空間ゼリー「私、わからぬ」柔らかく積もる刹那、奇跡のごとく浮かぶ時間
4月9日、空間ゼリー「私、わからぬ」初日を観てまいりました。空間ゼリーは昨年の「ゼリーの空間」以降見続けている劇団ですが、回を追うごとに目を見張るような進化をとげており、今回の公演も楽しみにしていました
(ここからネタばれがあります。十分にご留意の上読み進まれますようお願いいたします。)
とある一家を中心とした春から翌春までの物語。夫に失踪された漫画家の長女を中心に、茶道教室を営む母やリストラを受けた父、やりたいことが定まらない次女に、就職活動中の長男、5人家族とそれを取り巻く人々の姿が季節の流れに沿って描かれていきます。
冒頭、居間のテーブルで漫画を描く長女、チラシの裏に誰かの実話を面白く漫画に描いていく姿は淡々とした時間のなかにあります。そして、まわりの出来事から、彼女や彼女をとりまくことが自然体で観客に伝えられていく。弟のこと、弟の恋人のこと、妹のこと。両親や出版社の人々・・・・。さらには書道教室の生徒や友人・・・。
登場人物達の個性がとてもビビッドに演じられていて、それゆえ最初のシーンの長女は没個性にさえ思えます。舞台の空気の重さもあまりなく、また、彼女の夫が失踪していても、まわりがそれを公然の秘密にしていても、それに動揺したり騒ぎ立てているわけではない。ただ、仕事として居間のテーブルで漫画を描き続ける彼女が淡々とに舞台にある。日々の暮らしのスケッチのように、どこか冗長で平板にドラマは始まります。
しかしシーンが変わり、夏が訪れると、何かがゆっくりと降りて来て舞台に積みあがっていきます。長女をとりまく人々にまつわるさまざまなこと、風鈴を鳴らすような心の震え、さまざまな事象や想いが見えない刹那に張り付いて、時間の質量の軽さにゆらぎながら、ひとひら、またひとひらとやわらかく重なっていくよう。それは長女の心にも、色や形を変えながら少しずつ折り重なり、その感触が形となり、いつしか不確かな質量となって観客にも伝わり始める・・・。
作家の坪田文は、長女だけでなく、他の家族やまわりの人々の刹那もこまやかな表現力で描いていきます。小さなウィットや痛みを含んだシニカルさを絶妙のバランスで紡ぎこみ、登場人物たちの細部の描写をざっくりした時間の横軸に絡ませて・・・、エピソードも均一に表現するのではなく、時に因果や結末を巧妙に舞台の外にはずしながら、その色をすっと舞台に取り込んで透明で不定形な揺らぎを醸していきます
風鈴の音は虫の声に変わり、舞台には自分のポジションがわからない次女や、自分の将来が定まらない長男、その長男のゆれに不安を覚える恋人・・・、自分の心を納めきれない友人…。その他まわりの人々の変化が目に見える形でやってきて・・・。、長女も刹那の重さが満ちる時を心のどこかで感じはじめている。満たされない心に与えられるかりそめの慰安・・・。次女のこころが満たされるとき・・・・。アシスタントのこと、再び自分の世界に触れた夫の存在・・・。刹那の一片が大きく膨らんでいくなかで、舞台上の長女の想いが、静かに浮かび上がっていきます。
そして冬がきて、長男は就職がきまり長女は夫と再会します。就職も夫との再会もモラトリアムの終焉。彼女が目にすることを恐れていた刹那がやってきます。そこで彼女は長い鎖をはずされるように、積みあがった刹那のむこうの景色と向き合って・・・・。そして、長女は、わかる・・・・。
舞台には再び春が戻り、長女は、創作の力を取り戻し、次女は居場所をみつけ、長男は新しい門出を迎えます。最後のシーンはふたたび訪れた桜の季節の風景です。時間の質量と刹那の重さのバランスがたまたま折り合った奇跡のようなひととき・・・。しかし、それは甘いご都合主義のような一幕ではありません。観客が観るその舞台には、ひととせ重なり合ったさまざまな刹那が作り出す立体感が存在し、その色は後からさらに重なる見えない刹那の一片たちによって変わっていく予感がする。だからこそ、一年前の春のシーンには平板に思えた舞台上から、ふくらみやほろにがさがしっかりと観客につたわってくるのです。
春の日、庭に桜咲く暖かな日差しの中での終演、その刹那は安堵とは似合わない一抹の切なさを観客の心に投げ入れます。切なさは帰り道にゆっくりと心で広がり、芝居を俯瞰する観客の心をやるせなく透明な色で染め上げて、安堵を潜ませてひらひらと舞い落ちる刹那への、柔らかな苛立ちにも似た想いを呼びおこすのです。
役者のこと、今回も岡田あがさのパワーを持った圧巻とも思える表現力がまず目を惹きました。彼女の感情表現は見るたびに円熟していっているように思えます。圧巻ではあるのですが、無理がない。伝わってくる感情の高まりが抗うようでなく引き入れるように観客を捕らえていきます。出張ホストを演じる半田周平の硬質かつ繊細な演技にも、弟を演じた安部イズムの実直で暖かさを内包した秀逸な表現にも、岡田は存在感を消すことなく交わっていくことができる。さらに母親を演じた篁薫のデフォルメのない美しく凜としたせりふ(時間を暖かくフリーズさせるようなこの演技は本当に見事でした)をしっかりと受け止めることもできる。よしんば細かい荒さがあったとしても、芝居における岡田のしなやかさには瞠目するしかありません。
