「わが闇」ケラリーノ・サンドロヴィッチの調合が際立つ家族劇(一部改訂)
本多劇場にてケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下ケラ)作・演出のNylon100℃、「わが闇」を見てきました。タイトルを見たときには「消失」の後継に当たるような作品かとなんとなく想像したのですが、実際には非常に秀逸な家庭劇でした。このところのケラ作品には、「こんな新境地を・・・!」とか「この期におよんでさらに一皮むけた!」とかいう革新的な戯曲や演出作品が多かったのですが、今回は奇をてらうことなく、直球勝負の家庭劇に彼の想いをたっぷり織り込んだ作品となりました。
しかし、「奇をてらうことなく」といってもケラが自らの手法の進化をとめたわけではありません。彼の手法はより円熟し効果的に舞台に織り込まれていきます。断片化された記憶や心の揺らぎに映像を併用したり、小さな行き違いを掘り下げるような笑いのなかに真実を見せる手法はこれまで以上に研ぎ澄まされて観客を釘づけにしていきます。
(ここからネタばれがたっぷりあります。ご留意の上読み進まれますようお願いいたします)
この作品、本編では作家柏木信彦の3人の娘、そしてそれを取り巻く人々の夏から翌春までが描かれていくのですが、その前に、物語の前提となる記憶の断片が冒頭で表現されます。舞台となる家に、初めて幼い三人姉妹がやってきたときから物語は始まり、現在の視点と過去の現実で織り上げられたいくつかのエピソードが、独特の暗転を使った記憶の断続を挟みながら観客に伝えられていきます。両親や3人の娘たちの成長の過程がまるでランダムに心をよぎる記憶の断片のように演じられていくのです。不完全に語られていく過去の経緯、過度に神経質で精神的に不安定な母の元でおびえるように暮らす3人の姉妹。やがて父親は入退院を繰り返す妻と別居、そして離婚と平行して新しい妻を迎えて・・・。
新しい妻は3人の母親と異なり何事にも無頓着・・・・。3人の娘たちは生みの母の行動とは逆の意味で当惑を隠せません。やがて、長女の立子は14歳にして小説家となり、脚光を浴びる中、タイトルロールがやってきます。
タイトルロールでは、時が流れて、次女の艶子は結婚をして一子をもうけ、三女の類子は上京してタレントになったこと、さらには信彦に18年連れ添ったあと、後妻は彼の元を去っていったことも説明されて・・・・。最晩年の柏木信彦(なんと彼自身ははタイトルロールのあと一度も舞台に登場しない)と二人の姉妹の家で本編の物語が始まります。
柏木信彦は意識はあっても寝たきりの状態、そこに彼の記録映画を作ろうというクルーがやってきています。映画に情熱を燃やすけれど、金銭面で苦労のたえない映画監督、そして物事のプライオリティを自分の価値観でしか判断できない助手・・・。どちらかというと冗長に流れていく時間の中で、現在の柏木家の様子がだんだんと明らかになっていきます。たとえばなんとなく立子に恋心を抱く編集者の煮え切らなさ・・・。
艶子の夫の粗野で芸術を解することなく自己中心的なところ、またありふれた日常のから脱することのできない艶子の苛立ち、類子はマネージャーとの不倫の末に実家に戻り、ドキュメンタリー映画製作映画の黒幕は生みの母そっくりの立子の同級生・・・。いくつもの内外のエピソードが積み重なる中で三人姉妹の一人ひとりの時間がそれぞれに軋んでいきます。そして、信彦は3日間昔のアルバムを見て大笑いをした末にこの世を去って・・・。
人生に何事もなかったはずの艶子は遺産の問題をトリガーに夫と離婚を決意、立子は数ヵ月後の失明を医師から宣告されます。自らの失明を二人の妹に伝えられない立子。取り繕うことができない不安の中で、初めて亡父に想いを語り・・・。しかし偶然のうちに立子のことを二人は知ることになって・・・。それぞれの距離の中、さまざまなことを共有していたこと、さらにお互いを思いやっていたことを悟る三人。
