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チェルフィッチュ 「フリータイム」 質量の見えない想いに満たされる朝のひと時=すこし改訂

3月15日ソワレでチェルフィッチュ「フリータイム」を観ました。早い整理番号をもらっていたのでもったいなくて1時間前の開場時間にはなんとか六本木SUPER DELUXEに到着。ゆったりした座り場所を確保しておいて、バーカウンターにて本日の賄いメニュー「きのこのリゾット」を注文。これがびっくりするほどおいしくて・・・。これだけで記事のひとつが書けそうなほど・・・。

会場はといえば、ステージをはさんだ向こう側の席がだんだんと人で埋まっていくのが、試合が始まる前のテニスコートのよう・・・。役者の方もなにげに会場を歩いていたりしてちょっとルーズな感じ・・。それが開演時間に近くになると次第に会場内の空気が締まってきて・・・。会場の空気がなにげにまとまるのを待っていたように、照明が落ち始め芝居が始まります。

(ここからもろにネタばれがあります。ご留意をいただきますようお願いいたします)

この芝居には途中休憩があります。45分の前半と30分の後半。休憩は15分。

開演時間になると、役者達は一列にならんでステージに入ってきます。多くはペットボトルを持って現れ、それらをステージの隅においてばらけた感じで舞台に散っていく。

「フリータイムが、をはじめます」

チェルフィッチュらしく芝居を始める旨の台詞があって、物語に入っていきます。一人の女性は足の先に黄緑の四角い枠のようなものをぶらげている。その黄緑色の小道具が目を引きます。

舞台は朝のファミレス。そこには男性の2人連れと女性客がひとりとバイトのウェイトレスという設定。そのウェイトレスは朝のシフトにはいっていることの多い、西藤と書くさいとうさん。男性達からは時々通路でぼっとしているといわれている彼女が客の二人連れの男性から私用で話しかけられたというころから演技が始まります。

男性の立場から、そしてさいとうさんの立場から・・・。同じ事象が語られて・・・。

そのとなりには、朝いつもファミレスの同じ席でコーヒーを飲む女性。ぐるぐると紙に円状のものを描きはじめます。彼女が、昨晩時々ご飯を食べる知り合いの男性と食事をして、話が盛り上がってしまい終電に間に合うように走ったこと。終電の一本前に間に合ってベンチに座ろうとしたらそこには酔っ払いが寝ていたこと。その顔がなくなった祖父に似ていたことなどが語られていきます。

また、その女性がなぜそこで朝の時間を過ごすかも語られて・・・。1時間の通勤時間のあとそこで30分過ごすこと・・・。それが彼女に何をもたらすかの説明。もし1時間そこですごしたらどうなるかという想像・・・.。でも、そうしたいと思っても1時間そこですごすことはしない理由の説明。足にひっかかる黄緑色の小道具・・・。

さいとうさんとその女性は、コーヒーの注文のことで、すこしだけ会話をします。1杯だけのコーヒーを追加料金を払えば飲み放題に変えられるかの事務的な確認・・・。

二人の男性と円を描く女性の間にもかかわりがあります。男達は女性が書いているものに興味をもってトイレにいく振りをして何気に覗いていったというのです。

同じ事象がなんども繰り返し語られます。複数の役者によって・・・。客観的に事情の説明がなされ、他からの視点として、あるいは見聞として、そして自らが内側からの主観的視点で・・・。それらの繰り返しは次第にファミリーレストラン(舞台には机の天板や椅子の上部が舞台に張り付いている)の空気にやわらかい広がりを持たせていく。出演者は時にペットボトルのところにいって水分を補給する仕草を見せ、あるいは舞台から退出し、また現れる。男は小さな緑色の小道具に乗り、女性はそれを相変わらず足に引っ掛ける。

「15分の休憩です」

後半、再び役者がばらばらと現れて・・・。同じ時間について語られます。ただし、前半と大きく異なるのは、それぞれの心情が強く語られること・・・。ウェイトレスのさいとうさんが注文以外のことで話しかけられたときの怒りに似た感情の表現が一番鮮烈ですが、それ以外にも、二人の男性に、トイレに行く振りをして自分を興味深げに見られた円を描く女性の感情が表現されたり・・・、男性たちのその女性に対する好奇心は一時のもので、窓の外のバス停でずっと立ってバスを何本もやり過ごしているアフロヘアーの女性により強い興味を惹かれていることが示されたり・・・。その女性は、実は、がりがりに痩せていて、アフロヘアーだけが目立って・・・。

そして、終盤、円を描く女性は「時々食事をする男性がいることは嘘です」と宣言するのです。女性はすこしの嘘を加えて想いを回しながら、30分の時間を1時間にすることができない制約をどこかにひっかけて、円を描き続ける。そこから抜け出すことをせず、その日を過ごすために自分のちょっと脚色された想いをを回して、30分のフリータイムを過ごしている。彼女はそれが必要なことだと感じている。

