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アロッタファジャイナGolden WeeeeK ラフの魅力がいっぱい・・。

4月27日、アロッタファジャイナ番外公演、ラフプレイ第一弾{Golden Weeeek}を千秋楽に観てきました。アールデコでのアロッタファジャイナ番外公演も今回が3回目、今回はコメディを中心とした構成だそうで・・・。芝居のクオリティも運営もどんどんレベルがあがっているのが、観客としてもなんかうれしく、たっぷりと楽しめる2時間となりました。今回は3つのお芝居の連続上演です。

ここからネタばれがあります。十分にご留意ください)

第一話 藤澤組 「みつ子の魂、あくまで」

落語でいうと、開口一番のお芝居。テンポと勢いがありました。起承転結のけじめがちゃんとしているから観ているほうにストレスがないし、思考を表す表現や、役者の間の取り方も観客側に立っているというか観客のテンションにちゃんとあっていて・・・。本当に口当たりがよくて。

物語もシーンごとに良く練られています、青木ナナの芝居にはある種の実直さがあって芝居に内包されたものを着実に機能させる・・、それに呼応して物語が観客側に積みあがっていくのです。大石綾子の芝居もたぶん番外公演を3回観た中で1番出来がよかったと思います。男優達も押しだすバランスというか、力の使い方がとても秀逸。能ある鷹からときどき爪が出てくる感じ・…。

全うに作りこまれた手作りのお芝居なのだと思います。、こういう舞台って、よい肌触りでちゃんと観客に届くのですよね。佳品だと思います。

第二話 松枝組 「ゴールデンウィークにお芝居を」

ベースに使われた岸田國士の「屋上庭園」はNylon100℃の「犬を鎖につなぐべからず」でもしっかり取り上げられてた作品。現代にも十分通用する骨組みをもっているし、潤色をしたときに鮮やかな色を出せる作品だという知識はありました。・・・・が、それを演ずる役者のバターンを変えて人間関係を表現していくやり方には舌を巻きました。なんか、演劇の本質を垣間見た気がしたし、同時にみごとに仕組まれた極上のコメディとしても成立していたと思います。

ただ、その先の展開には若干凡庸な部分もありました。ストーリー展開に多少もたつきがあったり、物語としてもっと整理できるかなという部分を感じたり・・・。笑いを取りにいっている部分でも、くすぐりが機能するために必要な物語の骨格についてなんとなく強度が足りなかったり。40分を通じての極上のコメディとはなかなか行かなかったようです。

笑いの取り方については作・演出の松枝氏にためらいが会ったのかもしれませんが、パンチラインにあたる部分をもっと大胆に提示しないと観るほうに倍のためらいが生まれてしまいます。さらにいえば小道具の使い方、キスシーンの重さのつけかた等々も、物語とのバランスがやや崩れている感じ・・・。それがために最後のシーンが100%観客の心を掴むようには機能していなかったような・・・。

でも、それをカバーして余りあるほど、役者は本当によかった。

安川結花の演技への入り方、表情が表す事象の広さ・・。今回もたっぷりと破壊力がありました。他の役者も自分の演技力を手のひらにのせて不自由さのない芝居が出来ている感じ・・・。役者が自分のキャラクターや美しさを見せるすべをちゃんと心得ていて、コントロールしている。舞台のパーツとしての演技から自分を見せる演技への切替がとてもなめらかで、舞台のメリハリがすごくしっかりとしていて・…。だから、多少よどんだ展開の部分であっても、舞台上での役者がしっかりと生きて見えるのです。

番外公演を重ねるごとに、女優陣の力が明らかに増している感じ・・・。イケ面である男優たちも演技の確かさで観客をしっかり捕らえている。

まあ、作品的にさらによくなる要素がいっぱいある気はしましたが、すごく引き込まれて観ていたのも事実なわけで・・・、終演時、気が付けばけっこう幸せな気分になっておりました。

第三話 新津組 「罪悪感から出た軽い会釈」

コントとしては実に良質、3つの短編からなるオムニバスのような感じでしたが、どれも笑いの質が高かったです。1話目が、完成度的には一番高かったような気がしますが、他の2つの作品にも捨てがたい魅力がありました。詳しい内容は読んでいただいても、面白さは伝わらないので書きませんが・・・。観た人用に私の感想などを…。

1話目の物語の広げ方にはわくわくしました。ほんと、どんどん観客の興味をひきつけていく。観客に強いるのではなく、観客自身をまえがかりにして、うまく展開を期待させていました。落ちも抜群のセンスだったと思います。

2話目のつちのこフェチVS名前書きフェチ夫婦は何も考えずに笑えました。図解の部分をもっと作りこんでゆっくりと丁寧にやればさらに笑いが膨らんだようにも感じましたが、ベタさにちょっと一味加えたような、でもわかりやすい設定とそれを押し切る力は相当なもので、観客は安心して乗っかることができたようにおもいます。

3話目の家族、なにか行き場のない部分にもけっこう惹かれました。ある種の下ネタなのですけれど、設定をとことん貫き、手抜きをしないことで良質な笑いを生んでいたと思います。

モンティ・パイソンなんかを観るたびに思うのですが、上品であろうが下ネタであろうがインモラルなネタであろうが、最初の設定に観客を捕らえるだけのインパクトがあり、その拘束力が観客の期待を凌駕して続いている限り、観客の良質な笑いはどんどん育っていくような…。新津組の3人にはそのあたりのつぼを掴む手練がそなわっているように感じました。