ラストシーン、三人姉妹と彼らの理解者たちは、信彦が最後まで見ていたアルバムの写真すべての裏に彼の書き込みがあることを発見します。それは写真に刻まれた時間をたのしむような、そして写真に写る人物に対してなにかを伝える遺言のような言葉たち。
そして、舞台で演じられたいくつものエピソードの結末は・・・???。舞台ではなにも語られないのです。ただ、非凡すぎず平凡でもない家族とそれをとりまく物語がさらに続くことが暗示されるだけ。あたかもそれまでの物語で描かれたと同じように・・・。
実はアルバムの写真の裏に書かれた父親のメッセージを娘たちが発見したシーンでふっと涙がこみ上げてきました。家族という器のなかでそれぞれの変化がばらばらに重ねられ、あるときそれぞれが自分の人生に他の家族の人生が重なっていることに気づく。そしてお互いがすごした日々の喜びと貴さを知ることになる・・・。「人生ってそんなもの・・・」うまくいえないのですが何か心が満たされた気がしたのです。
でも、それで彼らの人生が終わるわけではない。その先のこともまたこれまですごした時間のように積み重なっていく。物語に終わりはない・・・。
三人姉妹の個々の想いや感覚は、それぞれがすごしてきた当たり前の時間に依存しているから、それだけで観客にとって強烈なインパクトがあるわけではないのですが、それぞれの感覚が舞台上で重なり合い引っ張り合っているうちに、当たり前の時間が観客にとってしっかりとした重さへと変化していくのです。思いの重なりが舞台上で存在感を持ったとき、姉妹たちが毎日積み上げた、楽しいだけでも悲しいだけでもない日々たちの輝きが舞台から観客へと降りてくる。
ケラは家族の長い時間のいくつかの場面をスライスして、実に巧みに重ね合わせ、家族や家族同様にすごす人の想いの重なりを鮮やかに表現してして見せます。円の内側を流れる家族の時間と、家族をとりまくさまざまな事象に示される外側の時間・・・。その均一とはなりえない時間のきしみのなかで、食い違うさまざまな価値観に取り巻かれながら、それでも家族という器のなかで父親も娘たちも人生を歩んできたことが観客にしっかりと伝わって・・・。
一方で家族の外側となる異なる価値観、内側を回る時間からスピンアウトした元妻、内側の時間を理解しようとしなかった次女の夫、外側から内側の記録を撮ろうとする映画監督やその助手、思惑で家族にかかわる映画のスポンサー、さらには長女の担当編集者の兄妹の物語、ケラはそれらを丁寧に描き、外側からも家族の物語をうかび上がらせていきます。抜群のバランス感覚でエピソードが交錯し、気がつけば観客は3人姉妹の人生を鳥瞰する位置に立たされていて・・・・。どこかビターで、喪失感があって、物悲しくて、だけどそこに居場所があって、振り向けばぬくもりと慰安があって・・・。観客は、ケラの作劇・演出の巧妙さに時間を忘れて舞台に引き込まれてしまいます。
役者のこと、この面子です。演技力がどうのなんてやぼなことはいいません。みんな及第点をはるかに超えた出来だったのですから・・・。長女の犬山イヌコ、次女の峯村リエとも役を演じるというよりは役柄がにじむような芝居でした。三女の坂井真紀のまっすぐでナチュラルな演技も描かれる家族の実存感に大きく貢献しました。三好を演じた三宅弘城の演技には無理のない真心がありました。父親役の廣川三慶はタイトルロール前にしか出演がないのですが、完璧な父親ではなく人間くさいところがしっかり出ていて、物語の基礎を固めることに成功していました。最初の妻と分かれて再婚をすることに無理がないことが、物語のトーンを定める上での大きな力になっていたと思います。