さいとうさんは仕事の手が空いたとき、通路にたって窓の外をぼっと眺め、仕事の合間のほんの少しの空き時間、すなわちフリータイムに自らの内なる感情に身をゆだねている。男達は刹那的で希薄な好奇心に移ろいながらフリータイムを続けていく・・・。まるでバスを何本もやりすごす女性に自らを重ねるように・・・。

役者達は、ばらばらに、主たる演者に重なる仕草で、まるで小さな慰安を得るようにペットボトルから水分をとったり、しばらくたたずんだり・・・。そして他の役者の演技にかかわりなく舞台を去っていく・・・。

最後に想いをまわすように円を描き続ける女性が残って・・・

「フリータイム終わります」

ステレオタイプで薄っぺらなファミレスのイメージと、そこで時間を過ごす人々。極端に貧しいわけでも、まったく満たされていないわけでもない・・・。すべてが幸せだというわけではなく、でもそこから逃げ出さなければならないわけでもない・・・。決して劇的ではない人々なのだけれど、その生々しい日常がゆっくりと心にしみこんで・・・、ふうっと息を吐きました。

帰り道で思い浮かんだことがいくつかあります。

まず、チェルフィッチュの作品をそんなにたくさん観ているわけではないのですが(2作+映像で1作)、今回の作品これまでに観た作品とはなにかが違うような気がしました。旨くいえないのですが、ベクトルが逆というか・・・。これまでのチェルフィッチュの舞台では、個人の感情が描かれる中で、社会の雰囲気が立体像鮮やかに浮かび上がる感じがあったのですが、今回の作品では舞台装置や照明が作り上げた朝のファミリーレストランの光景から登場人物の内なる立体像が広がっていくような感覚があります。

一見デフォルメされたような役者の動きとともに繰り返される説明や想いの表現が、突然にものすごく鮮明な内心の感覚として私にやってきます。それも、いくつかの視点から繰り返してなされる表現なので、一点から広がるのではなく心全体が染め替えられるようにやってくるのです。休憩後のさいとうさんの想いの表現も理屈を凌駕してやってくるし、円を描く女性の感覚のリアルさも感じる自分が息を呑むほど・・・。それは、原稿用紙何十枚分の言葉を重ねても表現できないものであるような・・・。

それと、今回は小さな道具が有効に使われていました。黄緑の枠のような物体など実に効果的で・・・。・・・。自由にはずせるけれどでも引っかかったままの足枷のようなものというニュアンスから、円を描く女性の感覚が瞠目するほどはっきりと伝わってきたし、その延長線として、小道具に触れても足枷にしない男性達のステイタスへの暗示にもなっていました。ペットボトルもそう、そこから飲む水分からも、満たされなさや行き場のない気持ちに対する慰安のようなニュアンスがまっすぐに伝わってきて・・・。しかも、これらの小道具が表現するものが、明快であってもべたな感じがまったくしないことにも感心しました。それらの小道具が伝える意味を主とするのではなく、従として舞台上で何かを主張していくので、役者が小道具にひきずられるのではなく、より大きな表現をしているような感じにまる。秀逸な小道具なのですが、それに寄りかかっているわけではない。小道具の使い方がとても洗練されていたのだと思います。

岡田メソッド(っていうのかわかりませんが)自体も一段と登場人物の感情のようなものを伝える力が増したような・・・。とくに後半のさいとうさんを演じる強い動きや男性がアフロ髪女性のことを語る場面での威力にはため息がでるほど・・・。静かに語られる台詞にその動作が加わると観ているものの奥行きと微妙な密度がまっすぐに伝わってくる。チェルフィッチュの表現に私が慣れてきたということなのかもしれませんが・・・。

もうひとつ、これも旨くいえないのですが、岡田氏は今回、舞台上で描き出す手段として写実主義のような表現方法だけでなく、抽象的な表現の要素を取り込んできたようにも思えます。想いをただ伝えるだけのリアルさだけではなくもっと多様な手段で自らが伝えたいものを表現しようとしているような・・・。それは、対象は個人の内面でも社会でもよいのですが、なにかを包括的な雰囲気や概念として提示するのではなく、よりその場にあう、あからさまでリアリティを持った表現するための手段を模索しているような感じがします。舞台装置などの作り方や黄緑の小さなオブジェを観ているとそんな気がしてなりません。今回のチェルフィッチュは内心の自由度を表現するために、メソッドをしっかりと守りつつもその内心を描くための方法の自由度を広げたように思えるのです。

結果として、ファミレスの空気の希薄さと、客やウェイトレス達の恒常的な生活、さらにはその中に潜む、個々の登場人物の確保された場所への安堵と意識の片隅に置かれた行き場のなさが、点描のような感覚や瑞々しさと一緒に伝わってきて・・・。

チェルフィッチュの表現力の更なる広がりを予感させる作品となりました。

今回の出演者は以下のとおり

山縣太一・山崎ルキノ・下西啓正・足立智充・安藤真理・伊東沙保

チェルフィッチュにしか表現し得ない世界、(10周年なのだそうですが)、これからも目が離せません。

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