるときのときめきや昂ぶりのようなものが、舞台から観客の脳髄へしっかりと伝わってくるのです。あるいは物語の狭間から滲み出す、いくつもの心に残るせりふ・・・。それは全盛期の第三舞台から感じたものとおなじ匂いを放ちながら観客を浸潤していきます。

それらのシーンの後ろには、時代に対しての鴻上的醒めた冷徹な視点が存在している。神様のように100%見通しているわけではないかもしれない・・・、でも冷たく熱く、必死で時代に喰らいついていく鴻上の姿を感じることができる。そして、一番大切なこと、これまで私が観た鴻上後期のいくつかの戯曲のように、鴻上は彼が見た現実に対して簡単に「希望」や「べき論」にすりかえて答えを提示していない。想いの説明に逃げていないのです。言い方を変えれば観客が思い心を揺らすべきべき領域に足を踏み入れていない。安易に想いをせりふにたくし言葉にするかわりに、今回の鴻上はがんばり抜いて物語を描いていく。よしんば、ラストの収束にちょっぴり悪い癖がでていたとしても、鴻上が物語から両足を踏み外していないから、観客も自分の視線をそのままに物語の顛末をしっかりと見極め、受け止めることができる・・・。のほほんと与えられた結末を眺めるのではなく、飢えてむさぼるように物語の結末にたどりつくことができるのです。かつて、観客が真から心を揺らした鴻上演劇と同じように・・・。

役者も良かったです。鴻上的メソッドが強く感じられる演技にはある種の硬さも感じましたが、一方で志強く切り込んでくるような感じが観客を魅了しました。鴻上が役者の個性をしっかり生かしていて・・・、彼の役者を育てる才が観客にもしっかりと感じ取れました。

一番印象に残ったのは小沢道成でしょうか。昔「天使は瞳を閉じて」で名優伊藤正宏が演じた役とどこか似た役回りなのですが、しっかりと役の視点を失わず舞台を支えていました。小野川晶も観客に印象を残すことの出来る役者、伸びやかな部分と繊細な部分を並存させる不思議なキャパがありました。大久保綾乃の演技には自在感があります。明るさと影をしっかりと作れていました。動きにもある種の切れがあって目立ちます。高橋奈津季は舞台栄えがするし、感情の出し入れがとても上手。大柄ですが、感情をすっと消したりまっすぐに出したりする・・・、天から与えられたような器用さがありそうです。小名木美里にはパワーを感じました。今回演じている役柄が特にそう感じさせる部分もあるのかもしれませんが、なにか底力を感じる・・・。山崎雄介はしっかりと舞台に足を付けた演技ができていました。年齢的にやや上という部分もあるのでしょうが、後半部分での相手をしっかりと受け止める演技が好印象でした。三上陽永は今までの鴻上演劇ではあまり見かけないタイプの役者さんかも・・・。存在感があるだけではなく、その存在感についてくるニュアンスがこれまでの第三舞台などの名優達とはちょっとちがう・・・。でも、彼がいることで鴻上が作る舞台の幅が広がったような気もします。渡辺芳博はマイペースな演技を貫ける役者という印象。もちろんほめ言葉で舞台のトーンをキープする力のようなものを感じました。杉浦一輝もある意味マイペースで舞台にいることが出来る人。与えられたキャラクターにしっかりと乗って舞台に勢いをつけてみせました。

まあ、鴻上演劇のフィルターで観て感じた印象ですから、他の劇団などに客演をしたらまったく違う才能が開花する役者さんたちなのかもしれません。でも、鴻上演劇にちゃんと居場所がある役者さんであるということだけでも、彼らの才能の証明であるような気がします。少なくと彼らは今回の舞台において十分プロフェッショナルでありえたと思います。

なんか・・・・、鴻上交通のバス停で違う行き先のバスを何台もやりすごして、やっと自分が乗れるバスがやってきたような気がするのですよ・・・。正直なところ、この公演が今上演されている芝居たちの中で突出したクオリティというわけではないのですが、間違いなく鴻上だからこそ作りえた個性や秀逸さは存在するわけで・・・・。

