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兵庫県立ピッコロ劇団「ビューティフル サンディ」役者に魅せられて・・・

3月23日、池袋シアターグリーンにて「ビューティフル サンディ」をみました。サードステージプロデュースでの初演が大評判になった三人芝居です。中谷まゆみ さんの処女戯曲、初演の2000年、長野里美、堺雅人、小須田康人のキャスト、板垣恭一の演出も話題になりました。その後、サードステージ版だけではなく、いくつかの劇団で再演されていたような気がします。。

すごく良く出来た戯曲なんですよ。軽妙な前半から登場人物のそれぞれが抱えるものが見事に浮かびあがってくる中盤に見せ場がいっぱいあって、やがて心がほっと暖かくなる終幕にいたる・・・、ウエストエンドのストレートプレイのようなテイストを持った懐の深い芝居なのです。それだけに役者や演出家の力量がもろに試されるような・・・。でも、裏を返せば、力のある役者にとっては才能を示すための絶好の台本ともいえるわけで・・・。

(ここからネタばれがあります。ご留意の上お読みください。)

で、今回の舞台、その役者が本当によかったです。私にとっては初見の役者さんばかりなのですが、なんか今まで彼らの演技を観たことがなくてすごく損をしていたような気になりました。とにかく目を惹いたのが平井久美子。発声や台詞の間が長野里美に近いのは初演の記録などを参考にしたのかもしれませんが、彼女が作り上げる三枝ちひろは、長野里美的よさに加えて暖色のナチュラルさというか気取らない華を持っていて・・・。相手の台詞に乗せられた想いをしっかりと受けて、まっすぐに想いを返していくような姿に、観客の心まで開かれていきます。台詞回しに強さとほんのすこしの甘えが見事に並存していて、知性に裏付けられた奔放さがありながら、その裏にぬくもりがちゃんと残っている。。ひとつ間違えばあつかましい、うざい女になりかねないキャラクターをなんとも居心地のよいオーラで染め替えていく。

幕があがって数分、彼女が登場すると、ビビッドで包容力がある彼女の演技に、観客はあっという間に引き入れられてしまいます。

彼女のペースがしっかりしていることで、戸川秋彦を演じる山田裕の演技にもメリハリが生まれます。。平井演じるちひろに引っ張られる部分と少し神経質な役柄で押そうとする部分の出し入れが舞台のリズムを豊かにしていく。義太夫の三味線が太夫に合わせると芸が死ぬという話を先日のNHKのドキュメンタリーで観たのですが、舞台の二人も同じような感じ。平井と山田の間で、お互いのタイミングを推し量るような間のとりかたが一切ないのに、物語が実に心地よく流れていく。そのグルーブ感が登場人物に対する親近感を観客に運んできます。二人の熟達したやりとりには瞠目するばかりです。

やがて橘 義演じる小笠原浩樹が登場。彼が現れると物語のトーンがゆっくりと変化していきます。明るさから哀しみがうっすらと透けるような、橘の表現が物語に陰影をつけていきます。ちひろと秋彦、さらに裕樹がそれぞれを触媒にしてお互いのことに気づき、自らのことに気づき、信頼を築いていく。平井久美子がふっと頑固に自分を貫くような演技をすると、ちひろの心のコアの部分がシルエットのように浮かび上がってきます。山田裕の押し出すような感情表現は秋彦の心に満たされたやさしさの影を映し出し、一方橘義の明るさに潜む覚めた表情は、彼の不安と想いの気配を柔らかく伝えていきます。

そして、それぞれが心に包み隠していたものがひとつずつ姿を現していく。秋彦の思いをちひろと浩樹が解き明かし、ちひろが抱えていた痛みを秋彦と浩樹がいやし、浩樹の孤独とためらいを秋彦とちひろが埋めていく。まるで輪が不器用に重なっていくように物語が流れ、3人の隠れた心情がエスプレッソコーヒーのように熱く深く抽出されます、そして三人に生まれた信頼関係が舞台を暖かく満たしていく。後半、いくつもの心情が共鳴しあう物語の展開を、役者達はそれぞれのペースを失うことなく流暢に演じきっていきます。豊潤なテンションが舞台からやがて客席までも包み込み、やがて終幕には胸を満たす昂揚が観客を支配していきます。

まあ、細かいことをいえば、舞台としてもっと良くなるのにという部分がないわけではありません。会場に入ったときに地を晒したような色でぼんやり浮かぶ舞台を眺めて、開演前でも、もう少しだけ照明を上げておけば観客のドラマに対する期待が高まるのにと思ったり(先日みたソノラマはその辺のセンスがすごくよかった)。照明のことを言えば幕間の照明の変化にもう少しデリカシーと表情がほしかった気も・・・。また舞台装置にも、もう少し遊びがあれば裕樹などの人柄をもっと表現できたのにとか思ったり・・・・。そういう積み重ねが豊かな表現に満ちた舞台をさらに滑らかな感触にするのではと・・・・。

それと、これは後日談なのですが、この舞台の感想を書き込もうと思ったのにCoRichでの登録が見つからないのです。こんなに良い舞台を見て、その感動を書き込めるはずの場所に記事がないのはちょっと悲しい・・・。まあ、この劇団にとってはAwayの舞台ですからしょうがないといえばしょうがないのかもしれないのですが、劇団の他の舞台はちゃんと検索できたことから、もうちょっと緻密な公演のアピールがあってもよいのではと思ったことでした。

でも、会場のスタッフの対応も気持ちよかったし、なによりも舞台では役者の力ある演技が観客への最大のおもてなし・・・。私事というか個人的には前半いろいろとあった週だったのですが、週末に極上のおもてなしをいただいて、すごく満たされた気持ちでお寺だらけの帰り道をたどることができました。

ほんとうによい日曜日を過ごさせていただきました。

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ソ・ノ・ラ・マ 「クーロンの法則」揚げた旗がたなびくためのいくつかのこと

3月21日 ソ・ノ・ラ・マの旗揚げ公演「クーロンの法則」を観ました。場所は中目黒ウッディーシアター。公演2日目でしたが超満員の盛況・・・。土日の公演は大変なことになっているのではないでしょうか・・・

この公演は、いまインターネットでやっている「小劇場TV」で知りました。MCをしている空間ゼリーの坪田文さんが脚本を書いているということで、ゲストに出演者を呼んで話をしていたのが、もう一月くらい前でしょうか・・・。で、チラシなどを観ているうちに、ふっと思ったのですよ。坪田さんの脚本に空間ゼリー以外の劇団がのっかるとどんな感じになるのだろうかって・・・。

で、4月の空間ゼリーの公演を楽しみにしている私は、今回が坪田文さんの戯曲ということで、視野を広げたい気持ちがあってチケットを購入。元は十分に取らせていただきました。100%全開という感じではなかったけど、クオリティはとても高い芝居でした。

(ここからネタばれがあります。十分に留意をいただきますようお願いいたします)