役者も安定していましたね…。石走理子が本当によくて・・・。間がよくて、確実な演技ができて、演技の線がしっかりと太い。観ていて安心感がありました。男優陣も、タイミングのコントロールが抜群で、うまく舞台を流し、なおかつ要点をしっかり押さえていく感じ・・・。

このチームの舞台、もったいないくらいあっという間に時間が過ぎていきました。もっと観たいって真剣に思った。

でも、よい試みだと思うのですよ。このような舞台って作り手の基礎体力を確実に上げるのだろうし、観客にとっても能天気に観ていてひたすらたのしいし・・・。いすが多少狭くても、見えにくいシーンがあったとしても、それを含めて役者の演じるという作業の手作り感がつたわってくるのがすごく良いのです。

なんか、その日の仕入れを生かした、メニューに載っていない板長のお勧め料理をいただいたよう。すごく贅沢なものを観たような気がして、ほくほくしながらの帰り道でありました。

R-Club

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北京蝶々「あなたの部品」ひりっとくる空気の切れ味

4月20日マチネで北京蝶々の早稲田大隈講堂裏最終公演「あなたの部品」をみました。近年珍しいほど時代をフェアに捕らえた作品。若手演出家コンクールの作品賞を取っただけのことはあり、時代とフォーカスがぴったりとあった見事な作品となりました。

(ここからはネタばれがあります。十分にご留意ください)

物語は近未来、オリンピック開催を前にした日本、腕を持った義肢装着技師の家で物語が展開していきます。

人体のさまざまな部分が人工のものに置き換わって、さらに元来のものより高い機能を発揮するまでに技術が発達した世界、一方では資源の枯渇やナショナリズムの台頭が社会にある種の影を作り出している・・・。その中で義肢装着技師の男とそこに訪れるさまざまな人物が独特の空気を作り出していきます。

物語は、現実ではなく、空想でもない、現実にあるさまざまな萌芽が成長した仮想空間でで描かれていきます。ナショナリズムの匂い、国に対する忠誠心のあからさまな強要、豊かさを失っていく中で価値観の軸があきらかにずれこんでいく・・・。豊かさを失った国で「テレビ進化論」にもあった不明瞭な多数の意思がさまざまな形で実体化していく。一方では経済のグローバル化やさまざまなイデオロギーが日本人や日本にいるアジアの人々を蝕んでいく・・・。

しかし、それらを構成するのは個性を持った個人・・・。そう、世の中がどうのというような大上段に構えた表現ではなく、個人それぞれの姿をキャンバスにしてさまざまな世界観が色づけをされている・・・。だからこそ、舞台には戯曲の行間でしか表現し得ないようなリアルな空気が存在するのです。、日常のなかにひりっとくる独特の空気・・・。柔らかく締め付けられるような継続的な緊張感・・・。自らの良識が次第に蝕まれていくような感触。なにかが麻痺していくような高揚感・・。時代は繰り返すといいますが、きっと戦前の日本がそんなかんじであったろうというような、しかし、そこは間違いなく未来の世界・・・。

作・演出の大塩哲史は冷徹に不純物を加えずこの空気を舞台に醸成していきます。いけないとかどうするとかいう思いを排除しながら、物語が進行していく・・。だから、同じようなテーマでありながら教条的であったり、イデオロギーを観客に押し付けるような芝居のように観客の中で腐敗し濁るものがない。凜とした澄んだ感覚で物語が観客にしっかりと残っていきます。自らの思いを声高に叫ぶことで見えなくなるものがあります。大塩はとてもしたたかなやり方で、描きたい世界を観客に提示して・・・。結果、観客は言葉という線ではなく、舞台という空間でしっかりと大塩の描いた時代を感じ取ることができました。

役者もぶれのない演技で大塩のイマジネーションをしっかりと描ききりました。赤津光生のなめらかで広がりをもったキャラクターは物語のトーンをしっかりとコントロールしていたし、白石妙美はキャラクターからこぼれる心情の深さをたっぷりと描き出し、鈴木麻美の演技力はキャラクターがもつ良識や知性と頑なさと思想を見事にひとつの人物像として融合させていました。就労中国人役の帯金ゆかりも渾身の演技で、単にキャラクターの表面的な思いだけではなく感情の機微を息を呑むほどの細緻さで演じきって見せました。他の役者も力まずにしっかりとコントロールされた演技で舞台の空気に必要な色をしたたかにつけていました。

この劇団、大隈講堂裏を離れて、新しく船出するそうですが、そのセンスと力はすでに実証済。時代を見通す視点も実に秀逸で、今回の芝居にしても、公演期間中に聖火リレーの問題が噴出し、この芝居が持つ雰囲気が世間では現実になってしまったり・・・。

大塩の慧眼と戯曲の切れ、それを具現化する才能溢れる役者たち。新しい船出というよりも、発展期に突入したという印象の強い「北京蝶々」。今後の活動から目が離せません。

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ラクゴリラ@お江戸日本橋亭 チャレンジする心

4月26日、お江戸日本橋亭でラクゴリラを観てまいりました。去年の10月に初めて観て、そのレベルの高さに舌を巻いた会、今回も見ごたえ十分の会となりました

(ネタばれということではないのですが、噺家さんのくすぐりなども出てまいります。ご了解いただけるかただけ、読み進んでいただきますようお願いいたします)

「江戸荒物」笑福亭瓶成

昨年の大銀座落語会で初めて観た噺家さん、そのときの語り口のきれいさというか切れのよさが印象に残っていました。

まずは枕がよかったです。その手馴れた感じに客もふっと起こされる感じ。嫌味がなく馴染みやすいのですがつぼをばっちり押さえている・・・・。「おうこ」とか「きりわら」などの言葉の解説(昔の関西の言葉が噺にでてくるとのことで)後本編が始まりますが、ここにも淀みがない。