虚構の劇団の旗揚げで、今後の楽しみがふえたことには間違いありません。

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (0)

それでもまだ、上を目指す福笑師匠「横浜にぎわい座、上方落語会」

たまたま、機会がありまして、5月10日は桜木町におでかけ・・・。で、8年ぶりに会った友人と横浜にぎわい座の「第十七回上方落語会」を聴いてまいりました。

雨がしとしとの土曜日でしたが、中華街でゆっくりとお昼を食べて、つもる話を半分くらいして・・・。まあ、8年というのは長いような短いような・・・。

で、そのあとがお楽しみの落語会、友人も私も関西出身ということでたっぷりと楽しんでまいりました。

(一応創作落語のネタばれなどもありますので、ご留意くださいませ)

・桂ちょうば 「いらち俥」

開口一番ということで、やっぱり勢いのある噺をもってきはりました。よう、こなれてる語り口で・・・。前半の病人が車を引くところが細かくて、しっかりと地についているというか馴染んでいるというか・・・。落ち着いて聴ける感じ。結構年配のお客さんが目立っていたので、気持ち抑えて演じられたのかもしれません。

後半の韋駄天走りは次第に狂気が積まれていくところがすごくよくて・・・。

疾走感だけなら他にも優れた噺家さんがいるのでしょうが、そこに加わる狂気の質はぴか市だったと思います。

・桂三若 「ひとり静」

初見ですが、才溢れるというか、天性の客の掴み方をもっている噺家さん・・・。ぐいぐいと観客を引き込んでいきます。この噺、横浜でやると、関西でやるのとは観客の視点がまったく逆のニュアンスが客席に生まれるような気もするのですが、それを超越した噺の魅力をしっかり出していて・・・。

とにかく息もつかせないギャグの積み重ねで観客をだれさせないのです。座っている座布団の乱れも気にならないという感じの熱演。噺の間というより、話と話の切れ目の間の持ち方が絶妙で、客席の笑いの炭火に旨いこと空気を送るような・・・、結果身をよじって爆笑する観客続出・・・。

雨の日、お足元が悪くても、こういう勢いのある高座を聴くと、心がからっと晴れます。

・笑福亭岐代松 「手水廻し」

やはり初見の噺家さん。丁寧な語り口です。芸も肌理が細かくて、ゆったりと観客に染み入っていくような・・・。一種の味があります。

ただ、もうひとつ引き込む力がほしいところ。ちょっと地味な感じの手水廻しで、それゆえに、滑稽な仕草などがいまひとつ膨らんでこない・・・。洗面器一杯のお湯を飲んだ仕草がちょっと生々しさにもつながるようで・・・。リアルであるということと、上手ということの狭間に入り込んでいるような・・・。

実ははめ物がどんと入るような噺などのほうが、かえって似合う噺家さんなのかもしれません。しっかりとした力が伝わってくるだけに別の噺も聴いてみたい気がしました。

・笑福亭福笑 「千早ふる」

師匠のこの噺、3度目なのですが、そのつど進化しているのが恐ろしい・・・。以前聞いたときにも福笑流の完成度の高さに舌を巻いたのですが・・・。まだ進化しはる。目を見張りました。前回聴いたときには勢いで押していた人物描写が今回はしっかりと計算されて積み重ねるように笑いがやってきた・・・。

それと噺の輪郭がくっきりしている・・・。オチの伏線が何度もふられて終わったときのあとくちがすっとした感じ・・・。師匠の芸風に噺としての道筋が緻密に通るとこれはもう、鬼に金棒なわけで・・・。噺を磨きつづけてはるのが実感として伝わってくる。

最初の詠み人読み違えのくすぐりからオチに至るまで、腹筋が痛くなるほど笑わせていただきましたが、もはや師匠の「千早ふる」はおもろいだけがとりえの爆笑噺ではない。知ったかぶりとそれを突っ込む二人の人物描写がますます磨かれて、しっかりと筋が一本通った、芸術性すら感じさせる古典に仕上がっておりました。