結論というか総合評価、面白かったです。物語の導入部分から、常に次の展開への興味がわくようなつくり。だれるところはただの一箇所もありませんでした。

役者達にも勢いがあったし、キャラクターの設定や表現される心の動きも良く伝わってきて・・・・。各シーンともダレたところはひとつもなかったです。若い役者が多いので舞台に勢いがあるし・・・。

坪田さん、登場人物の心情の描き方が厚くてうまいんですよ・・・。小さな言葉で価値観をすっと塗り替えたり、ふっと心をフェイントで見せたり・・・。サッカーでいうと2列目からのシュートみたいな・・・。また、無茶をしていないから、観客は安心して寄りかかれる。感心したのは女性達が相手の男性を拒絶するときの彼女達の感情、ほんとうに無理がない。貝のように心を閉ざす心理や許しが生まれるトリガーの部分の説得力を見ていて、この人の才能を再度目の当たりにしたような気がしました。そもそも物語を動かすまでの持っていき方から秀逸で・・・。

ただ、一つ一つのシーンは光っているのですが、全体の物語構成となると、なにか落ち着かないものがある。物語全体の表現のバランスがあまり良くない感じがするのです。たとえば、半暗転ごとに一ヶ月が流れたりするのですが、そこがうまく舞台から伝わってこない。台詞でダイレクトに時間の経過が告げられたりしていても、いかんせん役者達の演技からその重さがきちんと伝わってこないのです。あるシーンから次のシーンまでが一ヶ月といわれても観客側に実感が沸かない。役者個人、あるいは役者同士のからみの中で、一ヶ月の変化が真摯に意識されている演技がやや欠けているような・・・。その時間感覚がしっかりしていないと坪田脚本の終盤が生きてこない。主人公以外すべての人間を退出させるという思いつきは悪くはないのですが、前の幕までで必然の積み重ねしてきたいろんなことには、熟するまでの時間感覚が必要で、その長さというか積み重ねた時間が舞台と客席で共有されていないと、最後のシーンで登場人物たちが舞台から離れていくときの必然が実感として観客に伝わってこないのです。

それぞれのシーンを観ている限り、役者達にはそれぞれの役を満たして余りあるほどの技量があるのだから、物語全体のボリュームを伝えるような演技も彼らにはきっとできる気がするのですが・・・。なんか惜しい気がしたことでした。

そうは言っても魅力的なユニットです。作家は言わずもがな、演出の鬼頭理三さんもシリアスなストーりーに沈まないある種の軽さを作り上げて、結果として物語の目鼻がくっきりとした仕上がりになっていて。シーン替わりのつなぎ方も手馴れていて、観客の関心をうまく引っ張っていたし。主役の二人源・山口翔悟については心情がけれんなく伝わってくる演技、しかもこの役者達だから伝わってくるであろう匂いがあって・・・。多少力技での演技もあったけれど、何かを演じる熱意って観るものを惹き付ける根源的な力なのだと思います。

客演陣も好演でした。男優陣では黒田耕平の作る空気がまず目を惹きました。物語の色をうまく作っている感じ。ルーズさと知的さの混在が実に旨く演じられていて。手打隆盛の抑えた演技も、ゆったり加減が絶妙で好感が持てました。成松慶彦の弱さと芯の想いの表現も厚みがあってよかったと思います。ヒール役の三枝俊博の説得力・石塚良博の器用さも舞台にしっかりと貢献していました。

女優陣では松本美奈子の携帯を壊すに至る心情の表し方が実に秀逸。小さい演技の変化で確実に心の固まり方を表していく・・・。柔軟さと繊細さが同居した見事な芝居だったと思います。山口オンには実在感がありました。ある種の一途さに説得力があって。彼女の存在が物語自体の実存間を大きく育てていったように思います。桜井ふみの豪胆な演技もよかったです。見ていて妙な安心感があるのですよ。ああいう太っ腹な演技ができるってまちがいなく才能ですよね・・・。

ソ・ノ・ラ・マの揚げた旗が大きくなびくまでにはいくつかのことが必要なのだろうし、風も吹かなければいけないのでしょうけれど、でもそれをこなしていけるだけの根本的な力をこのユニットには感じることができる・・・。このユニットを構成する人間の才能がそのまま力になれば、次の回、さらに次の回と観客を思いっきり満たしてくれる何かをつくりだしてくれるような気がするのです。

次回がすごくたのしみです。

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自由自在の標本 喬太郎落語@YEBISU亭(プチ写真美術館観覧感想のおまけつき)

3月20日、YEBISU亭20回記念公演を見てまいりました。場所はいつもの恵比寿ガーデンプレイス。早くついたので、東京都写真美術館で「シュールレアリズムと写真」を拝観。写真って絵に比べると直情的で観るものをあっというまに理解させるような力があって、1930年~40年のシュールレアリズム写真が持つあからさまな感性を堪能・・・。観た→わかった→感動!!みたいな部分が写真にはあって面白かったです。ある意味ベタなのですが、澄んだウィットや今に通じるような斬新な視点が感じられて・・・。一方で思わずうふっとしてしまうような作品もあって。センスと志を持った人の作品って、作品の色は褪せても物を本質を表す力は褪せないのだと感心したことでした。

さて、YEBISU亭に戻って・・・。

いっこく堂 2ステージ

今回のゲストはいっこく堂さん。喬太郎師匠と同い年だそうで・・・。例のトークをはさんでけっこうたっぷりステージをつとめられました。腹話術という芸自体もそれはたいしたものだとおもいましたが、この人には巻き込むような笑いを作る力がある。そちらのほうもすごかったです。

ちょっと知的で小粋な風情があるので、笑いという意味では淡白な芸風の印象があったのですが、とんでもない・・・。この人は笑いに関しては策士です。芸の力による瞬発力のある笑いをただ放り投げるのではなく、その見せ方が緻密に計算されている・・・。流れの中での伏線の張り方や客の取り込み方が本当に上手で、観客が載せられてみようかなという気持ちになってしまう・・・。工夫も随所にあって飽きない。最後の客いじりには観客を別の世界に持っていていじった客を立てるようなすごさがあって・・・。

ちょっとファンになってしまいました。

柳家喬太郎 「擬宝珠」

出囃子がウルトラマンのテーマ・・・。初体験。まあ、お三味の苦労がにじみ出るような御囃子でしたが、出囃子で笑いが取れるということはそうないでしょうから、爆笑は下座の皆様へのご祝儀ということで・・・。

初めて聴く噺ではあるのですが、金物フェチの顛末というのはどこかで読んだことがあります。正確に思い出せないので、ちがっていたらごめんなさいなのですが、都築道夫さんの短編に金物をなめたい男の話があったような・・・。なんかこのストーリーは聴いたことがあるような・・・。しかし少々のデジャブっぽい感覚など吹き飛ばしてしまうような名演でございました。

枕は人形遊びからヒーロー物のフィギア、さらにコレクターの話からサゲのネタふり、良い語り口です。フィギュアばなしの派生で、寄席にあってもおかしくないという落語家のガチャガチャフィギュアばなしには笑いました。シークレットが下座のお師匠さんっていうのですから・・・。