一方、その、岡田あがさや他の役者達の秀逸な表現に負けることなくしっかりと舞台上の存在感を保ったのが長女役の斉藤ナツ子。テンションを切らさない、奥行きをもった粘り強い演技にも強く惹かれました。彼女には静の表現力のようなものがあって、柔らかい演技であっても周りの色に負けないのです。観るのは「ゼリーの空間」以来2度目ですが、息遣いのような細かい想いの出し入れに卓越したセンスを持った女優であり、同時にキャラクターに芯をしっかり作ることもできる・・・。彼女の長女役によってこの芝居の屋台骨が定まったような感じすらします。
細田喜加の演技も前回公演同様非常によかったです。前回とはうって変わったキャラクターでしたが、観客に浸潤してくるような危うさを見事に表現してみせました。心の柱をはずしてしまったような表情からは、観客が掬い取れないようなおぼつかない心の動きが不規則にあふれ出し、ふっと常軌からはみ出してしまうような空間を抱いた女性の感性を見事に現出させました。また佐藤けいこの演じるセラミックのような意思をもった女性も好演でした。彼女の表現する意思の強さには美しさに加えて下卑にならない健康さと滑らかさがあって。編集者という役柄がもつイメージを崩さないように演じているのも観る方にとってはわかりやすかったし、でしゃばらないけれど不足のない、見事にコントロールされた存在感も魅力でした。
北川裕子は初見、作者の坪田文さんがMCを勤めるインターネットTVの番組のアシスタントとしては知ってはいたのですが、これほどに肌理の細かい演技を積み重ねられる女優さんだとは思いませんでした。台詞にもそつがなく、せりふのない時間帯であっても、彼女は板の上で間違いなく舞台の時間を編み続けている・・・。何気ないまっすぐな台詞も、彼女の口から漏れるとちゃんとニュアンスをもって広がっていくような。ひとつの想いを伝える表現にひととおりでない豊かさがあって…。この人は大化けするかもしれません。
長女のアシスタントを演じた猿田瑛も不思議に気になる女優さんです。目鼻立ちがしっかりとした演技で、相手役をその中に引き込むような透明感があります。また、演技が着実というか演技に信頼感のようなものがあって…。私が知らないだけなのかもしれませんが、他にあまり同じようなテイストを持った女優さんが思い当たらないような・…。
あと、前述の母親役、篁薫や茶道教室の生徒を演じた富永陽子、川嵜美栄子、西田愛李にも生き生きとした実存感を感じました。青木英里奈は演じていることが楽しそう…。その雰囲気がロールにしっかりとマッチしていたように思います。また、青木の演技には、すっと観客に届いてくる伸びのようなものがあって(うまく言えないのですが)、観ていてもここちよかったです。
男優達もそれぞれに非常に趣深い演技でした。長女に淡い恋心をいたく編集者を演じた大塚秀記の演技には、中庸な中にやわらかく観ているもの心を共鳴させるような魅力があって・…。自然というより必要な負荷がしっかりと観客につたわってくるお芝居だったと思います。父親役の麻生0児も家族に馴染んだというか、良い部分だけでなく良くない部分も父親としての自然差みたいな部分があって・…。実存感溢れる父親だったように思います。前述の安部イズムや半田周平にしてもそうなのですが、この舞台での男優陣は、その場のシチュエーションでせりふを話すのではなく、役柄のバックボーンにしっかりと腰を据えてせりふをあふれさせるような感じがあって、それが物語のベースをしっかりと支えている印象がありました。
まあ、初日ですから、舞台転換がちょっぴり大変そうだったり、役者の演技にも若干硬い部分が確かにありました。しかし、この芝居のクオリティから見れば、そんなことは些細なこと・・・。
私が感じたことが、作者の意図したことだったかどうかはわからないし、あるいは演出家深寅芥が具現化しようと腐心したことと一致しているかもわかりません。でも、帰り道、私の中には長女の上に積もっていった、桜が風に舞うがごとき刹那の感触がずっと残っていました。それは目に見えないもの、舞台空間の上に作者の卓越した創作力とや演出の非凡な感性、そして役者達の力によってよって始めて存在しえるもの。この感覚をたぶん私は忘れることができない・・・。
このお芝居、もう一度観にいきます。そして、感じたことやさらにおもったことを含めて、必要ならこの記事を改訂などもしようとも思います。この作品、当初の期待を超えてそれほどに奥深いのです。
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