中入り

・笑福亭鶴笑 パペット落語 「立体西遊記」

髪切りと立体落語、明るい芸風がよろしい。切った絵を見せないというようなたわいないギャグも、ばっと咲いたような芸風のなかでよく効いていたと思います。立体落語は・・・・、くやしいけれどうけてしまいました。なんというか、こちらの予想を常に一歩超えた芸をしはるのですよ・・・。そのギャップが続くと、何をされても笑ってしまうような状態に陥ってしまう・・・。ここまでやられると趣向を超えて芸の世界です・・・。最初は何やこれくらい思っていたのが、ここまでやられるとけっこうはまってしまって・・・。なんかもう一回観たい・・・。西遊記以外のねたもあるのしょうかねぇ・・・。なかったら作ってもらいたいものです。

・笑福亭福笑 「もう一つの日本」

古典が一席、創作が一席、福笑師匠のいつものパターン。今回はその両方に人物描写の深さが際立っていました。以前に聴いた師匠の「今日の料理」なんかにしてもそうなのですが、文化の違いをネタにするときの師匠の観察眼の鋭さには瞠目するばかりです。

「千早ふる」同様、こちらも噺に筋がすっと通っている。むちゃくちゃなギャグもあるのですが、前半の部長の人物描写がすごくしっかりしているから噺が撚れない・・・・。こんな外人はおらんやろと思っていても、師匠の噺がすすむうちに、部長とのやり取りから鮮やかに外人ビジネスマンの人物像が浮かんでいく。いったん人物像を観客に植え付けたらあとは鞴を踏んで一気に膨らませて・・・、その波状攻撃は福笑師匠の独壇場で・・・。

この噺も聴くのは2回目ですが、前回より間違いなく進化してる・・・・。前回聴いたときにも十分面白かったのに、師匠の中では完成ではなかったのかもしれません。勢いと思いつきで噺を進めているように見えて、その裏では無駄を削り、噺のエキスを煮詰めて完成度を上げてはる。芸人の根性というか心意気がが実は隠し味になっていて、同じ噺でも観客を飽きさせない。福笑師匠、やっぱりただものではありません

横浜にぎわい座もほんとうに観やすい小屋で・・・。アットホームさとおしゃれさが同居して演者を引き立てるようななにかがある・・・。中入りに売店でアイスクリームを買って、座席で食べながら後半を待つなんていうのもなかなか良いもので・・・。

上方落語のパワーが溢れかえった良い会でございました。

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ミルフィーユのようなギャクいっぱい、「くままごと」に「「現代用語のムイミダス、ぶっとい広辞苑」

芝居の話がずっと続いたから、ちょっと話題を変えて・・・。芝居以外でおもしろかったものをちょこちょこっとメモしておこうと思います。

・くままごと 1巻 (コミック)

作:黄島点心 徳間書店刊

 まあ、一言でまとめるとくまを主人公にしたギャグコミックなのですけれどね・・・。これは笑える・・・。「医龍」とか「のだめカンタービレ」の面白さとは根本からちがう。、あけすけな潔いナンセンスさがあります。

巨大な親熊と多数の小熊が織り成すギャグの嵐・・・。妙に人間社会に絡むところが絶妙におもしろい。そもそも、この親熊、おおさかのおばちゃんキャラで、あの騒音おばさんが出てきたり、番町皿屋敷のパロディがあったり(前の回では母熊になっていた大きな熊が、今度は日本髪のズラをかぶってお菊をやったりする。しかも青山主膳はおっさんっぽいパンダだし・・・)。親熊のマジで超ペタな長せりふも本当に笑える・・・。・・・、。

モンティパイソンとかの世界に通ずるような・・・。こういう突き抜けた笑いをもったコミックって久しぶりかも・・・。

しかも、このマンガ、実はきわめて演劇的な要素を持っています。場所の移動が極めて少ない。熊が役を演じるという設定があったり・・・。おまけの章では劇団くままごとまで登場したり・・・

かなり癖になりそうな1冊です。

・現代用語のムイミダス、ぶっとい広辞苑(DVD)