で、枕からすっと噺に入ったとたんに熊さんに「この流れで古典とは思わなかった」と言わせていっきに観客を自分の手のひらに持っていってしまうところが師匠の師匠たるゆえんで・・・。おまけに若旦那が患いこんでいるというので、てっきり「せ~おはやみ~」とやると思ったところに、若旦那の「女の悩みじゃない」・・・。で熊さんに「これは崇徳院はねえな・・」とやられたときには、もう恐れ入りましたの一言でございました。みかんの房を3つ持って逃げちゃう番頭の噺かとおもいましたがそれもないということで・・・。じゃあどこに行くのかと思っていると、金物フェチの噺に流れる・・・。その段階で客はすでに一仕事させられているわけで、もう十分に温まってしまっている。

金物フェチの若旦那の目がすごいんですよ。常軌を逸している・・・。ぎりぎりからちょっとあっちに行っしまってる感じ・・・。リアリティがある・・・。ここで世の中の価値観を変えてしまうから、若旦那の両親の金物フェチ話がぐっと立つ。このあたりの安定したグルーブ感・・・、喬太郎師匠の真骨頂その1といったところ。(次の高座で別の真骨頂をみせられるもので一応No.を)

オチもしっかりと両足を着けたいい塩梅の強さで、良い噺を聴いたときの満足感がどわっとやってまいりました。

柳家喬太郎 「ハワイの雪」

今度はまっとうな出囃子で・・・創作落語。噂は聞いていたのですが実際に聴くのは初めてです。

ネタばれは避けますが、お爺さんの生きてきた世界が浮き上がってくる。物語にしっかりとした世界観があり、なおかつ、登場人物の個性が見事に描かれているのです。だから多少無茶をやっても筋が流れない。

冒頭は滑稽話の様相・・・。

腕相撲のシーンなど、とてもよく工夫されているなと思いました。心理描写にふくらみがあって・・・。大ネタこねたを取り混ぜて、その中で年寄りの頑固さが良い意味でしっかりと出て・・・。

それが、幼馴染に何十年ぶりに会いに行くあたりから段々と人情噺に色を帯びてくる

後半、昔の恋人通しが再び逢うところなど、セピア色の映画の一シーンのよう。はめ物のさりげなさ、照明の加減にふっと魂が消えていく姿の美しいこと・・・。この繊細さをすーーっと支えてゆっくりと観客の心におくところが喬太郎師匠の真骨頂Part2。

それまでの話が時間の目盛になって、80歳の人生の長さが雪のはかなさの向こうに浮かんでくる。前半のはじけかたが、そのまま消え行く命の昔の輝きにすら思えて・・・。

ああ、看取らせていただいた・・・。そんな気になってしまう。

単なる人情話に終わらない間口の広さがこの噺にはあって・・・。

いやあ、べたな言い方ですが、ほんと、よかったですよ。

「今夜踊ろう」

まあくまさこ様、今回も絶好調で・・・。

いっこう堂さんと喬太郎師匠が石野まこ「春ららら」を全部そらんじて内容につっ込みをしっかり決めたところで「はい、お勉強になりましたね」と受けたのにはお腹がいたくなるほど笑いました。

しかし、世代が同じというのはトークの流れを豊かにしますね・・・。アイドル歌手の話の盛り上がりのすごいこと。あそこまでいくと、沈静化させて話をすすめることができるのは彼女だけかも・・・。

無慈悲な話のきり方はもはや芸の域、喬太郎師匠を熱くさせるには案外よいパートナーなのかもと思ったことでした。

ああ、楽しかった。

R-Club

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チェルフィッチュ 「フリータイム」 質量の見えない想いに満たされる朝のひと時=すこし改訂

3月15日ソワレでチェルフィッチュ「フリータイム」を観ました。早い整理番号をもらっていたのでもったいなくて1時間前の開場時間にはなんとか六本木SUPER DELUXEに到着。ゆったりした座り場所を確保しておいて、バーカウンターにて本日の賄いメニュー「きのこのリゾット」を注文。これがびっくりするほどおいしくて・・・。これだけで記事のひとつが書けそうなほど・・・。

会場はといえば、ステージをはさんだ向こう側の席がだんだんと人で埋まっていくのが、試合が始まる前のテニスコートのよう・・・。役者の方もなにげに会場を歩いていたりしてちょっとルーズな感じ・・。それが開演時間に近くになると次第に会場内の空気が締まってきて・・・。会場の空気がなにげにまとまるのを待っていたように、照明が落ち始め芝居が始まります。

(ここからもろにネタばれがあります。ご留意をいただきますようお願いいたします)

この芝居には途中休憩があります。45分の前半と30分の後半。休憩は15分。

開演時間になると、役者達は一列にならんでステージに入ってきます。多くはペットボトルを持って現れ、それらをステージの隅においてばらけた感じで舞台に散っていく。

「フリータイムが、をはじめます」

チェルフィッチュらしく芝居を始める旨の台詞があって、物語に入っていきます。一人の女性は足の先に黄緑の四角い枠のようなものをぶらげている。その黄緑色の小道具が目を引きます。

舞台は朝のファミレス。そこには男性の2人連れと女性客がひとりとバイトのウェイトレスという設定。そのウェイトレスは朝のシフトにはいっていることの多い、西藤と書くさいとうさん。男性達からは時々通路でぼっとしているといわれている彼女が客の二人連れの男性から私用で話しかけられたというころから演技が始まります。

男性の立場から、そしてさいとうさんの立場から・・・。同じ事象が語られて・・・。

そのとなりには、朝いつもファミレスの同じ席でコーヒーを飲む女性。ぐるぐると紙に円状のものを描きはじめます。彼女が、昨晩時々ご飯を食べる知り合いの男性と食事をして、話が盛り上がってしまい終電に間に合うように走ったこと。終電の一本前に間に合ってベンチに座ろうとしたらそこには酔っ払いが寝ていたこと。その顔がなくなった祖父に似ていたことなどが語られていきます。

また、その女性がなぜそこで朝の時間を過ごすかも語られて・・・。1時間の通勤時間のあとそこで30分過ごすこと・・・。それが彼女に何をもたらすかの説明。もし1時間そこですごしたらどうなるかという想像・・・.。でも、そうしたいと思っても1時間そこですごすことはしない理由の説明。足にひっかかる黄緑色の小道具・・・。

さいとうさんとその女性は、コーヒーの注文のことで、すこしだけ会話をします。1杯だけのコーヒーを追加料金を払えば飲み放題に変えられるかの事務的な確認・・・。

二人の男性と円を描く女性の間にもかかわりがあります。男達は女性が書いているものに興味をもってトイレにいく振りをして何気に覗いていったというのです。

同じ事象がなんども繰り返し語られます。複数の役者によって・・・。客観的に事情の説明がなされ、他からの視点として、あるいは見聞として、そして自らが内側からの主観的視点で・・・。それらの繰り返しは次第にファミリーレストラン(舞台には机の天板や椅子の上部が舞台に張り付いている)の空気にやわらかい広がりを持たせていく。出演者は時にペットボトルのところにいって水分を補給する仕草を見せ、あるいは舞台から退出し、また現れる。男は小さな緑色の小道具に乗り、女性はそれを相変わらず足に引っ掛ける。