まあ、この噺、笑福亭福笑師匠のをちょっと前に聴いているのですが、福笑師匠が比較的こてこてに演じられるのに比べて、すっと流れていく感じ・・・・。だから噺の輪郭はすごくわかりやすいし、開口一番で聞いていももたれない。芸が澄んでいる感じがします。最後のつるべ縄がらみの描き方などにも噺家としての非凡さがうかがえます。

ただ、いろんな意味でまだ良くなる感じはしました。なんていうのでしょうか、この噺に関してはまだ巻き込むようななにかが足りないような・・・。福笑師匠だと案外おかみさんがエピソード間の笑いの雰囲気ををつないでいくような感じになっているのですが、今回はおかみさんが完全に旦那を放置してしまっているような・・・・。もちろん福笑師匠と比較するのは端から無理があるというか滅茶苦茶酷なのですが・・・。

ちょっとまだふくらみがほしい感があったのも事実。ただし失望ではなく楽しみが増えた感じの高座でした。

「いらちの愛宕詣り」林家花丸

花丸師匠の語り口には清楚な暖かさを感じます。明るさがあるから、いらちの旦那もからっとしている。しかも描写に細やかさがある。だから聴いていても安定感を感じました。

しかしこの噺に限っていえば丁寧さより勢いをもう少し前面に押し出した語り口のほうが良かったかもしれません。客を置き去りにして客が必死についていくような勢いがあったほうがこの噺は楽しめるのにと思いました。お賽銭の場面でも、深く客に考えさせるのではなく、いらちからくる良識のなさをもっと勢いをつけて笑わせて貰えればと・・・。そうすると良いことも悪いこともごっちゃ混ぜにいらちの旦那の風貌がもっとリアルに浮かび上がってくるとおもうのです。それが、ひとつづつのシーンの完成があるものだから、逆に疾走するようなおかしさがいまひとつ伝わってこない。

また、愛宕詣りから帰ってきてからお風呂にいくところで噺がなんとなくいったん切れてしまう。ふたつの別の噺を聴いているようなもったいなさがあります。ちなみに家に帰ってからの噺にはある種のグルーブ感がありました。単に子供を逆さに風呂に入れるという滑稽さだではなく、そのあたりの一連の流れにひきづられるような感じがあって・・・

もし、花丸師匠の描写力に全編のグルーブ感が重なったら、すごい愛宕詣でが出来上がると思うのですが・・・。

「七度狐」桂つく枝

噺を止めて師匠自身もおっしゃっていたように、これはやっぱり「七度狸」かと・・・。石を当てられた狐がたたりを宣言する場面、どう贔屓目に見ても・・・・、狐ではない。凛とした語り口にきっとした顔をつくっていらっしゃるのですが・・・、最後にポンとお腹をたたいて怒れる狸が浮かんでしまう・・・。

しかも、皮肉なことにこれを狸のたたりとして観るとすごく味わいのある高座で、これまで感じたことのない新しい七度XXを聴くことができました。べちょたれ雑炊を食べせる尼さんのポーカーフェイスになんともいえぬ愛嬌が滲んでそれが得もいえぬ滑稽さを呼び寄せる感じ・・・・。騙すほうにも陰湿さがないから、騙されるほうもカラっと騙されていて、それが観客を笑いに集中させてくれる・・・・。

へんにべたべたした感じがないので、聴いていてもたれないのです。

レポーティングダイエットのちょっと自虐的な枕との対比で、噺に加えた明るさがますます浮き立って、理屈を超えた生理的楽しさのある高座となりました。

中入り

「辻占茶屋」笑福亭生喬

ドラマ「ちりとてちん」一躍注目を集めた噺です。その関連も含めて何人かの高座をテレビなどで観ましたが、それぞれに個性がでるものですね・・・。逆に言うと噺家の個性を引き出す要素がこの噺には盛り込まれているという気もします。

生喬師匠の噺は生真面目さがあって、さらにそれを突き抜けた向こうに人間の性根のおかしさが横たわっている感じ・・・。梅乃の色香というか艶になんともいえないずぶとさがあって、それが源やんの単純さとしっくりとあっている。ふたりのどうじようもない性根のバランスから、なんともいえないおかしさが湧いてくるのです。よく練られた人物描写だと思うし、その中にちゃんと生喬師匠のトーンが生きている。枕でつく枝師匠のダイエット法をみごとにこき下ろしたような冷徹な視点が、辻占茶屋の男女のおろかさをすっと浮かび上がらせていく。

すっと見えてくる人物像、卓越した女性の演じ方、下座との掛け合いにも聴きごたえがあって、噺のもつ奥行きをたっぷりと楽しませていただきました。

「茶の湯」桂 こごろう

江戸前でやると、本来噺が持つおもしろさが前面にでて、演者がそれを引き出すかで噺の優劣がきまるみたいなところを感じるのですが、上方だと、縁者の個性が勝った噺になる・・・。柳家小三治師匠の正統派を聴いて、春風亭昇太師匠のデフォルメ版にそれぞれの噺の構造の秀逸さを感じたのですが、桂こごろう版を聴くと、さらに演者の個性によって噺の趣がこれほどまでに変わるかとびっくり・・・。「辻占茶屋」にしてもそうなのですが、よい噺というのは演者に引き立てられて演者を引き立てるのだということがよくわかりました。