1980年から1990年台にかけて深夜番組の黄金期がありました。関東では「やっぱり猫が好き」から「IQエンジン」へ続く至福の火曜日25時があり、三谷幸喜や第三舞台の役者達がその才能を開花させていました。で、その時間帯、関西はどうなっていたかというと、読売TVがそとばこまちや新感線の役者たちと共に新しいジャンルの表現を築いていました。それが「現代用語の基礎体力」だったり「ムイミダス」だったり「未確認飛行ぶっとい」だったり「TV広辞苑」といった番組です。

小さなコーナーというかシリーズがミルフィーユのように重ねられて作られた30分番組、当時私は東京にいて、関西の友人から1月分まとめて送られてくるその番組たちのビデオを心待ちにしていたものです。

出演者もすごくて、古田新太、生瀬勝久、立原裕啓、升毅、山西惇、牧野エミ、みやなおこ、羽野晶紀といったすごいメンバー・・・・。現在の彼らの活躍は説明がいらないほど・・・。

その当時の主要メンバーが20年弱の時を経て、再度集まって、当時の番組達のテイストそのままに作ったのがこのDVD・・・。TSUTAYAで見つけたときには叫び声をあげそうになりました。もう新作で少々レンタル期間が短かろうが値段が高かろうが関係なしです。んか、羽野さんの芸能界復帰あたりがきっかけになったのかもしれませんが、来るべくしてきた感のある、でもものすごい試みだと思います。

まあ、DVDになったりだと、当時の雰囲気なども失われているのではと心配しましたが、とんでもない・・・。円熟してパワーアップしてる・・・。微妙にぬるい感じも、しょうもないことをやりとおす体力も、当時から一級品でしたがさらに磨きがかかっていて・・・。羽野別居とかのあぶないねたも、このメンバーの中だとカラっと笑えていやみにならないし・・。なによりもミルフィーユ風構成の真髄ここにきわまれりで、個々の短編として序にもおもしろいのですが、ちゃんと前半のおもしろさが後半のバリエーションでのすごい有効なボディーブローになったりしていて・・・。

今、こういう雰囲気を持っている番組といえば「サラリーマンNEO」だと思うのですが、笑いの質からいうともうレベルが違うというか、NHKの作り方が子供だましに思えるほど・・・。

「くままごと」にしてもこのDVDにしても、好き嫌いははっきりするし、だめな人はだめなのでしょうけれど、だめでもいいからお勧めしたくなるような・・・。

まあ、だまされたと思ってご覧になってみてください。

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (0)

寺山修司を極上エンターティメントに・・・「狂人教育」

5月5日のこどもの日、新宿で寺山修司作の「狂人教育」を観ました。演出は劇団鹿殺しの丸尾丸一郎。OSAKAテラヤマ博’07-’08(新宿公演)の演目としてSpace雑遊での公演です。

「狂人教育」は初演が1962年、元々は人形劇の台本だったそう・・・・。これまでにも、さまざまな劇団やユニットで演じられてきた伝説の作品とのことですが、私ははじめてみる作品でした。

いやぁ・・・、ひっくりするほど面白かった。座席が多少辛くても関係なし。寺山演劇のティストを失うことなく、洗練の中に血のかよった極上のエンターティメント、堪能させていただきました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意をいただきますようお願いいたします)

間口の広い戯曲だと思います。登場人物の象徴性、キャラクター達の設定に秘められた意図、装置や小道具一つずつにも示唆を感じる舞台・・・。さらに外側に人形遣いの設定までが感じられる台本。

蝋燭の火とともに物語全体を暗示するような歌と共に入場してくる役者達、ひとりずつ声が重なって、そこに家族が現れます。

ある意味どろどろした不気味な家族なのですよ。体に小児麻痺のハンデを持った主人公、クロアゲハを部屋に閉じ込めて番をしている兄、遊び好きな姉、どもりでクラシック音楽好きな父、尊大で家長としてのプライドを忘れない祖父、猫好きでありながら意にそまない紙の猫の首を切ってしまう祖母。それらのキャラクターは家族という束でくくられてはいても、本来はそれぞれ異なるキャラクター・・・。お互いに愛憎があり一定の距離感を持って、なおかつ食事などでは統一した行動をとるユニット・・・。役者達はそれぞれのキャラクタを際立たせるように、無駄のない演技を重ねていきます。