「15分の休憩です」

後半、再び役者がばらばらと現れて・・・。同じ時間について語られます。ただし、前半と大きく異なるのは、それぞれの心情が強く語られること・・・。ウェイトレスのさいとうさんが注文以外のことで話しかけられたときの怒りに似た感情の表現が一番鮮烈ですが、それ以外にも、二人の男性に、トイレに行く振りをして自分を興味深げに見られた円を描く女性の感情が表現されたり・・・、男性たちのその女性に対する好奇心は一時のもので、窓の外のバス停でずっと立ってバスを何本もやり過ごしているアフロヘアーの女性により強い興味を惹かれていることが示されたり・・・。その女性は、実は、がりがりに痩せていて、アフロヘアーだけが目立って・・・。

そして、終盤、円を描く女性は「時々食事をする男性がいることは嘘です」と宣言するのです。女性はすこしの嘘を加えて想いを回しながら、30分の時間を1時間にすることができない制約をどこかにひっかけて、円を描き続ける。そこから抜け出すことをせず、その日を過ごすために自分のちょっと脚色された想いをを回して、30分のフリータイムを過ごしている。彼女はそれが必要なことだと感じている。

さいとうさんは仕事の手が空いたとき、通路にたって窓の外をぼっと眺め、仕事の合間のほんの少しの空き時間、すなわちフリータイムに自らの内なる感情に身をゆだねている。男達は刹那的で希薄な好奇心に移ろいながらフリータイムを続けていく・・・。まるでバスを何本もやりすごす女性に自らを重ねるように・・・。

役者達は、ばらばらに、主たる演者に重なる仕草で、まるで小さな慰安を得るようにペットボトルから水分をとったり、しばらくたたずんだり・・・。そして他の役者の演技にかかわりなく舞台を去っていく・・・。

最後に想いをまわすように円を描き続ける女性が残って・・・

「フリータイム終わります」

ステレオタイプで薄っぺらなファミレスのイメージと、そこで時間を過ごす人々。極端に貧しいわけでも、まったく満たされていないわけでもない・・・。すべてが幸せだというわけではなく、でもそこから逃げ出さなければならないわけでもない・・・。決して劇的ではない人々なのだけれど、その生々しい日常がゆっくりと心にしみこんで・・・、ふうっと息を吐きました。

帰り道で思い浮かんだことがいくつかあります。

まず、チェルフィッチュの作品をそんなにたくさん観ているわけではないのですが(2作+映像で1作)、今回の作品これまでに観た作品とはなにかが違うような気がしました。旨くいえないのですが、ベクトルが逆というか・・・。これまでのチェルフィッチュの舞台では、個人の感情が描かれる中で、社会の雰囲気が立体像鮮やかに浮かび上がる感じがあったのですが、今回の作品では舞台装置や照明が作り上げた朝のファミリーレストランの光景から登場人物の内なる立体像が広がっていくような感覚があります。

一見デフォルメされたような役者の動きとともに繰り返される説明や想いの表現が、突然にものすごく鮮明な内心の感覚として私にやってきます。それも、いくつかの視点から繰り返してなされる表現なので、一点から広がるのではなく心全体が染め替えられるようにやってくるのです。休憩後のさいとうさんの想いの表現も理屈を凌駕してやってくるし、円を描く女性の感覚のリアルさも感じる自分が息を呑むほど・・・。それは、原稿用紙何十枚分の言葉を重ねても表現できないものであるような・・・。

それと、今回は小さな道具が有効に使われていました。黄緑の枠のような物体など実に効果的で・・・。・・・。自由にはずせるけれどでも引っかかったままの足枷のようなものというニュアンスから、円を描く女性の感覚が瞠目するほどはっきりと伝わってきたし、その延長線として、小道具に触れても足枷にしない男性達のステイタスへの暗示にもなっていました。ペットボトルもそう、そこから飲む水分からも、満たされなさや行き場のない気持ちに対する慰安のようなニュアンスがまっすぐに伝わってきて・・・。しかも、これらの小道具が表現するものが、明快であってもべたな感じがまったくしないことにも感心しました。それらの小道具が伝える意味を主とするのではなく、従として舞台上で何かを主張していくので、役者が小道具にひきずられるのではなく、より大きな表現をしているような感じにまる。秀逸な小道具なのですが、それに寄りかかっているわけではない。小道具の使い方がとても洗練されていたのだと思います。

岡田メソッド(っていうのかわかりませんが)自体も一段と登場人物の感情のようなものを伝える力が増したような・・・。とくに後半のさいとうさんを演じる強い動きや男性がアフロ髪女性のことを語る場面での威力にはため息がでるほど・・・。静かに語られる台詞にその動作が加わると観ているものの奥行きと微妙な密度がまっすぐに伝わってくる。チェルフィッチュの表現に私が慣れてきたということなのかもしれませんが・・・。

もうひとつ、これも旨くいえないのですが、岡田氏は今回、舞台上で描き出す手段として写実主義のような表現方法だけでなく、抽象的な表現の要素を取り込んできたようにも思えます。想いをただ伝えるだけのリアルさだけではなくもっと多様な手段で自らが伝えたいものを表現しようとしているような・・・。それは、対象は個人の内面でも社会でもよいのですが、なにかを包括的な雰囲気や概念として提示するのではなく、よりその場にあう、あからさまでリアリティを持った表現するための手段を模索しているような感じがします。舞台装置などの作り方や黄緑の小さなオブジェを観ているとそんな気がしてなりません。今回のチェルフィッチュは内心の自由度を表現するために、メソッドをしっかりと守りつつもその内心を描くための方法の自由度を広げたように思えるのです。

結果として、ファミレスの空気の希薄さと、客やウェイトレス達の恒常的な生活、さらにはその中に潜む、個々の登場人物の確保された場所への安堵と意識の片隅に置かれた行き場のなさが、点描のような感覚や瑞々しさと一緒に伝わってきて・・・。

チェルフィッチュの表現力の更なる広がりを予感させる作品となりました。

今回の出演者は以下のとおり

山縣太一・山崎ルキノ・下西啓正・足立智充・安藤真理・伊東沙保

チェルフィッチュにしか表現し得ない世界、(10周年なのだそうですが)、これからも目が離せません。

R-Club

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戻ると広がるその渋さ・・・ JACROW「斑点シャドー」

3月15日マチネでJACROW「斑点シャドー」を観てきました。人身事故で埼京線が止まってかなりあせりましたがなんとか開演前に到着、前回新宿で1時間の時間制限ステージを見たときにきらっと光るものを感じていた劇団ですが、理詰めで物語を作っていく部分がありそうで、意地でも最初から見ようと、駅の階段を走りました。

結果、それだけしんどい思いをした甲斐は十分にありました。

(ここからネタバレがあります。まだご覧になっていらっしゃらない方は、お読みになられないようお願いいたします)

物語は、とある会社の社員住宅。その上下2世帯を中心に話が進みます。いや、話が進みますというのは正しくないですね。冒頭のシーンが、女性のもとに妹らしき人が尋ねてくる。そのアパートでは事件がおこっている。上に住む女性が包丁で刺されたという・・・・。このシーンが0地点となり、そこから逆の時間軸で物語のルーツへとステージが進んでいきます。

それは過去が挿入されるというような生易しいものではありません。1日前、4日前とどんどんシーンが戻っていくのです。そこで物語の因果が演じられていくという趣向。犯人探しとかそういう単純な話ではなく、そこに至るまでの絡まりあった人間の関係や感情などがさかのぼる時間の中で、観客の視野を広げるように表現されていきます。

前回公演のように切れのあるすばやい物語展開ではなく、心情を細かく積み上げるように物語が紡がれていくのです。

前回公演同様の二つの空間を一つの場所で演じる手法が今回も取られています。具体的には上下二つの部屋がひとつの空間で演じられるのですが、これが意外な効果を呼びます。その世界の閉塞性がすごくよく伝わってくるのです。社員寮という世間の枠が狭い世界、その息が詰まるような雰囲気が見事に浮かび上がってきます。また、同じ時間を分割して表現するされても、この手法なら違和感がほとんどありません。

役者達はとてもオーソドックスな演技の中で、じっくりとシチュエーションを構築していきます。きちんとその前(演じられるのは後)の因果を踏まえての演技なのですが、その提示の仕方に無理な力みや妙な気負いがないのが見事で、観客は違和感をもたずに過去の物語に入り込んでいきます。一本の木を根から堀り起こしていくように、幕ごとに地中の絡んだ根がほどけて、個々のの登場人物のバックグラウンドが明らかにされていく。

観ていて不思議な感じでした。時間が戻るたびに傍観者としての目がさえていくというか、目からうろこがシーンごとに落ちていく感じ。奇をてらった物語ではないのです。人間の建前と隠したい部分の絡まり方などすごくリアリティがあって・・・。そのリアリティが観客に適度な質量で積もっていきます。べたつかずクールな感じで。

舞台上にある独特なトーンや緊張感は前回の公演にもあったスタイリッシュな部分が腰を据えた舞台で形を変えて旨く生きたということなのでしょうね。結果として観客には柔らかい着地で物語を受け止めたような感覚が残って・・・。時間が戻った最後のシーンがじわっと染み入ってきました。

時間のさかのぼりを暗示する選挙のアナウンスも見事な工夫でした。声が風景の色に溶け込んでしっかり意識にのこる・・・。さり気なく物語の外枠を作る見事なファインプレーだったと思います。ポスターの工夫も良くできていた・・・。

なによりも、このトーン、ちょっと癖になるかもしれない。

役者のこと、菊池未来、蒻崎今日子とも感情の出し入れがとても秀逸。素の部分の演技に張りがあるので、ふっと見せる思いが映える感じ。木村美月の切ないような想いの表現も舞台の中でしっかりと存在感がありました。成川知也、三浦知之、仗桐安、三浦英蔵のあくの強さも舞台に馴染んでいたし、加藤敦、今里真の微妙な感情の表現も舞台の空気をしっかりと作っていたと思います。この芝居、観客にとって役者の色に寄りかかって観れないとけっこう苦しいかも。場の色を作れるほどの良い役者が集まっていたのも勝因のひとつかもしれません。

前回の1時間芝居で見えた「どれだけしっかりと詰め込もうか・・・」的な感覚が影を潜めたとたん、芝居が観客の上を滑らずしっかりと内側に入ってきて・・・。倍近くある今回の尺が前回よりも短く感じられるほど。良い劇団に制約をしちゃいけないというか、力のある劇団にはやりたい放題が一番なのかもしれませんね。

なんにしても、一種の充実感のある芝居にめぐり合うことができました。次回公演も楽しみなことです。

(おまけ)

当日はトークショーのおまけつき・・・。それが、もう・・・・。すごいのですよ。トークに名を借りた、新手のコントというか・・・。イケメン男優をゲストに呼んでJACROW所属女優の蒻崎今日子さんがインタビューをするという企画なのですが、インタビューというよりメロメロの蒻崎今日子さんにどういう対応をするかで男優の人柄がわかるという踏み絵のような部分があったりして。本編の独特な緊張感は一発で失せるけれど、もう理屈ぬきにおもしろかった。心にゆとりがあるのなら、JACROWの公演はトークショー付がお勧めでございます。

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しっとりと猥雑に楽しくて瑞々しい・・・ 康本雅子「チビルダ ミチルダ」 

3月14日、アサヒ・アートスクエアで康本雅子「チビルダミチルダ」を観てきました。かなり強い雨が降りしきる中地下鉄の浅草駅から吾妻橋を渡って・・・。ちょっと憂鬱な気分で開場を待ったのですが、スタッフの対応がしっかりとしていて会場も居心地がなんかもよくて・・・。さすが会場の親会社がアサヒだけあって、ビールのワンドリンクサービスまであって。ちょっと気分回復。

で、公演が始まると外の雨なんて完全に飛んでしまって・・・。すばらしいダンスパフォーマンスに完全にはまり込んでしまいました。

(ここからネタバレがあります。十分にご留意いただきますようお願いいたします)

客電が消えないままで、おもちゃの動物を引きながら現れる康本雅子、すーーっと彼女の世界に導かれる感じ・・・。そして、照明が落ちて、カンパニーが現れるとあとはもう、彼女の世界に一気に持っていかれます。

まずビビッド、綺麗なユニゾンの美しさを感じる部分とふっとバラける部分が絶妙なリズムになっていて、心が共鳴して行く感じ・・・。動きに切れがあるのですが、すべてがしゃきしゃきと動くのではなく、拍子の間にちょっとだけオーバラップするような、動きが残るというか伸びのようなものが伝わってくる部分があって、それが全体のイメージをとてもなめらかにしている。群舞の生真面目な動きだけでなくソロや対での踊りにも伸びやかな動きができるダンサーぞろいで、康本雅子の踊りのティストをやわらかく支える感じ。明るいシーン、ソリッドな場面、リズムに乗って、あるときは一息の何分の一かずらして趣の深いオブジェが観客のイメージの中に構築されていくなかで、一瞬抜けるような闇を感じたり、肩の力がすっと抜けるようなぬくもりが柔らかくやってきたり。

そして、ソロになったときの康本雅子のしなやかさ、観ているものの心までをすぅーーと広げるような風が客席に吹き込む。たとえば子供が好奇心のままに動いていくような、一方で感情を包み込むように取り込んでいくような・・・。抜群の切れが高い密度でやわらかい動線を描き出す。指の先にまで過不足のない力が伝わってさらにそれが会場全体まで染めていくよう。艶やかな熱を発しながら踊るパートがふっと切れてクールな熱(形容矛盾だけれど)が彼女を包む瞬間、ぞくっと私の肌が粟立つ。やや重めの質量が軽やかに動く姿には観客を凌駕するパワーが内包されていて、観客はその力に酔いながら彼女の描く世界に漬け込まれていきます。

一方で、創意に満ちた振り付けは、時に下世話であり、粋であり、コミカルです。あからさまな示唆と内に浸潤するような動きは、時に、観客に微笑すら運んできてくれます。そうかとおもえば、カンパニーのさまざまなバリエーションの動き、声、歌、断片的な言葉のようなもの・・・。それらが観客の開かれた心の中で色にまで昇華していきます。声の先に高まりがあり、高まりが満ちた先に更なる動きがある。シームレスに訪れる感覚に観ているものは感覚がはちきれるほどに広がっていくように思える・・・。さまざまな表現が猫の目のようにやってきて、しかも観客にはとまどいや違和感がまったく感じられない。

しかも俯瞰してみれば、一連のパフォーマンスは30歳前後の女性の人生の体現でもあるような・・・。幼いころから思春期の感性、心の中の2面性、大人の女性としての熱情と失望のようなもの、楽しいこと、落ち込むこと、そして艶かしいこと・・・終幕に提示される、女性としての感性のヒストリーが、次のジェネレーションへとつながれていくような回帰の暗示に、思わず感嘆の吐息がこぼれてしまうのです。

でも、・・・・、ここまで読んでいただいておいて申し訳ないのですが、こんな記述では、彼女のパフォーマンスを表現するのにあまりにも足りないような気もします。

なによりも、彼女の舞台を見て心から思ったこと。観ていて楽しい。理屈ではなく楽しい。重なるいくつかのステップに私の好奇心がのどを鳴らし、音楽を踏み越える彼女のリズムが私の心を酔わせ、舞台上の表現の広がりが私の心の拘束具を弾き飛ばしていくれる。わっと喜んで、時々きゅんとして・・・。その楽しさ。

そう、「感じた楽しさの表現」こそが彼女の作り上げた時間を表現するに一番適したものなのかもしれません。

今回の康本雅子パフォーマンス、ほんと、観て楽しく観ることができてうれしかったです。何度も書くけど「すごく楽しかった」です

なお、今回のクレジット等は以下のとおり

作り手: 康本雅子

演じ手: 新鋪美佳・佐藤亮介・関本麻須美・羽太結子・吉村和顕・康本雅子

クレジットの最後に「禁じ手:奈良ちゃん」とあります・・・。禁じ手???

ここだけ意味がわかりません。誰か知っていたら教えてくださいな。

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荒っぽさが心地よくて実は超リアル MCR「シナトラと猫」

3月11日、下北沢駅前劇場にてMCR「シナトラと猫」を観て参りました。MCRにあひるなんちゃらの3名も加わっての合同公演の赴き・・・、初演のときは、最終日に「猫」バージョンを観ていて、(実はこれが作り手にとって大変な作品だったらしいことを今回のアフタート-クで知った)とても印象が深かった作品。

体裁をかまわぬぶつ切りのようなつくりに繊細でリアルな感覚が浮かび上がる、MCRらしい1時間30分ほどをたっぷり体験してきました

(ここからはネタばれがあります。お読みいただく際には十分ご留意ください)

今回のバージョンは「椎名」、三人姉妹の次女。演じるのはあひるなんちゃらの黒岩三佳、主人公ミカの0歳から死の少し前までの風景が演じられます。両脇に椎名の年齢と舞台上の場所設定が書かれた看板がつるされ、登場人物達はそれぞれゼッケンに役柄と椎名との関係を書いて演技をします。前回メインで観た猫ももちろん登場・・・、私が大好きだった福井喜朗演じるずっと猫のそばにいるおじさんも登場します。

生まれたときのエピソードから、幼いころの兄弟との関係、さらには小学校から中学校、初恋や友人との関係・・・、ひとつずつのエピソードは断片的なのですが、それぞれの場面に、まるで人生のちょっと思い出になるようなシーンが詰められていて、次第に重なっていくうちに主人公ミカの心の色や想いなどが人生を歩むがごとくゆっくりと積みあがって観客の心を支配していきます。

自分の感覚やペースでそれこそ奔放に生きていく母や、その母の心の赴くままに取り替えられていく父、特にかっこよくないどこにでもいる同級生・・・、それぞれに個性がある姉や妹・・・・。やがて母の夫になってさらには捨てられてしまう学校の先生・・・、そして公園にはなぜかミカと話ができる猫・・・。日常の生活の範囲でのエピソード、かっこいい話があるわけでもなく、特に不幸になるわけでもなく・・・。どこか思い通りにならないことが多いけれど、でも時には自分の気持ちを通せることもある・・・、そんな毎日が積み重なった人生。

作・演出・出演の櫻井智也は、不要な演劇的ディテールを荒っぽく切り捨てる一方で、主人公や周りの人々の繊細な感情の積み重ねを地道に行っていきます。ナチュラルな感情表現に、彼一流のノリ・ツッコミのセンスや突き放したような笑いを気まぐれに織り込んで、主人公のミカや彼女の周りの人々の人生を列車のダイアグラムのようにつなげていく。1年の中でエピソードが複数演じられたり、2年から3年物語が飛んだり・・・。

最初はばらけた話のように思えるのですが、しばらくするとその世界にいる安堵感のようなものがやってきます。母を演じた吉田久代の存在感が抜群で・・・。、死を意識したとき猫を介して同じ血を感じる主人公のエピソードにはほろっと涙して・・・。姉や妹、さらには友人達の微妙な関わり方にも肌に馴染むような不可思議な実存間があって。ご近所の知り合いを眺める感覚にも現実を思わせる距離感があって・・・。それらがやがてひとつにまとまっていく。ふっと人生の質量に思いを馳せてしまうような感じがじわっと訪れて・・・。

最後のシーンに至ってミカの人生から伝わってくる心地悪くはない軽さと、積み重ねられた過去に対する達観がいつまでも心に残る・・・。

理屈とかではなく、心にとてもしっかり残るものがある・・・。

この芝居における櫻井智也の表現って実は超リアルなのかもしれません。考えてみれば、現実には、主人公や登場人物の立場や存在ってまわりからは強く認識されたり深く考えられているわけではなく、むしろお互いにゼッケンに書かれた程度の関係性を意識しているだけのような気がするし、(名前が前に、たとえば「友人」とか「母」とかいう関係性が後ろに貼られていているだけ)、ふっと浮かぶ記憶に結び付けられた時間や場所も、舞台の上手と下手にかざりっけもなくあからさまにつるされた、主人公の年齢と場所(たとえば「空き地」みたいに)くらいしか実は心に浮かんでいないような・・・。

役者達のエピソードを演じるときのデフォルメ度合いやキャラクターどおしの距離感も、実はしっかりと現実の感覚にまで削り込まれ抑制されていて・・・。主人公の黒岩三佳のコアが明確にあるぶれない演技がその超リアル距離感をいっそう明確にしている。

そういう世界観で芝居を構築できるのが、MCRのMCRたるところなのでしょうね・・・。荒っぽかったり雑だったり、いまひとつ良くわからないキャラクターが舞台にいたり、うそっぽい表現もけっこうあるのに、終わってみると、芝居がもつ浸透圧に抗し難いような感じが残って、微妙で複雑な切なさに観客の心が満たされているのです。

今回の役者達は以下のとおり、例外なく安定した演技でしっかりと「シナトラと猫」ワールドを構築していました。3バージョン共通でひとつの世界を演じることができるのも、櫻井智也の世界観が役者達に共有されているからかもしれませんが、一方でその世界にちゃんと暮らすことができる資質をもった役者達の力量もけっこうすごい。終演後のトークショーで、初演時のエピソードがいくつか明かされたのですが、なんでも、たぶん私が見たであろうバージョンでは、前日に脚本が役者に渡されてやってみたら尺が40分も足りなくて夜の公演を前に昼にエピソードを継ぎ足していったのだそう・・・。まあ、話自体にも誇張も多少はあるのでしょうけれど、そういうのって、桜井智也が持つこの芝居群(3バージョン)共通の世界観がしっかりしているからこそできた離れ業なのでしょうね・・・。

(椎名家)

 黒岩三佳・北島広貴・吉田久代・上田楓子、高橋優子

(櫻井家)

 櫻井智也・伊達香苗・中川智明・おがわじゅんや

(学校)

 渡辺裕樹・江見昭嘉・宮本拓也・小野紀亮・山田奈々子

(空き地)

 関村俊介・福井芳朗

MCRの底力にあひるなんちゃら感覚もしっかりと楽しめて、平日ではありましたが観にいって大正解でございました。

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凛とした二人が描き出すその人は・・・ー天切り松 闇がたり 第二夜 残侠ー

昨年観た、朗読劇 「天切り松 闇がたり」のパート2を観てまいりました。

場所は紀尾井ホール小ホール、第二夜というのが正式名称ですが、すまけいがパート2といって舞台を始めたのがとても印象に残っていて・・・。

同じ匂いから始まった舞台ですが、しかし、第一夜とはまた趣のことなる物語となりました。

(ここからはネタバレがあります。ご留意ください)

第一夜同様、落語で言う枕のような部分があって、尺八にせかされるように物語に入っていきます、このあたりは上等の落語とおんなじ呼吸・・・。たちまちのうちに場内の空気がすっと締まって、物語が展開していきます。

浅草にお参りという華やいだ雰囲気にも、粋と筋目がしっかり通った物語の展開・・・。大道芸に行き着くまでの雰囲気がまたよいのですよ。聞こえない音が聞こえてくる。仲見世のざわめき、周囲の店たち・・・。

清水の次郎長一門の小政が主人公の一家を尋ねてくるところが前半一番の見せ場・・。昔かたぎの啖呵がしっかりと重みを持って決まるあたりはまさに聞かせどころ・・・。噺の密度が自在に動く感じで、そこに登場人物たちの息遣いのようなものまでがすっと空気に溶けていく。

すまけいの表情の豊かさ、ここ一番の押しの強さ、そしてふっとぬくような部分にできるやわらかい空間・・・。

尺八の音がさらに空間の色を鮮やかにして・・・、気がつけば見えないものが見えないがゆえにくっきりとそこにあって、その臨場感に酔いしれている感じ・・・。

楽に呼吸をしているつもりでも、登場人物の息遣いがとりついているような・・・。その緊張感が場内をあたためていく・・・。

後半、鷲尾真知子がからむ物語では、さらに舞台上に見えないものが見えてきます。三越のティールームのモダンさ、鷲尾真知子演じるお紺の心の動き、粋な仕草に垣間見える女心がちょっとユーモラスでもあり・・・。当時一番おしゃれだった場所の、喧騒を伴ったぜいたくさのなかにいる彼女が、竹下夢二を見つけたときのふっと浮き立つような心情がゆっくりと観客につたわってくる・・・。そして竹下夢二が観るお紺と、お紺自身が竹下に見せるお紺の見事な落差・・・・。ニコライ堂を舞台にどこか頑固で自分を疑わない二人が作り上げるそれぞれの世界のちぐはぐさ。背中の刺青を見せて、これが本当の自分だというお紺に、宵待ち草とタイトルがつくような清楚でどこかとまどったような女性を見る竹下夢二。

これが本当と晒した自分自身の、さらに奥を見透かされたときのお紺のあっけんからんとした驚きがすごくよいのですよ。そんな竹下に彼女の流儀で自らの筋をとおすお紺も震えがくるほど粋なわけで・・・。

ただ、その仕草や立ち振る舞いで演じる粋とはわけが違う・・・。心情から伝わってくる粋は格が違うのです。

観終わって上智大学からイグナチオ教会への道を帰りながら、自分がゆっくりと劇場の空気を抜け出して平成二十年の世界に戻っていくのを感じて・・・。

たとえばもっとずっと先にこの時代が語られるとき、なにがこの時代の「粋」になるのだろうとぼんやりと思いを馳せたことでした。

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画面の向こうでも関係ねぇ・・・・、NHKのファインプレー

ちょっといろいろ忙しくて、録画HDDがパンパン状態・・・・、で整理を兼ねて観はじめたらやめられなくなってしまいました。おまけに週末には魅力一杯の番組もあって・・・。

ちょっと動けなくなるほどよい番組があったので、ごくさわりだけ、感想などを・・・。

・下田逸郎(「フォーク」の達人より)

若いころから決して嫌いな歌手ではなかったのですが、昔はその世界観に自分が馴染んでいけない部分があった・・・。自分とはちょっと違う世界の人みたいな先入観があって・・・。でも今回のNHKの番組で価値観がごろっとかわりました。

歌い方にしても、歌詞にしてもちょっと武骨な肌触りがあって・・・・。失礼ながらご近所のちょっと意固地なおじさんのような風貌とどこか器用さにかける歌い方・・・。歌詞の粒子も質量のあるイメージがぼんぼんと投げられてくる感じ・・・。

すぐには馴染めないのです。

しかし、渡辺香津美のギターと斉藤ノブのパーカッションが下田逸郎の持つリズムを彩ったとき、彼の世界がすっと私の中するっと入ってきました。まるで靴べらで靴が足にすっと収まるよう・・・。

彼の表現はある意味あからさまです。彼の代表曲のひとつ「セクシー」では女性の小さな仕草を「セクシー」と感じ「愛の暮らしに少し疲れたあなたと私」を「セクシー」と思う・・・。その表現は粒が大きく、その粒が組み合わされていく中でとんでもない弾力が生まれる・・・。おしゃれなリズムとぶっきらぼうとも思える歌い方に包まれたとき、その言葉たちがぐっと私の心を押し付けて行く感じ・・・。どちらかといえば荒く短い表現の重なりが、切れとぬくもりが並存する伴奏の骨組みとなって、気がつけば彼の世界のリアルが包み込んでいる・・・・。

さらに、石川セリとの歌の重ねや(デュエットというにはそれぞれの歌い方が乖離していて、でもだからこそ表現しうる世界が間違いなくあって)、和太鼓や笛の伴奏がくわわったときにやってくる歌詞の力感のすごさ・・・

画面の向こうからやってくる世界にどっぷりと浸って・・・、時間の感覚が完全になくなってしまったことでした。

・林家染丸 「辻占茶屋」

ちりとてちん大好評とのことで、番組に出てきた落語をNHKの豊富なライブラリから再放送しようという、ちょっとうれしい試み。夜中にやって翌日の午後にも同じ番組の再放送があったみたいです。人間国宝まで登場する豪華さで・・・。この5日間、毎日帰って前日の録画分を観るのでわくわくできました。

それぞれの高座、みな趣深かったのですが、なかでも一番得した気分になったのが。染丸師匠の「辻占茶屋」、初めて聴いた噺だったのですが、本当に惹かれました。はめものがBGMではなく、噺に食い込んでくるのも面白くて・・・。まあ、冷静に考えると男と女がお互いにだましあうというえげつない噺でもあるのですが、染丸師匠が演じると暗さがないし、隣の部屋の三味線や謡の掛け合いの見事なこと・・・。主人公の気持ちの浮き沈みがしっかりと伝わってくるし、絶妙の掛け合いがわくわくする。また、師匠の表情がよいのですよ・・・。これは小屋で見るよりもはっきりわかる・・・。表情の変化が絶妙で・・・・。

とにかく観ていて楽しい。こう瞬間で笑いを取るのではなく、体が次第にあったまってきて観客が笑える体質を作っていく感じ・・・・。そのうえで、強弱取り混ぜて笑いを誘発していく・・・・。

画面越しに高座を見ているのを忘れて思わず拍手をしてしまいました。

あとBS2、オンシアター自由劇場が博品館で上演した「上海バンスキング」の中継も味がありました。今や売れっ子の小日向さんや余さんの若いこと。。バンドも決して旨くはなかったけれど、芝居は本当におもしろい・・。あの面白さってなんなのでしょうね。

それから、チューリップのファイナルコンサートのドキュメンタリーもなかなか見ごたえがあって・・・・。

まあ、月額の視聴料を取られるたびに、不正の話や乱脈なお金の使い方にが思いださ、なんかむっとしてしまうNHKではありますが、こういう番組をやりつづけててくれると視聴料もしょうがないかなという気すらします。

今回はがんばれNHKということで。

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空間ゼリーLABO 「私の部屋」佐藤けいこ一人芝居・・・そのコアの質量がもたらすもの 

3月3日、空間ゼリーLABO 佐藤けいこ一人芝居「私の部屋」を観てきました。前回の岡田あがさ一人芝居につづくシリーズ、場所も同じ王子、「pit 北/区域」。佐藤けいこは作・出演となります。

狭いというか密閉されたイメージの空間、正面の座席にたどり着くには舞台をすこし踏まなければならなくて、神聖な場所を踏むようで抵抗があって・・・。で、お手伝いにこられていた空間ゼリーの女優の方に促されて爪先立ちで舞台を越えて・・・。前回も同じ方に同じようにご案内をいただいたことを思い出して・・・。

しかし、当たり前の話ですが、舞台に立つ女優が魅せた彼女自身は、前回とはまったく違ったテイストのものでした。

(ここからネタバレがあります。ご留意ください)

舞台は雑然とした女性の部屋・・・。一面に散らかされた服、舞台の端に鏡台・・・。そこに現れた着ぐるみ二つ、彼女の部屋の中央でかるくハグすると舞台の両端に座って・・・、芝居が始まります。

最初は演じようとする感じが先に立っていました。体の動きが台詞から浮くような印象があって・・・。それは自分の部屋で自らの思いを言葉に出す不自然さにとまどっているようにも思えて・・・。

しかし、着ぐるみに話しかけるような部分あたりから潮目が変わります。そこまでの彼女は本当の彼女を包み込むパッケージのよう・・・。彼女の言葉や仕草が、すっと拘束が外れたようにナチュラルに変わっていく・・・。

とはいってもすぐに彼女のコアが現れるわけではありません。まるでバウムクーヘンのように層になった彼女の感情や想いがすこしずつ剥がされていく感じ・・・。それも綺麗にベロっと剥がれるわけではなく、彼女のコアのなかに潜む理性のようなもので感情がまだらに剥ぎ取られていくような・・・。

ペットとの出会い、彼との別れ・・・、洋服や美顔器のこと・・・。前からやってくることと、後ろ向きに見えるいくつかの気づき・・・。時には主観的に、あるいは不器用と思えるほどの自らへの素直さで語られて・・・そんな中でふっと見えてくる彼女自身、「これが彼女」と決して鮮やかに提示されるわけでもなく、彼女の本質が綺麗に整理されているわけけでもない・・・、

でも、さらに潮目が変わったとき、曖昧で日和見な感じさえある思いの羅列の先に、しっかりとした質量を持った彼女の本質が現れてくるのです。そこには彼女を見つめる彼女がいる・・・。彼女がかかわった時間をしっかりと認識する彼女がいる・・・。その彼女から発する瑞々しさ・・・。質量と瑞々しさという、相反するようなイメージの重なりのなかで、舞台上の彼女に立体感をもったコアが生まれて・・・、

その姿が日付とともにカメラに刻まれて、そして彼女のコアを隠すようないつもの彼女の感情が再び戻って・・・・。

50分弱の舞台、これまでの公演で観た彼女はとても器用さをもった役者というイメージだったのですが、正直言って今回の彼女にはスマートではない部分も多かったと思います。でも彼女の舞台上でのテンションがその不器用さを良いほうに転がした・・・。不器用さを押し切るテンションがあったから、終盤語られる彼女の感覚、髪、洋服、排泄物・・・やってくるものとなくなっていくものへの彼女の想いが、流れたり埋もれたりすることなく観客の心を捉えたような気がします。

観おわってアンケートを書く中で、私もとても後を引くトリガーをもらったように思えたことでした。

それにしても・・・、前回の岡田あがさにしても今回の佐藤けいこにしてもそうですが、内側にしっかりとした力を秘めた女優の存在と、その力をしっかりと引き出す演出家(深寅芥)の力量には瞠目するばかり。主宰兼作家(坪田文)の才能にも目を奪われますが、空間ゼリーの舞台がもつ吸引力は他の女優陣も含めてそれらの総合力の証でもあるのでしょうね・・・、。まあ、只者達ではない。

次回の空間ゼリーの公演は4月9日-13日(@赤坂レッドシアター)だそうですが、これも超わくわくものかも・・・。今日から前売り開始ということで、終演後の特設チケット売り場には列ができていたことでした。

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