江戸版の「茶の湯」だとしっかりとした茶道のしきたりが前提に存在していて、それが崩れていくところに面白さがあるのですが、こごろう師匠の噺にでははなから崩れた滑稽さが前面に押し出されていて・・・・。ぐんぐんと押していく滑稽さの中でさらに茶の湯が持つ威厳にすがる無知なる人々のあがきをここそこにちらつかせて、笑いを膨らませていきます。同じ構造を持つ噺でありながら、終わってみれば東とは似て非なる充実感に溢れた印象の「茶の湯」が現出していました。

誰にでも出来る芸ではないのだと思います。その滑稽さにクオリティを持ったあざといベタさと、それを噺の中でやり通す芸力があって初めて生まれてくる世界であるような・・・。

破天荒とまでは言いませんが、独自のトーンを作り上げて突っ張りとおす。その中で笑いを醸成していくこごろう師匠の力、ほれぼれするばかりです。

この「ラクゴリラ」、木戸銭をはるかに超えるクオリティで・・・。本当に楽しませていただきました。確かな芸力を持ちながら、さらに新しい境地へチャレンジする噺家さんの気概を感じるような会。落語が好きならこれを聴かないとあほです。

本当、ところどころにある空席がもったいない・・・。

東京は次回9月だそうですが、その間に臨時のサプライズの可能性もあるとのこと・・・。いまからすごく楽しみです。

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庭劇団ペニノ 「苛々する大人の童話」、精緻さと創造力の恐るべき凝縮

渋谷、青山劇場に程近いマンションの一室を劇場にしての公演。一公演20名強の限定公演・・・。チケットが取れただけでかなりわくわくどきどきものなのですが、実際に観劇した作品は、そのときめきを十分に凌駕するものでした

(ここからネタばれがあります。公演中につき十分にご留意の上お読みください。特にこれから観劇予定の方は読まれぬようお願いいたします)

言葉は悪いのですが、ちょっと場末のストリップ劇場を想起させるような「はこぶね」の客席、そのちょっと固めの座席に座って、紅いビロードのような幕にあたるスポットライトを観ているだけでふっと現実から隔離されたような錯覚に陥ります。

物語がはじまり、少し遅れて電光掲示板に物語の枠組みが明示されます。その物語はゆるやかで、童話と呼ぶにふさわしい単純さとウィットを含有しながら、ゆっくりと演じられていきます。登場人物は豚と羊・・・、物語が進むにつれてその世界は次第に明らかになっていく・・・。しかし具体的な物語はなく、暗示的なシーンが積み重ねられていく感じ・・・。

やがて二幕目に入ると物語は大きく展開をします。精緻な舞台装置にガリバーの物語を想起させるシーンにて登場した学生服姿の男は羊と豚の住む世界に入り込んできて・・・。

後半の不思議な男女の結びつきもさまざまな暗示に満ちています。この小さな劇場には豊潤な想像力を何かに集約させる魔法がかけられているような・・・。寸断された2本の木、床の下の世界。創意の溢れ方がただ噴出すのではなく、一定の緻密さのなかで緩やかに渦をまくような感じ。シンプルなキーワードに、与えられたイメージが日和見に膨らんでいくと、時間の流れるスピードまでが一定さを失うようで・・・・。しかも、そこには確固たるバランスが存在している・・・

もうずいぶん前に見た「Mrs.P.P.overeem」において主演(というか一人芝居だった)の安藤玉恵が一人の女性の一生を時間の尺度を変えて演じたように(非常に印象に残る演技だった)、今回の作品にも人生を俯瞰するような空間と時間のデフォルメがあって、まるで騙し絵に隠されたものが突然浮かんでくるように、舞台に仕組まれた意図が観客の感覚を呼び覚ましていく。そして舞台の感覚に共鳴し覚醒した観客は、舞台の創意に流されながら舞台から伝わってくるものに戯れることができるのです。戯れることによって感じる瑞々しさ・・・。時には匂いまでついて舞台から静かに溢れてくるイメージに全身を包まれるような感覚。

言葉や小道具や役者達の冗長すら感じさせるようにコントロールされた動きは、渋く豊かな色使いで空間を油彩のように染め上げて、精密な箱庭の世界の頭上世界で妙に生々しい夢を醸成するのです。それはブルーチーズのような豊潤さを観客に与え、そのテイストは幕が下りても淡く消えずに観客を支配していく・・・。

役者(島田桃依、瀬口タエコ山田伊久磨)は抑制された動きの中にベクトルの異なる想いがしっかりとこめられていて、非常に好演でした。また、舞台装置はまさに一見の価値あり・・・。

このプチ空間「はこぶね」公演はたぶんこれが最後とのこと・・・・。とても残念に思えてなりません。明確なイメージで描ききった「野鴨」などの作品の秀逸性も庭劇団ペニノの魅力なら、今回のような抽象画的な舞台のテイストもペニノの魅力・・・。

舞台装置の秀逸さや舞台の創作への熱意を感じるにつけてタニノクロウの才には惚れ惚れするばかりです。その力がこの先なにを作り上げていくのか・・・・。まさに目が離せません。

R-Club

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素敵な2回目、空間ゼリー「私、わからぬ」/双数姉妹「やや無常・・・」

同じ劇団の同じ公演を観ることがあります。その芝居に深くインスパイアされて同じ公演期間中に2度見に行くこともあれば、その芝居に深い感動を覚えて再演を待ちかねていることもある・・・・。4月に入ってから2回目という観劇が二つありました

(ここからネタばれがあります。十分にご留意の上お読みいただきますようお願いいたします。

空間ゼリー 「私わからぬ・・・」 

水曜日(4月9日)に初日を観て、今度は友人と一緒に土曜日(4月12日)のマチネを観てまいりました。無論初日からドラスティックに変わったところはなかったのですが、お芝居のトーンとして微妙な変化がありました。まず、初日に比べて、役者さんの演技にやわらかさがあって、舞台上でのキャラクターから、気負いのようなものが消えていたような・・・。それと、個々のシーンがかなりわかりやすくなっていました。