舞台の装置も比較的シンプル、しかし背景にある大きな眼の装置は象徴的です。何かがあると半分目を閉じようとしたりする・・・。わが道を行くようなキャラクター設定の家族が実は常に視線を意識して生活を続けている・・・。

さて、あるとき、法医学ドクターから家族の中にひとりだけ「きちがい」がいると告げられたことから物語が動き出します。その家にきちがいがいることは許されないと祖父は言います。そんな人は斧で首を落として棺桶にいれて裏のブドウ畑に埋めてしまうのだと・・・・。すると、それぞれが、他の目を意識するようになる。それまで意識していなかった他人への愛憎を明確に意識するようになります。

やがて、混乱を恐れた祖父は、「きちがい」を投票で決めると言い出す・・・。すると主人公以外の5人はそろって同じ行動を取り始める。全員が眼鏡をし同じ動作をする。そして一人だけ異なる行動をする主人公を、投票という形式で糾弾しクロアゲハを逃がしたり他の行動を嘘と糾弾した主人公の首をはねてしまうのです。

そして、最後に目の装置が倒され、舞台が何事もなかったように掃き清められて・・・幕。

舞台からは本当にいろいろなものが伝わってきます。それは戯曲からあふれ出てくるスープのよう・・・、さらっとしているけれど豊潤なのです。それを表現する役者もよく鍛えられている・・・。黒い網で蝶を捕る兄の動作にも瞠目したし、姉が表現するチープなパッションもよかった。また、食事のときの歌の迫力、しっかりとした調和が見事に築かれていた・・・。一人ひとりの歌唱にも不安定さがなく、踊りもきちんと機能していて。しかも主人公が持つ嘘を見抜く視点がしっかりとしているから、象徴化されるさまざまな概念に揺らぎがなく、難解さや作られた雰囲気へのもたれ感のようなものが一切ない・・・。無駄な脂肪がなく、物語に筋肉質なテンポを感じることができる。

そのテンポというかスピード感が、戯曲につもった年月の塵を吹き払い、人形となった役者たちに血を通わせ、まるで、ボードビルショーの一シーンを楽しむような感覚を観客に与えてくれます。丸尾丸一郎のユニークであっても奇を衒わないシンプルなモダンさと、無駄を排してお楽しみを減じない卓越した演出センスが光ります。

一方で丸尾丸一郎はお楽しみが観客の目をふさぐことはないように細やかな注意を払ってもいます。戯曲の言葉を大切にしていて、それらがボディーブローのように観客に利いてくる。だから、幕が下りて、小雨の降る街を歩いているうちに、今という時代のなかでも首を落とされたて埋められた少女の話が、少しも陳腐化していないことに思い当たるのです。チベットがどうのとかクルド難民がどうかというように大上段に構えるような話を思い浮かべるまでもなく、寺山修司が物語に籠めた真理に思い当たる嘘がぽつりぽつりと心をよぎる・・・。口当たりのよいテイストのなかにも、寺山戯曲がもつ真理とその苦味はきちんと残してあるのです。そのあたりにも、丸尾丸一郎の戯曲を読み解くセンスを感じます。

役者のこと、鹿殺しの三人は本当に鍛えられているなと感じました。演技が安定していて観客をしっかりと受け止める体力があって・・。坂本けこ美の演技には役柄が本来持つ不自由さに加えてちゃんと心の自由さが表現されていて、それがこの物語の根幹を支えていました。演技の柔軟さみたいなものもあって・・・、実はユーティリティにもすぐれた女優さんなのかもしれません。橘輝からはある種の一途さと純粋さ、そしてずるさの隠し味が調和して伝わってきました。傳田うには小さな仕草や表情から淫蕩感をかもし出すことに成功していました。ステレオタイプな演技のようで、細かい部分に彼女ならではのメリハリがついていて彼女が表現するマユという役柄がしっかりと成立していたように思います。