岡田義徳の映画監督、大倉孝二の助手も父親とは別の意味で妙に人間くさいのがよかったです。岡田は彼の持つ影を映画に対する情熱の狭間を浮かび上がらせるだけの表現力があったし狂言回しとしての凛とした演技にも好感が持てました。。大倉孝二はいつもの彼の演技で観客をとりこみつつ彼の価値観を押し通すだけの説得力を見せつけました
立子付の編集者を演じる長谷川朝晴も性格がしっかりと伝わる演技でした。また、皆戸麻衣演じる妹との性格の一致にも無理がなく好演。皆戸は一種の怪演でしたが、犬山イヌコとの会話の間が抜群で・・・・。「一種の防衛本能」という台詞を納得させしめる演技もバーのはるかに上を飛ぶレベルでできていました。
家族からスピンアウトすることになる長田奈麻とみのすけは、十分に抑制を効かせて彼らの行動を説明するに足りる演技を積み重ねていきました。二人とも裏づけを持ちうる演技の積み重ねがあって、きちんと三人姉妹と異なる価値観で三人姉妹の世界を照らし出しました。家庭の中で違和感なく暮らしている用に見せながら、ふっと自分の世界に戻るときの一瞬の表情に、彼らの世界を否定しきれないようなな説得力があって・・・。また、長田の新しい夫役吉増裕士も長田のペースを十分見切っての演技で好演だったと思います。
松永玲子は今回二つの役を演じました。、ある意味攻撃的という共通点はあっても、性格的には両極端のふたり・・・・。最初の3姉妹の生みの親の演技は会場全体を凍えさせるような性格描写が見事でした。精神的な不安定さが舞台全体の雰囲気を一気に塗り替えてしまう・・・・。繊細さのある芝居なのですが、舞台全体のテンションを瞬時に上げたり緩めたりするだけの切れ味が演技にあるので、観客もその雰囲気に引っ張り込まれてしまうのです。一方もうひとつの役ではみごとに三人姉妹がかもし出す舞台の色をしっかり塗り替える演技が出来ていました。ちょっとネイティブではない似非っぽい関西弁まで駆使しての強弱のつけ方は、舞台の流れからみると明らかに異端でありながら違和感がない。まったく違う価値観で三姉妹の世界に土足で入り込んでくるような強さ、しかし舞台をとめるほどは突っ張らない。ほんと、過不足がない名演だったと思います。松永については、これまで与えられた新しい境地の役を次々と演じきっていく能力に毎回感動させられていましたが、今回の演技などをみていると、外から与えられた演技をこなすのではなく、彼女の内側に自ら膨らませた新しい境地の役が醸成されているような印象すら受けます。
また、松永の部下他を演じた喜安耕平にも松永の演技をささえるうすっぺら感がうまく出ていました。
あと、このお芝居の印象を強くしたものがもうひとつ、映像・照明が実に見事でした。暗転の手法だけでなく舞台に映像を重ねて記憶の錯誤や不安定さをあらわしたり、精神的な心のゆれを表現したり・・・・。映像や照明が役者の演技を照らすだけでなく、自らしっかりと演技をしている感じ。瞠目し、なおかつ舞台のあたらしい表現の可能性さえも想起できるほどの出来栄えでした。
実はこのお芝居、もう一度見に行く予定なのですが、その3時間15分が今からすごく楽しみにおもえます。これだけ長い芝居をもう一度同じ物語を見ることに苦痛をまったく感じないのは、物語の中に、きっと類稀なる媚薬のように心をひきつける何かが調合されているから・・・。
もちろん、ケラの調合がフロックでないことは今年の彼の仕事を見れば明らかなわけで、まさに今、ケラリーノ・サンドロヴィッチが円熟期の只中にいることをしっかりと観客に印象付けるような作品でもあったと思います。
しかし、これだけの作品を見せられると、来年の「どん底」のチケット、大変だろうなぁとため息が・・・。死ぬ気で取りに行くしかないのでしょうね・・・きっと。
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