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野田MAP 「キル」、壮大な世界観の微妙な色合いの変化

1月3日、野田MAP「キル」をみました。シアターコクーンでの再々演です。初演の印象は非常に強かったです。再演はみることが出来ませんでしたが・・・・。

ただ、初演のときに比べると物語がずいぶんとすっきりした印象があります。戯曲は同じものであるはずなのに・・・、ずいぶんと尺が短く感じました。まあ、戯曲上の道しるべがわかっていたので全体の物語の大きさが見通せたということもあるのでしょうけれど・・。

(ここからはネタばれがあります。十分にご留意の上お読みくださいませ)

物語にはいくつもの要素があります。たとえば父から子供へと繰り返されていく因果。言葉の最後からあふれだす蝋、蜃気楼の向こう側とこちら側に対自するもの、恋の本質や言の葉の作り出す幻想・・・。それらは主人公の生誕から立身、絹の国をも凌駕し征服して・・・、しかし栄えたるものやがては滅亡への道を歩み始める・・・・。国の話とファッション業界の物語が交差する中で、物語はまるで熱気をかかえた気球のようにふくらみ、飛び立ち、人生観にまで昇華していきます。、そこには新しい人生の始まりがある。まるで生命という火かおこり、時に揺らぎ時に煽られながらも次第に火勢を強め、火勢はとどまるところを知らぬように思えながらも、自らの内なる力によっていつか衰えていくように・・・。しかし新しい命は再び生まれる。まだ、何もキルことのない命が・・・。

縦に主人公の一生が大きな潮流として敷かれ、ファッション業界の興亡を横糸にしつらえて、物語が転がり始めると、あとは一気・・・。

「制服」や「蝋」を使った言葉遊びの巧みさ、遊びに隠れた真理が種明かしの瞬間に牙を向き始める・・・。言葉や知の力の強さとはかなさを織り込んで、父親や母親の気持ちまでもしみこませ・・・。多少ファッション業界の今とは乖離する部分があったとしてもそれはそれで味というもの。この戯曲に内包された秀逸な普遍性に観客は圧倒され満たされつくすことになります。

芸のない言い方ですが、初演のとき同様、秀逸な戯曲を元にした良いお芝居だったと思います。ただ、比較すると、初演時には、シーンがひとつずつ積み重なって熱を帯びていくような印象でした。それが今回はいろんな要素間の風通しが良くなっていて、物語全体が膨らんで浮揚していく感じ・・・。演技の強さというかごりごりと押していくようなパワーは初演時のほうがあったような気がするのですが、調和して膨らんでいくような感じは今回のほうが見事。結果として美しい「キル」が生まれたことは間違いない。でも、同時に、今回は初演に比べて達観した感じの「キル」になったような印象もあります。まあ、ないものねだりなのかもしれませんが、もっと荒々しさを秘めた初演のキルも捨てがたかったと思ったりも・・・。好みの問題だとも思ったりはするのですけれどね・・・。

ところで、この「キル」を最近の野田秀樹作品と比べると昨今の野田戯曲の精緻さをますます感じることに・・・。「Rope」や「The Bee]などが持つ物事の普遍性に対する精緻な物語の仕組みや、時には狡猾とさえ思える表現のインパクトと比較すると、「キル」には観客が持ちうる定義されない概念やあいまいさに寄りかかった部分があるのも事実。

それらの曖昧さは物語の切れをなまらせる要素にもなりうるものだけれど、ただ、その曖昧さが悪いかというと必ずしもそうではない・・・。裏を返せば、曖昧さのなかにこそ観客が想起できるものがひろがることもあるわけで・・・。戯曲の完成度やわかりやすさは「Rope」のほうが上なのかもしれないけれど、私個人的には「キル」が持つ肌触りや世界観のほうにも捨てがたいものを感じる・・・。

洗練や進化はすべてを包括した成果ではなく、ある部分では何かの取捨選択の結果なのだろうし、取ったり捨てたりの基準は作者の年齢や円熟や背負っているものから来るバランス感覚の変化なのだろうし・・・。作者の見解はそのタイミングごとに厳然とあるのだろうけれど、観客の立場からするとどちらが良くて悪いとかは必ずしも言い切れない部分がある・・・。

今回の「キル」と初演「キル」間にある印象の違いについても同じこと。よしんば同じ戯曲の中であっても、初演と再々演の間に、演出家としての野田には円熟がありバランス感覚の変化がある。どちらが良いかどうかを判断するのはちょっと難しくて、でも明らかな違いを感じるのも事実。私個人的は7対6で今回のキルかな・・・。でもこの芝居、初演との比較についての意見はそれなりに分かれるのだろうなと思いました。あたりまえのことなのでしょうけれど、演劇というのはつくづく生き物なのだと思います。

今回の役者については、ある意味贅沢ではあるのでしょうし、一方では非力であるとの劇評もありましたが、観終わってみると実務派を集めてしっかりと粒ぞろいという印象のほうが強いです。妻夫木聡は、仕組みというか全体の流れに身をを潜めて芝居をしているときには多少窮屈そうな印象がありましたが、ここ一番の想いを観客に伝える力は十分でした。荒さは確かにあるのですが、しっかりと腰が据わっている演技だったように思います。一番彼の役にとって必要なのは未熟な中から押し出されてくるような「志」、その条件を妻夫木は十分に満たしていました