パパ役の馬場恒行もキャラクターをしっかりと作り上げていました。線の細さとクラシックに陶酔するときの心の広がりが実に秀逸。祖母の関根信一は演技にゆとりがあって。祖母という役柄のリズムがうまくコントロール出来ていました。紙の猫をはさみで切る部分とスープを配る部分の雰囲気がまったく違うにもかかわらず、きちんと両方を包括するキャラクターを演じている・・・。老婆の雰囲気も十分にあってなんというか芝居に懐の深さを感じたことでした。政岡康志演じる祖父の威厳や嘘も良かったです。大きく演技をしておいて、ふっと裏側を見せるような旨さがあって。

劇場の微妙な閉塞感や、スタッフのちょっと不慣れな感じすら雰囲気作り的にプラスへと働くほど、寺山演劇のテイストを失うことなく今の演劇をしっかりと織り込んだ秀作だったと思います。

R-Club

| | コメント (0) | トラックバック (0)

キリンバズウカ「飛ぶ痛み」単なる東西融合を凌駕する新しい世界

遅れましたが、4月28日、王子小劇場でキリンバズウカ「飛ぶ痛み」を観ました。主宰の登米祐一は関西出身ですが、今回は東京の役者を集めての東京旗揚げ公演。良い役者が集まり王子に秀逸な演劇空間を作りあげてみせました。

(ここからネタバレがあります。十分ご留意ください) 

とあるホスピス、そこは他の人に痛みを飛ばすという新しい療法の実験が秘密裏に行われていて・・・。

冒頭の、頭の体操にでてくるパズルの具現化のような、渡し舟の乗り場のシーンがまず秀逸、しっかりと物語へ観客を導きます。最初は静かな演劇のような雰囲気、それが小さな笑いの重なりのなかで、次第に複雑な愛憎劇の様相を呈していきます。最初のちょっと冗長にさえ思える空気が、それぞれの因果が明らかになるにしたがって、少しずつ緊迫感のある舞台特有のひりひり感へと変わっていく。痛みを与えるものと受けるもの、その痛みを与えるものが自らを傷つけることに無神経になってゆき、一方で苦痛を与えられるものは与えるものに対して寛容をうしなって・・・・。

それは、サマライズすれば、浮世の人間関係のさまざまな形態についての秀逸な表現ということになるのでしょうが、目に見える現実の模倣ではなく、表面的な形態からは見えない、痛みを与えるものと受け取るものの複雑な感情や感覚の交差が醸し出す空気の密度のようなものであらわしていくところに、この芝居のしたたかさがあります。

関心だけでなく無関心の表現、他人の生や死、さらには客観視された自分の痛みや死に対する驚くほどの軽さ。自分が背負う痛みと与える痛みの著しい不均衡・・・・。

それらが淡々と演じられ、観客は次第にそのどろどろとした感覚に埋まっていくようなどうしようもなさに支配されていきます。

作・演出の登米裕一は、なんというか関西テイストな人間の距離感や笑いを織り込みながら物語を構築していきます。そこに役者達の強いメリハリ表現がつくとキャラクターが舞台上で具象化していくような仕組みがちゃんと準備されている・・・。

しかし、演出としての登米は自らの物語に関西風の押し出しではなく別のテイストを与えます。今回選ばれた役者のうち、関西的な芝居をするのは緒方晋の一人だけ(それも抑えて演技するような指示だったそうです)、のこりの役者たちには、関西的な誇張とは異なる、ナチュラルな感情の表現を演出していくのです。結果、役者達の演技は物語の拡大を観客に感じさせるのではなく、内側にある密度の濃淡に観客を引き込んでいく・・・。旨くいえないのですが、物語の本質が時間の経過とともに拡大するのではなく、同じ大きさや感覚の物語の内側が染まってていくような感じになる・・・。縛られて逃げられないのではなく、立ちすくんで逃げ方を忘れたような感覚・・・。しかも、後述のとおり、役者が本当に良く、登場人物たちそれぞれが演じる想いの不定形かつ斬新な断片が、切れをもって舞台から観客の空間を浸潤していくのです。痛みのやりとりから派生するものが一様でないことから生まれる影達の不可思議なシェイプに瞠目しつつ、最後のシーン、田中沙織の冷たく乾いた笑い声を聴いたときには、ぞくっと鳥肌が立ちました。