一番端的だったのが猿田瑛演じる長女のアシスタント、初日にくらべて演技の力加減に滑らかさが加わって・・・、長女の夫との絡みも明確に見えるようになりました。携帯電話をそっと覗き見するシーンがあるのですが、その時のせりふと表情が実に秀逸。他の暗示的なせりふとのつながりもわかりやすくなり、彼女の舞台上での存在感も増しました。

麻生0児演じる父親の役も初日に比べて広がりがあったように思います。特に長女の夫に怒りをぶつける場面での感情表現に想いが純化した感じ。不協和音のようなものが消えて、まっすぐに想いが伝わってきました。

齋藤ナツ子、岡田あがさとも、演技にいっそう浸透圧が増した感じ。最後のシーンのニュアンスも、ただ刹那が積み重なっていくことへの切なさに、想いを求める次女と思いに向かうことにためらいを持った長女が同じ空間で一人の女性の想いに融合していくような印象が加わって・・・・。一層最後のシーンが豊潤に思えて・・・。

終幕後、個人的には初日よりポジティブな印象が増した2回目の観劇でした。

それにつけても、よく出来たお芝居だと思います。登場人物ひとりずつにしっかりとした描写があって、役者もしっかりとそれを演じきっている。こういうお芝居は、何度観ても飽きることがありません。一度観たお芝居なのに、褪せない新鮮さが舞台にある・・・。空間ゼリー、6月の公演もとても楽しみです。

双数姉妹 「やや無情・・・」

それ以前にも、双数姉妹はしっかりと観続けていた劇団ではあったのですが。2003年にこの芝居の初演を観たときには本当に感動しました。大倉マヤさんがまだ在籍していたころで、最初のシーンで彼女が机を並べてその空間を準備する意味が最後に鮮やかに表現されて、涙が一気に溢れてきたのを覚えています。

さて、今回の再演、正直にいうと少し不安でした。劇団の役者がかなり入れ替わりましたから・・・。昨年、新人団員を中心としたトライアル公演を観て、今林久弥、井上貴子、五味祐司といったベテランたちと新人達の実力差を目の当たりにして、新人達がどこまで追いつけるのだろうかと思っていたのです。

しかし、それは杞憂でした。今回の再演では、多少物語が具体的になって、現実と劇中劇のボーダーがわかりやすくなった部分がありましたが、基本の骨格は変わっていません。テーマの普遍性を一層際立たせるような見事な舞台を新人達も含めて見事に構築してみせました演ずるとは何か、なぜ役者達は舞台から観客に礼をするのか・・・。舞台の本質にかかわる普遍的な真理が、5年前と同じように見事に伝わってきて・・・。戯曲の秀逸性を新人達のすばらしい成長を再確認することができました。

役者のこと、佐藤拓之は初演と同役ですが、演劇に取り込まれていく姿は初演をさらに凌駕して見事でした。小さな暖かさや心の揺れの積み重なりが本当にしっかりと観客に伝わってきて・・・。

囚人達は新人男優を中心にベテランの中村靖が加わる布陣でしたがそれは見事なものでした、新人男優達はトライアル公演からは一皮もふた皮もむけた見事な演技で・・・。切れがあり、体育座りで待機していてもちゃんと時間を背負うことができる。劇中劇のでもピンと張りのある演技が観るものをここちよくさせる・・・。一人ひとりに舞台の緊張を維持するだけの力がありました。鰻家喜平治の模範囚がかもし出すずる賢さがいい味を出していて・・・。新人の河野直樹、熊懐大輔、宮田慎一郎が演じる囚人たちも本当に切れのある演技、しかもそれぞれのキャラクターが内包されていて、全体として刑務所の空気をしっかりと構築していました。また、刑務官をやった新人、青戸昭憲のきびきびしたなかにあるウィットのようなものも魅力的・・・、生真面目さがうまく表現されていました。

新人女優も出来がよかったです。辻沢綾香の「役者役」には独特のテンポがあるのですが、それが役柄にしっかりと寄り添っている。浅田よりこ演じる不良少女も感情の入り方がすごくいい。彼女には役柄がすっと降りてくるような才能を与えられている・・・。だから観客の感覚に無理なく色をつけられる・・・。

その不良少女を初演で演じた吉田麻起子には貫禄がついてきました。初演で大倉マヤが演じた役ですが、だいぶニュアンスが骨太になった感じ・・・。初演に比べて演劇への夢というピュアな部分を減じてはいましたが、演劇の可能性を信じるという気持ちを大きく舞台に持ってくる効用があったと思います。しっかり抑制の効いた演技には舞台を動かしていくだけのパワーが宿っていて・・・。華奢な体躯とは裏腹に演技筋ががっしりついてきて、頼れる役者に成長した感じがします。

小林至のちょっと投げやりっぽい演技の味わいは、初演からしっかりと磨きがかかってもはや芸術の域、五味祐司の一見不器用な演技も舞台での存在感につながって・・・。井上貴子のしなやかな演技はため息が出るほど安定していて・・・。ここの役者には鍛えられた安定感があって、揺らぐことがない・・・。初演に続いて客演の中村彰男の演技にも見ごたえがあって・・・

後半の劇中劇と劇外の芝居のクオリティが一致していくなかで、演ずることの動機や理由のようなものがが次第に観客にも伝わってきます。強制から自発への転換点があって・・・・。公演中止の決定が言い渡されたとき、看守も含めて演技に再び入っていくその瞬間にやってくるぞくっとするような高揚感。劇中劇のなかで演技を終えて、本来の客席に背を向けて劇中劇の観客にたいして頭を避ける役者達の仕草に、潮が満ちるような感動が観客を捕らえます。そして、ほんの少し遅れて演ずるという行為の意味が観客に実感として伝わってくる・・・。

作・演出の小池竹見の代表作品ともなるべきこの戯曲、本当によい時期に再演されたものだと思います。新生双数姉妹が過去の力を取り戻したことを印象付ける作品となりました。

R-Club

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青山円形劇場を生かす黒色綺譚カナリヤ派「葦ノ籠」とインナーチャイルド「(紙の上の)ユグドラシル」

ここのところかなり忙しくて、あまりに印象に残った空間ゼリー以外の感想がかけていませんでした。で、過去1ヶ月の観劇記録をメモを兼ねて・・・。

まずは先月末から月初にかけてなぜか青山円形劇場の公演がつづきましたのでそのご報告。

3月22日マチネで、黒色綺譚カナリヤ派「葦の籠」を観ました。黒色綺譚カナリヤ派は初見。ただ、劇団員の牛水里美さんは昨年末の新宿村の市で演技を見ています。空想空間での彼女の演技はとても印象的でした。

もうひとつは4月5日のインナーチャイルド「(紙の上の)ユグドラシル」、インナーチャイルドは昨年吉祥寺シアターで「アメノクニ ヤマトブミ」を観てとても強い印象を受けた劇団です。

(ここからねたばれがあります。ご留意の上お読みください)

ー黒色綺譚カナリヤ派「葦の籠」ー

かなり時間がたった感想で申し訳ありません。

物語は昭和のある時期、川に息子を流した男は妄想の果てに、河原に住む老婆と男娼の少年を家族と勘違いしてしまう。

勘違いした男には仲間の河原のこじきまで群がる…。河原の葦に囲まれたその場所は、河原乞食達の生活の場所、男娼は金持ちにも雇われていて・・・。金持ちは生活と引き換えに男娼を支配しようとする・…。去勢をして、自分に従順なしもべに教育をして・・・・。

さらに金持ちの娘や、街の支配層の子供たち、たくさんのエゴと制御されない支配への欲望が舞台からばらまかれて…。

舞台に流れる物語は原稿用紙数枚のプロットにすぎません。特に深いわけでもなく、珍しくもたいした意味があるわけでもない。しかし、その行間から漏れ出してくる圧倒的な風景に目をうばわれるのです。河原に溢れるたくさんの老婆たちの演技、一人ずつにしっかりとした個性があって、それらが重なって舞台の世界を広げていく。主役たちと肩をならべ、あるいは凌駕するほど・・・。舞台上の乞食を演じる役者の技と群集処理の秀逸さが光ります。

また、この舞台は感覚の借景の連続・・・。高貴で排他的な富、去勢によって少年を自らの僕に置こうとする傲慢、親の権力をかさに着た少年達、それらの借景に下卑なところがなく、むしろ洗練すら思えるところにこの芝居の完成度を感じます。

それらの借景の中で、男娼や金持ちの少女がなんと生き生きと動いていることか・・・。升ノゾミ牛水里美の動きは、まるで物語の血液のように舞台全体の鼓動を作り上げていきます。牛水里美は、稀有の品格をまとう才能に恵まれていて、観客にとってはまさに眼福、升の演技には役柄が持つ芯の熱さがしっかりと表現されており、一方で病院へいってしまうことへの十分な説得力もありました。

また、大沢健が描く中庸さ、下総源太朗の軽妙なあくどさにも大きく惹かれました。 河原の風すら感じるような舞台美術も見事だったと思います。

ここの芝居、美しい昇華と人を取り込んでしまうような退廃のイメージが随所にほとばしって次第に観客が劇場にいることを忘れさせるような力があります。赤澤ムックの芯に織り込まれた耽美な香りに魅せられてしまったのかもしれませんが・・・。舞台美術の秀逸さも加わって、現実から切り離された甘美でどこかおどろおどろした世界に遊ぶことができました。Irresistableってやつですね・…。ほんと、葦ならぬ足をすっと浮かされて自由を奪われたように、心惹かれるお芝居でした。

ーinnerchild「(紙の上の)ユグドラシル」

大きな木の根元、家族で過ごす時間スケッチから、やがて歴史をこえて、神々の成り立ちから坂之上田村麻呂の物語,さらに再び現代にまで至る大きな視点を持ったものがたり。。血塗られた歴史とそれをはぐくむ人々の想いは、現代の世界と重なり合って、青山円形劇場の空間に見上げるほどの大きさを持った世界を作り上げました。小手伸也の才能には感服するばかりです。

いくつかの時代をまたがってやってくる物語・・・時代によって色は変わるのですが、それぞれに美しい透明感があって。しかも単に物語が重なっていくだけではなく、まるで果てしなく続く回廊の前後を眺めるような感覚を観客に与えていきます。樹が神を語り、神が人を導き、人が樹を祭り・・・。そのなかで育ち繁りやがて焼かれおち、やがて再生のときを待つ樹とそれを守る人々・・・。

細かい部分の見せ方が本当に上手です。たとえば台詞のテンポ、役者の動きの柔らかさ、役者の配置・・・、それらがまるで描画の点をひとつずつ描いていくように舞台に色や質量をつけていきます。役者達もシーンのカラーにきちんと統一された演技で、観るものを包み込むように物語に誘い込んでいく。役者のここ一番の切れが舞台のソリッドな統一感を与えて・・・・。役者それぞれの異なるテンポが、まるでレンズのフォーカスが合うようにすっとひとつのシーンを浮かび上がらせる。

冒頭のスケッチブックから地球を覆うような樹を広げていく芝居の力量、現実を点にしてそこから広がる時間軸を鳥瞰するような浮遊感と物語の不思議な実存感。シームレスに演じられる現世と神々の世界の混在には圧倒されるばかり・・・。

しかも、この舞台無駄がないのです。血塗られた話でもあるのに、ある種物語の純粋さが劇場全体を浄化するような・・・。

美術や照明も秀逸、巨大な樹が生い茂ったり焼かれたりする姿が、役者の演技のなかでしっかりと見える感じ・・・。その役者自体もけれんなくしっかりと精度高く世界を演じている・・・。

ほんと、言葉に出来ないような不思議な力を舞台から感じ、魅力に浸りこんだ2時間でありました。

青山円形劇場って不思議な空間ですよね・・・。秋には双数姉妹が「サナギネ」の再演をするようですし・・・(この作品にもすごく衝撃をうけた)、いろんな世界があの空間に浮かんでは消えて・・・。劇場がすばらしい芝居を呼ぶのか、すばらしい芝居が劇場を求めるのか・…。今回のような芝居たちを見に行くたびに、渋谷から坂の登りおりが楽しく思えるのです。

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空間ゼリー「私、わからぬ」柔らかく積もる刹那、奇跡のごとく浮かぶ時間

4月9日、空間ゼリー「私、わからぬ」初日を観てまいりました。空間ゼリーは昨年の「ゼリーの空間」以降見続けている劇団ですが、回を追うごとに目を見張るような進化をとげており、今回の公演も楽しみにしていました

(ここからネタばれがあります。十分にご留意の上読み進まれますようお願いいたします。)

とある一家を中心とした春から翌春までの物語。夫に失踪された漫画家の長女を中心に、茶道教室を営む母やリストラを受けた父、やりたいことが定まらない次女に、就職活動中の長男、5人家族とそれを取り巻く人々の姿が季節の流れに沿って描かれていきます。

冒頭、居間のテーブルで漫画を描く長女、チラシの裏に誰かの実話を面白く漫画に描いていく姿は淡々とした時間のなかにあります。そして、まわりの出来事から、彼女や彼女をとりまくことが自然体で観客に伝えられていく。弟のこと、弟の恋人のこと、妹のこと。両親や出版社の人々・・・・。さらには書道教室の生徒や友人・・・。

登場人物達の個性がとてもビビッドに演じられていて、それゆえ最初のシーンの長女は没個性にさえ思えます。舞台の空気の重さもあまりなく、また、彼女の夫が失踪していても、まわりがそれを公然の秘密にしていても、それに動揺したり騒ぎ立てているわけではない。ただ、仕事として居間のテーブルで漫画を描き続ける彼女が淡々とに舞台にある。日々の暮らしのスケッチのように、どこか冗長で平板にドラマは始まります。

しかしシーンが変わり、夏が訪れると、何かがゆっくりと降りて来て舞台に積みあがっていきます。長女をとりまく人々にまつわるさまざまなこと、風鈴を鳴らすような心の震え、さまざまな事象や想いが見えない刹那に張り付いて、時間の質量の軽さにゆらぎながら、ひとひら、またひとひらとやわらかく重なっていくよう。それは長女の心にも、色や形を変えながら少しずつ折り重なり、その感触が形となり、いつしか不確かな質量となって観客にも伝わり始める・・・。

作家の坪田文は、長女だけでなく、他の家族やまわりの人々の刹那もこまやかな表現力で描いていきます。小さなウィットや痛みを含んだシニカルさを絶妙のバランスで紡ぎこみ、登場人物たちの細部の描写をざっくりした時間の横軸に絡ませて・・・、エピソードも均一に表現するのではなく、時に因果や結末を巧妙に舞台の外にはずしながら、その色をすっと舞台に取り込んで透明で不定形な揺らぎを醸していきます

風鈴の音は虫の声に変わり、舞台には自分のポジションがわからない次女や、自分の将来が定まらない長男、その長男のゆれに不安を覚える恋人・・・、自分の心を納めきれない友人…。その他まわりの人々の変化が目に見える形でやってきて・・・。、長女も刹那の重さが満ちる時を心のどこかで感じはじめている。満たされない心に与えられるかりそめの慰安・・・。次女のこころが満たされるとき・・・・。アシスタントのこと、再び自分の世界に触れた夫の存在・・・。刹那の一片が大きく膨らんでいくなかで、舞台上の長女の想いが、静かに浮かび上がっていきます。

そして冬がきて、長男は就職がきまり長女は夫と再会します。就職も夫との再会もモラトリアムの終焉。彼女が目にすることを恐れていた刹那がやってきます。そこで彼女は長い鎖をはずされるように、積みあがった刹那のむこうの景色と向き合って・・・・。そして、長女は、わかる・・・・。

舞台には再び春が戻り、長女は、創作の力を取り戻し、次女は居場所をみつけ、長男は新しい門出を迎えます。最後のシーンはふたたび訪れた桜の季節の風景です。時間の質量と刹那の重さのバランスがたまたま折り合った奇跡のようなひととき・・・。しかし、それは甘いご都合主義のような一幕ではありません。観客が観るその舞台には、ひととせ重なり合ったさまざまな刹那が作り出す立体感が存在し、その色は後からさらに重なる見えない刹那の一片たちによって変わっていく予感がする。だからこそ、一年前の春のシーンには平板に思えた舞台上から、ふくらみやほろにがさがしっかりと観客につたわってくるのです。

春の日、庭に桜咲く暖かな日差しの中での終演、その刹那は安堵とは似合わない一抹の切なさを観客の心に投げ入れます。切なさは帰り道にゆっくりと心で広がり、芝居を俯瞰する観客の心をやるせなく透明な色で染め上げて、安堵を潜ませてひらひらと舞い落ちる刹那への、柔らかな苛立ちにも似た想いを呼びおこすのです。

役者のこと、今回も岡田あがさのパワーを持った圧巻とも思える表現力がまず目を惹きました。彼女の感情表現は見るたびに円熟していっているように思えます。圧巻ではあるのですが、無理がない。伝わってくる感情の高まりが抗うようでなく引き入れるように観客を捕らえていきます。出張ホストを演じる半田周平の硬質かつ繊細な演技にも、弟を演じた安部イズムの実直で暖かさを内包した秀逸な表現にも、岡田は存在感を消すことなく交わっていくことができる。さらに母親を演じた篁薫のデフォルメのない美しく凜としたせりふ(時間を暖かくフリーズさせるようなこの演技は本当に見事でした)をしっかりと受け止めることもできる。よしんば細かい荒さがあったとしても、芝居における岡田のしなやかさには瞠目するしかありません。

一方、その、岡田あがさや他の役者達の秀逸な表現に負けることなくしっかりと舞台上の存在感を保ったのが長女役の斉藤ナツ子。テンションを切らさない、奥行きをもった粘り強い演技にも強く惹かれました。彼女には静の表現力のようなものがあって、柔らかい演技であっても周りの色に負けないのです。観るのは「ゼリーの空間」以来2度目ですが、息遣いのような細かい想いの出し入れに卓越したセンスを持った女優であり、同時にキャラクターに芯をしっかり作ることもできる・・・。彼女の長女役によってこの芝居の屋台骨が定まったような感じすらします。

細田喜加の演技も前回公演同様非常によかったです。前回とはうって変わったキャラクターでしたが、観客に浸潤してくるような危うさを見事に表現してみせました。心の柱をはずしてしまったような表情からは、観客が掬い取れないようなおぼつかない心の動きが不規則にあふれ出し、ふっと常軌からはみ出してしまうような空間を抱いた女性の感性を見事に現出させました。また佐藤けいこの演じるセラミックのような意思をもった女性も好演でした。彼女の表現する意思の強さには美しさに加えて下卑にならない健康さと滑らかさがあって。編集者という役柄がもつイメージを崩さないように演じているのも観る方にとってはわかりやすかったし、でしゃばらないけれど不足のない、見事にコントロールされた存在感も魅力でした。

北川裕子は初見、作者の坪田文さんがMCを勤めるインターネットTVの番組のアシスタントとしては知ってはいたのですが、これほどに肌理の細かい演技を積み重ねられる女優さんだとは思いませんでした。台詞にもそつがなく、せりふのない時間帯であっても、彼女は板の上で間違いなく舞台の時間を編み続けている・・・。何気ないまっすぐな台詞も、彼女の口から漏れるとちゃんとニュアンスをもって広がっていくような。ひとつの想いを伝える表現にひととおりでない豊かさがあって…。この人は大化けするかもしれません。

長女のアシスタントを演じた猿田瑛も不思議に気になる女優さんです。目鼻立ちがしっかりとした演技で、相手役をその中に引き込むような透明感があります。また、演技が着実というか演技に信頼感のようなものがあって…。私が知らないだけなのかもしれませんが、他にあまり同じようなテイストを持った女優さんが思い当たらないような・…。

あと、前述の母親役、篁薫や茶道教室の生徒を演じた富永陽子、川嵜美栄子、西田愛李にも生き生きとした実存感を感じました。青木英里奈は演じていることが楽しそう…。その雰囲気がロールにしっかりとマッチしていたように思います。また、青木の演技には、すっと観客に届いてくる伸びのようなものがあって(うまく言えないのですが)、観ていてもここちよかったです。

男優達もそれぞれに非常に趣深い演技でした。長女に淡い恋心をいたく編集者を演じた大塚秀記の演技には、中庸な中にやわらかく観ているもの心を共鳴させるような魅力があって・…。自然というより必要な負荷がしっかりと観客につたわってくるお芝居だったと思います。父親役の麻生0児も家族に馴染んだというか、良い部分だけでなく良くない部分も父親としての自然差みたいな部分があって・…。実存感溢れる父親だったように思います。前述の安部イズム半田周平にしてもそうなのですが、この舞台での男優陣は、その場のシチュエーションでせりふを話すのではなく、役柄のバックボーンにしっかりと腰を据えてせりふをあふれさせるような感じがあって、それが物語のベースをしっかりと支えている印象がありました。

まあ、初日ですから、舞台転換がちょっぴり大変そうだったり、役者の演技にも若干硬い部分が確かにありました。しかし、この芝居のクオリティから見れば、そんなことは些細なこと・・・。

私が感じたことが、作者の意図したことだったかどうかはわからないし、あるいは演出家深寅芥が具現化しようと腐心したことと一致しているかもわかりません。でも、帰り道、私の中には長女の上に積もっていった、桜が風に舞うがごとき刹那の感触がずっと残っていました。それは目に見えないもの、舞台空間の上に作者の卓越した創作力とや演出の非凡な感性、そして役者達の力によってよって始めて存在しえるもの。この感覚をたぶん私は忘れることができない・・・。

このお芝居、もう一度観にいきます。そして、感じたことやさらにおもったことを含めて、必要ならこの記事を改訂などもしようとも思います。この作品、当初の期待を超えてそれほどに奥深いのです。

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