広末涼子は前半と後半でかなり出来が違っていて・・・。最初のシーンなどでは芝居に乗り切れない気配があって観ていても多少不安だったのですが、手紙のやりとりのシーンの途中あたりからしなやかに感情がのって・・・・。後半は存在感がしっかりとある堂々とした芝居を見せました。声が若干受け取りにくいしちょっと見では演技の線が細い印象があるのですが、それを補うだけの芯の強さとしなやかさがこの人からはじんわりとにじみ出てくる・・・。それと感情表現表現の変化に鋭い切れがあります。また、感情を残して違う演技ができるような器用さも持ち合わせていて・・・。この人は舞台女優としての場数を踏むに従って大きく化けるタイプかもしれません。

まあ、妻夫木にしても広末にしても、役者としての未熟さをまったく感じないといったら嘘になります。でも彼らの演技には戸惑いがないし、観客を押し切る力もあり、なによりも彼らにはエンじればジュクすというか、円熟していくキャパをしっかりと感じることができます。観客を引っ張っていくだけの大きさがちゃんと彼らの後ろに見えるのです。

山田マリアの演技にもびっくり。彼女は昔TVで見たときのイメージしかなかったのですが、くっきりと色を出せるよい女優になりましたね。目鼻立ちがしっかりとして揺らぎがない。演技にアンサンブルではもったいないような確度がありました。村岡希美と対の演技でしたが、彼女自身の色彩が安定していて、なおかつ村岡の色を消すことがない・・・。特に目立つわけではないのですが秀逸な演技だったと思います。

一方の村岡は舞台上での自分の力をしっかりとコントロールしていました。独特の声質が彼女の存在のフラグになって群衆の中でも埋没することがない存在感があるのですが、彼女の存在は共鳴しても浮き出すことはない。物語を固める釘のような台詞がけっこうあるのですが、それが村岡だとびしっと決まる感じ。ナイロン100℃役者が持つ目立たない熟練がとても生かされた演技だったように思います。

勝村政信はある意味主役的な部分があり、妻夫木と広末の物語の土台であったりもするのですが、それらを包括してひとつのキャラクターに纏め上げる懐の深さがありました。器用といえばそれまでなのですが、キャラの軽さと知識の重さがありつつもそれを感じさせないような知性、さらに役自体の想いがなければ成り立たない・・・、でも彼が演じるとそれら三律背反のようなキャラクターがすっとと彼の中に納まるのです。まさに好演だったと思います。

高田聖子も地の強さが生きた演技でした。それなりの個性の露出とふっとした弱さの出し入れが絶妙で・・・。その延長線上なのでしょうが、必要なときに存在感がぐっと張り出し、すぱっとその存在感を消すことができる。アクが強い反面舞台全体のきれというか透明度を保っていた・・・。こういう役者さんが入ると舞台が締まるのだと実感しました。

市川しんぺーのちょっとぬぼっとしたやわらかさも舞台の幅を広げていました。妻夫木や広末が舞台に立つとある種のテンションが生まれるのですが、市川が舞台にいるとそこにやわらかさとある種の緩衝が生まれて、物語にゆったり感が生まれていました。ヒツジ・デ・カルダンなんてそういう役ではないはずなのに、空気がやわらかくなる何かをこの人は持っているような。

中山祐一郎は物語を滑らせる潤滑剤のような役回りでしたが、良い意味での薄っぺらさが表現できていたように思います。彼が絡むことで物語が淀まないというか・・・。舞台に不要な重さをそぎ落とすような役割をしっかりと果たしていたと思います。

小林勝也も存在感がありました。父親役のぶっきらぼうさっていうのが、妻夫木の演技の伏線になっていくのですが、その力加減が抜群で・・・。たとえば「パチンコにいく」というぶっきらぼうなひとことにしっかりと想いがこもっていたり、・・・。蒼い狼の姿にも、突き放したような希薄さがあり、妻夫木の苛立ちが相対的に浮き上がってきて・・・・。いろんな部分で妻夫木の演技をしっかり支えていました

高橋恵子には柔らかい母性を十分に感じることができましたが、彼女は演技から艶を消すことをしませんでした。。その艶が彼女が生きていくときの強さの表現にもなり、包容力にも結びついていく。物語を貫く因果がただ殺伐としたものにならないための潤滑剤の役目も果たしていたと思います。

最後に役者としての野田秀樹について・・・。たぶん普通にやっていれば味がじっくり出てしまう演技を、しっかりとデフォルメしていたような印象でした。少年役の老人みたいなことをパンフレットに書いていましたが、彼はもともと年齢不詳が似合う役者であり違和感はなかったです。まあ、以前の彼の躍動感あふれる舞台を知っているものには多少の老いが感じられるのはやむ終えないところ。で、彼の場合、老いて普通に演技をしていると動けなくデメリットと引き換えに演技に深さが出てしまうようで、それを舞台のトーンに合わせるべく一生懸命抑えていた感じ。稀代の役者でもある彼の贅沢な努力とも見て取れましたが、しっかりと自らを御していたことでした。

まあ、役者としての彼には限界がいつかは来るのでしょうが、演出家として野田秀樹はまだまだ進化していくのでしょうね・・・・。そして、年月が過ぎれば、野田秀樹は再びこの戯曲に向かいあうのでは。根拠のまったくない一観客の勝手な想像ですけれど・・・。

でも、もし彼が還暦をすぎて、再び向かったとしたら、そのときの「キル」はどんな肌触りの、あるいはどんな色になっているのでしょうか・・・。その間にも「キル」は何度も上演されるのかもしれないけれど、50代の彼が新しい年代に入ったときの「キル」がもしあるのなら、そのテイストをぜひ味わってみたいものです。

おかげさまで不確定な人生の楽しみがまたひとつ増えました。

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