役者のこと、黒岩三佳の演技には相変わらず引き込まれます。彼女の存在で芝居全体の流れが走ることなくうまくコントロールされていたような気がします。また、彼女の引き出す笑いには関西でいうボケの部分が絶妙な分量で含まれており、形容矛盾ですけれど物語に乾いた潤いを与えていました。彼女が舞台にいるだけで、場にふくらみができるのです。

柿食う客からの二人もそれぞれに力を発揮していました。前述の田中沙織は人間の深い部分にあるずるさのようなものを見事に演じきっていたとし、七味まゆ味のクールで目鼻立ちのはっきりした演技も舞台の空気をしっかりと締めていました。この人は色や艶を演技に縫いこめることができる良い役者です。七味の切れ味のよさがそのまま舞台後半のしなやかなテンションにつながっていたように感じたことでした。

女優でいえば、佐藤みゆき の演技にも実在感というか良い意味での生々しさがありました。芯の強さをすりガラス越しに観客に感じさせることができる女優さんだと思います。

男優も、物語を形作る熟達を感じる演技でした。齋藤陽介の硬質な部分を残した演技に久保貫太郎本井博之折原アキラといった面々が旨くからんで・・・。緒方晋にしても板倉チヒロにしてもアクの強さはあるのですが、それがかえって舞台の安定感を高めるように働いて、観客はなぜか安心して身をゆだねられる・・・・。

今回の登米さんは、本当に役者に恵まれたと思います。というより、集める役者の力量やテイストについて、彼はたぶん妥協をしないのでしょうね・・・。物語の骨格は関西風に演出してもして違和感がないのに、関西の役者も含めて、あえて役者の演じ方を関西風には染めない。そして言葉では表現しがたいような独特の境地を作るのが、彼のセンスであり非凡さ・・・・。そんな演出に耐えうる役者をしっかりと集め、その果実として、どこか効しがたい軽さと関西チックなあからさまな感覚をもった、えもいわれぬ魅力を持った演劇空間を舞台上に現出させることに成功したということなのだと思います。。

キリンバズウカ、東京旗揚げとのことですが、今後の作品が楽しみ・・・。登米作品、もっといろんな作品を観たい・・・。そんな気にさせる、魅力を十分すぎるほどもった作品でした。

PS:

公演後、登米裕一、緒方晋両氏にゲストとして桂都んぼ師匠を交えたトークショーがありました。関西人3人だけに中盤から話が一気にはずんで・・・。20分という時間が非常に短く感じられました。

驚いたのは、登米氏が上京した理由が「関西の演劇は下手っていてあかんから、東京に来て演劇をやろうと思った」という話。都んぼ師匠も「関西は劇場が減っていくし・・・」みたいな相槌をうっていらっしゃいました。

まあ、今回のように東西の演劇文化がそれぞれに進化して、その中で良い部分がうまくかみ合って新しい境地のお芝居ができるのであればこんなに良いことはないのですが・・・、関西の演劇が衰退しつつあるがゆえにこのような作品ができるのだとしたらそれは喜ばしいこととはいえないわけで・・・・。

落語などにしてもそうですが、関西の独自文化というのは、東京文化と交わっても、輝きをますことこそあれ衰退するというイメージはなかったので・・・。

でも、劇場が減ったりトークショーなどでも今回のように人がたくさん残ったりしないのだそうで・・・。なんか逆のような気がするのですけれどねぇ・・・・。

いずれにしても、作り手側の人間を行き詰ったと思わせる要因が関西演劇にあるということ、首都圏に住んでいてもかなり気になった話題でありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »